1. お茶を すてたら、しょうこは 消える?
1. お茶を捨てれば、証拠は消える?
1. 熱力学第二法則と、ホイーラーの問い
まず、かんたんな 話から。
あつい お茶と、つめたい お茶を まぜると、 ちょうど いい ぬるさの お茶に なります。
では、その ぬるい お茶を、 もう一ど「あつい ほう」と「つめたい ほう」に 分ける ことが できるでしょうか。
できませんね。まざった ものは、もどらない。
どうして もどらないのでしょう。
コインを 10まい ならべる ことを 考えて みて ください。
ぜんぶ おもてに する ならべ方は、 1つしか ありません。
でも、おもてと うらが まざった ならべ方は、 何百も あります。
だから、コインを ふって ばらまくと、 たいてい まざった ほうに なります。
ぜんぶ おもてに なる ことも、ないわけでは ありません。 でも、めったに 起きません。
そろって いる やり方は 少なくて、 ばらばらな やり方は とても 多い。
お茶も 同じです。 あついのと つめたいのが 分かれて いる のは、 めったに ない ならび方なのです。
だから、まざった ものは もどらない。 これは、この 世界の 大じな きまりの ひとつです。
「まざった ぐあい」は、へらせない
ここが 大じな ところです。
この 世界では、 まざった ぐあいは、ふえる ことは あっても、 ひとりでに へる ことは ないのです。
お茶を まぜたら、世界ぜんたいの「まざった ぐあい」が すこし ふえます。 そして、それを もとに もどす ことは できません。
ブラックホールの こと
さて、ブラックホールと いう ものが あります。
ものすごく 重い、うちゅうの ばしょです。 あまりに 重いので、そばに 来た ものは みんな 中に おちて いきます。 光さえ 出て こられません。
だから、中に 何が 入ったのかは、 外から 見ても わかりません。
1971年の じょうだん
1971年、アメリカの ある 先生が、 学生に こんな じょうだんを 言いました。
「もし そばに ブラックホールが あったら、 まぜた お茶を ぜんぶ 投げこんで しまえば いい。 そうすれば、まぜた しょうこは 消えるな」
どういう いみか、わかりますか。
お茶を まぜた ことで、 「まざった ぐあい」が ふえました。
でも、その お茶を ブラックホールに 入れて しまえば、 もう 外からは 見えません。
すると、まるで ふえた ぶんが なかった ことに なったように 見えます。
「ふえる いっぽうで、へらない」と いう さっきの きまりが、やぶれて しまうのです。
わるい ことを して、 しょうこだけ かくして しまった ような ものですね。
じょうだんですが、その 学生は 本気で 考えはじめました。
「本当に、そんな ことが できるのだろうか」
最初に、身近な話から始めます。
熱いお茶と冷たいお茶を混ぜると、ぬるいお茶になります。 では、そのぬるいお茶を、もう一度「熱い方」と「冷たい方」に分けられるでしょうか。 できません。
なぜ戻らないのか
「混ざったものは戻らない」。当たり前に感じますが、理由を考えてみます。
コインを10枚ならべる場合で考えます。
- 10枚とも表になるならべ方は、1通りしかありません
- 表が5枚、裏が5枚になるならべ方は、252通りあります
コインを振ってばらまけば、たいてい「混ざったほう」になります。 10枚とも表になることもありますが、その確率は1024回に1回です。 「そろった状態」は場合の数が少なく、「混ざった状態」は場合の数が圧倒的に多い。
「そろった状態が禁止されている」わけではありません。 起こりにくいだけです。ここは大事なところなので、覚えておいてください。
お茶も同じです。熱い分子と冷たい分子がきれいに分かれている並び方は、 ものすごく少ない。混ざっている並び方は、ものすごく多い。
だから混ざります。 禁止されているから戻らないのではなく、戻る場合の数がほとんどないから戻らないのです。
この「場合の数」に名前がついている
この場合の数の多さを表す量を、物理では エントロピー と呼びます。
- そろっている(場合の数が少ない)→ エントロピーが小さい
