1. さいしょの 「あそび場」には、なにが あったの?
1. 最初のアーケードに並んでいたのは、ゲーム機ではなかった
1. ペニーアーケードと屋上遊園 ── 海外の先行例と、日本の百貨店
お金を 入れて あそぶ 店の はじまりは、アメリカで 1890ねんごろだと いわれます[1]。そこに ならんで いたのは、ゲームの きかいでは ありません。むかしの 音楽を きく きかい、ちくおんきを 十数台 ならべた 店でした。
1901ねんごろには、ミッチェル・マークと いう 人が、りょうきんを 5セントから 1ペニーに 下げて、人通りの 多い 場所に 店を うつしたと されます。これが 「ペニーアーケード」の はじまりと いわれます[1]。ただし、これは 外国に 先に あった 話です。日本の ゲームセンターの ちょくせつの はじまりとは いえません。
日本で、あそべる 場所が 新しい 仕事として 注目されたのは、1931ねんだと いわれます。東京の あさくさに あった デパートの 7かいと おくじょうに、「スポーツランド」が 開いた ときです[2]。
1950年代の 半ばまで、ふつうの 人が ふれられたのは、デパートの おくじょうなどに ある うごく 木馬くらいでした[2]。ゲームの きかいが 町に 出てくるのは、そのあとの 話です。
コインを入れて遊ぶ店「ペニーアーケード」は、アメリカで1890年ごろから広がったとされます。最初のころ、店に並んでいたのはゲーム機ではありません。1890年にジェームズ・アンデムがクリーブランドとシンシナティで開いた店には、蓄音機が十数台並んでいました。1901年ごろには、バッファローのミッチェル・マークが料金を5セントから1ペニーに下げ、人通りの多い場所へ移して、「ペニーアーケード」が生まれたと説明されます[1]。ただし、これは外国にあった先行例で、日本のゲームセンターの直接の起源とは書けません。
日本では、1931年に東京・浅草の松屋百貨店の7階と屋上に開いた「スポーツランド」から、遊べる施設が新しい事業として社会に注目されるようになった、とされます[2]。1950年代の半ばになっても、一般の人が触れられたのは、百貨店の屋上などに置かれた自動木馬くらいでした[2]。
ゲーム機は、はじめから「ゲームだけの店」にあったわけではありません。次の章では、日本でゲーム機が町のどこへ置かれていったのかを見ます。
コイン式の遊戯機を並べる「ペニーアーケード」は、米国で1890年ごろから広がったとされる。1890年、ジェームズ・アンデムがクリーブランドとシンシナティで蓄音機を十数台並べた店を開いた。1901年ごろ、バッファローのミッチェル・マークが料金を5セントから1ペニーに下げ、人通りの多い場所へ移して「ペニーアーケード」が生まれたという[1]。最初にあった機械は、ビデオゲームではなく蓄音機である。日本の直接の起源ではなく、海外の先行例として読むべきだろう。
日本側の起点としてよく挙げられるのは、1931年に東京・浅草の松屋百貨店の7階と屋上で開業した「スポーツランド」だ。JAIA(日本アミューズメント産業協会)の解説は、人々の娯楽としてのアミューズメント施設が新しい事業形態として注目されたのはここから、と述べる[2]。
その後、1950年代半ばまで、一般の人々が触れたのは百貨店の屋上などの自動木馬程度だった。ピンボールやガンゲームは、米軍関係施設内で使われる例があるにとどまる[2]。ここでは、ゲーム機が「専用の場所」に置かれていなかった出発点だけを確認しておく。
2. どうして きっさてんや だがしやにも あったの?
