アインシュタイン ── やくしょの つくえで せかいが かわった

アインシュタイン ── 特許庁の机で世界が変わった

アインシュタイン ── 1905年から1955年までの仕事

分野:宇宙・天文

1905年、スイスと いう 国の やくしょで、26さいの 人が はたらいて いました。

しごとは、おくられて くる はつめいの かみを 読んで、しらべる こと。 大学に のこれず、あちこちで はたらいた あとに、やっと 見つけた しごとでした。

その 年、あいた 時間に 書いた ろんぶんが、なん本も せかいを かえます。

名前は アインシュタイン。 この きじは、その 人が どんなふうに 考えたのかを たどる メモです。

1905年、スイスのベルンにある特許庁で、ひとりの26歳の職員が働いていました。 仕事は、送られてくる発明の書類を読んで、審査すること。 大学に残れず、家庭教師や代用教員をしたあと、やっと得た役所の職でした。

その年、彼は空き時間に書いた論文をいくつも発表します。 そのうちの何本かが、物理学を根本から書きかえました。 名前は アルベルト・アインシュタイン。 この記事は、その人がどんなふうに考えたのかをたどるメモです。 宇宙物理学の記事の続きにあたります。

1905年、スイスのベルンにある特許庁で、26歳の職員が働いていました。 仕事は、送られてくる発明の書類を読んで審査すること。 大学に職を得られず、家庭教師や代用教員を経て、ようやく就いた役所の勤めでした。

その年、彼は空き時間に書いた論文を立て続けに発表します。 光の粒としての性質、ブラウン運動、そして特殊相対性理論。 いずれも、物理学の前提そのものを書きかえるものでした。

名前は アルベルト・アインシュタイン。 この記事は、その人が何を、どう考えたのかをたどります。 宇宙物理学の記事の続きにあたります。

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1. 「べんきょうが できなかった」は 本とう?

1. 「勉強ができなかった」は、ほんとうか

1. 学業不振説は事実ではない

アインシュタインと いう 人を 知って いますか。 白い かみの毛が もじゃもじゃの 写真で ゆうめいです。

この 人に ついて、こんな 話を 聞いた ことが あるかも しれません。 「子どもの ころ、べんきょうが できなかった」。

じつは、これは ほんとうでは ありません。 算数も 理科も、とても よく できる 子でした。

ただ、じゅぎょうの やり方は きらいでした。 先生の 言う ことを おぼえて、そのまま 答える。 そういう べんきょうが、たいくつだったのです。

そのかわり、いつも じぶんで 考えていました。 「どうして そうなるの?」 「もし こうだったら、どうなるの?」 その くせが、あとで すごい ことに つながります。

アルベルト・アインシュタインは、 1879年にドイツで生まれた物理学者です。 白髪でくしゃくしゃの頭の写真は、たぶん世界でいちばん有名な科学者の顔でしょう。

この人については、よくこう言われます。 「子どものころは勉強ができなかった」「落ちこぼれだった」。

これは正しくありません。 数学や物理は、子どものころからとてもよくできました。

では、何がうまくいかなかったのか

彼が嫌ったのは、当時の学校のやり方でした。 先生の言うことを暗記して、そのまま答える。質問は歓迎されない。 そういう教え方に、彼はどうしてもなじめませんでした。

そのかわり、いつも自分で考えていました。 「なぜそうなるのか」「もしこうだったら、どうなるのか」。 頭のなかで実験をしてみる、という癖です。

この「頭のなかの実験」は、のちに彼の武器になります。 お金も装置もいらない実験。 必要なのは、しつこく考え続ける根気だけでした。

思いこみに注意

「天才は学校では評価されない」という話は、聞くと気持ちよくなります。 だから広まりやすい。でも、事実とは限りません。 気持ちのいい話ほど、出どころを確かめる。 これは科学の話を読むときの、大事なこつです。

アルベルト・アインシュタイン(1879〜1955)は、 ドイツのウルムに生まれた理論物理学者です。

広く知られた俗説に「学業不振だった」「数学が苦手だった」というものがありますが、 これは事実ではありません。数学や物理は早くから得意で、 10代のうちに独学で微積分に触れていたとされます。

反発したのは、当時の教育の形式のほうでした。 暗記と権威に依存する授業になじまず、教師との衝突もあったと伝えられています。

思考実験という道具

彼の方法論の中心にあったのが 思考実験 です。 実際に装置を作るのではなく、頭のなかで理想的な状況を設定し、 そこで既知の物理法則を厳密に適用したら何が起きるかを追いかける。

