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石狩いしかりで はじまった さけの かんづめ

日本の缶詰は、どう始まったのか ── 66歳の技師と伝習生が動かした石狩の工場

日本の缶詰産業の始まり ── 長崎の試作(1871)、開拓使石狩缶詰所(1877)から輸出品へ

分野:歴史・文化

10月10日は、「かんづめの 日」です。1877年の この日、北海道ほっかいどうの 石狩いしかりで、さけの かんづめ づくりが はじまりました。

そのとき、アメリカから 来た 66さいの 技師ぎしが いました。ぎじゅつは、どうやって 日本の 人に つたわったのでしょうか。この 記事で、その ようすが わかります。

10月10日は「缶詰の日」です。日付のもとになったのは、1877年(明治めいじ10年)のこの日に、北海道の石狩で、サケの缶詰づくりが始まったことでした[1][2]。

その工場を支えたのは、当時66歳のアメリカ人技師でした[3]。缶詰づくりの技術は、どのように日本の人の手に渡り、どう広がったのでしょうか。石狩の工場の顔ぶれと、そのあとの動きが分かります。

10月10日の「缶詰の日」は、1877年(明治10年)10月10日に、開拓使石狩缶詰所が事業を始めた日にちなむ[1][2]。米国人技師U.S.トリート(当時66歳)が伝習生に技術を教える体制だった[3]。

日本の缶詰は石狩から始まったのか。長崎の試作(1871)、石狩、北海道内の鹿肉缶詰所(1878)、民間払い下げ(1887)、輸出品としての位置づけ(昭和初期)を、出典つきで確かめると、確かなことと、資料が割れて断定できないことが見えてくる。

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1. 石狩いしかりより まえは?

1. 石狩より6年前、長崎の試作

1. 長崎の試作(1871年)── 「始まり」の一つ目

じつは、石狩いしかりの 6年 まえにも、日本で かんづめを つくった 人が います。1871年、長崎ながさきで、いわしの 油づけの かんづめを つくったと つたえられています[1]。

フランス人に おしえて もらいながら つくった、とのことです。ここでは、まず 「ためしに つくって みた」ところ まででした。

日本の缶詰の始まりとしてよく挙げられるのは、1871年(明治4年)の長崎です。松田雅典という人が、フランス人の指導を受けて、イワシの油漬け缶詰を作ったとされています[1]。

この記事の主役は、そのあとの1877年の石狩です。石狩は、缶詰の機械や設備をアメリカから入れた、国内初の本格的な工場といわれています[2]。長崎は「試作」、石狩は「本格生産の始まり」と、役割を分けて見ると流れがつかめます。

日本缶詰びん詰レトルト食品協会は、1871年(明治4年)に長崎で松田雅典(まつだ まさのり)がフランス人の指導を受け、イワシの油漬缶詰を作ったのが日本の缶詰の始まりとしている[1]。指導者の名を、L.デュリーとする資料もある。

一方、石狩市は、1877年の開拓使石狩缶詰所を、アメリカの缶詰機械・設備を導入した国内初の本格工場と紹介している[2]。試作(長崎)と本格生産(石狩)を分けて読む必要がある。

2. だれが、ここで はたらいたの?

2. 石狩缶詰所の19人 ── 66歳の技師と11人の伝習生

2. 石狩缶詰所の人員(1877年)── 技術は誰から誰へ渡ったか

1877年10月10日、北海道ほっかいどうに あった 「開拓使かいたくし」という やくしょが、石狩いしかりに かんづめの 工場を ひらきました。しょちょうは、いしばし としかつ さんです[2]。

はたらいたのは、ぜんぶで 19人です。アメリカの 人の 技師ぎしトリートさんは、66さい。じょしゅの スウェットさんは、25さいでした。ほかに、ぎじゅつを ならう 人が 11人、ブリキや かじの しょくにんも いました[3]。

トリートさんが、ならう 人たちに おしえました。がっこうと 工場が いっしょに なった ような ところです。ただし、ほんとうの がっこうでは なく、かんづめを つくる 仕事が 本番でした。

石狩缶詰所は、1877年(明治10年)10月10日に事業を始めました。北海道の開発を進める国の役所「開拓使」の工場で、所長は石橋俊勝でした[2]。

石狩市の資料によると、缶詰所では、所長らのほか、アメリカ人技師U.S.トリート(当時66歳)と助手のW.S.スウェット(25歳)、開拓使の役人、11人の伝習生(技術を習う人)、ブリキ・鍛冶の職人など、あわせて19人が働きました[3]。技術を教えたのはトリートで、教わったのが伝習生です。

66歳の技師と25歳の助手が、海を渡って北海道へ来て、日本の人に教える。缶詰づくりは、機械を入れるだけでなく、人から人へ手ほどきを受ける仕事でもありました。

石狩市によれば、開拓使石狩缶詰所は1877年(明治10年)10月10日に事業を開始した。所長は石橋俊勝(いしばし としかつ)である[2]。石狩川のサケを使ったサケ缶詰が作られたと同市は紹介している[2]。

