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江戸えど時代、うんちには お金の ねうちが あった

江戸のうんちには、なぜお金の価値があったのか

江戸のうんちには、なぜお金の価値があったのか

分野:歴史・文化

1789年、江戸えどの まわりの 村むらから、おかみへ おこりの こえが とどきました。「うんちの ねだんが 高すぎる!」

うんちの ねだんが 高すぎて おこる、と いう ことが、じっさいに あったのです。いったい なぜ、うんちに そんな ねうちが あったのでしょう。

1789年、江戸の周りの村々から、お上へ怒りの声が届きました。「うんちの値段が高すぎる!」

うんちの値段が高すぎて怒る、ということが、実際にあったのです。いったいなぜ、うんちにそんな価値があったのでしょうか。

寛政元年(1789年)、江戸近郊の村々が下肥の値下げを求める嘆願書を幕府に提出するという事件が起きた。運動は翌1790年には1016か村にまで広がっている。うんちの値段が高すぎるという理由で、農民たちが集団で抗議したのである。

この時代、うんちには実際にお金の価値があった。大名屋敷から出る屎尿は「勤番」と呼ばれる高級品として取引され、庶民の「町肥」よりずっと高い値がついていたという。同じ時代のロンドンにも人糞尿を取引する仕組みはあったが、江戸ほど組織立った経済にはならず、排泄物の多くが処理しきれずに残っていた。この違いはどこから来たのか。そして20世紀の日本で、なぜ船で海に捨てるようになったのかを追う。

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1. うんちを 売ったり 買ったり して いた 江戸えど時代

1. うんちを売ったり買ったりしていた江戸時代

1. 江戸で、排泄物が商品として売買された

今の 日本では、トイレで ながした ものは、お金に なりません。でも 江戸えど時代には ちがいました。

町に すむ 人たちの うんちを あつめて、はたけの こやし(しょくぶつを そだてる ための もの)として、農家に 売る しごとが ありました[1]

20人から 30人ほどが すむ 長屋(ながや)全体の、1年ぶんの うんちを 売ると、当時の お金で 1りょうから 2りょうくらいに なったと いわれて います[1]

今の日本では、トイレで流したものは、お金になりません。でも江戸時代には違いました。

町に住む人たちのうんちを集めて、畑のこやし(植物を育てるためのもの)として、農家に売る仕事がありました[1]

20人から30人ほどが住む長屋全体の、1年分のうんちを売ると、当時のお金で1両から2両くらいになったといわれています[1]

下肥しもごえとは、人間の屎尿しにょうを発酵させて作る肥料のことである。鎌倉時代後期から使われはじめ、戦国時代には一般化していたが、金銭や野菜を対価とする取引が広く行われるようになったのは、享保年間(1716〜1736年)ごろとされる[1]

江戸の人口が100万人に迫るにつれて、下肥の需要は高まり、明確な価格がつくようになった。ある記録では、20〜30人が暮らす長屋一棟から出る屎尿を売った年間収入は、1〜2両ほどになったという[1]

この巨大な需要を背景に、専門の汲み取り業者や仲介業者が登場した。

2. 大名やしきの うんちは、とくべつに 高かった

2. 大名屋敷のうんちは、特別に高かった

2. 「勤番」は「町肥」より高く売れた

下肥しもごえにも、ねだんの ちがいが ありました。大名(おおきな はんを おさめる とのさま)の やしきから 出た うんちは、とくべつに 高く 売れました[2]

ふつうの 町の 人たちの うんちは、それより やすい ねだんで 取り引きされました。食べる ものの ちがいが、こやしの しつの ちがいに つながると 考えられて いました。

下肥にも、値段の違いがありました。大名(大きな藩を治める殿様)の屋敷から出たうんちは、特別に高く売れました[2]

普通の町の人たちのうんちは、それより安い値段で取り引きされました。食べるものの違いが、下肥の質の違いにつながると考えられていました。

江戸の下肥は、肥料としての効き目の優劣により、明確にランク付けされていた。大名屋敷から出るし尿は「勤番きんばん」と呼ばれる最高級品とされ、庶民の住居から出る「町肥」の4〜5倍で取引されたという説明もある[2]

栄養価の高い食事をとる武士階級の排泄物は、肥料としての効果も高いと当時考えられていたことが、この価格差の背景にある。下掃除(汲み取り)の権利は、地主との契約によって取引され、のちには投機の対象にもなった[2]