- 混ざっている(場合の数が多い)→ エントロピーが大きい
「乱雑さ」「散らかり具合」と説明されることが多いのは、このためです。 散らかった部屋のほうが、片づいた部屋よりも並べ方の数がずっと多い。
そして、自然はいつも場合の数の多いほうへ移っていきます。 これをルールの形にすると、こうなります。
エントロピー(場合の数の多さ)は、全体として減らないこれを 熱力学第二法則 といいます。 物理でもっとも破られにくい法則のひとつです。
このあと出てくる話は、全部ここから来ています。 いまは「混ざるほうが場合の数が多い」とだけ覚えておけば十分です。
1971年、プリンストンでの雑談
アメリカのプリンストン大学に、ジョン・ホイーラーという物理学者がいました。 「ブラックホール」という呼び名を広めた人です。
その前に、ブラックホールがどういうものかを確認しておきます。 とてつもなく重い天体で、近づいたものはすべて中に落ちていきます。 光さえ出てこられません。 つまり、何が落ちたのかを、外から知る方法がない。
ある日、ホイーラーは自分の大学院生にこんな話をしました[1]。
熱いお茶と冷たいお茶を混ぜると、宇宙のエントロピーが増える。 それは元に戻せない。
けれど、そばにブラックホールがあったらどうだろう。 混ぜたお茶を両方とも投げこんでしまえば、外からは見えなくなる。
増えたはずのエントロピーごと、なかったことにできるのではないか。
ここが、この話のいちばん大事なところです。もう一度整理します。
- エントロピーは増えることはあっても、減ることはない(第二法則)
- ところがブラックホールに入れると、その分が外から見えなくなる
- すると、宇宙全体のエントロピーが減ったように見えてしまう
- つまり、第二法則が破れる
悪いことをして、証拠だけ隠してしまうようなものです。 だから「完全犯罪」と言われました。
冗談まじりの話です。ふつうなら笑って終わります。 ところがこの学生は、真剣に考えはじめました。 本当にそんなことができるなら、物理の根っこが壊れてしまうからです。
名前を ヤコブ・ベッケンシュタイン といいます。
出発点は、熱力学の基本法則です。
熱いお茶と冷たいお茶を混ぜれば、温度は均一になります。 その逆、つまり均一な温度のお茶が自然に熱い部分と冷たい部分に分かれることは起こりません。 この非可逆性を表すのが エントロピー という量で、 孤立した系のエントロピーは減少しないというのが熱力学第二法則です。
エントロピーは「乱雑さ」と説明されることが多いのですが、 この言い方はあまり役に立ちません。実体は場合の数です。
コイン10枚で考えると、はっきりします。
| 見た目の状態 | それを実現する並び方の数 |
|---|---|
| 10枚とも表 | 1通り |
| 表9枚・裏1枚 | 10通り |
| 表5枚・裏5枚 | 252通り |
「表5枚・裏5枚」という見た目の状態は、 252通りの個々の並び方によって実現されます。 この、ひとつの見た目の状態に対応する並び方の数が多いほど、 エントロピーが大きい、と言います。
正確には、同じ巨視的状態を実現する微視的配置の数に対応します。 ここで「巨視的」とは外から見て分かる量(温度、圧力など)、 「微視的」とは分子ひとつひとつの状態のことです。
分子の数は10ではなく1023個の桁になるので、 場合の数の差は想像を絶する大きさになります。 熱いお茶と冷たいお茶に自然に分かれることは、 禁止されているのではなく、確率が実質ゼロなだけです。 第二法則が「破られにくい」のは、この圧倒的な数の差によります。
ホイーラーの問いかけ(1971年)
プリンストン大学の ジョン・ホイーラー は、 「ブラックホール」という語を広めた人物として知られます。 彼は自分の大学院生に、次のような問題を投げかけました[1]。
熱いお茶と冷たいお茶を混ぜると、宇宙のエントロピーが増える。 しかし通りかかったブラックホールに両方のカップを落とせば、 その証拠を隠せることになるのではないか。
これは半ば冗談ですが、深刻な問題を含んでいます。 当時の理解では、ブラックホールは質量・電荷・角運動量という わずかな量だけで完全に記述される(無毛定理)と考えられていました。 落ちたものの詳細は外から見えなくなります。