2. 専用の店だけでなく、駄菓子屋や喫茶店にも置かれた
2. 日本ではゲーム機が駄菓子屋や喫茶店にも置かれた ── 1960年代の展開と、川﨑寧生の整理
日本では、1960年代から、だがしやや きっさてんなど、子ども向けの 店にも ゲームの きかいを おく 動きが 進んだと いわれます[3]。
ゲームセンターの れきしを しらべた 研究者は、デパートの おくじょう、えいがかん、ボウリング場、だがしやなど、いろいろな 場所に 一しょに おかれた ことが、日本の とくちょうだと 書いて います[3][4]。アメリカの せんようの アーケードとは ちがう 育ち方でした。
ですから、きっさてんや だがしやに きかいが あったのは、ふしぎな ことでは ありません。ゲームは、人が 集まる 場所の あちこちに 入って 広がって いったのです。
日本のゲーム機は、専用の店だけでなく、1960年代から駄菓子屋や喫茶店のような子ども向けの店にも展開が進んだ、と文化庁のメディア芸術の解説は説明します[3]。「1960年代に全国の駄菓子屋に広まった」と言い切れる資料ではなく、「置く動きが進んだ」ぐらいの強さで読むのがよさそうです。
ゲームセンターの歴史を研究する川﨑寧生さんは、約90年の歴史を対象にした著書の序章で、百貨店の屋上、映画館、ボウリング場、駄菓子屋など、さまざまな場所にゲーム機が併設されたことを日本の特徴として挙げています[4]。アメリカの専用アーケードとは違う育ち方が日本にあった、という整理です。
喫茶店や駄菓子屋にゲーム機があったのは、日本のゲーム機が、人が集まる場所のあちこちに置かれる形で広がったからだ、と考えるとつじつまが合います。
日本のゲーム機の置かれ方は、専用の店に閉じていなかった。文化庁メディア芸術カレントコンテンツ(MACC)の解説によれば、1960年代には駄菓子屋や喫茶店など子ども向け店舗でのゲーム機の展開が進んだ[3]。ただし「全国の駄菓子屋に普及した」とまでは読めず、展開が進んだ、という強さにとどめる。
川﨑寧生『日本の「ゲームセンター」史』(福村出版)の序章は、1931年の屋上遊園から始まる約90年を対象に、百貨店の屋上・映画館・ボウリング場・駄菓子屋など多様な場所への併設を日本の特徴とする、と紹介されている[4]。米国では専用のアーケードが中心だったのに対し、日本では商業施設・喫茶店・駄菓子屋などに分散して置く形が発達した、という対比の整理だ[3]。
日本で分散して置く形が発達した理由は、ここでは扱わない。
3. インベーダーは、どこに おかれたの?
3. 1978年、ビデオゲームが喫茶店のテーブルに座った
3. 業務用ビデオゲームとインベーダー ── 1971年から1978年へ
1971ねんに、アメリカで、コインを 入れて あそぶ ビデオゲームが 売り出されました。「コンピュータースペース」と いいます。ビデオゲームの 時代の 入り口に なった きかいと して しょうかいされて います[5]。
日本では 1978ねんに、タイトーの 「スペースインベーダー」が 出ました[6]。テーブルの 形を した 台は、きっさてんに 多く おかれました。お茶を のみながら 友だちと あそぶ 人が、多く いたそうです[6]。
ぜんぶの きかいを インベーダーに した 「インベーダーハウス」も、つぎつぎに できました[6]。ゲームが、店の 中の きかいから、店の すがたを かえる ものに なった のです。
1971年、アメリカで「コンピュータースペース」というコイン式のビデオゲームが登場し、ビデオゲームの時代が始まるきっかけになったとされます。約1,500台が売れたと博物館は書いています[5]。
日本では、タイトーの「スペースインベーダー」が、1978年6月16日にタイトー本社ビルでの新作発表会で初めて発表されました。テーブルの形をした筐体は喫茶店に多く置かれ、お茶を飲みながら友人と楽しむ人が多くいた、と公式サイトにあります[6]。ゲーム機が喫茶店の「家具」のように置かれた時代でした。
やがて、店のすべての機械をインベーダーにした「インベーダーハウス」も、次々にできました[6]。ゲームセンターという言葉から思いうかべる店が、ここで広く見られるようになったと考えられます。
1971年、米国で業務用ビデオゲーム「コンピュータースペース」が登場した。The Strong 国立遊戯博物館(The Strong National Museum of Play)は、累計約1,500台が売られ、以後のコイン式アーケードゲームの原型になったと紹介する[5]。ただし同館は、技術的な意味での最初とは限らないとも述べており、「最初の商用ビデオゲーム」とは断定しない。発表の時期も資料によって年の前半とも終わりとも書かれるため、年までにとどめる。
日本では、タイトーの「スペースインベーダー」が1978年6月16日、当時のタイトー本社ビルの新作発表会で初めて発表された。同社の公式サイトは、テーブル筐体は喫茶店に多く置かれ、お茶を飲みながら友人と楽しむ人が多くいたと説明し、機械のすべてをインベーダーにした「インベーダーハウス」も次々にできたと記す[6]。
インベーダーをめぐっては、100円硬貨が足りなくなったという話も語られる。ただ、日銀の対応や数字は資料によって食い違うため、この記事では扱わない。
4. 1985ねんに、なにが かわったの?
