1. サッカーの きょうだいと、けんきゅうしゃの みち
1. サッカーの兄弟と、研究者への道
1. 起源 ── ケンブリッジからマンチェスターへ
ニールス・ボーアは、1885年、デンマークの コペンハーゲンで うまれました。おとうさんは だいがくの せんせい、おとうとの ハラルドも あとで すうがくの せんせいに なった 人です。
じつは、この きょうだいは 2人とも サッカーが とくいで、 おとうとの ハラルドは、1908年の オリンピックで、デンマーク だいひょうとして ぎんメダルを とった ことも あります [4]。
ニールスは、1911年に イギリスの けんきゅうしょへ 行きました。でも、そこの せんせいとは うまく いかず、1912年、 ラザフォードと いう べつの せんせいの けんきゅうしょへ うつりました[1]。この うつりが、 ボーアの じんせいを おおきく かえる ことに なります。
ニールス・ボーアは、1885年、デンマークのコペンハーゲンで生まれました。お父さんは大学の先生、弟のハラルドもあとで数学の先生になった人です。
じつは、この兄弟は2人ともサッカーが得意で、弟のハラルドは、1908年のオリンピックで、デンマーク代表として銀メダルを取ったこともあります[4]。
ニールスは、1911年にイギリスのケンブリッジにある研究所へ行きました。でも、そこのJ・J・トムソンという先生とはうまくいかず、1912年、アーネスト・ラザフォードという別の先生のいるマンチェスターの研究所へ移りました[1]。この移りかえが、ボーアの人生を大きく変えることになります。
ニールス・ヘンリク・ダビド・ボーアは、1885年10月7日、デンマークのコペンハーゲンで、生理学教授クリスチャン・ボーアとエレン(旧姓アドラー)の子として生まれた[2]。弟のハラルド・ボーアはのちに数学教授となる一方、サッカー選手としても活躍し、1908年のロンドン・オリンピックでは、デンマーク代表として決勝まで進み、銀メダルを獲得している[4]。
1911年秋、ボーアはケンブリッジのキャヴェンディッシュ研究所に滞在し、J・J・トムソンの指導のもとで研究をおこなったが、トムソンによい印象をあたえられなかったとされる[2]。1912年春には、マンチェスター大学のアーネスト・ラザフォードの研究室へと移った[1]。折しもラザフォードは、原子の質量の大部分がごく小さな原子核に集中していることを示したばかりで、絶好のタイミングだった[1]。
2. 原子の すがたを あきらかに した
2. 原子のすがたを明らかにした
2. 1913年の原子模型と、その後の功績
1913年、ボーアは「原子の中で、電子は とびとびの きまった たかさでしか いられない」と いう かんがえを はっぴょう しました。かいだんの だんに しか 立てないような ものです (ただし 本当は、かいだんの ように 目に 見える ものでは なく、電子が もつ エネルギーが とびとびの あたいしか とれないと いう いみです)[2]。
この かんがえは、原子の しくみを りかいする 大きな いっぽに なり、1922年、ボーアは ノーベルぶつりがくしょうを うけました[2]。1921年には、 コペンハーゲンに じぶんの けんきゅうじょを つくり、 せかいじゅうの わかい がくしゃたちが あつまる ばしょに しました[2]。
1913年、ボーアは「原子の中で、電子はとびとびの決まった高さでしかいられない」という考えを発表しました。階段の段にしか立てないようなものです(ただし本当は、階段のように目に見えるものではなく、電子が持つエネルギーがとびとびの値しか取れないという意味です)[2]。
この考えは、原子のしくみを理解する大きな一歩になり、1922年、ボーアはノーベル物理学賞を受けました[2]。1921年には、コペンハーゲンに自分の研究所を作り、世界じゅうの若い学者たちが集まる場所にしました[2]。
1913年、ボーアは3本の論文を発表し、電子が原子核のまわりを、量子化された「定常状態」と呼ばれるとびとびの軌道上でのみ運動できるという考えを示した。電子がある軌道から別の軌道へ移るとき、決まった量のエネルギーを放出したり吸収したりすることも説明した[2]。
この原子模型は、原子の構造を解明する重要な一歩となり、1922年、ボーアは「原子の構造と、そこから放出される放射の研究」に対してノーベル物理学賞を受賞した[2]。1917年からボーアは理論物理学研究所の設立に向けて動き、1921年3月3日、コペンハーゲンにこの研究所(現在のニールス・ボーア研究所)が開設され、ボーア自身が所長となった。以後、この研究所は世界各国から若手物理学者が集う量子力学研究の拠点となった[2]。
3. 1927年、りろんの たたかいが はじまった
3. 1927年、理論をめぐる議論が始まった
3. 1927年 ── ソルベー会議、量子力学をめぐる対立の始まり
1927年、せかいの ゆうめいな ぶつりがくしゃたちが あつまる 「ソルベーかいぎ」が ひらかれました。この かいぎで、 アインシュタインは、ボーアたちが すすめる「りょうしりきがく」 と いう あたらしい りろんに ぎもんを なげかけました [3]。
