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ここに書いてあることは、誰かが実際に手を動かして調べ、考え、作り上げてきたものを拾い集めています。専門の本や論文、作品、そしてそれを生み出した人たち。気になったことがあれば、ぜひそのおおもとに直接ふれてみてください。このメモには書ききれない熱を、感じてもらえると思います。

アメよこちょうの 「アメ」は、なんの アメ?

アメ横の「アメ」は飴? アメリカ? ── 空き地から商店街になった上野の道

アメ横はどう生まれたか ── 闇市から商店街へ、名前の由来と看板に残る昔の姿

分野:歴史・くらし

年の くれの 5日間に、200万人が あつまると いわれた 商店街しょうてんがいが あります。東京の 上野に ある「アメよこちょう」、みじかく 言うと「アメよこ」です[8]。

ところで、この 「アメ」は、なんの アメでしょう。おかしの あめでしょうか。それとも、アメリカでしょうか。じつは、答えは ひとつに きまって いません。

2025年の年末、東京の上野にあるアメ横商店街では、12月27日から31日までの5日間に、人出が約200万人になる見こみだと報じられました[8]。コロナ禍のあとでは、いちばん多い数字です。

ところで、この「アメ」は何のことでしょうか。お菓子の飴なのか、アメリカなのか。資料を読みくらべると、答えは1つに決まっていません。

東京新聞は2025年12月30日、上野のアメ横商店街の年末の人出を、27〜31日で約200万人、コロナ禍以降で最多と見込む、と伝えた[8]。この数字は5日間の合計の見込みで、1日の人数ではない。

この商店街の名の「アメ」は、飴屋の「アメ」か、アメリカの「アメ」か。台東区の観光サイトは両方が合わさったとし、商店街連合会の公式サイトは、由来として二つの説を挙げる[3][7]。闇市に始まる場所の来歴と、名前の候補を、資料を突き合わせて整理する。

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1. アメよこは、どんな ところ?

1. 約500mの道に約400店が並ぶ ── 「車以外は何でも買える」

1. 上野〜御徒町の高架下に、約500mの道と約400店が広がる

アメよこは、上野えきと御徒町おかちまちえきの あいだに あります。JRの 線ろの 下と、そのまわりに、およそ 500メートル つづく 商店の ならびです[1]。

お店は、400けんほど。魚、おかし、くつ、ようふく、くすり。ここの 人は 「車いがいは 何でも 買える」と 話して います[8]。

まっすぐ 歩けば、10分も かからない みちです。この みちは、いつ、どうやって できたのでしょう。はじまりは、80年 ほど まえに さかのぼります。

アメ横があるのは、JR上野駅と御徒町駅のあいだです。線路の高架下を中心に、約500メートルつづく商店街で、約450メートルとする資料もあります[1]。

店の数は、台東区の観光サイトや商店街連合会の公式サイトでは約400店です。東京新聞の2025年12月30日の記事は約370店と書いていて、資料や時期によって数字にはばがあります[3][7][8]。

年末は正月の食材を買う人でにぎわい、商店街の副会長は「車以外は何でも買える」と話しています[8]。まっすぐ歩けば10分もかからない長さの道に、これだけの店と人が集まるのはなぜでしょうか。話は80年ほど前にさかのぼります。

アメ横は、上野駅と御徒町駅のあいだ、JRの高架下を中心とした約500メートル(約450メートルとする資料もある)の一帯である[1]。店の数は、台東区の観光サイトと商店街連合会の公式サイトでは約400店、東京新聞の2025年12月30日の記事では約370店と、資料や時期で幅がある[3][7][8]。

同じ記事で、商店街の副会長は「車以外は何でも買える」と語る。年末は正月の食材を求める客が集まり、27〜31日の人出は約200万人の見込みだった。単純に5で割ると1日あたり約40万人だが、これは見込みの平均にすぎず、実際の日ごとの数字ではない[8]。

この長い商店街は、どういう経緯で生まれたのか。出発点は、終戦後の闇市だとされる。

2. もとは、なにが あった ばしょ?

