1. アメよこは、どんな ところ?
1. 約500mの道に約400店が並ぶ ── 「車以外は何でも買える」
1. 上野〜御徒町の高架下に、約500mの道と約400店が広がる
アメよこは、上野えきと御徒町えきの あいだに あります。JRの 線ろの 下と、そのまわりに、およそ 500メートル つづく 商店の ならびです[1]。
お店は、400けんほど。魚、おかし、くつ、ようふく、くすり。ここの 人は 「車いがいは 何でも 買える」と 話して います[8]。
まっすぐ 歩けば、10分も かからない みちです。この みちは、いつ、どうやって できたのでしょう。はじまりは、80年 ほど まえに さかのぼります。
アメ横があるのは、JR上野駅と御徒町駅のあいだです。線路の高架下を中心に、約500メートルつづく商店街で、約450メートルとする資料もあります[1]。
店の数は、台東区の観光サイトや商店街連合会の公式サイトでは約400店です。東京新聞の2025年12月30日の記事は約370店と書いていて、資料や時期によって数字にはばがあります[3][7][8]。
年末は正月の食材を買う人でにぎわい、商店街の副会長は「車以外は何でも買える」と話しています[8]。まっすぐ歩けば10分もかからない長さの道に、これだけの店と人が集まるのはなぜでしょうか。話は80年ほど前にさかのぼります。
アメ横は、上野駅と御徒町駅のあいだ、JRの高架下を中心とした約500メートル(約450メートルとする資料もある)の一帯である[1]。店の数は、台東区の観光サイトと商店街連合会の公式サイトでは約400店、東京新聞の2025年12月30日の記事では約370店と、資料や時期で幅がある[3][7][8]。
同じ記事で、商店街の副会長は「車以外は何でも買える」と語る。年末は正月の食材を求める客が集まり、27〜31日の人出は約200万人の見込みだった。単純に5で割ると1日あたり約40万人だが、これは見込みの平均にすぎず、実際の日ごとの数字ではない[8]。
この長い商店街は、どういう経緯で生まれたのか。出発点は、終戦後の闇市だとされる。
2. もとは、なにが あった ばしょ?
2. 家がなくなった空き地に、市が生まれた
2. 強制疎開の跡地に生まれた闇市 ── 上野駅という物流の拠点
この ばしょには、むかし、家が ならんで いました。ところが、電車に 電気を おくる 「変電所」を まもる ために、家が とりはらわれ、空き地に なって いたと いわれます[2]。
せんそうが おわった あと、その 空き地に 人が あつまり、食べ物や 品ものを 売りはじめました。こう した 市を 闇市と よびます。ものが たりない 時代の、道ばたの 市です。
上野えきは、荷物が 集まる 大きな 場所でした。闇市は、そこを 中心に できたと せつめいされて います[1]。
3. ばらばらの 店は、どう ととのった?
3. 取り締まりと「近藤マーケット」 ── 売り場が整えられていく
3. 闇市の取り締まりのあと、近藤マーケットと復員兵の連合会ができる ── 連合会の結成年は資料で異なる
Wikipediaに よると、1946年の 5月、けいかんが 500人 出て、上野の 闇市の とりしまりが ありました。そのあと、けいさつと 区やくしょが 近藤広吉さんに たのみ、80けんの 店を あつめた 「近藤マーケット」が できました[5]。
また、とおい ところから もどって きた 人たちが 力を あわせ、店の ならびを きめたと せつめいする 資料も あります[3]。その 組合を 作った 年は、資料に よって ちがいます。1949年と する 資料が あります[4]。年は、ひとつに きめません。
Wikipediaによると、1946年5月30日、上野の闇市に、警官500人が出動して取り締まりが行われました。そのあと、上野警察署と台東区役所が実業家の近藤広吉さんに頼み、80軒の商店を収容した「近藤マーケット」ができて、正常化に向かったといいます[5]。
台東区の観光サイトは、多くの闇市が露天商の組による仕切りだったのに対し、アメ横は戦地から戻った人たちが集まって連合会をつくり、出店を整えて商店街になった、と説明します[3]。この連合会の結成年は、資料によって記述が異なります。観光庁系の解説文データベースは、同業組合の結成を1949年と書いています[4]。
担い手も、1つには書かれません。戻ってきた人たちだけでなく、朝鮮人や中国人を含む、さまざまな人が商売を始めたとする資料もあります[2]。
Wikipediaによると、1946年5月30日、武装した警官500人が出動し、上野の闇市の取り締まりが行われた。その後、上野警察署と台東区役所が実業家の近藤広吉に依頼し、80軒の商店を収容した「近藤マーケット」ができて、正常化へ向かったという。場所は、のちにアメ横センタービルが建つ三角地帯である[5]。
台東区の観光サイトは、多くの闇市が的屋(露天商の組)の仕切りだったのに対し、アメ横は満州からの復員兵が共同体となって連合会を結成し、出店を統制して商店街が形成された、と説明する[3]。ただしこのサイトは、連合会の結成年を書いていない。
観光庁系の多言語解説文データベースは、復員兵らが同業組合を結成したのを1949年と書く[4]。連合会の結成年は資料によって記述が異なるため、ここでは年を1つに断定しない。担い手についても、復員軍人のほか朝鮮人や中国人を含む多様な人々が商売を始めたと書く資料がある[2]。
4. 「アメ」は、おかしの あめ?