4. 「たまり場」と見られ、1985年に許可が必要になった
4. 非行の増加期の批判と、1985年施行の風営法改正
1970年代の おわりから 1980年代の なかごろは、きまりを やぶる 少年が ふえたと 大きく 話題に された 時期でした[3]。その ころ、ゲームセンターは、じっさいは どうで あれ、子どもたちの 「たまり場」だと 言われて、問題に されました[3]。
これは、当時の 世の中の 見かたです。ゲームセンターに 来る 子が みんな そうだった、と いう ことでは ありません。
1985ねんから、あたらしい ほうりつの きまりが はじまりました。ゲームセンターは、けいさつの きょかが いる 店に なりました[7]。げんそくとして 朝6時から 夜12時までしか 開けられません。16さいと 17さいの 人が 入れる 時間にも、きまりが あります[3]。
1970年代の終わりから1980年代の中ごろにかけて、戦後最大級といわれるほど少年の非行が増えた時期がありました。そのなかで、ゲームセンターは、実態はどうあれ少年たちの「たまり場」と言われ、問題視されるようになった、と文化庁の解説は書いています[3]。これは当時の世の中の見方で、ゲームセンターに来る子どもがみな問題を起こした、という意味ではありません。
1984年に風営法(風俗営業等の規制及び業務の適正化等に関する法律)が改正され、1985年に施行されて、ゲームセンターは風俗営業に分類され、警察の許可が必要になったとされます[7]。営業できるのは原則として朝6時から24時まで、16歳以上18歳未満の青少年には入れる時間にも制限があります[3]。
MACCの解説は、1970年代末から1980年代中盤に、戦後最大級の非行少年の増加の波があり、ゲームセンターが実態はどうあれ少年たちの「たまり場」と言われて問題視された、と記す[3]。これは当時の社会の見方を伝える記述であり、現在の実態や、そこに通った子ども一人ひとりの様子を示すものではない。
1984年に風営法が改正され、1985年に施行されて、ゲームセンターは風俗営業に分類され警察の許可が必要になった[7]。日付は資料によって扱いが違うため、ここでは年までにとどめる。営業時間は原則として朝6時から24時まで、16歳以上18歳未満の入場には時間の制限がある、とMACCは説明する[3]。
川﨑寧生の研究を紹介する資料は、ゲームセンターが1970年代のメダルゲームとインベーダーで広がり、1980年前後に社会問題として批判され、1985年の風営法で規制された、という流れにまとめる[4]。広がりと批判と規制は、同じ十数年のうちに重なっている。
5. どんな 人が あそびに 来るように なったの?
