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クレーンも トラックも ない じだい、おしろの 石は どう つんだの?

クレーンもトラックもない時代、お城の石垣や堤防はどう作られたのか

クレーンもトラックもない時代、お城の石垣や堤防はどう作られたのか

分野:歴史・文化

大さかの 古ふんから、木で できた 大きな「そり」が 見つかった ことが ある。長さは 8.8メートル、おもさは 3.2トンも あった。

クレーンも トラックも ない じだいに、こんな どうぐを つかって、大きな 石を うごかして いたのだ。

大阪の古墳から、木でできた巨大な「そり」が見つかったことがある。長さは8.8メートル、重さは3.2トンもあった。

クレーンもトラックもない時代に、こんな道具を使って、大きな石を動かしていたのだ。

1978年、大阪の三ツ塚古墳から、全長8.8メートル・重さ3.2トンにも及ぶ、木製の巨大な「そり」が見つかった。クレーンもトラックもない時代、人々はこうした道具を使って、何十トンもの石を動かしていた。

瀬戸内海の島から船で運ばれた大坂城の石、全国の大名を動員した巨大プロジェクト「天下普請」、そして「壊れない堤防」ではなく「壊れる場所を決めておく」という堤防づくりの発想転換まで、土木技術のなかった時代の知恵をたどる。

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1. つちの 中から、大きな「そり」が 出て きた

1. 土の中から、巨大な「そり」が出てきた

1. 古墳から、木製の巨大なそり「修羅」が出土した

1978年、大さかふの ふじいでら市に ある 古ふんの まわりを ほって いた 人たちが、土の 中から、木で できた 大きな「そり」を 見つけた。長さは 8.8メートル、おもさは 3.2トンも あった[1]

この そりは 「しゅら」と よばれ、大きな 石や 木を のせて、みんなで つなを ひっぱって はこぶ どうぐだった。今から 1500年 いじょうも まえに、こんな 大きな どうぐを 作って いた ことに、当時の 人たちも おどろいた[1]

1978年、大阪府藤井寺市にある古墳のまわりを発掘していた人たちが、土の中から、木でできた巨大な「そり」を見つけた。長さは8.8メートル、重さは3.2トンもあった[1]

このそりは「修羅(しゅら)」と呼ばれ、大きな石や木材をのせて、大勢で綱を引っぱって運ぶ道具だった。今から1500年以上も前に、これほど大きな道具が作られていたことは、当時大きなニュースになった[1]

1978年、大阪府藤井寺市の三ツ塚古墳で発掘調査が行われ、周濠(古墳を取り囲む堀)から、木製の巨大なそりが2基出土した。大きい方は全長8.8メートル・幅1.9メートル、小さい方は全長2.9メートルで、大きい方の重さは3.2トンに及んだ[1]

このそりは「修羅(しゅら)」と呼ばれ、アカガシの巨木の二股部分を利用して一木から作られており、綱を通す穴も開けられている。大石や木材を修羅にのせ、多くの人手で綱を引いて運搬する道具だったと考えられている。古墳時代からこれほど大がかりな運搬技術が存在していたことは、発見当時大きな話題となった[1]

2. 石は 船で、遠くの 島から やって きた

2. 石は船に乗って、遠くの島からやって来た

2. 石垣用の巨石は、瀬戸内海を渡って運ばれた

おしろの 石がきに つかう 大きな 石は、丸太を ころのように しいた 上を すべらせたり、テコの ぼうを つかったり して うごかされた[2]

大さかじょうの 石がきに つかわれた 石の 中には、せとないかいに うかぶ 小豆島などの 島で きりだされて、ふねで はこばれた ものが ある。じつは 島には、きりだされたのに、けっきょく つかわれず、のこされたままの 石も ある。これを 「ざんねん石」と いう[3]

お城の石垣に使う大きな石は、丸太をころのように敷いた上を滑らせたり、テコの棒を使ったりして動かされた[2]

大坂城の石垣に使われた石の中には、瀬戸内海に浮かぶ小豆島などの島で切り出され、船で運ばれたものがある。実は島には、切り出されたのに結局使われず、そのまま残された石もある。これを「残念石」と呼ぶ[3]

石垣用の巨石は、丸太を敷いてころのように転がす、あるいはてこの原理を使うなどして動かされた。海路が使える場合は、平田船と呼ばれる浅底の船や、空樽を浮きに使った筏も利用されたとされる[2]