この方法には、はっきりした利点があります。

  • 実験装置では作れない極端な状況(光速で走る、無限に自由落下する)を扱える
  • 理論どうしの矛盾を、実験より先に見つけられる
  • 費用も設備もいらない

ただし、思考実験だけでは科学になりません。 最後は必ず観測や実験で検証される必要があります。 彼の主要な業績は、いずれもその検証を通過してきました。

2. 16さいの「もしも」

2. 16歳の「もしも」と、10年の宿題

2. 光を追う思考実験と、10年の宿題

16さいの とき、アインシュタインは こんな ことを 考えました。

「光と おなじ はやさで 光を おいかけたら、 光は どう 見えるんだろう?」

自てん車で 走りながら となりの 自てん車を 見ると、 止まって 見えますね。 だったら 光も、止まって 見える はずです。

でも、いくら 考えても、それでは おかしな ことに なって しまうのです。

ふつうなら、「まあ いいや」と わすれます。 でも この 人は、わすれませんでした。 10年 ちかく、その ぎもんを 持ちつづけたのです。

気に なった ことを、ずっと おぼえて おく。 じつは これが、いちばん むずかしくて、 いちばん 大じな ことなのかも しれません。

16歳のころ、アインシュタインはこんな空想をしていたと、後年みずから書いています。

「もし光と同じ速さで光を追いかけたら、光はどう見えるのだろう?」

並んで走る自転車が止まって見えるように、光も止まって見えるはずです。 止まった光の波が、目の前にじっとしている。

ところが、当時の物理学の式は「そんな光は存在できない」と答えます。 電気と磁気の理論(マクスウェルの理論)によれば、 光は必ず決まった速さで進むものだったからです。

10年、抱えた

ここが、この人のすごいところです。 ふつうなら「変だな」で終わります。試験に出るわけでもありません。

しかし彼は、この引っかかりを10年近く手放しませんでした。 学校を出て、就職に苦労して、役所づとめを始めても、まだ考えていた。

そして1905年、答えを出します。 「光の速さのほうが絶対で、時間と長さのほうが変わる」。 常識のほうを捨てる、という答えでした。

後年の自伝的な回想によれば、アインシュタインは16歳ごろに 「光線を光速で追いかけたら何が見えるか」という思考実験に取りつかれました。

古典的な速度の合成則(ガリレイ変換)に従えば、 光と同じ速度で並走する観測者から見て、光は静止した電磁場の波として見えるはずです。 しかしマクスウェルの電磁気学には、そのような静止した波の解が存在しません。

つまり、力学の常識と電磁気学の理論が、真正面から食い違っていたのです。

矛盾の場所を特定する

重要なのは、彼がこの矛盾を「難問」ではなく 「どちらかの前提が間違っている証拠」として扱ったことです。

候補は2つありました。

  1. マクスウェルの電磁気学が間違っている
  2. 時間と空間についての常識(絶対時間・絶対空間)が間違っている

当時の常識では、1を疑うほうが自然でした。 しかし実験(マイケルソン・モーリーの実験など)は、 光速がどの向きでも同じであることを示していました。

そこで彼は2を捨てます。時間と空間のほうを可変にする。 この決断が、特殊相対性理論になりました。 着想から発表まで、およそ10年かかっています。

3. 1905年、やくしょの つくえで

3. 1905年、役所の机の上で

3. 1905年 ── 特許庁時代の4本の論文

アインシュタインは 大学を 出た あと、 けんきゅうの しごとに つけませんでした。

しばらく こまった あと、やっと 見つかったのが 特許とっきょを しらべる 役所の しごとでした。 あたらしい 発明はつめいの 書るいを 読んで、 「これは 新しいか」を たしかめる しごとです。

その しごとを しながら、あいた 時間に じぶんの 考えを 書いて いました。

そして 1905年。 この 1年で、アインシュタインは すごい 考えを いくつも 発ぴょうしました。

あとから 人びとは、この 年を 「きせきの 年」と よぶように なりました。

学校の 先生でも、大学の 先生でも ない、 役所で はたらく 26さいの 人が、 せかいの 見方を かえたのです。

大学(チューリヒ工科大学)を出たあと、アインシュタインは 研究職につけませんでした。教授の推薦が得られなかったのです。 家庭教師などをして食いつなぎ、友人の父親の口ききで、 ようやくスイス特許庁の審査官になります。