2. 家がなくなった空き地に、市が生まれた

2. 強制疎開の跡地に生まれた闇市 ── 上野駅という物流の拠点

この ばしょには、むかし、家が ならんで いました。ところが、電車に 電気を おくる 「変電所へんでんしょ」を まもる ために、家が とりはらわれ、空き地に なって いたと いわれます[2]。

せんそうが おわった あと、その 空き地に 人が あつまり、食べ物や 品ものを 売りはじめました。こう した 市を 闇市やみいちと よびます。ものが たりない 時代の、道ばたの 市です。

上野えきは、荷物が 集まる 大きな 場所でした。闇市やみいちは、そこを 中心に できたと せつめいされて います[1]。

アメ横の場所は、もとは住宅地でした。国鉄の変電所を守るために、家を取りはらう強制疎開が行われ、空き地になっていたところです[2]。

終戦後、その空き地に人が集まり、品物を売りはじめました。物がたりない時代に、道ばたや空き地に開かれた市を、闇市と呼びます。闇市は、荷物の集まる拠点だった上野駅を中心に生まれたと説明されています[1]。

アメ横のある場所は、もとは住宅地だった。国鉄の変電所を空襲から守るため、強制疎開きょうせいそかいが実施されて家が取り払われ、空き地になっていた[2]。

アメ横の始まりは、終戦後、物流の拠点だった上野駅を中心に生まれた闇市やみいちとされる[1]。闇市とは、物資の乏しい時代に、公の統制の外で品物が売り買いされた市を指す。ここでは、その闇市が空き地に並んだ、という筋を押さえておく。

3. ばらばらの 店は、どう ととのった?

3. 取り締まりと「近藤マーケット」 ── 売り場が整えられていく

3. 闇市の取り締まりのあと、近藤マーケットと復員兵の連合会ができる ── 連合会の結成年は資料で異なる

Wikipediaに よると、1946年の 5月、けいかんが 500人 出て、上野の 闇市やみいちの とりしまりが ありました。そのあと、けいさつと 区やくしょが 近藤広吉こんどうひろきちさんに たのみ、80けんの 店を あつめた 「近藤こんどうマーケット」が できました[5]。

また、とおい ところから もどって きた 人たちが 力を あわせ、店の ならびを きめたと せつめいする 資料しりょうも あります[3]。その 組合を 作った 年は、資料しりょうに よって ちがいます。1949年と する 資料しりょうが あります[4]。年は、ひとつに きめません。

Wikipediaによると、1946年5月30日、上野の闇市に、警官500人が出動して取り締まりが行われました。そのあと、上野警察署と台東区役所が実業家の近藤広吉さんに頼み、80軒の商店を収容した「近藤マーケット」ができて、正常化に向かったといいます[5]。

台東区の観光サイトは、多くの闇市が露天商の組による仕切りだったのに対し、アメ横は戦地から戻った人たちが集まって連合会をつくり、出店を整えて商店街になった、と説明します[3]。この連合会の結成年は、資料によって記述が異なります。観光庁系の解説文データベースは、同業組合の結成を1949年と書いています[4]。

担い手も、1つには書かれません。戻ってきた人たちだけでなく、朝鮮人や中国人を含む、さまざまな人が商売を始めたとする資料もあります[2]。

Wikipediaによると、1946年5月30日、武装した警官500人が出動し、上野の闇市の取り締まりが行われた。その後、上野警察署と台東区役所が実業家の近藤広吉こんどうひろきちに依頼し、80軒の商店を収容した「近藤マーケット」ができて、正常化へ向かったという。場所は、のちにアメ横センタービルが建つ三角地帯である[5]。

台東区の観光サイトは、多くの闇市が的屋てきや(露天商の組)の仕切りだったのに対し、アメ横は満州からの復員兵ふくいんへいが共同体となって連合会を結成し、出店を統制して商店街が形成された、と説明する[3]。ただしこのサイトは、連合会の結成年を書いていない。

観光庁系の多言語解説文データベースは、復員兵らが同業組合を結成したのを1949年と書く[4]。連合会の結成年は資料によって記述が異なるため、ここでは年を1つに断定しない。担い手についても、復員軍人のほか朝鮮人や中国人を含む多様な人々が商売を始めたと書く資料がある[2]。

4. 「アメ」は、おかしの あめ?