すると、エントロピーを持つ物体をブラックホールに投げ入れるだけで、 宇宙全体のエントロピーを減らせてしまうように見えます。 熱力学第二法則が破れる、ということです。
この問題を持ち帰ったのが、大学院生の ヤコブ・ベッケンシュタインでした。
2. 大学院生の 答え「広さが 答えだ」
2. 大学院生の答え「面積がエントロピーだ」
2. ベッケンシュタイン ── 面積とエントロピーの対応
数か月 かけて 考えた あと、 その 学生は 先生の ところへ もどって きました。 そして こう 言いました。
「先生、しょうこは 消えて いません。 ブラックホールの ほうが、 そのぶん 大きく なって いるんです」
ブラックホールには、 「ここから 先は 出られない」と いう さかい目が あります。 何かを 飲みこむと、その さかい目が すこし 広がります。
ベッケンシュタインは、 その 広さこそが、 ブラックホールの 「ちらかり ぐあい」なのだと 考えました。
お茶を 投げこむと、さかい目が 広がる。 だから、しょうこは 消えて いない。 ちゃんと きろくされて いるのです。
数か月後、ベッケンシュタインは答えを持って戻ってきました。
「エントロピーの増加は避けられていません。 別の場所に移しただけです。ブラックホール自身がエントロピーを持っていて、 物を飲みこむと、その分だけ増えるのです」[1]
手がかりは「減らない量」だった
彼が目をつけたのは、事象の地平面(=ここから先は出られない境界)の 面積でした。
ちょうどそのころ、ホーキングが重要なことを証明していました。 ブラックホールの地平面の面積は、決して減らないという定理です。 物を飲みこめば増える。何もしなくても減らない。
ここで、2つの「減らない量」が並びました。
- エントロピー(熱力学)は減らない
- 地平面の面積(重力理論)は減らない
ベッケンシュタインは、これは偶然ではないと考えます。 ブラックホールのエントロピーは、地平面の面積に比例する[2]。
お茶を投げこめば地平面が広がり、その分エントロピーが増える。 だから第二法則は破れない。完全犯罪は成立しなかったのです。
まったく別の分野に、同じふるまいをする量が2つあった。 そこに関係があると考える。 これは物理でくり返し使われてきた考え方です。 ただし、似ているだけで同じとは限りません。だからこそ、次に反論が来ます。
数か月後、ベッケンシュタインはホイーラーに答えを返しました。 エントロピーの増加は消えたのではなく、 ブラックホール自身のエントロピーとして計上されるという主張です[1]。
2つの「減らない量」
彼が着目したのは、事象の地平面の面積でした。 背景には、ホーキングが1971年に証明した面積定理があります。 古典的な一般相対性理論の枠内では、 ブラックホールの地平面の面積は決して減少しません (合体しても、合計面積は増える方向にしか変わらない)。
ここで、単調に増える量が2つ並びます。
| 量 | 分野 | 性質 |
|---|---|---|
| エントロピー | 熱力学 | 孤立系では減らない |
| 事象の地平面の面積 | 一般相対性理論 | 古典論の範囲では減らない |
ベッケンシュタインは1972〜73年、この対応を単なる比喩ではなく実体として扱い、 ブラックホールのエントロピーは地平面の面積に比例すると提案しました[2]。
強い反発
この提案は、当時ほとんど支持されませんでした。理由は明快です。
熱力学では、エントロピーを持つ系は温度を持ちます。 温度を持つ物体は熱放射をします。 ところが古典的なブラックホールからは、定義上、何も出てきません。
つまりベッケンシュタインの主張を認めると、 「何も出さないのに温度がある物体」という矛盾が生じます。 当時、ブラックホール力学と熱力学の類似は 形式的なアナロジーにすぎないと整理されており、 彼の主張は行き過ぎだと受け取られました。
批判の先頭に立った一人が、面積定理を証明した本人、 スティーヴン・ホーキングでした。
3. 反たいした 人が、ひっくりかえした
3. 反対した人が、自分の計算でひっくり返した
3. ホーキング1974 ── 曲がった時空の場の量子論
