このサイトは、ほんの入り口です

ここにあるのは、だれかが実際に調べ、考え、作ってきたことを集めたメモです。気になったら、ページの下の「参考にした情報源」から、もとの本や記事、それを生み出した人たちに、直接ふれてみてください。このメモには書ききれないおもしろさが、そこにあります。

セーラーふくは、なぜ おんなの子の 学校の ふくに なったの?

水兵の服が女学生の制服に ── セーラー服の「最初の学校」はどこか

セーラー服はいつ女学校の制服になったか ── 1920〜21年の採用と「日本初」の定義

分野:歴史・文化

セーラーふくの もとは、海の うえで はたらく 水兵すいへいさんの ふくです[1]。

ふねの しごとの ふくが、どうして 女の子の 制服せいふくに なったのでしょう。しらべると、「さいしょの 学校は どこ?」の こたえが、ひとつに きまらないことも わかってきます。

セーラー服のもとは、海軍の水兵が着る服でした[1]。男の人が船の上で働くための服が、100年ほど前に、日本の女学生の制服として広がっていきます。

いったい、どんな事情があったのでしょうか。「最初にセーラー服を採用した学校」を調べると、京都・名古屋・福岡と、資料によって名前が変わることにも気づきます。

セーラー服は1857年にイギリス海軍でデザインされた水兵の制服で、各国の海軍も取り入れた[1]。それが日本では1920〜21年ごろ、女学校の制服として採用されはじめる。

導入の背景と、京都・愛知・福岡の学校の採用の経緯を、資料を突き合わせて整理する。「最初の学校」の答えが、セーラー服の何を指すかで変わる点にも触れる。

読み方を切り替えられます。画面の上にある「よみかた」のボタンで、小学校低学年むけ・小学校高学年むけ・中学生むけの3つの書き方に切り替わります。むずかしいと思ったら、いつでもやさしい方に戻ってください。選んだ読み方はブラウザが覚えているので、次に別の記事を開いたときも同じ読み方で始まります。

2. そのころの 女学生は、なにを きていた?

2. 袴の女学生と、体操のじゃまになる和服

2. 女袴から洋装制服へ ── 体操教育という要請

いまから 100ねんほど まえの 女学生は、袴はかまを はいて いました。むらさきや えびちゃ色の、スカートのような 形の ものです[3]。

そこへ、女の子の 学校でも 体そうを ならう ことに なります。着物で 体を うごかすのは、たいへんです。

そこで、うごきやすい ようふくの 制服せいふくが、すこしずつ ひろがって いきました[3]。

明治の終わりごろまで、女学生の服は紫やえび茶色の女袴でした。股が分かれていない、スカートのような形の袴です[3]。

大正時代になると、女子教育に体操を取り入れる動きが強まり、洋装の制服が広がりました[3]。着物で走ったり跳んだりするのは大変だったからです。

もうひとつ、当時の「良妻賢母」という教育の考え方に、セーラー服の印象が合っていたことも、背景として考えられています[1]。こちらは資料の書き手の推測で、はっきりした証拠のある話ではありません。

明治末期まで、女学生の服装は紫(えび茶)の女袴が中心だった。股のないスカート状の袴である。大正期に入ると、女子教育と体操教育の必要が高まり、洋装制服が広がった[3]。

背景として、制服メーカーのトンボは、体操を取り入れる際に和服が不都合だったことに加え、「良妻賢母」という教育理念とセーラー服のイメージが合致したことを挙げる[1]。後者は「考えられる」という推測の形で書かれており、断定できる材料ではない。

3. さいしょに きた 学校は、どこ?