仕事は、送られてくる発明の申請書を読み、 「本当に新しいか」「原理として成り立つか」を判断すること。 じつは、これは物理を考える訓練としては悪くない仕事でした。 他人のアイデアの、どこがおかしいかを見抜く作業だからです。

1905年、奇跡の年

そして1905年。この1年に、彼は物理学の別々の分野で、 重要な論文を立て続けに発表しました[1]

1905年の主な論文
テーマ何を言ったか
光の粒(光量子)光はエネルギーの粒として振る舞う。金属に光を当てると電子が飛び出す現象を説明した
ブラウン運動水に浮かぶ小さな粒がふるえる理由。原子が本当にあることの証拠になった
特殊相対性理論光の速さは誰にとっても同じ。かわりに時間と長さが変わる
E = mc2質量とエネルギーは同じものの2つの姿

このどれか1つでも、一生の仕事として立派なものです。 それが1年に集まったので、後の人はこの年を 「奇跡の年」 と呼びました。

大学の研究室ではなく、役所の机の上で。26歳の職員が、です。

1900年にチューリヒ工科大学を卒業したものの、 アインシュタインは大学に職を得られませんでした。 代用教員や家庭教師を経て、1902年にスイス特許庁ベルン支局の 三等技術専門職として採用されます。

特許審査は、申請された発明の新規性と原理的な妥当性を判断する仕事です。 提出された主張の弱点を短時間で見抜く訓練にはなったと考えられます。

1905年(annus mirabilis)

この年、彼は複数の分野にまたがる重要論文を発表しました。代表的なものは次の4本です(博士論文を含めて5本と数える資料もあります)[1]

1905年の主要論文
主題内容その後
光量子仮説光をエネルギー hν の量子の集まりとして扱い、光電効果を説明量子論の出発点のひとつ。のちのノーベル賞の対象
ブラウン運動微粒子の不規則運動を、分子の熱運動による衝突で定量的に説明原子・分子の実在を支持する強い証拠になった
特殊相対性理論相対性原理と光速度不変の原理から、時間の遅れと長さの収縮を導く現代物理学の基礎に
質量とエネルギーの等価性E = mc2原子核物理、恒星のエネルギー源の理解へ

注目したいのは、これらがばらばらの分野に見えて、根が共通していることです。 光量子とブラウン運動は「不連続な粒の存在」を、 相対論は「観測者と法則の関係」を扱っています。 どれも、当時の物理学が抱えていた矛盾に正面から取り組んだ結果でした。

環境の話

この時期の彼には、研究室も、実験装置も、指導教授もいませんでした。 あったのは、既存の論文を読む力と、考え続ける時間です。 設備がないことは、理論物理では致命的ではないという、 めずらしい例でもあります。

4. いちばん うれしい 思いつき

4. いちばん幸せな思いつきと、8年の計算

4. 等価原理から一般相対性理論へ

1905年の 考えには、じつは 足りない ところが ありました。 重力が 入って いなかったのです。

1907年、アインシュタインは ある ことに 気が つきました。

「高い ところから 落ちて いる 人は、 じぶんの 体の 重さを 感じない」

エレベーターが 下に 動きはじめる とき、 体が ふわっと 軽く なりますね。あの かんじです。

落ちて いる あいだは、体が ふわっと して、 じぶんの 重さを 感じにくく なります。 アインシュタインは この 気づきを 「じんせいで いちばん うれしい 思いつき」と 言いました。

でも、そこから 答えを 出すまでに 8年も かかりました。 天才でも、時間は かかるのです。

1905年の特殊相対性理論には、大きな穴が残っていました。 重力を扱えないのです。

1907年、彼はひとつのことに気づきます。

「屋根から落ちている人は、落ちているあいだ、自分の体重を感じない」

エレベーターが下がり始めるとき、体がふっと軽くなります。あの感覚です。 落下しているあいだ、その人にとって重力は消えている。

ということは、重力を受けている状態と、加速している状態は区別できない。 これを 等価原理 といいます。 彼はこれを「人生でいちばん幸せな思いつき」と呼びました。

それでも8年かかった

思いつきから完成まで、8年かかっています。 必要な数学(曲がった空間を扱う幾何学)を、一から学び直さなければならなかったからです。 友人の数学者に助けを求め、何度も間違え、書き直しました。