この 考えに、 ホーキングと いう 人が はんたいしました。
「ちらかり ぐあいが ある なら、 あつさ(おんど)も ある はずだ。 あつい ものは、光を 出す はずだ。 でも ブラックホールは 何も 出さない。 だから、その 考えは まちがって いる」
そこで ホーキングは、その 考えが ちがうと たしかめる ために、 じぶんで 計算を はじめました。
ところが、出て きた 答えは、 思って いたのと はんたいでした。
「ブラックホールは、ほんの すこし 光を 出して いる」
ホーキングは、自分の 考えが まちがって いたと 分かりました。 そして、それを かくさずに 発ぴょうしました。
この 光の ことを、いまでは ホーキングほうしゃと よびます。 はんたいして いた 人の 名前が ついて いるのです。
ベッケンシュタインの主張に、強く反対した人がいます。 スティーヴン・ホーキングです。
反対の理由は、はっきりしていました。
- エントロピーがあるなら、温度もあるはずだ
- 温度があるなら、熱として光を出すはずだ
- でもブラックホールは何も出さない
- だから、この主張は間違っている
筋の通った批判です。そこでホーキングは、間違いを示すために自分で計算を始めました。 ブラックホールのまわりの、曲がった時空の上で、 量子力学を丁寧に使って調べたのです。
1974年、出てきた答え
計算の結果は、彼の予想と正反対でした。
遠くから見ると、ブラックホールはわずかに光や粒を出しているように見える[3]。
しかも、その量はベッケンシュタインの予想とぴたりとつじつまが合っていました。
ホーキングは、自分の計算が自分の主張をくつがえしたことを、 そのまま論文にして発表しました。1974年、雑誌『ネイチャー』に載った論文の題は 「ブラックホールは爆発するか?」でした。
この放射は、いまでは ホーキング放射 と呼ばれています。 反対していた人の名前がついているわけです。
自分の予想と違う答えが出たとき、計算を隠すこともできました。 けれど彼は発表しました。 誰が正しいかではなく、何が正しいかを取る。 言うのは簡単ですが、実際にやるのは難しいことです。
批判者だったホーキングは、ベッケンシュタインの誤りを示すため、 曲がった時空上の場の量子論を用いた計算に取りかかります。 ブラックホールの重力場のなかで、量子場がどうふるまうかを丁寧に追う計算です。
1974年、彼が得た結論は予想と正反対でした。 遠方の観測者から見ると、ブラックホールは ほぼ黒体放射のスペクトルを持つ熱的な放射を出している、というものです[3]。 論文の題は “Black hole explosions?” でした。
なぜ放射が出るのか
よく使われる説明は、真空のゆらぎを使ったものです。 地平面のすぐ外側で粒子・反粒子の対が生じ、片方が内側へ落ち、 片方が外へ逃げると、遠方からは放射に見え、 その分ブラックホールの質量が減る、という描像です。
ただし、これはあくまで直感的な絵であり、 正確な導出は、地平面をまたぐ場のモードの取り扱いに基づく、もっと込み入ったものです。 分かりやすい説明が、そのまま正しい導出とは限りません。
2つの主張が噛み合った
重要なのは、ホーキングの計算が ベッケンシュタインの提案した比例係数を定量的に確定させたことです。 「面積に比例する」という主張が、 「面積の4分の1(プランク単位で)」という具体的な形になりました。
批判するために始めた計算が、批判の対象を裏づけた。 そしてホーキングは、その結果をそのまま発表しました。 この一連の経緯は、科学が 個人の立場ではなく計算と観測で決まることを示す例として、よく引かれます。
4. 1本の しきに、3つの せかいが ある
4. 1本の式に、3つの世界が同居している
4. S = k c³A/4Għ ── 4分野の定数が並ぶ式
こうして できあがった 式が あります。 むずかしい 式なので、中みは わからなくて だいじょうぶ。 でも、ひとつだけ 見て ほしい ことが あります。
その 式の 中には、
- あつさ(ねつ)の 世界の 数字
- 大きな 星や 重力の 世界の 数字
- とても 小さな つぶの 世界の 数字