徳川期の大坂城には、約100万個ともいわれる石が使われたとされ、その石材は瀬戸内海の小豆島・前島などの島々や、六甲山、木津川流域など各地の石丁場(採石場)から、主に水運によって運ばれた[3]

小豆島には現在も、切り出されたものの何らかの理由で使われず、そのまま残された巨石が点在しており、「残念石」と呼ばれている。使われなかった理由の一部には、輸送中や積み込みの失敗、あるいは築城工事の完了など複数の事情があったとされる[3]

3. うでの いい 石工たちが、石を つみあげた

3. 腕のいい石工集団が、石垣を積み上げた

3. 石工集団「穴太衆」が、石垣づくりを支えた

石がきを つみあげるには、うでの いい 石工の わざが ひつようだった。おうみ(今の しがけん)の 「あのう」と いう ところの 石工たちは、とくに うでが よく、「あのうしゅう」と よばれた[4]

あのうしゅうは、あづちじょうの 石がきなどに かかわった ことで 名を あげ、その あとも 全国の 大名から しごとを たのまれる ように なった[4]

石垣を積み上げるには、腕のいい石工の技術が必要だった。近江(今の滋賀県)の「穴太(あのう)」という場所の石工たちは、とくに腕が良く、「穴太衆(あのうしゅう)」と呼ばれた[4]

穴太衆は、安土城の石垣普請などに携わったことで名を上げ、その後、全国の大名から石垣の仕事を依頼されるようになった。加工しない自然の石をそのまま積み上げる「野面積み」は、彼らの代表的な技術のひとつである[4]

石垣を積み上げるには専門の石工の技術が必要だった。近江国穴太(現在の滋賀県大津市坂本)を拠点とした石工集団は「穴太衆(あのうしゅう)」と呼ばれ、もとは寺院建築に携わる石工だったとされる[4]

穴太衆は安土城の石垣普請などに携わったことで知られ、以後全国の大名から城郭石垣の仕事を求められるようになったとされる。加工しない自然石をそのまま積む「野面積み」は彼らの代表的な技術のひとつで、石垣づくり全体としては、江戸時代に入ると石を四角く加工して隙間なく積む「切込接ぎ」も広く用いられるようになっていく[4]

4. 大きな 工事は、1つの 大名だけでは 足りなかった

4. 大きな工事は、1つの大名だけでは足りなかった

4. 「天下普請」で、全国の大名を動員した

えどじょうのような とても 大きな 工事は、1つの 大名の 力だけでは できなかった。そこで えどばくふは、全国の たくさんの 大名に めいれいを 出して、いっしょに 工事を させた。これを 「てんかぶしん」と いう[2]

てんかぶしんを めいじられた 大名は、じぶんの りょうちだけで なく、遠くの 石丁場からも 石を はこぶ ことが できた。だからこそ、えどじょうや 大さかじょうのような、とても 大きな 石がきが できたのだ[2]。ただし、めいじられた 大名や、工事に かり出された 人たちに とっては、とても たいへんな おもいを する しごとだった。

江戸城のようなとても大きな工事は、1つの大名の力だけではできなかった。そこで江戸幕府は、全国のたくさんの大名に命令を出して、いっしょに工事をさせた。これを「天下普請(てんかぶしん)」という[2]

天下普請を命じられた大名は、自分の領地だけでなく、遠くの石丁場からも石を運ぶことができた。だからこそ、江戸城や大坂城のような、とても大きな石垣が実現したのだ[2]。ただし、命じられた大名や、工事にかり出された人々にとっては、たいへんな重労働であり、お金の負担も大きかった。

江戸城や大坂城のような大規模な築城・修築工事は、1つの大名家の資力・労働力だけでは実現できなかった。そこで江戸幕府は、全国の大名に築城工事の一部を分担させる「天下普請」という仕組みをとった[2]

石材の調達は基本的に大名の自領内で行うのが原則だったが、自領で調達できない大名や、遠国のために運搬が難しい大名には、遠方の石丁場で石材を用意させ、城まで運ばせることもあった。全国から動員された労働力と資材があったからこそ、江戸城や大坂城のような桁違いの規模の石垣が実現したとされる[2]。一方で、工事を命じられた大名には多額の費用負担がのしかかり、動員された人々にとっても過酷な重労働であった。

5. 「ぜったいに こわれない」より、「こわれる ばしょを きめておく」

5. 「絶対に壊れない」より、「壊れる場所を決めておく」

5. 信玄堤は、堤防づくりの発想を転換させた

川の ていぼうと 聞くと、「ぜったいに こわれない かべ」を そうぞうするかも しれない。でも 山なしけんに ある 「しんげんづつみ」は、すこし ちがう かんがえで 作られたと いわれて いる[5]