アインシュタインは、なんども ボーアに するどい しつもんを しました。ボーアは、その ばで すぐには こたえられない ことも ありましたが、あくる日には、あたらしい かんがえかたで アインシュタインに こたえたと いわれて います [3]。
4. 1930年、アインシュタインの りろんで やりかえす
4. 1930年、アインシュタインの理論でやり返す
4. 1930年 ── 光子箱の思考実験と、皮肉な決着
1930年の ソルベーかいぎで、アインシュタインは あたらしい しこうじっけんを もちだしました。「はこの中の 光子を、 きまった 時こくに 外へ にがす しくみと とけいを つかえば、 りょうしりきがくの きまりを やぶれるはずだ」と いう ないようでした[3]。
ボーアは、はじめ とても なやみました。でも、さいごには、 アインシュタイン じしんの「そうたいせいりろん」(じかんは じゅうりょくの つよさで すすみかたが かわると いう りろん)を つかって、この はこの じっけんでも りょうしりきがくの きまりは やぶれない ことを しめしました [3]。アインシュタインの りろんで、アインシュタインを やりこめた ことに なります。
1930年のソルベー会議で、アインシュタインは新しい思考実験を持ち出しました。「箱の中の光子を、決まった時刻に外へ逃がすしくみと時計を使えば、量子力学のきまりを破れるはずだ」という内容でした[3]。
一般相対性理論による反論
ボーアは、はじめとても悩みました。でも、最後には、アインシュタイン自身の「相対性理論」(時間は重力の強さで進み方が変わるという理論)を使って、この箱の実験でも量子力学のきまりは破れないことを示しました[3]。アインシュタインの理論で、アインシュタインをやりこめたことになります。
1930年の第6回ソルベー会議で、アインシュタインは「光子箱」と呼ばれる思考実験を提示した。箱の中に光子を1個入れておき、決まった時刻に1個だけ外へ逃がす。逃げた瞬間の時刻Δtを精密な時計で測り、光子が逃げる前後の箱の重さの変化からE=mc²でそのエネルギーΔEを正確に求めれば、エネルギーと時間の不確定性(ΔE・Δt)を、不確定性原理が許す限界よりも小さくできるはずだ、という主張だった[3]。
一般相対性理論による反論
ボーアはその夜、深く思い悩んだとされるが、翌朝、見事な反論を携えて現れた。皮肉なことに、その反論の決め手は、アインシュタイン自身が確立した一般相対性理論だった。箱の重さの変化を測るには、箱をばねばかりのようなもので量る必要があり、そこには避けられない位置の不確定さが残る。その位置の不確定さは、一般相対性理論が予言する重力による時間の進み方の変化(重力赤方偏移)を通じて、時計の精度そのものに不確定さをもたらす。ボーアはこの効果を定量的に計算し、結局ΔE・Δt≥hという不確定性原理の関係式が成り立つことを示した[3]。アインシュタイン自身の理論を使って、アインシュタインの反論を退けた、物理学史上もっとも有名な逸話の1つとなっている。
5. たたかっても、ともだちの まま だった
5. 議論しても、友だちのままだった
5. 対立しながら深まった友情
ボーアと アインシュタインは、かがくの はなしでは、さいごまで いけんが ぴったり あう ことは ありませんでした。でも、 2人は しょうがい なかの よい ともだちで あり つづけました [3]。
アインシュタインは のちに、ボーアの ことを「わたしの じんせいで、ただ そこに いるだけで、あなたほど よろこびを あたえて くれた人は いない」と 書いた ことが あります [3]。
ボーアとアインシュタインは、科学の話では、最後まで意見がぴったり合うことはありませんでした。でも、2人は生涯、仲のよい友だちであり続けました[3]。
アインシュタインはのちに、ボーアのことを「わたしの人生で、ただそこにいるだけで、あなたほど喜びをあたえてくれた人はいない」と書いたことがあります[3]。
ボーアとアインシュタインは、量子力学の解釈をめぐって、意見が一致することはついになかった。ボーアは量子力学が世界について新しく価値ある理解をもたらすと考えたのに対し、アインシュタインは、量子力学を暫定的な理論とみなし、古典的な因果律を取りこんだより優れた理論を、生涯をかけて探し続けた[3]。
それでも2人は、意見の対立にもかかわらず、生涯を通じて深い友情と敬意を保ち続けた。アインシュタインは1920年、ボーアにあてて「わたしの人生で、ただそこにいるだけで、あなたほど喜びをあたえてくれた人はいない」と書き送っている[3]。互いを議論相手として利用することを、2人とも楽しんでいたとも伝えられている。
6. せんそうを こえて
6. 戦争をこえて
6. 1943年の脱出と、戦後の核をめぐる提言
1943年、デンマークが ナチス・ドイツに せんりょうされる中、 ユダヤ人の ちすじの ある ボーアの かぞくは、あぶない じょうたいに なりました。ボーアは ふねで スウェーデンへ にげ、そこから ひこうきで イギリスへ むかいました [2]。
その ひこうきの たびは あぶない ものでした。ヘルメットが 小さすぎて つけられず、さんそを すう しじが きこえなかった ボーアは、とちゅうで いしきを うしなって しまいました。 でも、ぶじに イギリスに つき、その後は かくの へいわてきな つかいかたを うったえる かつどうを つづけました [2]。