5. UFOキャッチャーとプリクラが、客層を広げた
5. 景品ゲームとプリントシール機 ── 1985〜1995年の客層の変化
1985ねん5月、セガから クレーンゲームの 「UFOキャッチャー」が 売り出されました。はじめは あまり 話題に ならず、1回 100円は 高いと 思われた そうです[9]。
1991ねんごろ、アンパンマンの ぬいぐるみが けいひんに なると、店先に おかれるように なりました。それまで ゲームセンターに 来なかった、大学生や 高校生の 女の子が あそぶ すがたが 目立つように なったと、当時 ゲームセンターに いた 人が 書いて います[9]。
1995ねん7月25日には、セガから 「プリントくらぶ」、プリクラが 出ました。とった 写真を シールに する きかいです[10]。その ころの ゲームセンターは、男の人が 多かった ために、女の人に 向けて 作られたと いわれます。女子中高生が 長い 列を 作ったと、業界の 年表にも あります[2]。
1985年5月にセガから発売されたクレーンゲーム「UFOキャッチャー」は、はじめはあまり話題にならず、1回100円は高いと感じられていたそうです。1991年ごろにアンパンマンのぬいぐるみが景品になると、店先に置かれるようになり、それまでゲームセンターに来なかった大学生や高校生の女の子が遊ぶ姿が目立つようになった、と、当時ゲームセンターにいた筆者が書いています[9]。一人の筆者の回想なので、「UFOキャッチャーが女性客を増やした」と言い切ることはできません。
1995年7月25日には、セガから初代のプリントシール機「プリント倶楽部」(プリクラ)が発売されました[10]。1990年代半ばのゲームセンターは格闘ゲームが中心で、客は男性が多かったため、女性の利用者に向けて企画された、と説明されることがあります。JAIAの年表には、1995年に「プリント倶楽部」に女子中高生が長蛇の列を作った、という記述があります[2]。
店や地域によって違いはありますが、ゲームの種類が変わると、来る人も変わったのかもしれません。ゲームセンターの歴史を、機械の新しさだけでなく「誰が来る場所になったか」から見ると、別の景色になります。
UFOキャッチャーの発売は1985年5月、セガである。GAME Watchの記事によれば、初代機は発売当初あまり話題にならず、1回100円は高いと感じられた。1991年ごろに「アンパンマン」のぬいぐるみが景品になると店先に置かれ、それまでゲームセンターに来なかった大学生・高校生の女の子が遊ぶ姿が目立つようになったと、当時ゲームセンターにいた筆者が記す[9]。時期と因果は筆者の回想であり、女性客の増加を示す統計ではない。
初代のプリントシール機「プリント倶楽部」は、1995年7月25日にセガから発売された[10]。JAIAの年表は、同年に女子中高生が長蛇の列をなしたと記す[2]。開発の経緯(営業担当者が資料の印刷を見て、写真をシールにする案を思いついたとされる話)や、1990年代半ばのゲームセンターが格闘ゲーム中心で客層が男性に偏り、女性向けに企画されたという説明は、ここでは扱わない。
ここまでを並べると、1985年の風営法施行の後、ゲームセンターに来る人は景品ゲームやプリクラなどで広がっていった、という筋が浮かぶ。川﨑寧生の研究の紹介も、景品ゲームや大型筐体による1990年代の全盛期を挙げる[4]。ただし使った資料は、業界団体の年表や回想、メーカーの説明に限られ、複数の店や地域の実態の比較にはなっていない。
6. ゲームセンターは、ふえたの? へったの?