3. 京都・名古屋・福岡 ── 1920〜21年の採用

3. 平安女学院・金城学院・福岡女学院の採用(1920〜21年)

セーラーふくを とりいれた 学校は、1920ねんから 1921ねんに かけて、いくつか あります。

京都の 学校は、1920ねんに えりの ついた ワンピースの ふくを さいようしました[4]。名古屋なごやの 学校は 1921ねんの 9がつに セーラーふくを 制服せいふくに しました[6]。福岡ふくおかの 学校は 1921ねんの 12がつです[5]。

ほかにも、神奈川かながわの 学校が 1921ねんの 11がつと いう せつめいも あります[4]。

京都の平安女学院は、1920年(大正9)にセーラー襟の洋装制服を採用しました。濃い色のワンピース型で、腰をベルトで締める形です。制服メーカーのトンボの2007年の調査で、1920年11月とわかったと紹介されています[4]。

名古屋の金城学院は、1920年4月に「洋服で登校を」という方針に変わり、1921年9月にセーラー服の着用を義務にしました。襟には白い線が3本入っていたそうです[6]。

福岡女学院は1921年12月に採用しました[5]。近年の調査では、金城のほうが福岡より約3か月早いと報じられています[6]。

平安女学院(京都)は1920年(大正9)にセーラー襟の洋装制服を採用した。濃色のワンピース型で、腰をベルトで締めた。2007年のトンボの調査で1920年11月と確認され、従来の通説(福岡)より1年早いとされた[4]。なお、この採用月は二次資料に基づく。

金城学院(名古屋)は1920年4月に「洋服で登校を」という方針に転じ、宣教師ローガン氏の娘の水兵風の服を参考にしたとされる、襟に白線3本のセーラー服を、1921年9月に制服として着用義務化した。刑部芳則(おさかべよしのり)の調査で、福岡より約3か月早い最古の例と報じられた[6]。

福岡女学院は1921年(大正10)12月に採用した[5]。この年の11月に神奈川のフェリス和英女学校が採用したという整理もある[4]。

4. 福岡ふくおかの 校長先生は、どう つくった?

4. 校長が1年余り研究し、仕立屋が8回試作した福岡女学院

4. 福岡女学院の制服づくり ── 研究1年余りと8回の試作

福岡ふくおかの 学校の 校長先生は、エリザベス・リーさんと いいます。いろいろな くにの 女学生の ふくそうを、1ねん いじょう しらべました[5]。

そして、じぶんが きて いた セーラーふくを おてほんに しました。つくった のは、まちの したてやさんです。なんども つくりなおして、8かいめで やっと できあがりました[5]。

この ふくは、うえと したが べつべつでした。むねに いかりの ししゅうが あり、スカートには ひだが あります。体そうが しやすい ふくです[3][5]。

福岡女学院のエリザベス・リー校長は、欧米の女学生の服装を1年余り研究したそうです。自分が着ていたセーラー服を手本にして、福岡の仕立屋の太田豊吉さんが試作を重ね、8回目でようやく満足のいくものができました[5]。

背景には、保護者から「和服や袴では実用的でない」「お金がかかる」といった声があったことが書かれています[5]。

できあがった制服は、上着とスカートが分かれた形でした。胸には錨の刺繍があり、スカートにはプリーツがあって、体操に向いていました[3][5]。いま多くの人が思い浮かべる「セーラー服」に近い形です。

福岡女学院では、エリザベス・リー校長が欧米の女学生の服装を1年余り研究し、自身が着ていたセーラー服をモデルにした。福岡の仕立屋・太田豊吉(おおたとよきち)が8回の試作を経て仕上げたと、同学院の資料にある。背景には、保護者から和装・袴の実用性や経費についての指摘があった[5]。

制服は上着とスカートに分かれた上下セパレート型で、胸に錨の刺繍、スカートにプリーツがあり、体操に適した[3][5]。現在一般にいうセーラー服に近い形である。ただし、全校での着用は1922年からという報道もあり、採用と着用の時期は分けて読む必要がある[4]。

5. 「にほんで はじめて」は、ひとつ?