1943年、デンマークがナチス・ドイツに占領される中、ボーアは危険な状態になりました。ボーアは船でスウェーデンへ逃げ、そこから飛行機でイギリスへ向かいました[2]。
イギリスへの脱出と、その後
その飛行機の旅は危険なものでした。ヘルメットが小さすぎてつけられず、酸素を吸う指示が聞こえなかったボーアは、とちゅうで意識を失ってしまいました。でも、無事にイギリスに着き、その後は核の平和的な使い方をうったえる活動を続けました[2]。
1943年9月、ナチス・ドイツに占領されたデンマークで、ユダヤ系の血を引くボーアの一家に逮捕の危険が迫った。ボーアは小型船でスウェーデンへ脱出し、10月6日、イギリスへ向かうデ・ハビランド・モスキート機の爆弾倉に乗り込んだ[2]。
飛行中、ボーアがかぶった飛行用ヘルメットは小さすぎて、機内通話用のイヤホンからの音声が聞こえなかった。機体がノルウェー上空で高度を上げる際、酸素供給装置を使うようにというパイロットの指示が届かず、ボーアは酸素不足で意識を失った。北海上空で機体が高度を下げたことで、ボーアは一命をとりとめた[2]。
イギリスへの脱出と、その後
渡英後、ボーアはマンハッタン計画に参加し、ロスアラモス研究所を訪れて中性子起爆装置の研究に関わった。戦後の1950年6月には、国際連合に宛てて「公開書簡」を送り、核エネルギーをめぐる国際協調を訴えた[2]。
じぶんでも やって みる
自分でも調べてみたくなったら
自分でも調べてみたくなったら
ボーアの かんがえた 原子の すがたを、じぶんで えがいて みましょう。
あんぜんな ばしょで できる こと
- 原子の え を かいて みる。 まん中に かく を おき、その まわりに とびとびの かいだんの ように 電子を えがいて みましょう。
- おうちの人と、いけんが ちがっても なかよく いられる ほうほうを はなしあって みる。 ボーアと アインシュタインの かんけいを さんこうに して みましょう。
きょう 出て きた ことばを 1つだけ ノートに 書いて おきましょう。「ソルベーかいぎって なに?」だけで じゅうぶんです。
ボーアの考えた原子のすがたを、自分でえがいてみましょう。
今日できること
- 原子の絵をかいてみる。真ん中に核を置き、そのまわりにとびとびの階段のように電子をえがいてみましょう。
- おうちの人と、意見がちがってもなかよくいられる方法を話し合ってみる。ボーアとアインシュタインの関係を参考にしてみましょう。
気になった言葉を1つだけ書いておくと、あとで調べる入口になります。「光子箱の思考実験って、どんな実験?」だけでも十分です。
ボーアの原子模型を図に描いたり、ボーア・アインシュタイン論争の他の思考実験を調べたりすると、この記事で扱った内容が身近に感じられます。
手を動かして確かめる
- ボーアの原子模型を図に描いてみる。原子核のまわりに、とびとびの軌道と電子を描き、エネルギー準位の考え方を確かめてみましょう。
- ボーア・アインシュタイン論争の、ほかの思考実験を調べてみる。1927年の二重スリットの実験について、詳しく調べてみましょう。
一次情報にあたる
ノーベル賞の公式サイトには、ボーアの受賞時の経歴が公開されています。
気になった数字や言葉を1つだけノートに記録しておきましょう。「1943年、ボーアはモスキート機の爆弾倉で脱出した」という一文でもかまいません。
しらべた もとの じょうほう
参考にした情報源
参考にした情報源と、その使い方
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出典について:ノーベル賞公式サイトと、Wikipediaを使っています。
- The Nobel Prize公式サイト「Niels Bohr – Biographical」。 https://www.nobelprize.org/prizes/physics/1922/bohr/biographical/ (1911年のケンブリッジ滞在、1912年のマンチェスター移籍についての公式経歴解説)
- Niels Bohr - Wikipedia(英語版)。 https://en.wikipedia.org/wiki/Niels_Bohr (生没年、1913年の原子模型、1922年のノーベル賞、1921年の研究所設立、1943年の脱出、1950年の国連公開書簡についての解説)
- Bohr–Einstein debates - Wikipedia(英語版)。 https://en.wikipedia.org/wiki/Bohr–Einstein_debates (1927年・1930年のソルベー会議での議論、光子箱の思考実験、2人の友情についての解説)
- Harald Bohr - Wikipedia(英語版)。 https://en.wikipedia.org/wiki/Harald_Bohr (1908年ロンドン・オリンピックでのサッカー銀メダルについての解説)
なおした ところ
更新履歴
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