4. 1つ目の説 ── 飴屋がふえた
4. 「アメヤ横丁」説 ── 芋飴と飴屋の増加
むかし、さとうは なかなか 手に 入りませんでした。そこで、あまい「芋飴」を 売る 店が ふえたと いわれます[6]。
あるお店の 人は、1947年から 1949年ごろに、飴屋が 100けん、200けん、300けんと ふえたと 話して います。ただし、飴屋の 数は 資料に よって おおきく ちがい、はっきり しません。
この 飴屋の おおさから、「アメヤ よこちょう」と よばれるように なった。これが、1つ目の せつです[6]。
5. もうひとつの 「アメ」は?
5. 2つ目の説 ── アメリカの物資を売る店
5. 「アメリカ横丁」説 ── 米軍物資と、1948年・1950年の食いちがい
1950年ごろから、アメリカの ぐんの 人たち むけの 売り場から 出た 品ものを 売る 店が ふえました。チョコレート、ライター、サングラスなどです[6]。
これを 見て 「アメリカ よこちょう」と よばれるように なった、と いうのが、2つ目の せつです。
ただし、こうした 品ものを 売る 店は 1948年には もう あったと する 資料も あります[2]。
6. 名前は、どちらに きまった?
6. 決着はついていない ── 合体説と、今も残る看板
6. 由来は確定していない ── 合体説と「アメヤ横丁」の看板
台東区の ホームページには、こう 書いて あります。上野の ほうに 飴屋、御徒町の ほうに アメリカの 品もの の 店が できて、2つの よび名が 合わさって 「アメ横」に なった[3]。
いっぽう、商店街の 公式ホームページは、名前の わけとして 2つの せつを のせて います[7]。
上野えき がわの 入り口には、今も 「アメヤ よこちょう」の 看板が あります。この 看板は、まだ 飴屋が のこって いた 1950年代に 立てられた、と 書く 資料が あります[5]。
あめの 店は 上野の ほうに 多く、化しょうひんの 店などは 御徒町の ほうに 多い、と お店の 人が 話して いる 記事も あります[6]。
台東区の観光サイトは、上野側に飴屋、御徒町側に米軍の物資を売る店ができて、2つの呼び名が合わさって「アメ横」になった、と説明します[3]。商店街連合会の公式サイトは、由来として飴屋説とアメリカ説の2つを挙げています[7]。どの説が正しいのかは、はっきり決まっていません。
上野駅側の入り口には、今も「アメヤ横丁」の看板があります。この看板は、まだ飴屋が残っていた1950年代に設置されたもの、とWikipediaは書いています[5]。また、飴の店は上野寄りに多く、化粧品の店などは御徒町寄りに多い、という取材記事もあります[6]。
名前のもとになった飴屋の姿は、今の通りでは少なくなったのかもしれませんが、看板は残っています。
台東区の観光サイトは、上野側に飴屋、御徒町側に米軍放出物資の店ができ、2つの呼び名が合わさって「アメ横」になったと説明する[3]。一方、商店街連合会系の公式サイトは、由来として飴屋説とアメリカ説の2つを挙げる[7]。どの説が正しいのかは、はっきり決まっていない。
手がかりは今の通りにもある。上野駅側の入口には「アメヤ横丁」の看板があり、Wikipediaはこれを、まだ飴屋が残っていた1950年代に設置されたものと書く[5]。また、飴店は上野寄りに多く、化粧品店などは御徒町寄りに多いという、店主への取材記事もある[6]。ただし、この取材記事が合体説の証拠になるわけではなく、今の店の並びの話にとどまる。
7. 火事が おきても、どう なった?
