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ここにあるのは、だれかが実際に調べ、考え、作ってきたことを集めたメモです。気になったら、ページの下の「参考にした情報源」から、もとの本や記事、それを生み出した人たちに、直接ふれてみてください。このメモには書ききれないおもしろさが、そこにあります。

学校の となりの 小さな 公園は、なぜ あるの? ── 100年まえの まちづくり

学校のとなりの小さな公園は、なぜ生まれたのか ── 関東大震災のあとの街づくり

復興小学校と復興小公園 ── 関東大震災後の帝都復興事業が道・橋・学校・公園に残したもの

分野:歴史・文化

東京の 下町には、学校の となりに 小さな 公園が ある ところが あります。じつは、やく100年まえに、学校と 公園を いっしょに 作った 場所が あるのです。

どうして 学校に 公園を くっつけたのでしょう。ほかにも、今の 東京に のこった ものは あるのでしょうか。関東大震災かんとうだいしんさいの あとの まちづくりが、道や 橋や 学校に どう のこったのかが 分かります。

東京の下町には、約100年前に、小学校と小さな公園をセットで作った場所があります。焼けた小学校を建て直す計画のうち52校では、校舎のとなりに「復興小公園」が置かれました[1]。

なぜ学校に公園を足したのでしょうか。大きな計画は途中で縮められたのに、何が今の街に残ったのでしょうか。関東大震災のあとの街づくりが、道・橋・学校・公園にどう残ったのかが分かります。

関東大震災のあと、東京市は焼けた小学校を鉄筋コンクリート造の復興小学校として建て直し、そのうち52校には復興小公園を併設した。公園は防災の拠点の役割も担ったとされる[6]。学校の横の小さな公園は、焼け跡の復興計画の部品だった。

では、なぜ学校と公園がセットになったのか。壮大な復興計画が大きく縮められても、道路・橋・学校・公園は、どんな形で残ったのか。複数の公的資料と自治体の資料から、計画の削られ方と、今も見られる街のつくりが分かる。

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1. 学校の よこに、なぜ 小さな 公園が あるの?

1. 学校とセットで作られた「復興小公園」

1. 復興小学校と復興小公園 ── 117校とされる焼失校と、52校の併設

関東大震災かんとうだいしんさいの あと、東京の 小学校は たくさん やけて しまいました。東京市は、もえにくくて じしんにも 強い 学校を、新しく たてる ことに しました。その 数は、117校と いわれます[6]。

そのうち 52校には、学校の となりに 小さな 公園も 作られました。この 公園は、ふだんは 子どもが 遊ぶ 場所です。まさかの ときには、みんなが 集まる 場所にも なりました[6]。

ただし、117という 数は しりょうによって、少し ちがう ことが あります。のこっている 学校や 公園も、場所によって、すがたは ちがいます。

では、この 学校と 公園は、どんな 計画から 生まれたのでしょうか。

焼けた小学校を建て直す

東京市は、焼けた小学校117校を、地震にも火にも強い鉄筋コンクリート造の3階建ての復興小学校として建て直しました。工事は1924年から1930年にかけて進められています[6]。

このうち52校には、「震災復興小公園」が併設されました。ふだんは子どもの遊び場ですが、防災の拠点としての役割も持っていました[6]。

ただし、117は焼けた学校の数です。この記事では「焼けた小学校の建て直し」という程度に読んでください。

学校と公園は、街全体の作りなおしの一部でした。その大きな計画は、どこから始まったのでしょうか。

東京市は、焼失した小学校117校を、耐震・耐火の鉄筋コンクリート造3階建ての復興小学校として建設した(1924〜1930年)。このうち52校には震災復興小公園が併設され、防災の拠点としての役割も担った[6]。

117は焼失校数である[6]。本記事は、この数を「焼けた小学校の再建」の規模感として使う。

学校と公園をセットにするという発想は、個々の学校の話ではなく、街全体の再設計の一部として出てきたものだ。その全体像を、次の章から見る。

2. ごとうしんぺいは、どんな 計画を 立てたの?

