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ここにあるのは、だれかが実際に調べ、考え、作ってきたことを集めたメモです。気になったら、ページの下の「参考にした情報源」から、もとの本や記事、それを生み出した人たちに、直接ふれてみてください。このメモには書ききれないおもしろさが、そこにあります。

むかしの こどもは、なにが かわると おとなに なったの?

頭と名前が変わる日 ── 昔の成人の儀式「元服」と、今の成人式

元服から現代の成人式へ ── 年齢・装い・名前はどう変わったか

分野:歴史・文化

のちに 徳川家康とくがわいえやす として しられる ひとは、こどもの ころ、竹千代たけちよ と よばれて いました。それが おおきくなると、元信もとのぶ と いう なまえに かわります。

みぶんや じじょうに よっては、なまえだけでなく、かみの かたちも、あたまに のせる ものも、きる ふくも かわりました。むかしの ひとは、こうして 「もう こどもでは ない」と しめしたのです。

この ぎしきを 元服げんぷく と いいます。なにが、いつ、だれに おこなわれたのか、みて みましょう。

のちの徳川家康とくがわいえやすは、子どものころ竹千代たけちよという名前でした。元服のとき、名前は元信もとのぶに変わります。身分や事情によって、名前だけでなく、髪型も、かぶりものも、着る服も、この日を境に改まることがありました。

昔の日本には、頭と名前を変えて「もう子どもではない」と示す儀式があったのです。それが元服げんぷくです。このメモでは、元服で何が変わったのか、何歳で行ったのか、身分や男女でどうちがったのか、そして今の成人式にどうつながるのかを、いくつかの資料を読み比べてたどります。

元服は、奈良時代以降に見られる、男子が成人したことを示す儀式である[1]。身分や事情に応じて髪型・かぶりもの・服・名前などを改めることで、子どもから大人への区切りを外見と呼び名に表した。徳川家康は幼名を竹千代といい、元服時の名は元信(のち元康)だったとされる。「元」は今川義元から一字を受けたと説明される[3]。

ただし、元服は一つの型に収まらない。年齢は身分や時代で幅があり、5歳や41歳の例もあって、公家・武家・庶民、男子と女子で形も大きく異なる[2][3][4]。このメモは、身分ごとの元服の違いを確かめたうえで、1946年に埼玉県蕨町で開かれた青年祭、現代の成人式、成年年齢18歳への改正までの連なりを、複数の資料から整理する。

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1. 「げんぷく」って、どんな ぎしきなの?

1. 元服は「頭に冠をつける」儀式だった

1. 元服の語義 ── 首(頭)に服する儀式

「元服げんぷく」の 「げん」は あたま、「ふく」は みに つける ことを あらわします[1]。むかしの おとなが 冠かんむり を つける ぎしきが もとに なった と いわれます。

奈良ならの じだい より あとに、おとこの こが おとなに なった しるしとして おこなわれました[1]。

いまの わたしたちが 「はたちの おいわい」を するように、むかしにも 「おとなの ひ」が あったのです。ただし、みんなが おなじ やりかたでは ありませんでした。

「元服」の「元」は首、つまり頭のことで、「服」は身につけることを表します。もとになったのは、成人が冠かんむりをつける儀式だといわれています[1]。

奈良時代以降、男子が大人になったことを示す儀式として行われました[1]。読み方は「げんぷく」のほか、「げんぶく」ともいいます。

今の成人式のように、大人になったことを周りの人にも示す日だったわけです。ただし、誰もが同じやり方だったのではありません。身分や時代によって、形はかなりちがいました。

「元」は首(頭)、「服」は身に着けることを意味し、成人が冠を着ける儀式に由来する。奈良時代以降、男子の成人を示す儀式として行われた。「げんぷく」とも「げんぶく」とも読まれる[1]。

語の由来からわかるとおり、元服の中心は「頭に何を着けるか」にあった。ただし、着けるものも、行う年齢も、儀式の細部も、時代と身分によって差があり、「元服とはこういうもの」と一つにまとめることはできない。以下では、公家から庶民へと順に見ていく。

2. あたまと ふくと なまえは、どう かわったの?