7. 火事と露店の廃止をこえて
7. 1949年の火災と1951年の露店廃止 ── 残った商店街
1949年の 12月24日、近藤マーケットで 火事が ありました[2]。ところが、つぎの お正月の ニュースは、まるやけに なった アメ屋よこちょうが、もう すっかり たちなおったと つたえました[2]。
1951年の 12月には、東京の 道ばたの 店が なくなり、いわゆる 闇市は すがたを けしました[9]。そのなかで アメよこは、公有地を かりる かたちで のこったと いわれます[2]。
今、闇市の かたちから 大きく なって つづいて いる 商店街は、少ないと いいます[7]。
8. 売って いる ものは、かわった?
8. 魚屋からスポーツ用品店・薬の店へ
8. 1980年代以降の店の入れ替わり ── 鮮魚店の減少と外国人経営の店
お店の しゅるいは、時代と ともに かわりました。1980年代には、魚を 売る 店が へりました。おうちの 人数が 少ない 家が ふえた ことが 理由と される 資料が あります[5]。
かわりに、わかい 人 むけの スポーツ用品の 店や、くすりの 店が、1990年代に かけて ふえました。
2015年には、外国の 人が やって いる 店が 40けんほどで、ぜんぶの お店の 10分の 1 ほどに なりました[5]。
9. じぶんでも たしかめて みたく なったら
9. 自分でも調べてみたくなったら
9. 自分でも調べてみたくなったら
やってみよう。おうちの 近くの 商店街や、いつも 通る みちの 名前を 1つ えらんで、おうちの 人に 「この 名前は、どうして ついたの?」と 聞いて みましょう。知って いる 人が いれば、その 話を メモします。
おうちに ちずが あれば、上野えきと 御徒町えきの あいだを 見て、アメよこの ばしょを たしかめましょう。図書館の 本や 区の ホームページで、上野の ほうと 御徒町の ほうの お店の ちがいも しらべられます。
もし アメよこに 行く ことが あったら、おとなと 一しょに、入り口の 看板も さがして みましょう。人が 多い ところなので、おとなと 手を つないで、道の はしを 歩きます。
しらべた ところ
参考にした情報源
参考にした情報源
出典について:商店街連合会系のサイト、台東区と観光庁の観光解説、地域の歴史サイト、取材記事、新聞記事、Wikipediaを突き合わせて使った。何に使ったかは、それぞれの項目の最後に書いている。
- アメ横style「about」(アメ横商店街連合会系サイト)。 https://ameyokostyle.com/about/ (闇市の始まり、場所と長さ、通りの規模について)
- れきこん「アメヤ横町の歴史」。 https://rekicon.com/area/ameyoko/ (強制疎開の跡地、1949年の火災、公有地での存続、担い手、米軍物資の始まりの年について)
- 台東区公式観光情報サイト「アメ横商店街」。 https://t-navi.city.taito.lg.jp/spot/1033 (復員兵の連合会、店数、名前の合体説について)
- 観光庁「地域観光資源の多言語解説文データベース アメ横歴史」。 https://www.mlit.go.jp/tagengo-db/R1-00098.html (同業組合の結成を1949年とする記述について)
- Wikipedia「アメヤ横丁」。 https://ja.wikipedia.org/wiki/アメヤ横丁 (1946年の取り締まりと近藤マーケット、看板、1980年代以降の店の変化、外国人経営の店について)
- 70seeds「上野アメ横でタイムスリップ vol.1」。 https://www.70seeds.jp/ameyoko/ (飴屋の増加、米軍物資を売る店、上野寄りと御徒町寄りの店のちがいについて)
- 上野アメ横商店街公式サイト。 https://www.ameyoko.net/ (名前の由来の説明、闇市から続く商店街であることについて)
- 東京新聞「上野・アメ横 年末のお買い物」(2025年12月30日)。 https://www.tokyo-np.co.jp/article/459332 (店数、年末の人出の見込み、副会長のことばについて)
- Wikipedia「闇市」。 https://ja.wikipedia.org/wiki/闇市 (1951年12月の常設露店の廃止について)
なおした ところ
更新履歴
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