このサイトは、ほんの入り口です

ここにあるのは、だれかが実際に調べ、考え、作ってきたことを集めたメモです。気になったら、ページの下の「参考にした情報源」から、もとの本や記事、それを生み出した人たちに、直接ふれてみてください。このメモには書ききれないおもしろさが、そこにあります。

ひゃくにん いっしゅは、どうして ひとり いっしゅ なの?

百人一首はなぜ「一人一首」なのか ── 障子を飾る色紙の注文から、お正月のかるたまで

小倉百人一首の成立と展開 ── 宇都宮頼綱の依頼(1235年ごろ)、百人秀歌、小倉色紙、歌がるた、競技かるた

分野:歴史・文化

お正月に、歌を よんでもらって、ふだを とりあう あそびが あります。その 歌の もとは、しょうじに はる 色紙の ちゅうもん だった かもしれません。

どうして 百人から、ひとり 一首ずつ なのでしょう。だれが たのんで、だれが えらんだのか。この メモを 読むと、そのわけと、いまでも わからない ことが 分かります。

お正月のかるたで読まれる百人一首には、もとは「歌集を作ろう」ではなく、部屋の障子を飾るための色紙の注文だったかもしれない、という話があります。

百人から一首ずつという形は、どうして生まれたのでしょうか。選んだとされる藤原定家の下書きらしい本には、百人一首にいる二人がいません。いつ、誰が、何のために選んだのか、分かっていることと分かっていないことが、この記事で整理できます。

小倉百人一首は、天智天皇から順徳院まで百人の歌を一首ずつ集めた歌集で、藤原定家の撰とされる。だが、その成り立ちは「歌集を編む」ことを目的にしていたとは限らない。1235年ごろに宇都宮頼綱(蓮生)が頼んだ、山荘の障子に貼る色紙の歌の選定が起点とされる[1]。

定家の別本とされる『百人秀歌』は101人101首で、百人一首と97首が一致する。なぜ一人一首なのか、誰がいつ今の形にしたのか。確かな部分と諸説を分けて、江戸のかるた、明治の競技かるたまでの流れが分かる。

読み方を切り替えられます。画面の上にある「よみかた」のボタンで、小学校低学年むけ・小学校高学年むけ・中学生むけの3つの書き方に切り替わります。むずかしいと思ったら、いつでもやさしい方に戻ってください。選んだ読み方はブラウザが覚えているので、次に別の記事を開いたときも同じ読み方で始まります。

1. 百人一首って、なに?

1. 百人一首とは ── 百人の歌を一首ずつ

1. 定義と構成 ── 天智天皇から順徳院までの100人

百人一首は、百人の 歌を つくった 人から、一首ずつ えらんで あつめた ものです。だから「百人」「一首」と いいます。

いちばん はじめの 歌の 人は、天智天皇てんじてんのう と いわれる ずっと むかしの 天皇てんのう です。いちばん あとは、順徳院じゅんとくいん です。

百人の うち、女の 人は 二十一人です。おぼうさんも たくさん まざっています。

百人一首は、天智天皇から順徳院までの時代の百人の歌人から、一首ずつ選んだ歌集です[1]。広辞苑は、藤原定家が選んだものとして説明し、ほかに宇都宮頼綱(蓮生)が選んだという説もあると書いています[2]。

百人の内訳は、男性が79人、女性が21人です。男性のうち13人はお坊さんです[1]。小倉山荘色紙和歌や、小倉百首という別の呼び名もあります[2]。

「小倉」は、京都の嵯峨にある小倉山のことで、藤原定家の山荘がそこにあったと伝えられています。

小倉百人一首は、天智天皇から順徳天皇に至る100人の歌人の歌を各1首選んだ歌集である。男性歌人79人(うち僧侶13人)、女性歌人21人という構成が示されている[1]。

広辞苑第6版は「藤原定家撰。宇都宮頼綱(蓮生)撰説もある」と併記し、別名として小倉山荘色紙和歌、小倉百首を挙げる[2]。人名の読みは、宇都宮頼綱=うつのみや よりつな、蓮生=れんじょう、小倉山荘=おぐらさんそう、色紙=しきしである。

定家の山荘は嵯峨の小倉山のふもとにあったとされるが、常寂光寺や二尊院など場所には諸説ある[6]。

2. だれが、なんのために えらんだの?