1915年、ようやく 一般相対性理論 が完成します。 重力とは、力ではなく時間と空間の曲がりである、という理論です。

天才でも時間がかかる

16歳の疑問から特殊相対論まで10年。 等価原理から一般相対論まで8年。 合わせて20年近く、同じ問題を考え続けたことになります。 ひらめきの話ばかりが有名ですが、実際の中身は、 長いあいだ手放さなかった、という話です。

特殊相対性理論には、原理的な限界がありました。 等速運動する系のあいだの関係しか扱えず、重力と加速度が入っていないのです。

1907年、彼は等価原理に到達します。 自由落下する観測者にとって、局所的には重力の効果が消える。 裏返せば、重力場と加速度系は局所的に区別できない、という主張です。

この原理からは、すぐにいくつかの予言が導けます。

  • 重力によって光の進路が曲がる
  • 重力の強い場所では時間の進みが遅くなる(重力赤方偏移)

数学との格闘

原理から理論を作るまでには、8年を要しました。 重力を時空の幾何学として書くには、 リーマン幾何学という当時の物理学者になじみのない数学が必要だったためです。 数学者マルセル・グロスマンの協力を得ながら学び直し、 何度も方程式の形を誤り、書き換えています。

1915年11月、一般相対性理論の場の方程式が完成します。 物質とエネルギーの分布が時空の曲がりを決め、 曲がった時空が物体の運動を決める、という構造です。

完成の直後、この理論は水星の近日点移動という、 ニュートン力学では説明できなかった観測値を正確に再現しました。 後づけではなく、既知の未解決問題を解いた点が、この理論への信頼を高めます。

5. 1919年、ゆうめいに なった 日

5. 1919年、一夜にして有名になる

5. 1919年の日食観測と、その受け止め方

あたらしい 考えは、 「ほんとうかどうか」を たしかめないと みとめられません。

アインシュタインの 考えでは、 重い ものの そばを 通る 光は 曲がる はずでした。

いちばん 近くに ある 重い ものは、太陽です。 でも、太陽は まぶしくて、そばの 星が 見えません。

見える ときが 一どだけ あります。 日食です。月が 太陽を かくす、あの 時間。

1919年、けんきゅうしゃたちが 遠い 国まで 出かけて いって、 日食の あいだに 星の 写真を とりました。

けっか、星の ばしょは 少し ずれて いました。 考えた とおりだったのです。

この ニュースは 新聞に 出て、 アインシュタインは いっきに 世界じゅうで ゆうめいに なりました。

理論は、確かめられて初めて認められます。 一般相対性理論は、はっきりした予言をしていました。 重い天体のそばを通る光は曲がる

いちばん手近な重い天体は太陽です。 太陽のすぐ横を通ってきた星の光を見れば、 星の見かけの位置がずれるはずです。

問題は、ふだん太陽がまぶしすぎて、そばの星が見えないこと。 見えるのは皆既日食の数分間だけです。

戦争が終わった直後の観測

1919年5月、イギリスの観測隊がアフリカと南アメリカに向かいました。 第一次世界大戦が終わった直後のことです。 イギリスの科学者が、敵国だったドイツの科学者の理論を確かめに行った。 そのこと自体が、当時としては特別な出来事でした。

結果は、予言どおり。星の位置がずれていました。 11月にこの結果が発表されると、新聞が大きく報じ、 アインシュタインは一夜にして世界的な有名人になります。

予言と検証

この一件が印象的なのは、先に予言し、後から確かめた点です。 起きたことを後から説明するのは、比較的やさしい。 まだ誰も見ていないことを言い当てられるかどうかが、 理論の強さの試験になります。

一般相対性理論は、検証可能な予言を含んでいました。 代表的なものが重力による光の偏向です。 太陽の縁をかすめる星の光は、太陽の重力によって進路が曲げられ、 星の見かけの位置がずれるはずでした。

さらに重要なのは、その量まで予言していたことです。 ニュートン力学的に光の粒子を扱った場合の予測値の、およそ2倍。 どちらが正しいかは観測で決着がつく形になっていました。

1919年の日食観測

1919年5月29日の皆既日食に合わせ、エディントンらイギリスの観測隊が アフリカのプリンシペ島とブラジルのソブラルへ遠征します。 第一次世界大戦の終結直後であり、 英国の研究者がドイツの研究者の理論を検証するという構図でした。

11月に結果が公表され、観測された偏向は一般相対性理論の予測とよく合うと報告されます。 この報道により、アインシュタインは学界を越えた著名人になりました。

この観測の読み方

当時の測定精度は高くなく、データの扱いをめぐる議論もありました。 ただし、その後の日食観測や電波源を用いた測定、 さらに重力レンズの観測によって、光の偏向は繰り返し確認されています。 1回の観測で決まったのではなく、積み重ねで確立したと理解するのが正確です。

6. ノーベルしょうは 何で もらった?