この 3つが ぜんぶ 入って いるのです。
ふつう、この 3つは べつべつの 話です。 それが 1本の 式の 中で 手を つないで いる。
だから けんきゅうしゃたちは、 「ここに 何か 大じな ひみつが ある」と 考えて います。
もう ひとつ、おもしろい ことが あります。 大きい ブラックホールほど、つめたいのです。 小さい ほうが あつい。ふしぎですね。
この話からできた式が、これです。
S = kB c3 A / (4 G ħ)S がエントロピー、A が地平面の面積です。中身は分からなくてかまいません。 見てほしいのは、どんな記号が入っているかです。
| 記号 | 意味 | どの分野の数か |
|---|---|---|
| kB | ボルツマン定数 | 熱の世界 |
| c | 光の速さ | 相対性理論の世界 |
| G | 万有引力定数 | 重力の世界 |
| ħ | プランク定数(を2πで割ったもの) | 量子力学の世界 |
熱、相対性理論、重力、量子力学。 ふだんは別々に扱われる4つの分野の定数が、1本の式に同居しているのです。
こういう式は、めったにありません。 だから多くの研究者が、「ここに、重力と量子力学をつなぐ理論のヒントがある」と考えています。
大きいほど、冷たい
ホーキングの計算からは、ブラックホールの温度も出てきます。 そして、その温度は質量に反比例します。
- 大きくて重いブラックホールほど、冷たくて暗い
- 小さくて軽いブラックホールほど、熱くて明るい
太陽と同じ重さのブラックホールの温度は、 およそ 6×10-8 ケルビン。数千万分の1ケルビンで、ほとんど絶対零度です。 いまの宇宙は宇宙マイクロ波背景放射で満たされていて、そちらのほうが暖かいので、 こういうブラックホールは光を出すより吸うほうが多く、まだ蒸発を始めていません。
そして、もし蒸発しきるとしたら、かかる時間は 1067年ほど。 宇宙の年齢(138億年)とは桁が違いすぎて、比べる意味もないほど先の話です。
ベッケンシュタイン=ホーキングのエントロピーは、次の形にまとまります。
S = kB c3 A / (4 G ħ)A は事象の地平面の面積です。式の意味以上に注目すべきなのは、 登場する基本定数の顔ぶれです。
| 定数 | 由来する理論 |
|---|---|
| kB(ボルツマン定数) | 統計力学・熱力学 |
| c(光速) | 相対性理論 |
| G(万有引力定数) | 重力理論 |
| ħ(換算プランク定数) | 量子力学 |
物理学の4つの領域の基本定数が、1本の式に同時に現れます。 これは非常に珍しく、これらを統合する理論が背後にあるはずだという 強い示唆と受け取られてきました。 量子重力の研究で、この式が繰り返し試金石として使われるのはそのためです。
面積に比例する、という異様さ
もうひとつ注目したいのは、エントロピーが体積ではなく面積に比例することです。
ふつうの物体では、エントロピーは体積にほぼ比例します。 水の量が2倍になれば、エントロピーもおよそ2倍。 ところがブラックホールでは、内部の体積ではなく、表面の面積で決まります。
これは、3次元の領域が持てる情報の量が、その境界の2次元面で決まる ことを示唆します。この観察は ホログラフィー原理と呼ばれる考え方につながり、 その後の理論物理に大きな影響を与えました。
温度と寿命
ホーキング温度は、質量 M に反比例します。
T = ħ c3 / (8 π G M kB)つまり、重いブラックホールほど冷たいという、直感に反する性質を持ちます。
- 太陽質量のブラックホールの温度:約 6×10-8 K
- 現在の宇宙マイクロ波背景放射:約 2.7 K
周囲のほうが圧倒的に暖かいため、こうしたブラックホールは 放射で失う以上に吸収しており、正味では成長しています。 仮に周囲が十分冷えて蒸発が進むとしても、 太陽質量なら蒸発しきるまで 1067 年程度と見積もられます。
蒸発は加速します。質量が減ると温度が上がり、放射が強まり、さらに質量が減るからです。 最後の瞬間は激しい放出になると考えられており、 ホーキングの論文の題が「ブラックホールは爆発するか?」だったのは、このためです。
5. きろくは どこへ 行ったの?