2. 公家の元服 ── 髪型・服・名前がそろって改まる

2. 公家の元服 ── 総角から冠へ、闕腋から縫腋へ

くげ(おうちの えらい ひと)の おとこの こは、こどもの ころ、かみを りょうがわで わっかに して ゆって いました。おとなに なると、これを やめて、冠かんむり を かぶります[2]。

ふくも かわります。こどもの ふくは わきの したが あいて いて、うごきやすい つくりです。おとなの ふくは、その わきを ぬって ふさぎます[2]。

そして、こどもの ころの なまえも あらためました[1]。かみを ととのえる ひと、冠かんむり を かぶせる ひとと、やくめを わけた ぎしきでも ありました[2]。

あたま、ふく、なまえが いっぺんに かわる ひ。だから 「もう こどもでは ない」と、だれの めにも わかったのでしょう。

公家の元服では、まず子どもの髪型の総角あげまきをやめ、髪を結い直して冠かんむりをかぶります[2]。総角は、髪を左右に分けて輪にした形です。

服も改まります。子どもは脇のあいた闕腋けってきの服を着ますが、大人になると、脇を縫った縫腋ほうえきの服にかわります[2]。

さらに、子どものころの名前をやめて、実名を名乗るようになりました[1]。儀式では、髪を整える理髪りはつの役と、冠をかぶせる加冠かかんの役に分かれていました。天皇は11〜15歳、皇太子は11〜17歳が目安で、正月1〜5日の吉日の夕方から夜に行ったと、国立国会図書館の解説にあります[2]。

ちなみに、冠を用いたのは堂上どうじょう家以上の公家で、武家やそれ以下は烏帽子えぼしを用いました[1]。

公家の元服では、子どもの髪型である総角あげまきをやめて髪を結い、冠を着ける。服も、脇をあけた闕腋けってきの袍から、脇を縫い合わせた縫腋ほうえきの袍に改める[2]。同時に幼名を廃して実名を名乗るようになった[1]。

儀式では、髪を整える理髪りはつと、冠を着ける加冠かかんの役が置かれた。国立国会図書館の解説によれば、天皇は11〜15歳、皇太子は11〜17歳が目安で、正月1〜5日の吉日の夕方から夜間に行われた[2]。

冠を用いたのは堂上どうじょう家以上の公家で、武家やそれ以下は烏帽子えぼしを用いた[1]。この違いは、次の武家の元服とつながる。

3. なまえの 一もじは、だれから もらったの?

3. 武家の元服 ── 烏帽子親から名前の一字をもらう

3. 武家の元服 ── 烏帽子親と偏諱、家康の元信

さむらいの いえでも、元服げんぷく が おこなわれるように なりました。へいあんじだいの おわりごろから、と かんがえられて います[3]。

さむらいの ぎしきでは、烏帽子えぼし と いう ぼうしを かぶります。かぶせて くれる ひとを 烏帽子親えぼしおや と いいます。

この ひとから、なまえの 一もじを もらう ならわしが ありました[3]。はじめに でて きた 家康いえやす さんの 元信もとのぶ の 「もと」は、今川義元いまがわよしもと と いう ひとから もらった、と いわれて います。

「この ひとの みうちに なる」という しるしを、なまえに もらう ようなもの だったのかも しれません。

武家で元服が行われるようになったのは、平安時代の終わりごろからと考えられています[3]。武家の元服では、烏帽子親えぼしおやが烏帽子をかぶせ、烏帽子をかぶった側の人は、烏帽子親から名前の一字をもらう慣習がありました[3][6]。この一字を偏諱へんきといいます。

最初に登場した徳川家康とくがわいえやすの場合、幼名は竹千代たけちよ、元服のときの名は元信もとのぶ(のちに元康)でした。この「元」は、人質として暮らした今川義元の一字をもらったものだと説明されています[3]。

国立国会図書館の解説は、こうした家康の例から、名前の一字をもらう関係が、主従の関係を表すものだったと整理しています[3]。名前は、ただの呼び名ではなく、誰とつながっているかを示す印でもあったようです。

武家社会で元服が行われるようになったのは、平安時代末期からと考えられている[3]。武家の元服では烏帽子親えぼしおやが烏帽子を着けさせ、烏帽子を着けた側は烏帽子親の名の一字(偏諱へんき)を受ける慣習があった[3][6]。

家康は幼名が竹千代、元服時の名が元信(のち元康)とされ、「元」は今川義元の一字と説明される[3]。この一字の授受が主従関係を象徴していた、というのが国立国会図書館の整理である[3]。

なお、烏帽子親からの一字の授受がいつ一般化したかについては、資料によって年代の言い方が分かれるため、ここでは年を特定しない。

4. なんさいで おこなったの? きまりは あったの?