6. ノーベル賞は、相対性理論ではなかった

6. 1921年ノーベル賞 ── 受賞理由は光電効果

アインシュタインは、ノーベルしょうを もらって います。

ここで しつもんです。 何の けんきゅうで もらったと 思いますか?

「相対せい理論りろんでしょ」と 答えたく なりますね。 でも、ちがいます。

じつは、光の けんきゅうで もらいました。 「光は つぶの ように ふるまう」という 考えです。

そのころ、相対せいりろんは 「まだ たしかめきれて いない」と 思われて いたのです。

いま いちばん ゆうめいな 仕ごとが、 その ときは まだ みとめられて いなかった。 そういう ことも あるのですね。

アインシュタインは1921年のノーベル物理学賞を受けています。 では、何の業績で受賞したのでしょう。

相対性理論だと思いますよね。ちがいます。

受賞理由は「理論物理学への貢献、とくに光電効果の法則の発見」でした[2]。 つまり、光が粒のようにふるまうことを示した1905年の研究です。

なぜ相対性理論ではなかったのか

当時、相対性理論はまだ議論の途中にありました。 検証が十分ではないと考える人もいて、 賞の対象としては慎重に扱われたのです。

そこで、実験による裏づけがはっきりしていた光電効果が選ばれました。 (実際、この法則は米国のミリカンらによって厳密に検証されています。)

面白いのは、こういうことです。 いま彼の名前でいちばん有名なのは相対性理論なのに、 賞をもらったのは別の仕事だった。 そして、そのもらった仕事のほうが、 じつは量子力学という新しい分野の出発点になりました。

ひとつの人生に、そういう仕事がいくつもあったということです。

アインシュタインは1921年のノーベル物理学賞を受賞しました (実際の授与は1922年)。受賞理由は 「理論物理学への貢献、とくに光電効果の法則の発見」です[2]

相対性理論は受賞理由に含まれていません。

背景

当時、相対性理論は理論としての評価が定まりきっておらず、 実験的検証も十分とはみなされていませんでした。 いっぽう光電効果の法則は、ミリカンらによる精密な測定で確認されており、 授賞理由として扱いやすかったという事情があります[1]

皮肉な構図

ここには二重の皮肉があります。

  1. もっとも有名な業績(相対性理論)では受賞していない
  2. 受賞対象となった光量子の研究は、量子力学の出発点のひとつになったが、 後年のアインシュタインは量子力学の解釈に強く反対する立場をとった

自分が開いた扉の先に進んだ理論と、生涯にわたって議論を続けることになったわけです。 この点は次の章で扱います。

7. 「神さまは サイコロを ふらない」

7. 「神はサイコロを振らない」

7. 量子力学との論争 ── EPRからベルの不等式へ

アインシュタインは、 量子りょうし力学と いう あたらしい かんがえ方に、さいごまで なっとく できませんでした

その りょうし力学では、小さな つぶが どこに あるかは 「たぶん ここ」と いう かくりつでしか 言えません。

アインシュタインは、こう 思いました。 「ほんとうは きまって いる はずだ。 まだ 分かって いない だけでは ないか」

そして 手紙に、こう 書きました。 「神さまは サイコロを ふらない」

けれども その あとの じっけんでは、 アインシュタインの 考えとは ちがう ことが、たくさん 見つかりました。

すごい 人でも、まちがう ことは あります。 でも、その まちがいの おかげで、 みんなが もっと ふかく 考えました。 まちがいも、やくに 立つのです。

最後まで納得できなかったことがあります。量子力学です。

量子力学では、小さな粒がどこにあるかは確率でしか言えません。 測るまで、位置は決まっていない、と考えます。

アインシュタインは、これに反対しました。 「本当は決まっているはずだ。まだ分かっていないだけではないか」。 1926年、彼はマックス・ボルンあての手紙に、 のちに「神はサイコロを振らない」と要約される考えを書いています。