2. 「絶好の機会」ととらえた後藤新平と、縮められた計画

2. 帝都復興院と後藤新平の計画 ── 資料で異なる予算の削られ方

大きな じしんと 火事で、東京の 広い 町が やけました。そのあと、国は 町を 作りなおす 役所を つくりました。その 長に なったのが、ごとうしんぺい という 人です[3]。

ごとうは、この ときを、町を 作りかえる 大きな きかいだと 考えた と いわれます。はじめの 計画は、ものすごく 大きな ものでした[1]。

ところが、お金の 話し合いで、計画は 大きく ちぢめられて いきます[1]。それでも、計画は ぜんぶ なくなったのでは ありません。

では、ちぢめられた あとでも、町には なにが のこったのでしょう。

焼け野原を「作りなおす」機会に

関東大震災の直後、内閣総理大臣の直属の機関として帝都復興院が置かれ、後藤新平が総裁になりました。のちに内務省の復興局が事業を引き継いでいます[3]。

内閣府の資料によると、後藤は震災を都市改造の絶好の機会ととらえ、約30億円の復興計画を唱えました[1]。

計画は、どれくらい縮んだのか

内閣府の資料は、初期案が5か年で13億円になり、大蔵省との話し合いで7億円に、さらに約1億円が削られたと説明します[1]。一方、気象庁の講演資料は、復興院の10月末案は15億円、井上準之助蔵相の11月案は7億円、一時は4.7億円まで減り、実行されたのは7億円規模だとしています[2]。

資料によって、元にする案が30億円か15億円かがちがうため、数字は合いません。ここでは「大きな計画が大幅に縮められた」と読んでください。

それでも事業は進みました。縮んだ予算で、街の何が変わったのでしょうか。

帝都復興院は内閣総理大臣直属の機関として置かれ、後藤新平が総裁に就いた。のち1924年に内務省の外局・復興局が事業を引き継いだ[3]。内閣府の資料によれば、後藤は震災を都市改造の絶好の機会ととらえ、約30億円の復興計画を提唱した[1]。

ところが、計画はその後の予算折衝で大きく縮んだ。ただし、その過程は資料によって数字の出し方が異なる。内閣府は、初期案の5か年・13億円が大蔵省との折衝で7億円に削られ、さらに約1億円が減ったとする[1]。気象庁の講演資料(武村雅之)は、復興院の10月末案が15億円、井上準之助蔵相の11月案が7億円、一時は4.7億円まで減額され、実行された事業は7億円規模(総額約7億2450万円、国7割・東京市3割)とする[2]。

資料ごとに起点とする案が異なるため、倍率を断定するのは避け、「7億円規模に収まった」という共通点だけを確かな事実として扱う。それでも事業は続き、1930年(昭和5)まで6年間に及んだ[3]。

3. せまい 町は、どう かわったの?

3. 縮められても、焼けた土地の8割以上で区画整理が進んだ

3. 土地区画整理 ── 65地区・920万坪と約20万棟の移転

えどの ころから つづく 東京の 町は、道が せまくて ごちゃごちゃ していました。そこで、やけた 土地の 8わりいじょうで、土地を 整理しなおす 工事が 行われました[1]。

家や 店が たくさん 引っこして、新しい 道や 公園が できます。引っこした たてものは、やく20万むねと いわれます[1]。

工事は、道や 橋、すいどうかん、ガスかん、電線、公園など、いろいろでした。6年間 つづき、1930年まで かかりました[3]。

ただし 20万むねは、引っこした たてものの 数で、やけた たてものの 数では ありません。

では、新しい 道は、どれくらい 広かったのでしょうか。

街を区切りなおす工事

東京では、焼けた地域の8割以上、約920万坪を65の地区に分けて、土地区画整理が行われました。約20万棟の建物が移転し、江戸以来のせまい町並みが、整った道路と公園に置き換わりました[1]。

920万坪を平方キロメートルに直すと約30平方キロメートルです(1坪を約3.3平方メートルとして計算)。20万棟は、焼けた建物の数ではなく、区画整理で移転した建物の数です。

道路だけでなく、地下にも

事業の内容は、区画整理のほか、幹線道路や橋の整備、水道管・ガス管・電線・電話線の地下への整備、河川や運河、公園の整備、防火対策の助成などでした。6年間にわたり、1930年(昭和5)まで続きました[3]。