2. きっかけは、山荘の障子を飾る色紙だった

2. 成立の起点 ── 1235年ごろの色紙の依頼

ものがたりの はじまりは、いまから 八百年ほど まえの 京都です。宇都宮頼綱うつのみやよりつな と いう 人が、ふじわらの ていかに たのみました。

山の いえの しょうじに はる 色紙に、むかしの 人の 歌を 書いて ほしいと たのんだ と いわれます。ていかは、その 歌を えらんだ とされています。

百人一首は、本を つくる ためでは なく、へやを かざる ための ちゅうもん から はじまった かもしれません。ただし、ほんとうに そうだったかは、いまも けんきゅうが つづいています。

1235年ごろ、御家人で歌人だった宇都宮頼綱は、出家して蓮生と名乗っていました。蓮生は、京都の嵯峨に建てた山荘の障子に貼る色紙のために、歌を選んでほしいと藤原定家に頼んだとされています[1]。

二人は仲がよく、蓮生は自分の娘を定家の跡取りの為家に嫁がせています。定家は山荘の色紙を書いて贈った、とも伝えられています[3]。

なぜ「一人一首」なのか

定家が、一人一首にした理由を自分で説明した記録は、今回調べた範囲では見つかりませんでした。障子に貼る色紙なら、一人に一枚ずつ書くと数えやすくて並べやすい、という考え方もできますが、これは推測です。

成立の起点とされるのは、嘉禎元年(文暦2年、1235年)ごろの、宇都宮頼綱(蓮生)による依頼である。蓮生は御家人で歌人。嵯峨の山荘の障子に貼る色紙のために、定家が古人の歌を選んだとされる[1][3]。

蓮生は定家と親交が厚く、娘を定家の嫡男・為家に嫁がせていた。定家は嵯峨の中院の山荘の障子歌色紙を書いて贈ったと記される[3]。定家の日記『明月記』にも関連する記事があるとされるが、記事の日付は資料により5月27日、6月14日と分かれる。年号も、1235年は文暦2年の途中(9月)で嘉禎に改元されるため、資料で表記が分かれる。

この起点はあくまで色紙の注文であり、歌集を編むこと自体が目的だったと断定はできない。一人一首とした理由を定家が説明した記録も、今回の資料では確認できなかった。

3. 「百人秀歌ひゃくにんしゅうか」って、なに?

3. 下書きらしい本『百人秀歌』には、二人がいない

3. 『百人秀歌』との関係 ── 101人101首、97首一致

ていかが えらんだ と いわれる、ほかの 本も あります。『百人秀歌ひゃくにんしゅうか』と いいます。

この 本には、百一人の 歌が のって います。百人一首と ほとんど おなじですが、ごとばいんと 順徳院じゅんとくいん の 二人は いません。

どちらが さきに できたのか、いま 見られる 百人一首の かたちを だれが ととのえたのか。学者の あいだでも、いろいろな 考えが あります。

定家が選んだとされる別の本に、『百人秀歌』があります。101人の歌が一首ずつのっていて、百人一首と重なるのは97首です。百人一首にあって百人秀歌にないのは、後鳥羽院と順徳院の二人です[4]。

百人秀歌は1235年9月より前にできたとみられていて、百人一首より先という意見が大勢です[4]。

いまの形はいつ、誰が?

いま伝わる百人一首は、定家が選んだ百人秀歌を、あとから息子の為家が直したものだ、という説があります[1]。後鳥羽院と順徳院の二首は、あとから加えられたり、差しかえられたりした、という説もあり、確定していません。

大阪府の講演記録には、そもそも定家が本当に百人一首を編んだのかについても、なお議論が続いている、とあります[5]。

『百人秀歌』は定家撰とされる別本で、101人101首。小倉百人一首と97首が一致し、百人一首にあって百人秀歌にないのは後鳥羽院と順徳院の二人である。文暦2年(1235)9月10日以前の成立と推定され、百人一首の原型とみる意見が大勢を占める[4]。

今日の百人一首については、定家が選んだ百人秀歌を後に子の為家が改訂したもの、とする説がある[1]。後鳥羽院・順徳院の2首が後から差し替え・追加されたという説もあるが、確定していない。

伝承では、定家が『新古今和歌集』を編んだのち、小倉山の庵で好みの歌を色紙に書いたのが起源とされる。ただし、この由来には不自然な点があり、定家が実際に百人一首を編んだのかどうかは今も議論が続く[5]。

4. 「小倉色紙おぐらしきし」は ほんもの?