6. 店の数は約6分の1になり、近年はわずかに戻った
6. 許可店数の推移 ── 1986年26,573軒から、2021年の底、2025年の4,184軒へ
けいさつの きょかを 受けた ゲームセンターは、1986ねんに やく 2万6千けん ありました。2021ねんには やく 3900けんまで へりました。2025ねんは やく 4200けんで、すこしだけ ふえました[8]。
1986ねんと 2025ねんを くらべると、やく 6分の1です。
ただし、この 数は、きょかを 受けた 店だけです。きょかが いらない 大きさの ゲームコーナーなどは 入って いません。大きな 店の 中でも、きょかを 受けた 店は 数に 入ります[7][8]。それに、どうして 2025ねんに ふえたのかは、この 記事で 使った しりょうからは わかりません。
ある 会社の ちょうさでは、100円 あそんで もらっても、店に のこる もうけは へいきんで 6円ほどと されます。クレーンゲームが 中心に なって、むかしの ゲームだけを ならべる 店づくりは むずかしく なって きたと いわれます[11]。
警察の許可を受けたゲームセンターは、1986年に26,573軒ありましたが、その後減り続け、2021年には3,882軒になりました。2021年を底に少しずつ増え、2025年は4,184軒です[8]。26,573÷4,184は約6.4で、1986年から2025年で約6分の1です。2021年の底と比べると約7分の1でした。ただし1986年〜2019年の値は、警察白書の表を日本語版Wikipediaが載せたものによります[7]。
この数は、警察の許可を受けた店だけです。店の面積のうち規制対象のゲーム機の設置面積が10%以上あれば許可が必要で、10%未満なら許可がいらない「シングルロケ」として運営できます。許可が不要な規模のゲームコーナーなどは、この数に入りません。レストランやホテル、商業施設などに併設された店でも、許可を受けた営業所は数に含まれます[7][8]。ですから、この数字が減ったことは、「ゲームで遊べる場所が全部減った」という意味ではありません。
2021年から数が増えた理由は、この記事で使った資料からは分かりません。増えたのは、長い減少のなかの小さな戻りです。
帝国データバンクの調査では、ゲームセンターの売上100円あたりの平均利益は約6円で、クレーンゲームが主流になり、従来のアーケード機中心では集客が難しくなっているとされます。ショッピングモールの大型チェーンが家族連れを狙う一方、街の小さな店は苦しい、という見方も紹介されています[11]。
警察庁の統計では、ゲームセンター等営業の許可数(営業所数)は、2020年3,931、2021年3,882、2022年3,894、2023年3,915、2024年4,007、2025年4,184と、2021年を底に4年続けて増えた[8]。2021年から2025年までの増加は302軒(4,184−3,882)である。
長い目で見ると、流れは減少だ。日本語版Wikipediaが警察白書にもとづく表として載せる許可店数は、1986年26,573軒、1996年18,125軒、2005年9,515軒、2020年3,931軒である[7]。26,573÷4,184≒6.4、つまり1986年から2025年で約6分の1になった。古い年の値は二次的な表による数字なので、この記事では丸めて使う。
数え方には注意が要る。許可の対象は、店の面積に対して規制対象のゲーム機の設置面積が10%以上ある店で、10%未満なら許可が不要な「シングルロケ」として運営できる。許可が不要な規模のゲームコーナーなどは許可数に入らないが、レストランやホテル、商業施設に併設された店でも、許可を受けた営業所は数に含まれる[7][8]。JAIAは別の数え方で施設数を出しており、警察庁の数とは大きく違うと解説する記事もある。
経営の面では、帝国データバンクの調査が、売上100円あたりの平均利益は約6円と薄く、クレーンゲームが主流になり、従来のアーケード機中心の店づくりでは集客が難しくなったと述べる。過去10年で店は約8,000軒減り、直近5年でも3割減ったとも書かれる[11]。数える期間と対象が警察庁の統計と違うので、2021年以降の小さな増加と単純には並べられない。2025年に増えた理由は、この記事で使った資料からは分からない。
7. じぶんでも たしかめて みたく なったら
7. 自分でも調べてみたくなったら
7. 自分でも調べてみたくなったら
やってみよう。おうちの 人と 出かけた ときに、ゲームが できる 場所を 見て みましょう。ゲームだけが ならんだ 店ですか。それとも、大きな 店の 中の ひとすみですか。あそぶ 前に、まわりの 人に ぶつからないように、気を つけます。
もう ひとつ。おうちの 人や おじいさん、おばあさんに、「子どもの ころ、ゲームの きかいは どこに あった?」と 聞いて みましょう。きっさてんや だがしやの 名前が 出て くるかも しれません。