4. 5歳から41歳まで ── 年齢は決まっていなかった

4. 元服の年齢 ── 身分と時代で幅があった、5歳と41歳の例

みぶんや じだいに よって、ちがいました。数え年かぞえどし で 十二さいから 十六さいごろが おおい、と せつめいする ほんも あります[5]。うまれた とし を 一さいと かぞえる かぞえかたです。

でも、きまりは ゆるやかでした。とよとみひでより の ように 五さいで おこなった ひとも、四十一さいで おこなった おうけの ひとも います[5]。

ぶけの えらい いえでは、徳川家綱とくがわいえつな も 五さい、足利義教あしかがよしのり が 三十六さいでした[3]。

とし だけで 「おとな」が きまる わけでは なかった ようです。

元服の年齢は、身分や時代によって幅がありました。数え年で12〜16歳ごろが多いと説明する資料もあります[5]。数え年は、生まれた年を1歳と数える数え方です。

ところが、幅はとても広いのです。豊臣秀頼は5歳、伏見宮貞成親王は41歳で元服したと伝えられます[5]。将軍家・大名家では11〜17歳が目安でしたが、足利義教は36歳で元服し、徳川家綱は秀頼と同じ5歳で元服しています[3]。

年齢が大きくずれる例は、政治上の理由など、その人の立場に合わせた事情があったとされます。年齢は目安であって、決まりではなかったのです。

元服の年齢は身分や時代で幅があり、数え年で12〜16歳ごろを一般的とする資料もあるが[5]、豊臣秀頼は5歳、伏見宮貞成親王は41歳で元服した[5]。数え年は生まれた年を1歳とする数え方である。

国立国会図書館の解説は、将軍家・大名家の目安を11〜17歳としつつ、足利義教は36歳、秀頼と同じく5歳だった徳川家綱の例を挙げる[3]。年齢が大きくはずれるのは、政治的な事情によるものと読める。

ここでは秀頼と貞成親王の年齢を百科事典的な二次資料によっている点に注意したい。数値そのものより、「成人の年齢は決まった一点ではなかった」という点が、複数の資料に共通する。

5. ふつうの いえの こどもは、どう したの?

5. 庶民の元服 ── 前髪をおろして月代をそる

5. 庶民の元服 ── 月代の簡略化と、半元服・本元服の二段階

えどじだいの ふつうの いえでは、烏帽子えぼし は つけません。ひたいの うえの 前髪まえがみ を おろして、あたまの まえの ほうを そる、かんたんな ものでした[4]。この そった ところを 月代さかやき と いいます。

年は 十五さい から 十七さい ごろが おおかった そうです[4]。

ふたつに わけて おこなう ばあいも ありました。はじめに 角前髪すみまえがみ という かたちに して、1〜2ねん あとに 月代さかやき を そります[4]。

おみせで はたらく 丁稚でっち の こどもは、はじめの ぎしきで、こどもの ころの なまえから ほんとうの なまえに あらためました。おわりの ぎしきで、一人まえの てんいんとして、おきゅうきんが もらえる ように なりました[4]。

江戸時代になると、下級武士や庶民では、烏帽子はつけず、前髪を剃って月代さかやきにするだけで済ませることもありました[3]。月代は、頭の前のほうから頭のてっぺんにかけて、髪を剃った部分のことです。下級武士では、室町時代から月代をつくることで成人とみなされるようになっていた、とも説明されています[3]。

庶民の元服は15〜17歳が一般的で、前髪をおろして月代を剃る簡単なものでした[4]。2段階に分ける例もあり、半元服では角前髪すみまえがみにし、1〜2年後の本元服で月代を剃りました[4]。

商家の丁稚でっちは、半元服で幼名から実名に改め、手代てだいの補助を任されます。本元服のあとは一人前の店員として給金が出て、酒や煙草も許されたそうです[4]。

元服は、仕事の上での「一人前」の区切りにもなっていたことがうかがえます。

江戸時代には、下級武士や庶民などは烏帽子を着けず、前髪を剃って月代さかやきにするだけで済ませることもあった。下級武士では室町時代から月代をつくることが成人の目印となっていた[3]。月代を剃り、髷まげを結う姿が、元服後の男子の標準的な見た目になっていったといえる。

庶民の元服は15〜17歳が一般的で、前髪をおろして月代を剃る簡略なものだった。半元服では角前髪すみまえがみにし、1〜2年後の本元服で月代を剃る2段階の例もあった[4]。

商家の丁稚でっちの場合、半元服で幼名から実名に改めて手代てだいの補助を任され、本元服で一人前の店員として給金や酒・煙草が許された[4]。元服が、髪型の区切りであると同時に、仕事の格付けの区切りでもあったことが分かる。なお、庶民の元服の実態を伝える資料は多くはなく、地域や職業による差の全体像までは、ここでは言い切れない。

6. おんなの こには、どんな ぎしきが あったの?