こうした人気の高まりが、下掃除の権利の値段をさらに押し上げていった。

3. なぜ ロンドンでは、江戸えどほど うんちが 売れなかったのか

3. なぜロンドンでは、江戸ほど下肥が売れなかったのか

3. 江戸とロンドンで、下肥のあつかいは分かれた

おなじ ころの イギリスの ロンドンにも、人の うんちを 畑に 売る しくみは ありました。でも 江戸えどほど 大きな しくみには ならず、町に すてられて 井戸いど水を よごして しまう ことも ありました[3]

日本では、肉を 食べる ことが すくなかったので、牛や ぶたの ふんで 作る こやしが 足りませんでした。だからこそ、人の うんちに、大きな 出番が まわって きました[3]

きゅう食で おかずの お肉が すくない日は、みんな パンを たくさん おかわりして、いつもは あまる パンが すぐに なくなるのと、にた はなしです。いつもの おかずが 足りないと、かわりに なる ものへの ひつようが ぐっと 高まります。ただし ほんとうは、こやしの ねだんには、はこぶ てまや しつの ちがいなど、ほかの りゆうも かんけいして います。

同じころのイギリスのロンドンにも、人のふん尿を農地に売る仕組みはありました。でも江戸ほど大きな仕組みにはならず、町に捨てられて井戸水を汚してしまうこともありました[3]

日本では、肉を食べることが少なかったので、牛やぶたのふんで作るこやしが足りませんでした。だからこそ、人のうんちに、大きな出番がまわってきました[3]

同時代のロンドン近郊にも、人糞尿を農地に売る取引はあった。ただし江戸ほど組織立った経済にはならず、あふれた汚水が地下に染み出して井戸水を汚染し、のちに大規模なコレラの流行を招いたとされる[3]

この差の背景の一つに、食文化の違いがある。仏教的な価値観から肉食が長く忌避されてきた日本では、大規模な畜産が発達せず、家畜糞による肥料が慢性的に不足していた。その不足を補う資源として、人間の排泄物への需要がロンドンよりも強く高まったと考えられている[3]

4. ねだんが 上がりすぎて、村人たちが おこった

4. 値段が上がりすぎて、村人たちが怒った

4. 1789年、村々が下肥の値下げを幕府に求めた

下肥しもごえは、どんどん 人気に なり、ねだんも 上がって いきました。

1789年、こやしを 買う がわの 村人たちが、あまりにも ねだんが 高く なった ことに おこりました。江戸えどの まわりの 村むらが つぎつぎに くわわり、1年ほどで 1000を こえる 村に なって、おかみに 「ねだんを 下げて ほしい」と おねがいしました[4]

下肥は、どんどん人気になり、値段も上がっていきました。

1789年、下肥を買う側の村人たちが、あまりにも値段が高くなったことに怒りました。江戸の周りの村々が次々に加わり、1年ほどで1000を超える村になって、お上に「値段を下げてほしい」とお願いしました[4]

寛政元年(1789年)11月、江戸近郊の村々が、下肥の値下げを求める嘆願書を勘定奉行に提出した。この運動は翌1790年には1016か村にまで広がっている。延享・寛延年間と比べ、下掃除代(下肥の汲み取り料金)が約3倍に高騰していたことが理由とされる[4]

農村側にとって下肥は不可欠な肥料だったが、買い手の足元を見た値上げも横行していたことがうかがえる。嘆願は幕府への訴えとなり、決着したのは1792年6月のことである。

5. 明治めいじに なって、うんちが「うれるもの」から「すてるもの」に かわった

5. 明治になって、うんちが「売れるもの」から「捨てるもの」に変わった

5. 明治後期、下肥は商品から廃棄物へ変わっていった

明治めいじ時代の おわりごろ、町に すむ 人が どんどん ふえて、うんちの りょうが、はたけで つかいきれない ほど 多く なって しまいました。

1900年、まちを きれいに たもつ ための ほうりつが 作られ、市や 町が うんちの しょりに かかわるように なりました[5]。こうして、江戸えど時代には 「うれるもの」だった うんちが、すこしずつ 「すてるもの」に かわって いきました。

明治時代の終わりごろ、町に住む人がどんどん増えて、うんちの量が、畑で使いきれないほど多くなってしまいました。

1900年、町を清潔に保つための法律が作られ、市や町がうんちの処理に関わるようになりました[5]。こうして、江戸時代には「売れるもの」だったうんちが、少しずつ「捨てるもの」に変わっていきました。

明治後期、都市の過密化により屎尿の供給量が周辺農地の肥料需要を上回るようになった。1900年に制定された汚物掃除法(感染症の予防が目的)により、市町村は屎尿処理に関わる義務を負うことになったが、この時点でも下肥の売買自体はしばらく続いていた[5]