5. 「日本初」がひとつに決まらないわけ

5. 「最初」は定義で変わる ── 説の整理

さいしょの 学校は、京都と いう せつ、名古屋と いう せつ、神奈川かながわと いう せつ、福岡ふくおかと いう せつに わかれます[4]。

どうして わかれるのでしょう。「セーラーふく」と よぶ ものが、ちがうからです。えりの ついた ワンピースを セーラーふくと よぶか、うえと したが 分かれた ものを よぶかで、こたえが かわります。

だから、「日本で さいしょ」の 学校を ひとつに きめるのは、むずかしいのです。

「最初」の学校は、京都(1920年)、愛知(1921年9月)、神奈川(1921年11月)、福岡(1921年12月)と、説が分かれます[4]。

分かれる理由は、「セーラー服」を何と考えるかにあります。セーラー襟のついたワンピースまでを含めるのか、上着とスカートに分かれた形だけを指すのか。定義が変われば、最初の学校も変わります[4]。

この記事では、特定の学校を「日本初」と決めません。それぞれの学校が、それぞれの事情で服を変えた、と読むのがよさそうです。

「最初」の学校は、京都(平安、1920)、愛知(金城、1921年9月)、神奈川(フェリス、1921年11月)、福岡(福岡女学院、1921年12月)に説が分かれる[4]。

差は、セーラー服の定義から生まれる。襟つきのワンピース型を含めるか、上下別の型に限るかで答えが変わる[4]。さらに、平安の採用月は二次資料のみ、金城の記述も報道経由と、根拠の厚さは学校ごとに異なる。したがって特定校を「日本初」と断定しない。

6. じぶんの 学校の ふくは?

6. 自分でも調べてみたくなったら

6. 自分でも調べてみたくなったら

今日できること

じぶんの 学校の 制服せいふくや たいそうふくを、じっと 見てみましょう。えりや ボタン、しるしは、どんな 形でしょうか。おうちの 人に、むかし きた ふくの ことを 聞くのも いい 方ほうです。

学校の 図書室に、学校の 歴史れきしの 本が あるか、先生に 聞いてみるのも たのしいです。

今日できること

自分の学校の制服や体操服が、いつ、どんな理由で今の形になったのかを、先生や先輩に聞いてみましょう。学校の歴史の本や記念誌があれば、そこに書いてあるかもしれません。

出かけてできること

地域の図書館に、その町の学校の歴史の本があるか、司書さんに聞いてみると、見つかることがあります。

公式情報

福岡女学院のウェブサイトには、制服の歴史が説明されています[5]。

今日できること

自分の学校の制服が、いつ、どういう経緯で今の形になったかを、学校の記念誌や年史で調べる。地域や学校ごとに事情が違うため、比べる価値がある。

資料を読むなら

刑部芳則『セーラー服の誕生 女子校制服の近代史』(法政大学出版局、2021年12月)は、福岡女学院・平安女学院・金城学院など各地の採用の経緯を記録した本である[7]。

公式情報

福岡女学院の制服の説明ページや、トンボの制服資料館に、写真つきの解説がある[5][1]。

しらべた もとの じょうほう

参考にした情報源

参考にした情報源と、その使い方

2026年9月29日に確認。各項目の用途を添えています。

  1. トンボ 制服資料館 ファッション豆知識 #3 https://www.tombow.gr.jp/uniform_museum/pocket/03.html (1857年の海軍のデザイン、導入の背景)
  2. 乗りものニュース https://trafficnews.jp/post/135777 (子ども服としての広まり)
  3. トンボ 制服資料館 日本の学ぶスタイルの変遷(明治・大正) https://www.tombow.gr.jp/uniform_museum/style/style03.html (袴から洋装制服へ、上下セパレート型)
  4. J-CAST ニュース(2017年) https://www.j-cast.com/2017/01/22288560.html?p=all (平安女学院の採用、「最初」の説の整理)
  5. 福岡女学院 制服・伝統行事 https://www0.fukujo.ac.jp/uniform/ (福岡女学院の制服づくり)
  6. CBCマガジン https://hicbc.com/magazine/article/?id=news-ronsetsu-post-2654 (金城学院の採用の経緯)
  7. 昭和館デジタルアーカイブ https://search.showakan.go.jp/search/book/detail.php?material_cord=000068109 (刑部芳則『セーラー服の誕生』の書誌)

なおした ところ

更新履歴

更新履歴(改版の記録)

  •  初版を公開。

このサイトでは、公開した記事の本文は原則として書き直しません。誤りが見つかったときや、内容が古くなったときだけ手を入れ、その理由をこの欄に残します。