6. 女性の成人儀礼 ── 裳着・お歯黒・袖留

6. 女性の成人儀礼 ── 初笄・裳着から、鉄漿つけと袖留まで

おんなの こにも、おとなに なる ぎしきが ありました。元服げんぷく とは べつの ものです。

くげの おんなの こは、はじめて 「も」という ながい ふくを つけました。これを 裳着もぎ と いいます[2]。十二さいから 十六さいごろと いわれます。

えどじだいには、はを くろく そめる 鉄漿おはぐろ も ありました[4]。むずかしい ことばですが、おとなに なった こと、けっこんした ことの しるしでした。

ふく の そでを みじかく する 袖留そでとめ も、おなじ ように おとなの しるしです[4]。じだいや みぶんに よって、おとなの しるしは いろいろでした。

貴族の女性の成人儀礼は、9〜10世紀ごろは初笄ういこうがい、10世紀以降は裳着もぎが主流でした[2]。裳着は、初めて裳や下袴を身につける儀式で、腰の紐を結ぶ「腰結」の役が最も重んじられました[2]。年齢は12〜16歳ごろとされます。

結婚や、天皇に嫁ぐ入内じゅだいに合わせて行われることもあり、後ろ盾を示す意味もありました[2]。

江戸時代になると、鉄漿おはぐろつけ(歯を黒く染めること)や、袖留そでとめ(振袖の袖を短くして留袖にすること)で、成人や既婚を示しました[4]。鉄漿つけの年齢は13歳、17歳、18歳と遅くなっていき、婚礼に合わせて行うようになりました[4]。

時代や身分によって、成人のしるしは頭・服・名前・歯の色など、さまざまでした。

貴族女性の成人儀礼は、9〜10世紀に初笄、10世紀以降は裳着が主流となった。裳着もぎは初めて裳・下袴を身につける儀式で、腰結の役が最も重視された。婚姻や入内じゅだいに合わせて行われ、後ろ盾を示す政治的な意味もあった[2]。年齢は12〜16歳ごろとされるが、これは二次資料の記述にもとづく。

江戸時代には、鉄漿おはぐろつけと袖留そでとめが成人・既婚の目印になった。十三鉄漿・十七鉄漿・十八鉄漿の語があるように、鉄漿つけの年齢は13歳、17〜18歳と遅くなり、婚礼に合わせて行われるようになった[4]。

ここまでに見たように、成人のしるしは髪型・服・名前・歯の色など、時代や身分によってさまざまだった。この多様さは、次章の現代の成人式との比較でも手がかりになる。

7. いまの 「せいじんしき」は、いつ はじまったの?

7. 今の成人式へ ── 1946年の蕨町の青年祭から

7. 成人式のもとになった青年祭と、成人の日・成年年齢の変化

いまの せいじんしきの もとに なった、と いわれる ものが あります。1946ねん 11がつ、埼玉県さいたまけん の 蕨わらび という まちで ひらかれた 「せいねんさい」です[7]。

まちの わかい ひとたちの あつまりが なかまを そろえて、つぎの じだいを ささえる わかものを はげまそうと、かんがえました。ふくは もんぺや こくみんふく でしたが、100にんくらいが あつまった そうです[7]。

その あと、1948ねんに 「こくみんの しゅくじつ」の きまりが できました。せいじんの ひは、おとなに なった ことを じかくして、じぶんで いきぬこうと する わかものを おいわい、はげます ひ、と されています[8]。

2022ねん 4がつからは、おとなの ねんれいが 18さいに なりました[9]。

今の成人式のルーツとされるのは、1946年(昭和21年)11月22日〜24日に埼玉県蕨わらび町で開かれた「青年祭」です。蕨町の青年団が中心となり、次の時代を担う若者を励まそうと企画され、国民服やもんぺ姿の若者およそ100人が集まりました[7]。成年式で幕を開けた、と蕨市は紹介しています。

1948年(昭和23年)には「国民の祝日に関する法律」が公布され、成人の日が定められました。趣旨は、「おとなになったことを自覚し、みずから生き抜こうとする青年を祝いはげます」ことです[8]。いまは1月の第2月曜日です。

また、民法の成年年齢は、明治9年(1876)の太政官布告以来20歳でしたが、2018年の改正で18歳となり、2022年4月1日に施行されました[9]。ただし、成人式を何歳で開くかは自治体ごとに決めており、法律で決まった年齢があるわけではありません。