1930年の法改正では、市町村が屎尿処理の手数料を徴収できる権限が加えられた[5]。戦後の一時期には、化学肥料の入手が困難だったことから下肥の需要が再び高まったが、1950年代の化学肥料の生産回復と、下肥を介した寄生虫きせいちゅう感染への懸念から、下肥利用は衰退し、1954年制定の清掃法が汚物掃除法に代わって、屎尿処理を全国の市町村の責任とした[5]

6. 船で 海に はこんで、すてて いた 時代

6. 船で海に運んで、捨てていた時代

6. バキュームカーで集めたし尿は、海に捨てられた

下水道(トイレの 水を まとめて はこぶ かんの ネットワーク)が まだ 十分に なかった ころ、町から 集めた うんちは、船に のせて 海に すてられて いました。

東京都は、1935年から 1999年までの あいだ、うんちを 船で 海に すてて いました[6]。すてる 場所は、はじめは 東京わんの 近くでしたが、のちに もっと おきの 海に かわって いきました。1953年には、東京わんの 海水が よごれすぎて、海水よくが できなく なった 年も ありました[6]

下水道(トイレの水をまとめて運ぶ管のネットワーク)がまだ十分になかったころ、町から集めたうんちは、船に乗せて海に捨てられていました。

東京都は、1935年から1999年までの間、うんちを船で海に捨てていました[6]。捨てる場所は、はじめは東京湾の近くでしたが、のちにもっと沖の海へと変わっていきました。1953年には、東京湾の海水が汚れすぎて、海水浴ができなくなった年もありました[6]

下水道の整備が人口増加に追いつかなかった昭和期、都市部で集められた屎尿は、船舶による海洋投棄で処分されることが多かった。東京市は昭和10年(1935年)に直営のし尿海洋投棄を始め、東京都はこれを平成11年(1999年)まで続けた。投棄する海域は、当初の東京湾から、時代とともに沖合へと移っていった[6]

屎尿の汲み取りには、昭和26年(1951年)に川崎市が全国に先駆けて実用化した「バキュームカー」が使われた。衛生的だとして全国に普及したが、集められた屎尿の多くは海洋投棄されていた[6]。1953年の夏には、東京湾の大腸菌だいちょうきん汚染により、海水浴が禁止される事態も起きている[6]

7. 今は、海に すてる ことは ゆるされて いない

7. 今は、海に捨てることは許されていない

7. 海洋投棄は、2007年に全面禁止された

今は、下水道が 日本中に ひろがり、トイレの 水を きれいに して 川や 海に もどす しくみが できて います。

2002年に ほうりつで きまりが 作られ、それまで すてて いた ところには 5年間だけ とくべつに みとめられました。その とくべつな あつかいが おわった 2007年、うんちを 海に すてる ことは、日本中で できなく なりました[6]。今の しくみに ついて くわしくは、下水道について 書いた べつの メモも 見て みて ください。

今は、下水道が日本中に広がり、トイレの水をきれいにして川や海に戻す仕組みができています。

2002年に法律で決まりが作られ、それまで捨てていたところには5年間だけ特別に認められました。その特別な扱いが終わった2007年、し尿を海に捨てることは、日本中でできなくなりました[6]。今の仕組みについて詳しくは、下水道について書いた別のメモも見てみてください。

国際的な海洋汚染防止条約(ロンドン条約1996年議定書)を受け、2002年にし尿・浄化槽汚泥の海洋投入処分を規制する法律が施行された。すでに投棄していた事業者には5年間の経過措置が設けられ、その期間が終わった2007年2月1日から、し尿・浄化槽汚泥の海洋投入処分が全面的に禁止された[6]

現在は下水道の整備が進み、家庭からの排水は処理施設で浄化されたのちに河川や海へ戻される。この現代の下水処理の仕組みについては、当サイトの別記事「下水道はどこへ行くのか ── 使った水のその後」で扱っている[7]

じぶんでも やって みる

自分でも調べてみたくなったら

自分でも調べてみたくなったら

自分の 家から 出た 生ごみが、今の 町では どう しょりされて いるか、大人と いっしょに しらべて みましょう。たいひ(生ごみを こやしに かえる しくみ)を つかって いる 町も あります。