4. 1つ目の説 ── 飴屋がふえた

4. 「アメヤ横丁」説 ── 芋飴と飴屋の増加

むかし、さとうは なかなか 手に 入りませんでした。そこで、あまい「芋飴いもあめ」を 売る 店が ふえたと いわれます[6]。

あるお店の 人は、1947年から 1949年ごろに、飴屋あめやが 100けん、200けん、300けんと ふえたと 話して います。ただし、飴屋あめやの 数は 資料しりょうに よって おおきく ちがい、はっきり しません。

この 飴屋あめやの おおさから、「アメヤ よこちょう」と よばれるように なった。これが、1つ目の せつです[6]。

砂糖が手に入りにくかった食糧難の時代、闇市では甘い「芋飴」を売る飴屋がふえました。ある店主は、昭和22年から24年ごろ(1947〜49年)に、飴屋が100軒、200軒、300軒とふえていったと語っています[6]。ただし、飴屋の軒数は資料によって大きくちがい、数はよく分かりません。

この飴屋の多さが、「アメヤ横丁」という名前のもとになった、というのが1つ目の説です[6]。

砂糖が手に入りにくい食糧難の時代、闇市では甘い芋飴いもあめを売る飴屋あめやが増えた。ある店主は、昭和22〜24年(1947〜49年)ごろに、飴屋が100軒、200軒、300軒と増えていったと語る[6]。ただしこれは1人の証言で、飴屋の軒数は資料によって開きが大きく、数を確定できない。

この飴屋の多さが「アメヤ横丁」の名の一説になっている[6]。

5. もうひとつの 「アメ」は?

5. 2つ目の説 ── アメリカの物資を売る店

5. 「アメリカ横丁」説 ── 米軍物資と、1948年・1950年の食いちがい

1950年ごろから、アメリカの ぐんの 人たち むけの 売り場から 出た 品ものを 売る 店が ふえました。チョコレート、ライター、サングラスなどです[6]。

これを 見て 「アメリカ よこちょう」と よばれるように なった、と いうのが、2つ目の せつです。

ただし、こうした 品ものを 売る 店は 1948年には もう あったと する 資料しりょうも あります[2]。

1950年ごろから、米軍の物資が流れこみ、米軍向けの配給場(PX)から払い下げられた品を売る店がふえました。チョコレート、ライター、サングラスなどです[6]。

これが「アメリカ横丁」と呼ばれた理由だ、というのが2つ目の説です。ただ、米軍から流れた物資の販売は1948年に始まっていたと書く資料もあり、始まりの年は1つに決まりません[2]。

1950年ごろから、米軍の物資が流れこみ、PX(米軍相手の配給場)の払い下げはらいさげ品を扱う店が増えた。ハーシーズのチョコレート、ZIPPOのライター、レイバンのサングラスなどが挙げられている[6]。これが「アメリカ横丁」と呼ばれた由来の一説である。

ただし、れきこんは、米軍から流れた物資の販売は1948年にはすでに始まっていたとする[2]。「1950年から」は、急に増えた時期の目安として読むのが安全だろう。

6. 名前は、どちらに きまった?

6. 決着はついていない ── 合体説と、今も残る看板

6. 由来は確定していない ── 合体説と「アメヤ横丁」の看板

台東区の ホームページには、こう 書いて あります。上野の ほうに 飴屋あめや、御徒町おかちまちの ほうに アメリカの 品もの の 店が できて、2つの よび名が 合わさって 「アメ横」に なった[3]。

いっぽう、商店街しょうてんがいの 公式ホームページは、名前の わけとして 2つの せつを のせて います[7]。

上野えき がわの 入り口には、今も 「アメヤ よこちょう」の 看板かんばんが あります。この 看板かんばんは、まだ 飴屋あめやが のこって いた 1950年代に 立てられた、と 書く 資料しりょうが あります[5]。

あめの 店は 上野の ほうに 多く、化しょうひんの 店などは 御徒町おかちまちの ほうに 多い、と お店の 人が 話して いる 記事も あります[6]。

台東区の観光サイトは、上野側に飴屋、御徒町側に米軍の物資を売る店ができて、2つの呼び名が合わさって「アメ横」になった、と説明します[3]。商店街連合会の公式サイトは、由来として飴屋説とアメリカ説の2つを挙げています[7]。どの説が正しいのかは、はっきり決まっていません。

上野駅側の入り口には、今も「アメヤ横丁」の看板があります。この看板は、まだ飴屋が残っていた1950年代に設置されたもの、とWikipediaは書いています[5]。また、飴の店は上野寄りに多く、化粧品の店などは御徒町寄りに多い、という取材記事もあります[6]。