現代の成人式のルーツは、1946年(昭和21年)11月22〜24日に埼玉県蕨町で開かれた青年祭とされる。蕨町青年団が中心となり、次代を担う若者を勇気づけ励ますことを目的に、成年式で幕を開けた。国民服やもんぺ姿の若者約100人が来場したという[7]。

1948年(昭和23年)公布の「国民の祝日に関する法律」(昭和23年法律第178号)は、成人の日の趣旨を「おとなになったことを自覚し、みずから生き抜こうとする青年を祝いはげます」と定める。現在は1月の第2月曜日である[8]。

民法の成年年齢は、明治9年の太政官布告以来約140年、20歳だった。2018年(平成30年)6月13日公布の改正で18歳となり、2022年(令和4年)4月1日に施行された[9]。成人式の実施年齢は自治体ごとに異なり、法令上の義務はない。髪型・服・名前で区切りを示した元服から、法律の年齢と地域の式へ、「大人になる日」の決め方は大きく変わってきた。

自分でも しらべて みたく なったら

自分でも調べてみたくなったら

自分でも調べてみたくなったら

おうちで できること

おうちの ひとに、きいて みましょう。「じぶんの なまえは、どうして その なまえに なったの?」「せいじんしきの ときは、どんな ふくを きたの?」

むかしは、なまえも ふくも 「おとなの しるし」でした。おうちの なまえの ゆらいにも、だれかの ねがいが こめられて いるかもしれません。

しりょうを よむ なら

くわしく しりたい ときは、こくりつこっかいとしょかんの 「ほんの まんげきょう」の だい31かい 「せいじんの ぎれい」を、おうちの ひとと いっしょに よんで みて ください。

今日できること

家の人に、名前の由来と、成人式のときの思い出を聞いてみましょう。元服のときに名前が変わったように、今の名前にも、つけた人の願いがあるかもしれません。

資料を読むなら

国立国会図書館の「本の万華鏡」第31回は、公家・武家・庶民の成人の儀礼を順に解説しています。そのほか、蕨市の公式ページには、1946年の青年祭のようすがまとめられています。

確かめられること

家族に、名前の由来と、成人式の思い出を聞くのも一つの方法である。名前を改める風習は、家康の「元」のように、人と人との関係を映すものだった。

資料を読む

  • 国立国会図書館「本の万華鏡」第31回(第1〜3章):公家・武家・庶民の成人儀礼を身分別に整理している。
  • 蕨市公式ページ「成人式発祥の地のまち蕨」:1946年の青年祭の経緯。
  • 内閣府「国民の祝日について」・法務省「民法(成年年齢関係)」:成人の日と成年年齢の公的な説明。

しらべた もとの じょうほう

参考にした情報源

参考にした情報源と、その使い方

この記事では、次の資料を突き合わせて調べました。本文の[ ]の番号は、下の番号に対応しています。

  1. コトバンク「元服」 https://kotobank.jp/word/%E5%85%83%E6%9C%8D-61021 (元服の意味・公家と武家の冠と烏帽子・名前の改まり)
  2. 国立国会図書館 本の万華鏡 第31回 第1章 公家の成人 https://www.ndl.go.jp/kaleido/entry/31/1.html (公家の元服・貴族女性の裳着)
  3. 国立国会図書館 本の万華鏡 第31回 第2章 武家の成人 https://www.ndl.go.jp/kaleido/entry/31/2.html (武家の元服・年齢の例外・家康・月代)
  4. 国立国会図書館 本の万華鏡 第31回 第3章 庶民の成人 https://www.ndl.go.jp/kaleido/entry/31/3.html (庶民の元服・丁稚・鉄漿つけと袖留)
  5. Wikipedia「元服」 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%83%E6%9C%8D (年齢の幅・数え年。二次資料)
  6. ヒストリスト「烏帽子親」 https://www.historist.jp/word_j_e/entry/029500/ (烏帽子親と名前の一字)
  7. 蕨市公式「成人式発祥の地のまち蕨」 https://www.city.warabi.saitama.jp/1004289/1004495.html (1946年の青年祭)
  8. 内閣府「国民の祝日について」 https://www8.cao.go.jp/chosei/shukujitsu/gaiyou.html (成人の日の趣旨)
  9. 法務省「民法(成年年齢関係)」 https://www.moj.go.jp/MINJI/minji07_00218.html (成年年齢18歳)

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