5. 情報はどこへ行ったのか
5. 情報パラドックスと、1997年の賭け
ここから、まだ 答えの 出て いない むずかしい なぞが 出て きます。
ブラックホールが 光を 出しつづけて、 いつか すっかり 消えて しまった と します。
では、その 中に 落ちた ものの 「なんだったか」と いう きろくは、 どこへ 行ったのでしょう。
小さな せかいの ルール(りょうし力学)では、 きろくは 消えないことに なって います。
でも、ブラックホールが 消えたら、 きろくも 消えて しまう ように 見えます。
どちらかが まちがって いる。 けれども、どちらも たしかめられて いる。
この なぞは、いまも けんきゅうの とちゅうです。
ここから、いまも解けていない問題が出てきます。
ホーキング放射は、ほとんど熱だけの、のっぺりした光に見えます。 もとが何だったかの情報を持っていないように見えるのです。
すると困ったことになります。 ブラックホールが放射を出しつづけて、いつか完全に蒸発したとしましょう。 そのとき、飲みこまれたものの情報はどこへ行ったのでしょうか。
量子力学では、情報は消えないことになっています。 けれど、この描像では消えてしまう。 これが ブラックホール情報パラドックス です。
賭けになった
1997年、この問題をめぐって有名な賭けが行われました。
| 立場 | 主張 |
|---|---|
| ホーキングとキップ・ソーン | 情報は失われる |
| ジョン・プレスキル | 情報は失われない |
2004年、ホーキングは学会で自分の負けを認めます。 そしてプレスキルに、約束の品として野球の百科事典を贈りました。 「情報を好きなときに取り出せる本」という意味です[4]。
ただし、ソーンは納得せず、この時点では負けを認めませんでした[4]。 そして、問題そのものも決着したわけではありません。
ホーキングが「負け」を認めたことと、問題が解決したことは別です。 情報がどうやって戻ってくるのか、その仕組みは いまも研究が続いています。 この記事を読んでいる人が大人になるころ、答えが出ているかもしれません。
ホーキング放射のスペクトルは、ほぼ完全な熱放射です。 つまり、放射される粒子の統計的性質は、 ブラックホールの質量・電荷・角運動量だけで決まり、 もとの物質が何だったかの情報を含まないように見えます。
この描像のまま蒸発が完了すると、 落ちこんだ物質の情報は完全に失われることになります。 しかし量子力学の基本原理(ユニタリー性)では、 情報は失われず、原理的には初期状態を復元できるはずです。
この矛盾が ブラックホール情報パラドックス です。
1997年から2004年へ
1997年、ホーキングとキップ・ソーンは「情報は失われる」、 ジョン・プレスキルは「失われない」という立場で公開の賭けをしました。
2004年7月、ダブリンでの学会でホーキングは自らの敗北を認め、 プレスキルに 野球の百科事典 を贈っています。 「情報を自由に取り出せる書物」という趣旨の贈り物でした。 ただしソーンは、この時点では納得していません[4]。
その後、ホログラフィー原理やAdS/CFT対応、近年の「島の公式」と呼ばれる計算など、 情報が失われないことを支持する道筋がいくつも提案されてきました。 ただし、これらは主に特殊な設定での結果であり、 現実の天体としてのブラックホールについて決着がついたわけではありません。 この先の議論は 宇宙物理学の記事の第5章にも書きました。
6. 二人の その あと
6. 二人のその後
6. その後の二人と、残された問い
この 話に 出て きた 二人は、 その あと どう なったのでしょう。
ベッケンシュタインは、 みんなに はんたいされても、自分の 考えを 手ばなしませんでした。 そして さいごには、その 考えが 正しいと みとめられました。
ホーキングは、 わかい ころから 体が だんだん 動かなく なる びょうきに なりました。 それでも、頭の 中で 計算を つづけました。
ホーキングは 2018年に なく なりました。 おはかは、イギリスの 大きな きょうかいの 中に あります。
その おはかの 石には、 ホーキングが 見つけた 式が ほって あります。