4. 定家が書いたという「小倉色紙」の謎

4. 小倉色紙の真偽 ── 史料上の初見は15世紀

ていかが 書いた と いわれる 色紙は、「小倉色紙おぐらしきし」と よばれます。いまも たいせつに されて います。

ところが、この 色紙が 本に はじめて 出てくるのは、ていかが なくなってから 二百年より あとです。

ほんものか どうかは、いまも 学者が しらべつづけて います。「まだ わからない」ことが ある、それも 百人一首の おもしろいところです。

定家が書いたと伝わる色紙を「小倉色紙」といいます。この色紙が記録に初めて登場するのは15世紀で、定家が亡くなった1241年から200年以上あとのことです[5]。

小倉色紙は、真筆かどうかについて今も研究が続いています。国宝に指定されたものもありません。偽物と決まったわけではなく、議論が続いている、という段階です。

定家筆と伝わる『小倉色紙』が史料に初めて現れるのは15世紀で、定家の没年(1241年)から200年以上後である[5]。

真筆かどうかは現在も研究対象で、国宝指定はない[5]。偽物と断定はできず、「議論が続く」までが確かな線である。

5. どうして かるたに なったの?

5. 江戸時代に、本からかるたへ

5. 江戸期の普及 ── 一般教養と歌がるた

百人一首は、むかしの 人の 本や、てならいの おてほんにも なりました。江戸時代えどじだい の ことです。

そこへ、ポルトガルから 「カルタ」が つたわりました。歌を よんで ふだを さがす あそびが、それと むすびついて 「百人一首かるた」に なったのです。

「かるた」は、ポルトガルの ことばの「カード」を 日本の 音に した ことばです。お正月の あそびとして 広まったのも、江戸時代えどじだい の まん中ごろと いわれます。

江戸時代の中ごろになると、解説つきの百人一首の本がたくさん出回りました。教科書や習字の手本にも使われて、一般教養として広まります[7]。

そこへ、ポルトガルから伝わった「カルタ」が結びつきます。「カルタ」は、ポルトガル語のcarta(カード)の音を日本語にした言葉です[8]。歌を聞いて札を探す遊びは、平安時代の貝覆い(貝合わせ)にまでさかのぼる、といわれます[8]。

お正月の遊びとして定着したのは、江戸時代の中期といわれます[8]。「歌を覚えていれば、札がすぐ見つかる」という遊びが、家族で楽しむ行事として続いてきました。

江戸時代中期ごろになると、解説つきの書物が数多く出回り、教科書や手習いの見本にも取り入れられて一般教養として浸透した。さらにポルトガルから伝来した「カルタ」と結びつき、百人一首かるたとしても広まった[7]。広辞苑にも「近世以降、歌ガルタとして普及」とある[2]。

かるたのルーツは平安時代の貝覆い(貝合わせ)にさかのぼるとされる。「カルタ」はポルトガル語carta(カード)の音写である。お正月の遊びとして定着したのは江戸中期といわれる。一方で、百人一首かるたの完成時期には元禄ごろとする説など幅があり、確定していない[8]。

6. いまの かるたの しあいは?

6. 明治のルール統一と、近江神宮の名人戦

6. 競技かるた ── 1904年の統一ルールと近江神宮

いまは、歌を おぼえて、はやく ふだを とる「競技きょうぎ かるた」の しあいも あります。

その ルールが そろったのは、明治めいじ の ころです。新聞の 仕事を していた 黒岩涙香くろいわるいこう と いう 人が、かるたの 会を ひらきました。

2026年の 一月にも、滋賀県しがけん の 近江神宮おうみじんぐう で、いちばん つよい 人を きめる しあいが あります。近江神宮おうみじんぐう は、百人一首の さいしょの 歌の 天智天皇てんじてんのう を まつって います。

明治37年(1904年)、ジャーナリストの黒岩涙香が「東京かるた会」をつくり、2月11日に第1回の大会を開きました。ここで統一されたルールが、今の競技かるたの始まりとされています[8]。

全日本かるた協会のサイトによると、2026年1月11日には、第72期名人位と第70期クイーン位の決定戦がありました。会場は滋賀県大津市の近江神宮です[9]。

近江神宮は、百人一首の最初の歌をよんだとされる天智天皇をまつっています[9]。障子を飾る色紙から生まれた歌が、800年ほどたって、勝負の場で読まれています。

明治37年(1904)、ジャーナリストの黒岩涙香(くろいわ るいこう)が「東京かるた会」を創設し、2月11日に第1回かるた大会を開いた。そのとき統一されたルールが、現在の競技かるたの始まりとされる[8]。かるたは冬の季語でもある。