名前のもとになった飴屋の姿は、今の通りでは少なくなったのかもしれませんが、看板は残っています。

台東区の観光サイトは、上野側に飴屋、御徒町側に米軍放出物資の店ができ、2つの呼び名が合わさって「アメ横」になったと説明する[3]。一方、商店街連合会系の公式サイトは、由来として飴屋説とアメリカ説の2つを挙げる[7]。どの説が正しいのかは、はっきり決まっていない。

手がかりは今の通りにもある。上野駅側の入口には「アメヤ横丁」の看板があり、Wikipediaはこれを、まだ飴屋が残っていた1950年代に設置されたものと書く[5]。また、飴店は上野寄りに多く、化粧品店などは御徒町寄りに多いという、店主への取材記事もある[6]。ただし、この取材記事が合体説の証拠になるわけではなく、今の店の並びの話にとどまる。

7. 火事が おきても、どう なった?

7. 火事と露店の廃止をこえて

7. 1949年の火災と1951年の露店廃止 ── 残った商店街

1949年の 12月24日、近藤こんどうマーケットで 火事が ありました[2]。ところが、つぎの お正月の ニュースは、まるやけに なった アメ屋よこちょうが、もう すっかり たちなおったと つたえました[2]。

1951年の 12月には、東京の 道ばたの 店が なくなり、いわゆる 闇市やみいちは すがたを けしました[9]。そのなかで アメよこは、公有地を かりる かたちで のこったと いわれます[2]。

今、闇市やみいちの かたちから 大きく なって つづいて いる 商店街しょうてんがいは、少ないと いいます[7]。

1949年12月24日、近藤マーケットで火事が起きました。翌年の正月のNHKニュースは、少し前に丸焼けになったアメ屋横丁がもうすっかり立ち直った、と伝えました[2][5]。

1951年12月には、東京都内の常設の露店が廃止され、いわゆる闇市は姿を消しました[9]。この流れのなかで、アメ横は公有地を借りる形で残ったとされます[2]。

闇市の形から発展して、今も続く商店街は、数少ないといわれます[7]。

1949年12月24日、近藤マーケットで火災が起きた。NHKニュースは1950年の正月を伝える映像で、つい先頃丸焼けになったアメ屋横丁がもうすっかり立ち直った、と報じたという[2][5]。

1951年12月、東京都内の常設露店は廃止となり、いわゆるヤミ市は姿を消した[9]。この時期、新宿など他の闇市が整理される中、アメ横は公有地を借りる形で残ったとされる[2]。

商店街連合会の公式サイトは、アメ横を、戦後の闇市の形態から発展した、現存する数少ない商店街と位置づけている[7]。

8. 売って いる ものは、かわった?

8. 魚屋からスポーツ用品店・薬の店へ

8. 1980年代以降の店の入れ替わり ── 鮮魚店の減少と外国人経営の店

お店の しゅるいは、時代と ともに かわりました。1980年代には、魚を 売る 店が へりました。おうちの 人数が 少ない 家が ふえた ことが 理由と される 資料しりょうが あります[5]。

かわりに、わかい 人 むけの スポーツ用品の 店や、くすりの 店が、1990年代に かけて ふえました。

2015年には、外国の 人が やって いる 店が 40けんほどで、ぜんぶの お店の 10分の 1 ほどに なりました[5]。

1980年代には、核家族化で鮮魚を売る店がへり、かわりに若者向けのスポーツ用品店や、都市型の薬店(1987年に1号店)が、1990年代にかけてふえていきました[5]。

2015年には、外国人が経営する店が約40店になり、全体の約1割にあたりました[5]。外国人経営の店が7割といった数字を見かけることもありますが、これは飲食店だけの話で、商店街全体の割合とは別のものです。

闇市から続く道でも、並ぶ店は時代とともに入れかわってきました。今の店のならびは、その積み重ねです。

1980年代、核家族化で鮮魚を扱う店が減り、代わって若者向けのスポーツ用品店や都市型薬品店(1987年に1号店)が、1990年代にかけて増えた[5]。

2015年には、外国人が経営する店が約40店となり、全体の約1割にあたった[5]。報道には「外国人経営7割」という数字もあるが、これは飲食店約50店の中での割合で、商店街全体の数字とは母数が違う。