ブラックホールが どのくらい あついかを あらわす 式です。 自分が はんたいして いた 考えから 生まれた 式が、 さいごに 名前と いっしょに のこったのです。
この話の二人は、その後どうなったのでしょう。
ヤコブ・ベッケンシュタイン
彼は、ほとんど全員に反対されても、自分の考えを手放しませんでした。 そしてホーキングの計算によって、その主張は裏づけられます。 いまでは、この式は ベッケンシュタイン=ホーキングのエントロピー と、 二人の名前で呼ばれています。
大学院生だった彼が、大御所たちに反対されながら押し通した考えが、 いま量子重力の研究の出発点になっている。そういうことです。
スティーヴン・ホーキング
ホーキングは、21歳のときに、筋肉を動かす神経がはたらかなくなっていく病気と診断されました。 長くは生きられないと言われながら、その後50年以上研究を続けます。 紙に書いて計算することが難しくなってからは、 図形のイメージを頭のなかで動かして考えたと伝えられています[5]。
2018年に亡くなり、遺灰はロンドンのウェストミンスター寺院に納められました。 場所は、ニュートンの墓とダーウィンの墓のあいだです[6]。
そして、その墓石には式が刻まれています。 ブラックホールの温度を表す式、つまり ホーキング放射の式です[6]。
自分が間違いを証明しようとして始めた計算から生まれた式が、 最後に名前とともに石に刻まれた。 間違えたことを認めた人が、そのことで名を残したわけです。
ヤコブ・ベッケンシュタイン(1947〜2015)
ホイーラーの下で学んだ大学院生として、ブラックホールのエントロピーを提案しました。 当時ほぼ孤立した主張でしたが、ホーキングの計算によって定量的に裏づけられ、 現在この量は ベッケンシュタイン=ホーキングのエントロピー と呼ばれます。
彼はその後も、情報と物理の関係についての研究を続けました。 与えられた領域に蓄えられる情報量には上限がある、という ベッケンシュタイン限界の議論も、彼の仕事のひとつです。
スティーヴン・ホーキング(1942〜2018)
21歳で運動ニューロン疾患(しばしばALS、筋萎縮性側索硬化症として説明される病気)と診断され、 余命はごく短いと告げられました[5]。 実際にはその後50年以上にわたって研究を続け、 面積定理、ホーキング放射、宇宙論的な特異点定理など、 重力理論の中心的な仕事を残しています。
進行にともない紙に書く作業が難しくなるなかで、 幾何学的な直感を使って考えたと伝えられています[5]。
2018年3月に死去。同年6月、遺灰がウェストミンスター寺院の身廊に納められました。 位置はニュートンの墓の近く、ダーウィンの墓との間です[6]。
墓石には、ブラックホールの温度を表す式 (ホーキング温度の式)が刻まれています[6]。 誤りを示すつもりで始めた計算から得られた結果が、 最終的に本人の名を刻む式になりました。
ここで起きたことを整理すると、こうなります。 冗談から出た問いを、若い大学院生が真剣に受け取った。 その主張を批判した研究者が、批判のために計算をした。 結果が自分に不利でも、それを発表した。 そして両者の名前が並んで残った。 誰が言ったかではなく、計算が何を示したかで決まる。 科学がうまく働いたときの、典型的な形です。
じぶんでも やって みる
7. 自分でも調べてみたくなったら
7. 自分でも調べてみたくなったら
むずかしい 話でしたが、 さいごに かんたんな あそびを ひとつ。
- コップに 入れた 水に、 絵のぐを 一てき 落として みて ください。 じわじわ 広がって、色が まざります。
- そのあと、まざった 色を もう一ど もとの 一てきに もどせるか やって みて ください。 もどせませんね。
「もどせない」。 この あたりまえの ことが、 ブラックホールの ふしぎな 話の 入口でした。
お茶や 絵のぐの「もどせない」は、 この お話の さいしょの ぎもんと 同じです。 そこから、ブラックホールの 広さや あつさの 話に つながりました。
この記事の入口は、お茶を混ぜる話でした。同じ実験は家でできます。
- 水を入れたコップに、絵の具や食紅を1滴落とす。広がって混ざります。 それを元の1滴に戻せるか、やってみてください。戻せません。