区画整理でできた新しい道は、どんな姿をしていたのでしょうか。

東京の復興では、焼失地域の8割以上(920万坪)を65地区に分けて土地区画整理事業が実施され、約20万棟が移転した。これにより江戸以来のせまい町並みが、整備された道路と公園に置き換わった[1]。920万坪は約30km²に当たる(1坪=約3.3m²で計算)。20万棟は移転建物の数で、焼失棟数ではない。

事業の中身は区画整理にとどまらない。幹線道路・橋梁の整備、埋設水道管・ガス管・電線・電話線の整備、河川・運河の整備、公園の整備、防火対策の助成が含まれ、1930年(昭和5)まで6年間続いた[3]。縮められた予算の中でも、街の骨格にあたる土地の区切り方と、地下の管線は、広い範囲で作りなおされたことになる。

では、その骨格のうち、最も目に見えやすい道路は、どんな形で作られたのか。

4. 昭和通りは、どれくらい 広い 道?

4. 幅44メートルの昭和通りと、新聞で決まった道の名前

4. 幹線道路網 ── 昭和通りと、22路線の名前の懸賞募集

ふっこうで 作られた 道の 中で、いちばん はじめの 大きな 道を「昭和通り」と いいます。はばは 44メートル。おおよそ、新橋の 方から 上野の 方へ、8キロメートルほど つづきます[4]。

44メートルは、教室の ながい ほうの かべを、5つ ならべた くらいです。(教室を 9メートルと して 考えました。)

ふっこうでは、大きな 道と 小さめの 道が、たくさん 計画されました。そのうち 22本の 大きな 道の 名前は、新聞で みんなから ぼしゅうして 決めたそうです[4]。「昭和通り」の 名前も そのとき 決まったかは、ここで 使った しりょうからは 分かりません。

道の 次は、川を わたる 橋です。ここには、ある 外国の 橋が お手本に なりました。

第1号の幹線道路

昭和通りは、復興で作られた幹線道路の第1号です。幅は44メートル、新橋から上野の方へ約8キロメートル続きます。1928年(昭和3)に完成しました[4]。起点の書き方は資料によってゆれるので、ここでは「新橋から上野方面」としています。

44メートルは、よく見かける2車線の道(幅7メートルほど)の6倍以上です(44÷7≒6.3)。

道の名前を新聞で決めた

復興計画では、幹線と補助線あわせて170路線あまりが計画されました。そのうち22の幹線の名前は、東京日日新聞の懸賞募集で決められました[4]。ただし、昭和通りの名前が懸賞募集で決まったかどうかは、この資料からは分かりません。

道路は、川にぶつかると橋が必要になります。隅田川には、復興でどんな橋が架かったのでしょうか。

昭和通りは復興の第1号幹線道路で、幅員44m、新橋から上野方面へ約8km、1928年(昭和3)に完成した[4]。起点は資料により「三ノ輪」「大関横町」「上野」と表記が揺れるため、ここでは「新橋〜上野方面」にとどめる。44mは2車線道路(幅7m程度と仮定)の約6倍にあたる。

復興計画では幹線・補助線あわせて170路線あまりが計画され(資料により数え方に1本ほどの差がある)、そのうち22の幹線の名前が、東京日日新聞の懸賞募集で決められた[4]。ただし、懸賞の対象は22の幹線で、全路線ではない。昭和通りの名が懸賞由来かどうかは、この資料に記述がない。

道路網は川に達すると橋を必要とする。隅田川に架けられた橋に、設計の着想元として別の国の橋が挙げられているのはなぜか。

5. ドイツの 橋を お手本に した 橋が ある

5. 隅田川の橋は、ドイツの橋をお手本にした

5. 隅田川の復興橋梁 ── 永代橋・清洲橋とドイツの橋

すみだがわには、ふっこうで 9つの 橋が かけられたと いわれます。上流から、ことといばし・あずまばし・こまがたばし・うまやばし・くらまえばし・両国橋・きよすばし・えいたいばし・あいおいばしです[5]。