闇市の形から出発した通りは、売る品物と店の顔ぶれを入れかえながら、約400店の規模で続いている、というのが資料から見える流れである。

9. じぶんでも たしかめて みたく なったら

9. 自分でも調べてみたくなったら

9. 自分でも調べてみたくなったら

やってみよう。おうちの 近くの 商店街しょうてんがいや、いつも 通る みちの 名前を 1つ えらんで、おうちの 人に 「この 名前は、どうして ついたの?」と 聞いて みましょう。知って いる 人が いれば、その 話を メモします。

おうちに ちずが あれば、上野えきと 御徒町おかちまちえきの あいだを 見て、アメよこの ばしょを たしかめましょう。図書館としょかんの 本や 区の ホームページで、上野の ほうと 御徒町おかちまちの ほうの お店の ちがいも しらべられます。

もし アメよこに 行く ことが あったら、おとなと 一しょに、入り口の 看板かんばんも さがして みましょう。人が 多い ところなので、おとなと 手を つないで、道の はしを 歩きます。

  • 家の近くの商店街や通りの名前を1つ選び、家族や近所の人に「どうしてこの名前なの?」と聞いてみましょう。1つの答えに決まらないこともあるかもしれません。
  • 家にある地図や、図書館の地域の本、区の観光サイトで、上野寄りと御徒町寄りにどんな店が並ぶと書かれているかを調べて、見比べてみましょう。アメ横に行く機会があれば、おとなといっしょに「アメヤ横丁」の看板を探してもかまいません。人が多いので、はぐれないよう気をつけます。
  • 台東区の観光サイトと商店街連合会のサイトを読みくらべて、名前の由来の書き方のちがいを見つけてみましょう[3][7]。
  1. 台東区の観光サイト[3]、観光庁系の解説文データベース[4]、商店街連合会のサイト[7]を読み比べ、名前の由来・結成年・店数の書き方のちがいを表にする。
  2. 連合会の結成年や飴屋の軒数について、台東区の地域の歴史をあつかう本や、区の図書館の資料で、もとの記録に近いものが見つかるか探してみる。
  3. 地図や資料で、上野寄りと御徒町寄りの店の種類がどう書かれているかを比べる。現地に行く機会があれば、おとなと一緒に看板や店の並びを確かめてもよい。人出が多い場所なので、混雑には気をつける。

しらべた ところ

参考にした情報源

参考にした情報源

出典について:商店街連合会系のサイト、台東区と観光庁の観光解説、地域の歴史サイト、取材記事、新聞記事、Wikipediaを突き合わせて使った。何に使ったかは、それぞれの項目の最後に書いている。

  1. アメ横style「about」(アメ横商店街連合会系サイト)。 https://ameyokostyle.com/about/ (闇市の始まり、場所と長さ、通りの規模について)
  2. れきこん「アメヤ横町の歴史」。 https://rekicon.com/area/ameyoko/ (強制疎開の跡地、1949年の火災、公有地での存続、担い手、米軍物資の始まりの年について)
  3. 台東区公式観光情報サイト「アメ横商店街」。 https://t-navi.city.taito.lg.jp/spot/1033 (復員兵の連合会、店数、名前の合体説について)
  4. 観光庁「地域観光資源の多言語解説文データベース アメ横歴史」。 https://www.mlit.go.jp/tagengo-db/R1-00098.html (同業組合の結成を1949年とする記述について)
  5. Wikipedia「アメヤ横丁」。 https://ja.wikipedia.org/wiki/アメヤ横丁 (1946年の取り締まりと近藤マーケット、看板、1980年代以降の店の変化、外国人経営の店について)
  6. 70seeds「上野アメ横でタイムスリップ vol.1」。 https://www.70seeds.jp/ameyoko/ (飴屋の増加、米軍物資を売る店、上野寄りと御徒町寄りの店のちがいについて)
  7. 上野アメ横商店街公式サイト。 https://www.ameyoko.net/ (名前の由来の説明、闇市から続く商店街であることについて)
  8. 東京新聞「上野・アメ横 年末のお買い物」(2025年12月30日)。 https://www.tokyo-np.co.jp/article/459332 (店数、年末の人出の見込み、副会長のことばについて)
  9. Wikipedia「闇市」。 https://ja.wikipedia.org/wiki/闇市 (1951年12月の常設露店の廃止について)

なおした ところ

更新履歴

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