人員は、石橋所長のほか、米国人技師U.S.トリート(当時66歳)と助手W.S.スウェット(25歳)、開拓使の役人、伝習生(でんしゅうせい。技術を習う人)11人、ブリキ・鍛冶の職人ら、計19人である。技術はトリートが伝習生に教えた。トリートらは指導のために雇われた御雇外国人でもある[3]。

石狩市は、創業の1年前にクラーク博士が石狩を訪れ、通訳の出島松造(でじま まつぞう)とサケの缶詰を試作した(クラーク博士7缶、出島18缶)という記録を紹介している[2]。これが工場設立の直接のきっかけだったと言えるかどうかは、この記録だけでは分からない。

3. さけの ほかにも、なにを つくったの?

3. サケだけではなかった缶詰所

3. 初期の生産品目(1878年の開拓使報告)と数字の扱い

石狩いしかりの 工場は、さけだけでは ありません。かき、しかの にく、うしの にくの かんづめも つくりました[2]。

いちばん 多かった のは、さけで 12,092こ。つぎは しかの にくで 9,358こ、かきで 3,226こ、うしの にくで 222こでした。1878年の ほうこくに ある 数字です。つくった 期間は、つぎの 年の 3月までの 数か月です。

1878年(明治11年)の開拓使の報告では、缶詰所の生産は、サケ12,092缶、燻製サケ769本、カキ3,226缶、シカ肉9,358缶、牛肉222缶などでした。期間は、翌年3月までの数か月です[2]。

数字の中でも目立つのは、シカ肉の9,358缶です。サケだけでなく、北海道で手に入るいろいろな産物を缶に詰めてみる、という試みだったことが読み取れます。

なお、サケ缶の初年度の数量は、資料によって1万2千缶台、約1万5千缶、1万5,970缶と差があります。ここでは、石狩市の資料にある12,092缶だけを使いました。

石狩市の資料が示す1878年(明治11年)の報告では、サケ12,092缶、燻製サケ(スモークサーモン)769本、カキ3,226缶、シカ肉9,358缶、牛肉222缶などが作られた。期間は翌年3月までの数か月とされる[2]。

サケ缶の初年度の数量は、12,092缶、約1万5千缶、15,970缶と資料で差がある。資料によって数字が異なるため、ここでは石狩市の数字を示す。

輸出について、早い時期に海外への輸出も試みられたと紹介する記事もある[5]。ただし二次資料であり、時期や相手国は分からない。

4. 石狩いしかりの あと、しかの かんづめは どこへ?

4. 苫小牧の美々に生まれた鹿肉缶詰所

4. 開拓使美々鹿肉缶詰製造所(1878年)── 北海道内での広がり

1878年の 10月、北海道ほっかいどうの とまこまいの 「びび」という ところに、しかの にくの かんづめを つくる 工場が できました。

さけの かんづめが うまく いった ことを、まねした ようです[4]。1878年に つくった 数は、76,313こと つたわります。この 数は、びびだけの ものです。石狩いしかりの 数と まぜません。

1878年(明治11年)10月、苫小牧の美々に、開拓使美々鹿肉缶詰製造所が設立されました。石狩でサケ缶詰が成功したことを参考に、エゾシカの肉で缶詰を作り始めた、と苫小牧市は紹介しています[4]。

同市の資料では、1878年の生産高は76,313缶です。これは美々だけの数字なので、石狩の数字とは分けて読む必要があります。石狩の工場が動き出して1年ほどで、北海道の別の場所に、まねる工場が生まれたことになります。

苫小牧市によると、1878年(明治11年)10月、苫小牧の美々に開拓使美々鹿肉缶詰製造所が設立された。石狩でのサケ缶詰の成功を参考に、エゾシカ肉の缶詰を作り始め、同年の生産高は76,313缶、7,106円余とされる[4]。

この76,313缶は美々の数字であり、石狩の数字(第3章)と混ぜてはならない。石狩の成功を参考に、北海道内で鹿肉缶詰所(美々)が設立された、というところまでが、この章で示せることである。

5. そのあと、かんづめは どう ひろがったの?