中でも きよすばしは「しんさいふっこうのはな」と よばれました。ドイツの ケルンという 町に ある つり橋が、お手本に なったと されます[5]。えいたいばしは、ドイツの ライン川の 橋を モデルに したと いわれます。

きよすばしは、鉄の 板を つないだ くさりで 橋を つるしています[5]。ただし「お手本」は、そっくり 同じ という 意味では ありません。

橋の 数は、東京中で 425と いわれます。ただし これは、昭和の はじめまでに 作られた すべての 橋の 数です[3]。

道と 橋の ほかに、町には もう ひとつ 大切な たてものが ふえました。

隅田川の9つの橋

隅田川には、復興事業で恒久橋として、上流から言問橋・吾妻橋・駒形橋・厩橋・蔵前橋・両国橋・清洲橋・永代橋・相生橋の9橋が架けられました。相生橋は1998年(平成10)に架け替えられ、今残るのは8橋です[5]。

ただし、吾妻橋・厩橋・両国橋などは、新設か修復かで資料の扱いがちがいます。「9つがすべて新しい橋」とは言い切れません。

ドイツの橋をお手本に

永代橋は、ドイツのライン川にあるルーデンドルフ橋をモデルにしたとされます。竣工は1925年12月とする資料と、1926年とする資料があり、「1925〜26年ごろ」としておきます。清洲橋は、ドイツのケルンの大吊橋(ヒンデンブルク橋)をモデルにしたとされ、「震災復興の華」と呼ばれました。鉄板をつないだチェーンで吊る橋で、1928年に竣工しました[5]。

「モデル」は、設計の着想元という意味で、同じ形ではありません。

震災復興橋梁は、昭和初期までに東京で425橋が架けられ、旧日本橋区と旧京橋区だけで103橋でした。耐震性・耐火性があり、自然の景観になじむデザインを持つ橋です[3]。道と橋が整うと、次は学校の姿です。

隅田川には復興事業で、上流から言問・吾妻・駒形・厩・蔵前・両国・清洲・永代・相生の9橋が恒久橋として架かった。相生橋は1998年(平成10)に架け替えられ、現存は8橋である[5]。ただし吾妻・厩・両国は、復興橋としての新設か修復かで資料により扱いが分かれる(両国橋は被災橋の修復)。「新しい9橋」とは言い切れない。

設計の着想元に外国の橋が挙げられている。永代橋はドイツ・ライン川のルーデンドルフ橋、清洲橋はケルンの大吊橋(ヒンデンブルク橋)をモデルにしたとされる。清洲橋は鉄板をつないだチェーンで吊る自碇式チェーン吊り橋で、「震災復興の華」と呼ばれた。いずれも土木学会選奨土木遺産である[5]。「モデル」は設計上の着想元の意で、同一形状ではない。永代橋の竣工は、1925年12月とする資料と1926年とする資料があり、「1925〜26年ごろ」とする。

中央区の資料は、昭和初期までに架けられた震災復興橋梁を425橋とし、旧日本橋区・旧京橋区だけで103橋とする。これらは耐震性・耐火性をそなえた実用構造物で、自然景観と調和する固有のデザインを持つという[3]。ただし425は昭和初期までの総数で、すべてが復興局の橋とは限らない。

道・橋・区画の整備のあと、街の暮らしに最も近い建物である小学校は、どう作られたか。

6. 新しい 小学校は、どんな たてもの?

6. 当時の最新設備をそろえた復興小学校

6. 復興小学校の建築 ── 鉄筋コンクリート造と表現主義の影響

新しい 小学校は、柱や はりが 太い 鉄の ぼうと コンクリートで 作られました。水で ながす トイレや ガスの せつびまで ある、そのころ いちばん 新しい 学校でした[7]。

見た目にも くふうが ありました。外の かべに カーブが ある、天じょうが アーチの かたち、丸い 柱、ベランダ などです。ドイツで はやった ひょうげんしゅぎという かたちを 取り入れた ものが 多い と いわれます[7]。