- 冷たい水と熱いお湯を混ぜて、ぬるま湯を作る。 それを再び熱い部分と冷たい部分に分けられるか考えてみる。
この「戻せない」という当たり前が、エントロピーの話です。 そこから出発して、ブラックホールが光るという結論まで来ました。
もっと知りたいときは
- 宇宙のはじまりと、ブラックホールのふしぎ(この記事の親にあたる記事です)
- アインシュタイン ── 特許庁の机で世界が変わった(相対性理論を作った人の話)
- ウェストミンスター寺院のホーキングのページ(墓石の写真と説明)
この記事は、熱力学の初歩から量子重力の未解決問題までを一本の線でたどりました。 途中のどこからでも、もっと深く掘れます。
一次情報にあたる
- Bekenstein, “Black Holes and Entropy” (1973)
- Hawking, “Black hole explosions?” (1974)
- “Demons in Black Hole Thermodynamics: Bekenstein and Hawking”(経緯をまとめた論文)
英語の論文でも、要旨(abstract)と図だけ眺めるところから始められます。 1974年のホーキングの論文は短く、雑誌『ネイチャー』に載ったものです。
考えてみると面白いこと
- なぜエントロピーが体積ではなく面積に比例すると、そんなに驚かれるのか
- 「大きいものほど冷たい」という性質は、他に例があるか
- 賭けをして公開するという習慣は、科学にとってどんな意味があるか
- いま自分が「絶対にこうだ」と思っていることのうち、間違っている可能性が高いのはどれか
しらべた もとの じょうほう
参考にした情報源
参考にした情報源と、その使い方
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英語の出典について:arXiv は論文の草稿を公開するサイト、American Physical Society は米国物理学会、Stephen Hawking 公式サイトは本人の公式情報、Westminster Abbey は英国のウェストミンスター寺院の公式サイトです。
- “Demons in Black Hole Thermodynamics: Bekenstein and Hawking” arXiv:2102.11209 (ホイーラーの問いかけとベッケンシュタインの応答など、成立の経緯をまとめた論文)
- J. D. Bekenstein, “Black Holes and Entropy”, Physical Review D 7, 2333 (1973). doi:10.1103/PhysRevD.7.2333 (エントロピーが地平面の面積に比例するという提案)
- S. W. Hawking, “Black hole explosions?”, Nature 248, 30 (1974). doi:10.1038/248030a0 (ホーキング放射)
- American Physical Society, “July 21, 2004: Hawking Concedes Bet on Black Hole Information Loss” https://www.aps.org/apsnews/2013/07/hawking-bet-black-hole (1997年の賭けと2004年の決着、野球百科事典、ソーンの立場)
- Stephen Hawking 公式サイト(Biography) https://www.hawking.org.uk/biography (病名の表記、診断の時期、研究の経緯)
- Westminster Abbey, “Stephen Hawking” https://www.westminster-abbey.org/abbey-commemorations/commemorations/stephen-hawking (埋葬の場所と、墓石に刻まれた式)
- この記事の姉妹編:宇宙のはじまりと、ブラックホールのふしぎ / アインシュタイン ── 特許庁の机で世界が変わった
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