5. 民間への払い下げと輸出品への広がり

5. 民間への払い下げ(1887年)と、その後の缶詰産業

1882年に、開拓使かいたくしは なくなりました。石狩いしかりの 工場は、べつの やくしょの もとに うつりました。1887年には 民間みんかんの 人の ものに なります。たかはし ぎへえ さんが つづけ、1912年まで 動きました[2]。

そのあと、日本の かんづめの 数は ふえて いきました。1921年から 1925年に かけて、1年の 数が 2万トンから 7万トンに なったと いう ものが あります[6]。

むかしの 日本では、さけや かにが かんづめと して 大事な 輸出ゆしゅつ品でした。1955年ごろからは、国の 中で 食べる ものが 多く なったと されます[1]。

1882年(明治15年)に開拓使が廃止され、缶詰所は農商務省などに移りました。1887年(明治20年)には民間に払い下げられ、高橋儀兵衛が経営を続け、1912年(明治45年)まで存続しました[2]。工場は約35年間、続いたことになります。

その後の産業の広がりは、統計で確認できます。ウィキペディアによると、1905年に大日本缶詰業連合会ができ、1921年から1925年にかけて、年間の生産量は約2万トンから7万トンへ増えたとされます[6]。約3.5倍にあたります。

昭和の初めには、サケ、カニ、マグロ、イワシ、ミカンなどが缶詰として重要な輸出品となり、昭和30年(1955年)以後は国内向けが多くなった、と缶詰の業界団体は説明しています[1]。

1882年(明治15年)の開拓使廃止後、缶詰所は農商務省などの所管に移った。1887年(明治20年)に民間へ払い下げられ、高橋儀兵衛(たかはし ぎへえ)が経営を継続し、1912年(明治45年)まで存続した[2]。

その後、1905年に大日本缶詰業連合会が発足し、1921~1925年に年産は約2万トンから7万トンへ増えた(約3.5倍)とされる。ただし出典はウィキペディア(日本語版)であり、二次資料の統計である[6]。

日本缶詰びん詰レトルト食品協会は、昭和初期にサケ・カニ・マグロ・イワシ・ミカンなどが重要な輸出品となり、昭和30年以後は国内向けが多くなったと述べる[1]。なお、10月10日が「缶詰の日」となったのは、同協会が創立60周年を機に1987年(昭和62年)に定めたことによる[1]。

石狩缶詰所が全国の缶詰産業の起点だと直接述べた一次資料は確認できなかった。確認できたのは、北海道内の広がり(第4章)と、その後の産業統計である。

6. うちの かんづめを 見て みよう

6. 自分でも調べてみたくなったら

6. 出口 ── ラベルを読む/原典に当たる

おうちに かんづめが あったら、ラベルを 見て みましょう。さけや さばの かんづめなら、何の さかなか、どこで つくられたかが かいて あります。かんづめを あける ときは、おうちの 人と いっしょに してください。

そして、むかしの 石狩いしかりの かんづめと、いまの かんづめは、どこが 同じで、どこが ちがうでしょうか。

家にある缶詰のラベルを見てみましょう。中身、原材料、製造者、賞味期限のほか、どの会社が、どこの工場で作ったかも書いてあります。同じ種類の缶詰を、別の会社のものと並べて比べてみるのも面白いでしょう。

缶を開けるときは、おうちの人と一緒に、ケガに気をつけて行ってください。

もっと調べたい人は、石狩市の「開拓使石狩缶詰所」のページ[2]や、日本缶詰びん詰レトルト食品協会のページ[1]が、日本語で公開されています。

缶詰のラベルには、原材料名、製造者、賞味期限などが書かれている。国内の缶詰と、輸入の缶詰を並べ、製造者の所在地を地図で調べると、産業の広がりを自分で確かめられる。

原典としては、石狩市の「開拓使石狩缶詰所」[2]、「石狩と関わった御雇外国人」[3]、苫小牧市の「開拓使美々鹿肉缶詰製造所跡」[4]、日本缶詰びん詰レトルト食品協会の解説[1]が日本語で読める。

しらべた もとの じょうほう

参考にした情報源

参考にした情報源と、その使い方

出典について:業界団体の解説、石狩市・苫小牧市の公式ページ、CBCの記事、ウィキペディアを使った。輸出の時期、生産量の統計、缶詰の日の由来は、二次資料に頼っている部分がある。

  1. 日本缶詰びん詰レトルト食品協会「缶詰・びん詰・レトルト食品について」。 https://www.jca-can.or.jp/useful/about (長崎の試作、缶詰の日、昭和初期の輸出品について)
  2. 石狩市「開拓使石狩缶詰所」。 https://www.city.ishikari.hokkaido.jp/museum/1001801/1004573/1004698.html (開始日、生産品目、民間払い下げについて)
  3. 石狩市「石狩と関わった御雇外国人」。 https://www.city.ishikari.hokkaido.jp/museum/1001801/1004573/1004667.html (技師トリートらの人員について)
  4. 苫小牧市「開拓使美々鹿肉缶詰製造所跡」。 https://www.city.tomakomai.hokkaido.jp/kyoiku/shogaigakushu/bunka/bunkazai/shinobunkazai/bibisikaniku.html (美々の鹿肉缶詰所について)
  5. CBC「日本最初の缶詰」。 https://hicbc.com/magazine/article/?id=news-ronsetsu-post-2278 (初期の輸出の紹介について。二次資料)
  6. 「缶詰」日本語版ウィキペディア。 https://ja.wikipedia.org/wiki/缶詰 (1920年代の生産量の増加について。二次資料)

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