文京区の しりょうは、めいかしょうがっこうという 学校の とくちょうを せつめいして います。この 学校は、ふっこう小学校と 少し ちがう あつかいの 学校ですが、同じころの 小学校の 作りの さんこうに なります。

学校の ほかにも、大きな 公園が できました。

太い柱と、最新の設備

復興小学校は、柱や梁が太い鉄筋コンクリート造で、水洗トイレやガス設備まで備えた、当時としては最新の学校建築でした[7]。

曲線とアーチの外観

外観には、曲線を取り入れた壁、アーチ状の天井、丸柱、ベランダなどの特徴があり、ドイツ表現主義の影響を受けたものが多いとされます[7]。隅田川の橋と同じく、ここでもドイツの建築の流れが取り入れられていたことになります。

この資料が取り上げる文京区の明化小学校は、厳密には復興小学校とは区別される「改築小学校」です。特徴は復興期の小学校建築全般の例として読んでください。

学校のほかにも、街のあちこちに、新しい公園と住まいが生まれていました。

復興小学校は、柱や梁が太い鉄筋コンクリート造で、水洗トイレやガス設備まで備えた、当時最新の学校建築だった。曲線を取り入れた外観、アーチ状の天井、丸柱、ベランダなどが特徴で、ドイツ表現主義の影響を受けたものが多い[7]。隅田川の橋と同じく、ここにもドイツの影響が見られる。

ただし、この記述の出典である文京区の資料が扱う明化小学校は、「改築小学校」(残存区域)で、厳密には復興小学校と区別される。したがって、ここで挙げた特徴は、復興期の小学校建築全般の例として読むべきで、特定の1校の記録ではない。

7. 大きな 公園と、新しい 住まいも できた

7. 大きな公園と、別の組織が建てた新しい住まい

7. 復興公園と同潤会アパート ── 復興局とは別の事業

学校の となりの 小さな 公園の ほかに、大きな 公園も 作られました。すみだこうえん、はまちょうこうえん、きんしこうえんの 3つです[1]。

いちばん 大きな すみだこうえんは 5万2700つぼ、およそ 17万平方メートルです(1つぼを やく3.3平方メートルとして 計算しました)。

もうひとつ、どうじゅんかいという そしきが、新しい アパートを たてました。これは、ふっこうきょくとは べつの そしきの 仕事です。1926年から 1934年に、16か所で やく2800戸が 作られました[8]。

こうして 今も、100年ほど まえの まちづくりの あとが、東京の いろいろな ところに 見られます。

3つの復興公園

復興公園として、隅田公園(5万2,700坪)、浜町公園(1万1,000坪)、錦糸公園(1万7,000坪)が整備されました[1]。隅田公園は約17万平方メートルです。浜町公園は約3.6万平方メートル、錦糸公園は約5.6万平方メートルです(1坪を約3.3平方メートルとして計算)。

同潤会のアパート

同潤会は、震災の翌年の1924年に、内務省が義捐金をもとに設立しました。1926年から34年にかけて、中之郷・代官山・青山など16か所に、約2,800戸の鉄筋コンクリート造アパートを建てました。集会室や中庭、水洗便所など、新しい住まいの形を試しています[8]。

ただし、同潤会は復興局の帝都復興事業とは別の組織です。ここでは、同じ時代の動きとして紹介します。

復興公園として、隅田公園(5万2,700坪)、浜町公園(1万1,000坪)、錦糸公園(1万7,000坪)が整備された[1]。1坪=約3.3m²で計算すると、隅田公園は約17万m²、浜町公園は約3.6万m²、錦糸公園は約5.6万m²になる。

同潤会は、震災翌年の1924年に内務省が義捐金をもとに設立した。1926〜34年に中之郷・代官山・青山など16か所、約2,800戸の鉄筋コンクリート造アパートを建て、集会室・中庭・水洗便所などを備えた新しい住まいの形を試した[8]。ただし同潤会は復興局の事業ではなく別組織で、「帝都復興事業」に含めると誤りになる。