むかしの お金の 「1りょう」が、今の お金で どれくらいに あたるのか、しらべて みるのも おもしろいでしょう。

自分の家から出た生ごみが、今の町ではどう処理されているか、大人と一緒に調べてみましょう。たい肥(生ごみをこやしに変える仕組み)を使っている町もあります。

昔のお金の「1両」が、今のお金でどれくらいにあたるのか、調べてみるのも面白いでしょう。

身近な資源循環を調べてみる

自分の住む自治体で、生ごみや下水汚泥がどのように肥料・エネルギーとして再利用されているか(バイオガス化、堆肥化事業など)を、自治体の公式サイトで調べてみる。江戸時代の下肥経済と、現代の資源循環の考え方を比べてみると、共通点や違いが見えてくる。

資料を読む

  • 江戸の下肥取引の詳しい仕組みについて、専門的な記事や資料で調べてみる。[1]

しらべた ところ

参考にした情報源

参考にした情報源

  1. 株式会社日立システムズ「第2回 糞尿のリサイクル」、Wikipedia(日本語版)「下肥」。 https://www.hitachi-systems.com/report/specialist/edo/02/ (下肥の起源が鎌倉時代後期にさかのぼること、金銭や野菜を対価とする取引が享保年間〔1716〜1736年〕ごろから行われるようになったこと、20〜30人が住む長屋の年間収入が1〜2両ほどになったとされること)
  2. note「【衛生的かつ安全な町】江戸のリサイクルシステム」、北海道教育大学公開資料、Wikipedia(日本語版)「下肥」。 https://note.com/edo_biz/n/n004373d42e54 https://www.asa.hokkyodai.ac.jp/research/staff/kado/ch16.pdf (下肥が上・中・下にランク付けされ、大名屋敷のし尿「勤番」が庶民の「町肥」の4〜5倍で取引されたという説明があること、下掃除の権利が売買・投機の対象になったこと)
  3. note「【黄金の循環】なぜ江戸の排泄物はロンドンより高値で売れたのか?」、J-STAGE「ナイトソイルの環境経済史」。 https://note.com/lyco_pene/n/n8dd569120a16 https://www.jstage.jst.go.jp/article/sehs/76/2/76_KJ00008198357/_article/-char/ja (ロンドン近郊にも人糞尿の商業取引があったこと、それでも汚水が地下に染み出し井戸水の汚染とコレラ流行を招いたこと、日本の肉食忌避による家畜糞肥料の不足が人糞尿への需要を高めたこと)
  4. Wikipedia(日本語版)「下肥」、国立国会図書館サーチ収録の研究抄録、下肥価格の変遷に関する資料。 https://ja.wikipedia.org/wiki/下肥 https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R000000004-I2714311 https://sinyoken.sakura.ne.jp/caffee/cayomo013.htm (寛政元年〔1789年〕11月に始まった値下げ運動が、翌1790年には1016か村に広がったこと、決着が1792年6月だったこと、延享・寛延年間と比べ下掃除代が約3倍に高騰していたこと)
  5. 環境省資料「一般廃棄物処理の歴史」、八千代エンジニヤリング「東京の屎尿処理の歴史」。 https://www.env.go.jp/content/900536247.pdf https://www.yachiyo-eng.co.jp/papers/2019_23_kodani.pdf (1900年制定の汚物掃除法が感染症予防を目的とし市町村に屎尿処理義務を課したこと、1930年の改正で処理手数料の徴収権限が加えられたこと、1954年制定の清掃法が汚物掃除法に代わり全国の市町村へ責任を拡大したこと)
  6. J-STAGE「東京都のし尿等海洋投棄廃止の経緯について」、環境省資料、川崎市資料、Wikipedia(日本語版)「バキュームカー」「海洋投入」。 https://www.jstage.jst.go.jp/article/jsmcwm/31/0/31_133/_article/-char/ja/ https://www.env.go.jp/hourei/11/000447.html https://www.city.kawasaki.jp/300/cmsfiles/contents/0000065/65909/R7zigyougaiyou.pdf (東京市が昭和10年〔1935年〕に直営のし尿海洋投棄を始め東京都が平成11年〔1999年〕まで続けたこと、投棄海域が東京湾から沖合へ移っていったこと、バキュームカーが1951年に川崎市で実用化されたこと、1953年の東京湾大腸菌汚染による海水浴禁止、2002年施行の規制と5年の経過措置を経て2007年2月1日にし尿・浄化槽汚泥の海洋投入処分が全面禁止されたこと)
  7. きになるノート「下水道はどこへ行くのか ── 使った水のその後」。 ../articles/sewage.html (現代の下水処理の仕組みについては、この記事で詳しく扱っている)

なおした ところ

更新履歴

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