ていぼうの 一ぶを、わざと きれめの ある 形に して おく。大雨で 川が あふれても、水は その きれめから 田んぼの ほうへ ながれこみ、しばらく たまってから、また 川に もどって いく。こうする ことで、下りゅうの まちを 大きな こう水から まもろうと したと される[5]

川の堤防と聞くと、「絶対に壊れない壁」を想像するかもしれない。でも山梨県にある「信玄堤(しんげんづつみ)」は、少し違う考え方で作られたといわれている[5]

堤防の一部を、わざと切れ目のある形にしておく。大雨で川があふれても、水はその切れ目から田畑の方へ流れこみ、しばらくたまってから、また川に戻っていく。こうすることで、下流の町を大きな洪水から守ろうとしたとされる[5]

堤防と聞くと、水を完全に遮断する連続した壁を思い浮かべやすい。しかし山梨県にある「信玄堤」は、戦国大名・武田信玄の治水事業に由来するとされ、堤防をあえて不連続にする発想を含んでいたと伝えられている[5]

堤防の一部に開口部を設け、上流側と下流側の堤防を二重に配置しておく。洪水時にはこの開口部から水を氾濫域へ導いて一時的に滞留させ、水位が下がれば再び河道へ還元することで、氾濫の範囲を限定し下流への被害を抑えようとする考え方だとされる[5]

なお、こうした不連続堤防は後に「霞堤」とも呼ばれるようになったが、専門家の間では、この呼び名自体は明治時代に定着したものであり、河川の勾配や地形によって機能の異なる堤防が同じ名前で語られてきた面があるとも指摘されている。信玄が具体的にどこまでを設計したかについても、伝承と史実の境界には研究の余地があるとされる[5]

6. たけの かごに 石を つめて、川を まもった

6. 竹のかごに石を詰めて、川を守った

6. 「蛇籠」は、しなやかに水を受け流す

川ぎしを まもる どうぐには、かたい ものだけでは なく、やわらかい ものも あった。「じゃかご」は、たけで あんだ ながい かごに、石を たくさん つめた どうぐだ[6]

じゃかごは、水の いきおいを やわらかく うけながす、クッションの ような ものだ。ただし ほんとうは、クッションでは なく、石を つめた かたい かごなのに、かご全体としては しなって 水の 力を にがす ことが できる。

この じゃかごを つかった どうぐの 1つに、たけだ しんげんが つかったと いわれる 「せいぎゅう」が ある。丸太を くみあわせた わくに、石を つめた じゃかごを おもしと して つけ、川の 水の いきおいを よわめた。この わざは、えど時代に 日本じゅうに 広まったと いわれて いる[6]

川岸を守る道具には、硬いものだけでなく、やわらかいものもあった。「蛇籠(じゃかご)」は、竹で編んだ長いかごに、石をたくさん詰めた道具だ[6]

蛇籠は、水の勢いをやわらかく受け流す、クッションのようなものだ。ただし本当は、クッションではなく、石を詰めた硬いかごなのに、かご全体としてはしなって水の力を逃がすことができる。

この蛇籠を使った道具の一つに、武田信玄が使ったといわれる「聖牛(せいぎゅう)」がある。丸太を三角形に組んだ枠に、石を詰めた蛇籠をおもしとして取り付け、川の水の勢いを弱めるものだった。この技術は、信玄の勢力拡大とともに他の川にも伝わり、江戸時代中期には日本全国に広まったといわれている[6]

河川の護岸には、硬い構造物だけでなく、しなやかな構造物も用いられてきた。「蛇籠(じゃかご)」は、竹材で編んだ長いかごに砕石を詰め込んだもので、江戸時代には代表的な治水構造物のひとつとして使われていた[6]

蛇籠には屈撓性(くっとうせい。しなやかに曲がる性質)があり、堤防の斜面などに並べて設置することで、水流の勢いを分散させながら護岸・根固めの役割を果たす。単体では硬い石の集まりでありながら、かご全体としては水の動きに合わせてしなうという点が、コンクリートなどの硬い構造物とは異なる特徴である[6]

この蛇籠を活用した治水構造物のひとつに、武田信玄が釜無川で多用したとされる「聖牛(せいぎゅう)」がある。丸太を三角形に組んだ骨組みに、石を詰めた蛇籠を重しとして取り付け、川の流れが当たることでその勢いを弱める仕組みだったとされる。信玄の勢力拡大とともにこの技術は大井川・安倍川・木曽川などにも伝播し、江戸時代中期の享保年間(1700年代初め)には全国に普及していたといわれる[6]