こうして見ると、縮められた計画の中でも、道・橋・学校・公園・住まいが、それぞれ別の担い手によって作られたことが分かる。

8. じぶんの 町でも、さがして みよう

8. 近くの学校や橋を、自分の目で探してみる

8. 出口 ── 現地で確かめられること、読める資料

地図アプリや 地図帳で、すみだがわを 上流から 下流へ 見て みましょう。橋を 上から じゅんばんに 数えて みます。ふっこうで 作られた 橋と、今の 橋が、どれくらい 重なって いるか、さがして みます。

東京の 下町に 行く きかいが あれば、学校の となりに 小さな 公園が ないか、見て みましょう。ただし、この 組み合わせが のこっている 場所は、一部だけです。ない 場所も あります。

道を 歩く ときは、車に 気を つけてください。

今日できること

日本の地図アプリや地図帳で、隅田川の橋を上流から数えてみましょう。言問橋・吾妻橋・駒形橋・厩橋・蔵前橋・両国橋・清洲橋・永代橋と並びます[5]。このうち相生橋は1998年に架け替えられましたが、ほかの橋は復興事業で架けられた橋として紹介されています。

出かけてできること

東京の下町に行く機会があれば、小学校のとなりに小さな公園がないか、探してみましょう。清洲橋と永代橋を見比べるのも一つの手です。ドイツの橋がお手本といわれるチェーンの吊り橋と、そうでない橋は、並べるとちがいが見えます。道を歩くときは、車に気をつけてください。

資料を読むなら

内閣府の「関東大震災から100年」の記事[1]と、中央区の震災復興橋梁図面のページ[3]は、日本語で読めます。

確かめ方は二つある。一つは、日本の地図アプリで隅田川の橋を上流から数え、本記事の9橋と見比べること。相生橋が1998年に架け替えられたため、現存の復興橋は8橋になる[5]。もう一つは、東京の下町で小学校と小公園が隣り合っている場所を探すこと。ただし、併設は52校にとどまるため、見つからない場所も多い[6]。

資料を読むなら、予算の削られ方は内閣府[1]と気象庁(武村)の講演資料[2]の数字を突き合わせると、基準のちがいが見える。橋と建築は中央区[3]・文京区[7]の資料が日本語で読める。同潤会が復興局と別組織であることは、コトバンクの解説で確かめられる[8]。

永代橋の竣工年や復興小学校の校数は、資料によって数字がちがう。帝都復興事業の図表を見れば、違いを確かめられるかもしれない。

しらべた もとの じょうほう

参考にした情報源

参考にした情報源と、その使い方

出典について:内閣府、気象庁、中央区、文京区の資料と、旅行情報サイト、地域アーカイブ、事典を使った。何に使ったかは、それぞれの項目の最後に書いている。

  1. 内閣府 防災情報のページ「関東大震災から100年③」。https://www.bousai.go.jp/kohou/kouhoubousai/r05/108/special_01.html (復興計画、区画整理、復興公園について)
  2. 気象庁 令和5年度講演資料(武村雅之)。https://www.data.jma.go.jp/nagoya/shosai/app/kouenkai/R5_takemura.pdf (予算の削られ方の別の数字について)
  3. 中央区 震災復興橋梁図面(区民文化財)。https://www.city.chuo.lg.jp/a0052/bunkakankou/rekishi/bunkazai/kuminbunkazai/sinsaihukkokyoryozumen.html (復興機関、事業内容、復興橋梁の数について)
  4. tabi-mag 東京の復興幹線道路。https://tabi-mag.jp/mainroads-tokyo/ (昭和通りと道の名前の募集について。二次資料)
  5. tabi-mag 東京のシンボル 震災復興橋梁。https://tabi-mag.jp/reconstructionbridge9/ (隅田川の橋とドイツの橋について。二次資料)
  6. このまちアーカイブス(深川)。https://smtrc.jp/town-archives/city/fukagawa/p07.html (復興小学校と小公園について)
  7. 文京区 明化小学校現校舎の特徴(資料第11号)。https://www.city.bunkyo.lg.jp/documents/2137/siryou11_meikasyougakkougenkousyanotokucyou.pdf (復興期の小学校建築の特徴について)
  8. コトバンク 同潤会アパート。https://kotobank.jp/word/同潤会アパート-190281 (同潤会のアパートについて。二次資料)

なおした ところ

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