全日本かるた協会の公表では、第72期名人位・第70期クイーン位の決定戦は2026年1月11日、滋賀県大津市の近江神宮で行われた。近江神宮は、百人一首の巻頭歌の作者とされる天智天皇をまつる[9]。

自分でも しらべてみたく なったら

自分でも調べてみたくなったら

自分でも調べてみたくなったら

今日 できること

うちや としょかんに 百人一首の 本が あれば、はじめの 歌と、おわりの 歌を さがして みましょう。だれの 歌か、名前を 見て みます。

どちらも 読んだら、すきな 歌を ひとつ えらんで、まわりの 人に 読んで あげても たのしいです。

出かけて できること

お正月に、かるたを 出して あそべる 人は やって みましょう。歌を 聞いて、ふだを さがす ところは、むかしの 貝あわせと にて います。

くわしく 知りたい とき

下の「出典しゅってん」に、しらべた 本や ページが のって います。としょかんの 人に きくと、さがし方を おしえて くれます。

今日できること

家や図書館にある百人一首の本で、最初の歌(天智天皇)と最後の歌(順徳院)を読み比べてみましょう。本の年表で二人の生きた時代を並べ、どれくらい離れているか比べてみるのも面白いです。

気になった歌を1首選んで、「定家が選んだとすれば、なぜこの歌だったのだろう」と考えてみるのも一つの手です。定家自身は説明を残していないので、自分の答えを作ってよいのです。

出かけてできること

京都の嵯峨(小倉山のあたり)には、定家の山荘があったとされる寺があり、場所は資料により分かれます。滋賀県の近江神宮では、名人位・クイーン位の決定戦が開かれています。

公式情報

競技かるたの大会や試合結果は、全日本かるた協会のサイトで見られます[9]。

今日できること

百人一首の注釈書で、百人一首と百人秀歌の違い(後鳥羽院・順徳院の2首)を自分で確かめる。97首が一致するという数え方が、資料でどう書かれているか比べてみたい。

出かけてできること

近江神宮での名人位・クイーン位決定戦は、大会ごとに全日本かるた協会が告知している。嵯峨野で定家の山荘があったとされる場所(常寂光寺、二尊院など諸説)を、自分の足で見比べる。

資料を読むなら

大阪府『第28回山片蟠桃賞受賞記念講演録』は、小倉色紙の真偽と成立の議論がまとまっている[5]。広辞苑の記述は立川市図書館のパスファインダーから確認できる[2]。

しらべた もとの じょうほう

参考にした情報源

参考にした情報源と、その使い方

2026年9月30日に確認。二次資料が多いため、原典の翻刻や注釈書にあたって確かめると、より正確に分かる。

  1. コトバンク「小倉百人一首」(日本大百科全書ほか) https://kotobank.jp/word/小倉百人一首 (構成人数、1235年の依頼、為家改訂説)
  2. 立川市図書館パスファインダー「百人一首」(広辞苑第6版の引用を含む) https://www.library.tachikawa.tokyo.jp/images/upload/05_hyakunin.pdf (定義と別名、宇都宮頼綱撰説、歌ガルタ)
  3. Wikipedia「宇都宮頼綱」 https://ja.wikipedia.org/wiki/宇都宮頼綱 (定家との親交、山荘の色紙)
  4. Wikipedia「百人秀歌」 https://ja.wikipedia.org/wiki/百人秀歌 (101人101首、97首一致、後鳥羽院・順徳院)
  5. 大阪府「第28回山片蟠桃賞受賞記念講演録」 https://www.pref.osaka.lg.jp/documents/11268/28kouennroku.pdf (小倉色紙の初見、成立をめぐる議論)
  6. 京阪電車「京都・滋賀 ぶらり散歩ガイド」 https://www.keihan.co.jp/navi/kyoto_tsu/tsu201301.html (山荘の場所の諸説)
  7. すみだ北斎美術館 企画展プレスリリース(2022) https://hokusai-museum.jp/ (江戸時代の普及。サイトのトップを掲載)
  8. 山陽小野田市 小野田高校かるた部顧問の解説 https://www.city.sanyo-onoda.lg.jp/uploaded/attachment/34889.pdf (カルタの語源、お正月、競技かるたの始まり)
  9. 全日本かるた協会 https://www.karuta.or.jp/ (名人位・クイーン位決定戦)

なおした ところ

更新履歴

更新履歴(改版の記録)

  •  初版を公開。

このサイトでは、公開した記事の本文は原則として書き直しません。誤りが見つかったときや、内容が古くなったときだけ手を入れ、その理由をこの欄に残します。