反対したことが、役に立った

彼は、量子力学のおかしさを示すための思考実験をいくつも考えました。 相手はボーアという物理学者です。二人は何年も議論を続けました。

けれども、彼は簡単には引き下がりませんでした。 自分が扉を開けた量子の世界に、本人がいちばん納得していなかったのです。 そして、彼が「これはおかしい」と指摘した現象は、 後の実験で本当に起きることが確かめられていきました。

けれど、この論争はむだではありませんでした。 彼が突きつけた鋭い疑問に答えようとして、 量子力学はどんどん深く調べられていったからです。 いまの量子コンピュータにつながる研究にも、この論争の子孫がいます。

光量子仮説で量子論の扉を開いた本人が、 その後の量子力学の解釈には最後まで同意しませんでした。

争点は確率解釈です。量子力学の標準的な立場では、 測定するまで物理量は確定した値を持たず、確率分布として記述されます。 アインシュタインは、これを理論の不完全さの表れだと考えました。 「まだ知られていない変数(隠れた変数)があるのではないか」という立場です。

1926年、マックス・ボルンへの手紙で、彼は のちに「神はサイコロを振らない」と要約される趣旨のことを書いています。

EPR論文とベルの不等式

1935年、アインシュタインはポドルスキー、ローゼンとともに、 のちに EPR論文 と呼ばれる論文を発表します。 離れた2つの粒子の相関を使い、 量子力学が「不完全」であることを示そうとした議論です。

この問題は長らく哲学的な議論と見なされていましたが、 1960年代にジョン・ベルが、 局所的な隠れた変数の理論と量子力学とで、実験結果に差が出る条件を導きました(ベルの不等式)。 その後の実験は、量子力学の予言を支持する結果を積み重ねています。

少なくとも、アインシュタインが期待したような 「局所的な隠れた変数で量子力学を補う」道は、実験によって強く制約されました。 しかし彼の批判がなければ、この問題は 実験で決着をつけられる形に整理されなかった可能性が高い。 いまの量子情報や量子コンピュータの研究は、この系譜の延長にあります。

反対意見の役割

科学において、精密な反対意見は理論を鍛えます。 曖昧な批判は無視されますが、 「この場合はどうなるのか」と具体的に詰める批判は、 相手に検証可能な形を作らせます。 EPR論文は、まさにそういう批判でした。

8. 国を はなれて

8. 国を離れ、手紙を書いた人

8. 1933年の渡米、1939年の書簡、そして晩年

アインシュタインは ドイツの 人でした。 でも、1933年に 国を 出て、 アメリカへ うつりました。

そのころの ドイツは、 ユダヤ人を ひどく あつかう 国に なって いました。 アインシュタインも ユダヤ人だったので、 あぶなくて 帰れなく なったのです。

その あと、大きな 戦争せんそうが おきました。

アインシュタインは せんそうが きらいな 人でした。 それでも、たいへん むずかしい えらび方を せまられました。

そして せんそうの あと、こう 言いつづけました。 「もう こんな ぶきは つかっては いけない」

かしこい 人でも、答えが 出せない ことが あります。 それでも 考えつづけた 人でした。

アインシュタインはドイツ生まれのユダヤ人でした。 1930年代、ドイツではユダヤ人が激しく迫害されるようになります。

1933年、彼はドイツを離れ、アメリカのプリンストンに移りました。 そのまま二度と祖国には戻りませんでした。

いちばん重い手紙

1939年、彼はアメリカの大統領あての手紙に署名します。 内容は「ドイツが強力な新型爆弾を開発するかもしれない。 アメリカも研究を進めるべきだ」というものでした。 この手紙は、のちの原子爆弾開発につながっていきます。

彼自身は、爆弾の開発には関わっていません。 それでも、戦後この署名を深く悔やんだと伝えられています。

晩年、彼は核兵器に反対する声明に加わり、 平和のための活動を続けました。

科学と責任

E = mc2 という式そのものは、爆弾でも兵器でもありません。 自然についての記述です。 けれども、知識は使われ方まで含めて世の中に出ていきます。 作った人が、その使われ方を全部は決められない。 この難しさは、いまも科学者が向き合っている問題です。