ゲームで遊べる場所を、出かけたときに探してみましょう。ゲームだけが並んだ店なのか、ショッピングモールなど大きな店の中の一角なのか。警察の許可数に入るのは、許可を受けた営業所で、面積の10%以上をゲーム機が使う店が対象です[7]。許可が不要な規模のゲームコーナーは数に入らないので、統計に入る店と入らない場所があることが、実際に目で見ると想像しやすくなります。外から見て店の広さまでは分からないので、見た印象をメモするだけで十分です。
家族や祖父母に、「子どものころ、ゲーム機はどこに置いてあった?」と聞くのもいいでしょう。駄菓子屋や喫茶店の名前が出てくれば、この記事の2章と3章につながります。
警察庁の統計表は、日本語で読めます[8]。2021年から2025年の数字の並びを、自分で確かめてみてください。
しらべた ところ
参考にした情報源
参考にした情報源
出典について:海外のコイン式遊戯機の歴史、業界団体の年表、文化庁の解説、研究書の紹介、メーカーの公式情報、警察庁の統計、辞典的な解説、ゲーム記事、運営会社の調査を突き合わせて使った。何に使ったかは、それぞれの項目の最後に書いている。
- They Create Worlds "Historical Interlude: The History of Coin-Op Part One". https://videogamehistorian.wordpress.com/2015/03/24/historical-interlude-the-history-of-coin-op-part-one-the-rise-and-fall-of-the-penny-arcade/ (米国のペニーアーケードの始まりについて)
- JAIA(日本アミューズメント産業協会)「アミューズメントマシンの軌跡」。 https://jaia.jp/history/ (1931年のスポーツランド、1950年代半ばまでの屋上の自動木馬、1995年の年表について)
- 文化庁メディア芸術カレントコンテンツ(MACC)「ゲームセンターと社会との関わり[後編]」。 https://macc.bunka.go.jp/4640/ (1960年代の駄菓子屋・喫茶店への展開、1970年代末からの批判、営業時間と入場の制限について)
- 福村出版 川﨑寧生『日本の「ゲームセンター」史』序章(note)。 https://note.com/fukumura_henshu/n/na328ee3476d3 (日本のゲームセンターの流れと、多様な場所に併設される特徴について)
- The Strong National Museum of Play "Computer Space". https://www.museumofplay.org/games/computer-space/ (1971年の業務用ビデオゲーム「コンピュータースペース」について)
- スペースインベーダー公式サイト「スペースインベーダーとは」。 https://spaceinvaders.jp/whats.html (1978年の発表、喫茶店のテーブル筐体、インベーダーハウスについて)
- Wikipedia日本語版「ゲームセンター」。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B2%E3%83%BC%E3%83%A0%E3%82%BB%E3%83%B3%E3%82%BF%E3%83%BC (風営法改正の年、許可店数の推移の表、許可の対象と面積の10%について)
- 警察庁「令和7年における風俗営業等の現状と風俗関係事犯等の取締り状況について」。 https://www.npa.go.jp/publications/statistics/safetylife/080423huzokukankeitoukei.pdf (2020年から2025年のゲームセンター等営業の許可数について)
- GAME Watch「UFOキャッチャーが発売された月(1985年5月)」。 https://game.watch.impress.co.jp/docs/kikaku/2010979.html (UFOキャッチャーの発売と、景品による客層の変化の回想について)
- セガ「プリクラ誕生30周年」(プレスリリース)。 https://www.sega.co.jp/release/250725_1.html (初代プリント倶楽部の発売日について)
- 帝国データバンク「ゲームセンター」の倒産・休廃業解散動向。 https://www.tdb.co.jp/report/industry/z3ao13xi8enf/ (売上100円あたりの平均利益と、クレーンゲーム中心の経営について)
なおした ところ
更新履歴
更新履歴(改版の記録)
- 初版を公開。
このサイトでは、公開した記事の本文は原則として書き直しません。誤りが見つかったときや、内容が古くなったときだけ手を入れ、その理由をこの欄に残します。