じぶんでも やって みる

自分でも調べてみたくなったら

自分でも調べてみたくなったら

きんじょの 川ぞいを あるいて、川ぎしが どうやって まもられて いるかを さがして みよう。コンクリートの かべだけでなく、金あみに 石を つめた、今の「じゃかご」が 見つかる ことも ある。

近所の川沿いを歩いて、川岸がどう守られているか探してみよう。コンクリートの壁だけでなく、金網に石を詰めた、現代版の「蛇籠」が見つかることもある。お城の石垣が近くにあれば、石の積み方の違いから、いつごろ作られたものか、想像してみるのもおもしろい。

近所の河川敷を歩き、護岸がどのような構造になっているかを観察してみよう。コンクリート護岸だけでなく、金網に石を詰めた現代の蛇籠(ふとん籠と呼ばれることもある)が使われている区間が見つかることもある。お城の石垣があれば、自然石をそのまま積む野面積みか、四角く加工した石を隙間なく積む切込接ぎかを見分けると、築造の時代や技術の変遷を推測する手がかりになる。

しらべた ところ

参考にした情報源

参考にした情報源

  1. 藤井寺市公式ホームページ「三ツ塚古墳」、文化遺産オンライン「修羅/梃子棒/大阪府三ツ塚古墳出土」(文化庁)。 https://www.city.fujiidera.lg.jp/soshiki/kyoikuiinkai/bunkazaihogo/sekaiisan/siru/foreignlanguage/languages/japanese/furuichikofungun/Mitsuzukakofun.html https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/214159 (1978年に三ツ塚古墳の周濠から木製の「修羅」2基が出土したこと、大きい方は全長8.8メートル・幅1.9メートル・重さ3.2トン、小さい方は全長2.9メートルであったこと、大石や木材の運搬道具と考えられていること)
  2. 【超入門!お城セミナー】「石垣の巨大な石材はどこから来たの?」(城びと)。 https://shirobito.jp/article/1093 (矢を使った石の割り方、修羅・ころ・てこを使った陸上輸送、平田船や筏を使った水上輸送、天下普請によって遠方の石丁場から石材を調達できたこと)
  3. 道の駅「大坂城残石記念公園」(香川県土庄町)、なぶんけんブログ「大坂城石垣の『海の残念石』」(奈良文化財研究所)。 https://www.town.tonosho.kagawa.jp/gyosei/soshiki/shogai/4/505.html https://www.nabunken.go.jp/nabunkenblog/2017/09/20170901.html (徳川期大坂城に約100万個の石が使われたとされ、小豆島などの瀬戸内海の島々や六甲山・木津川流域などから水運で運ばれたこと、切り出されたが使われなかった「残念石」が小豆島に残っていること)
  4. フリー百科事典『ウィキペディア』「穴太衆」。 https://ja.wikipedia.org/wiki/穴太衆 (近江国穴太を拠点とした石工集団であること、安土城の石垣施工により織田信長・豊臣秀吉に評価されたこと、野面積みという技術、江戸時代の切込接ぎへの発展)
  5. 甲斐市公式ウェブサイト「信玄堤」、特定非営利活動法人新潟水辺の会「『霞堤』は誤解されている」。 https://www.city.kai.yamanashi.jp/page/3868.html https://niigata-mizubenokai.org/「霞堤」は誤解されている/ (信玄堤が武田信玄の治水事業に由来するとされること、堤防を不連続にして氾濫水を河道へ還元する仕組み、「霞堤」という呼び名自体は明治時代に広まったもので機能の異なる堤防が同じ名前で語られてきた面があるという専門家の指摘)
  6. フリー百科事典『ウィキペディア』「蛇篭」、ミツカン水の文化センター機関誌『水の文化』32号「武田信玄の総合的治水術」。 https://ja.wikipedia.org/wiki/蛇篭 https://www.mizu.gr.jp/kikanshi/no32/02.html (竹材や鉄線で編んだ籠に砕石を詰め込んだ構造物であること、屈撓性による護岸・根固めの効果、武田信玄が釜無川で多用したとされる「聖牛」が蛇籠を重しに使った構造物であること、この技術が信玄の勢力拡大とともに他の河川に伝わり江戸時代中期の享保年間には全国に広まっていたとされること)

なおした ところ

更新履歴

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