アインシュタインは1955年、76歳で亡くなりました。

アインシュタインはドイツ生まれのユダヤ人でした。 1930年代のドイツでナチスが政権を取り、ユダヤ人への迫害が強まると、 彼の身にも危険が及びます。 1933年、滞在先から帰国せずアメリカに渡り、 プリンストン高等研究所に迎えられました。以後、ドイツに戻ることはありませんでした。

1939年の書簡

1939年、物理学者レオ・シラードらの依頼を受け、 アインシュタインはルーズベルト大統領あての書簡に署名します。 ナチス・ドイツが核分裂を利用した新型爆弾を開発する可能性を指摘し、 アメリカの研究着手を促す内容でした。

彼自身はマンハッタン計画に参加していません。 しかしこの書簡は、原爆開発が国家事業として動き出す一因になりました。 戦後、彼はこの署名を後悔していたと伝えられています。

晩年の立場

晩年は核兵器の廃絶と国際的な協調を訴え続けました。 死の直前の1955年には、哲学者バートランド・ラッセルとともに、 核兵器の危険を訴える宣言(ラッセル=アインシュタイン宣言)に署名しています。 同年4月、76歳で亡くなりました。

科学者の責任という問題

E = mc2 は自然の記述であって、兵器の設計図ではありません。 それでも、知識は社会のなかで使われます。 発見した人が使われ方を制御できるとは限らない。 この緊張関係は、いまも 人工知能、遺伝子操作、監視技術など、さまざまな分野で問われ続けています。 アインシュタインの後半生は、その問題に直面した最初期の事例のひとつです。

じぶんでも やって みる

9. 自分でも調べてみたくなったら

9. 自分でも調べてみたくなったら

アインシュタインの ように 考えるのに、 とくべつな どうぐは いりません。

  • 頭の 中で じっけん して みる。 「もし 〜だったら、どうなる?」と 考えるだけです。
  • 気に なった ことを、ノートに 1行 書いて おく。 すぐに 答えが 出なくても、いいのです。
  • エレベーターに 乗る とき、 体が 軽く なる しゅんかんを 感じて みる。 それが「いちばん うれしい 思いつき」の もとです。

16さいの ぎもんが、答えに なるまで 10年。 すぐに 分からなくても、あわてなくて いいのです。

この人のやり方から借りられるものは、意外に多いです。

  • 思考実験をしてみる。「もし〜だったら」と、頭のなかで極端な状況を作ってみる。 道具はいりません。
  • 引っかかりを手放さない。すぐ答えが出ないことをノートに残しておく。 彼は10年抱えました。
  • 矛盾を歓迎する。2つの正しそうなことが食い違っていたら、 そこが面白い場所です。逃げずに、どちらが間違っているのかを考える。
  • エレベーターで体を感じてみる。動き始めの一瞬、体が軽くなります。 そこから一般相対性理論が始まりました。

もっと知りたいときは

伝記を読むときは、伝説と事実を分けて読むと面白くなります。 この記事でも、「勉強ができなかった」という広く流布した話が事実ではないことを確認しました。

一次情報にあたる

考えてみると面白いこと

  • なぜ1905年に、これだけの仕事が集中したのか。当時の物理学が抱えていた矛盾を並べてみる
  • ノーベル賞の受賞理由が「光電効果」だったことは、当時の科学界の評価をどう表しているか
  • EPR論文のような「精密な反対意見」は、他の分野にもあるか
  • 科学者は、自分の発見の使われ方にどこまで責任を負うべきか

しらべた もとの じょうほう

参考にした情報源

参考にした情報源と、その使い方

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英語の出典について:American Physical Society は米国物理学会の記事、The Nobel Prize はノーベル賞の公式サイトです。どちらも英語ですが、この記事で使った内容を日本語で説明しています。

  1. American Physical Society, “Einstein and the Photoelectric Effect” https://www.aps.org/apsnews/2005/01/einstein-photoelectric-effect (1905年の論文群と光電効果、ミリカンによる検証)
  2. The Nobel Prize, “The Nobel Prize in Physics 1921” https://www.nobelprize.org/prizes/physics/1921/einstein/facts/授賞式のスピーチ (受賞理由「理論物理学への貢献、とくに光電効果の法則の発見」、1922年の授与)
  3. この記事の姉妹編:宇宙のはじまりと、ブラックホールのふしぎ (相対性理論・量子力学の内容と、その検証の話はこちらに書きました)

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