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かみは いつ 日本に きたの? 610ねんの 一ぎょう

紙が日本に来たのは610年? ── 一行の記録と、裏紙で残った戸籍

紙の日本伝来は610年か ── 『日本書紀』の曇徴の記事と、702年の戸籍用紙

分野:歴史・文化

「かみは 610ねんに 日本へ つたわった」と 言われる ことが あります。でも、その 年に ほんとうに かみが はじめて きたのでしょうか。

さがして みると、手がかりは たった 一ぎょうの 記録きろくと、いまも のこる ふるい かみ 一まいでした。

「紙は610年に、高句麗の僧・曇徴が日本に伝えた」と紹介されることがあります。ところが、元になった『日本書紀』の一行を読むと、書かれているのは少しちがうことです。

年代がたしかな最古の紙は、別の年のものです。しかもそれは、役所の文書として大切にされたのではなく、うら紙として使われたから残りました。

日本への紙の伝来は610年、高句麗の僧・曇徴による、と説明されることがある。だが『日本書紀』の該当条が述べているのは、曇徴が紙と墨を「作れた」ことであり、紙が初めて入った年とは書かれていない[1]。

この記事では、610年の記事の中身、「最古の記録」と「伝来の年」の区別、年代が確かな現存最古の紙である702年の戸籍用紙が残った経緯を、複数の資料から整理する。

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1. 610ねんの 一ぎょうには、なんと 書いてある?

1. 『日本書紀』610年の条 ── 曇徴は何を「作れた」のか

1. 推古18年(610年)の条 ── 「紙墨を作る」という記述の範囲

日本で いちばん ふるい 歴史れきしの 本の ひとつに、『日本書紀にほんしょき』が あります。その 610ねんの ところに、こう いう 話が のって いると、ウィキペディアが 文を ひいて しょうかい して います[1]。

「高句麗こうくりという 国の 王さまが、僧そうの 曇徴どんちょうを おくって きた。曇徴どんちょうは、かみと すみを 作る ことが できた」。

ここで 大じな ことは、「作る ことが できた」と いう ところです。「日本で はじめて 作った」とは、書いて ありません。

『日本書紀にほんしょき』の推古天皇18年(610年)の春3月の条に、次のような記事があります。高句麗の王が、僧の曇徴どんちょうと法定を献上した。曇徴は儒教の経典に通じ、絵の具や紙・墨をよく作り、水力で回す石うすも造った、という内容です[1]。

ここで大事なのは、書かれているのが「紙や墨を作る腕があった」という点だということです。「日本で初めて紙を作った」「紙づくりを発明した」とは書かれていません。

紙を作る人が610年に来た、というのが、この一行から読み取れる範囲です。

『日本書紀』推古天皇18年(610年)春3月の条は、高句麗王が僧の曇徴(どんちょう)と法定を貢上したと記す。曇徴は五経に通じ、彩色と紙墨を作ることに長じ、碾磑(てんがい、水力で回す石臼)も造ったとされる[1]。

注意したいのは、原文の述語が「作ることができた」の範囲にとどまる点である。曇徴が紙づくりの創始者なのか、すでに技術を持つ人として来たのかは、論者のあいだで議論がある[1]。したがって、この記事から直接わかるのは「610年に紙を作れる人物が渡来したと書紀が記す」ことまでで、日本での紙の初出年とは読めない。

2. 「かいて ある 年」と 「きた 年」は、おなじ?

2. 「最古の記録」と「伝わった年」はちがう

2. 最古の記録と伝来年の区別 ── 5世紀説・6世紀説はどこまで言えるか

たとえば、クラスの めいぼに 名前が はじめて のった 日が 4月だと します。でも、その 子が 4月に はじめて 学校に きたとは かぎりません。もっと まえから、となりの 町から かよって いたかも しれません。

かみも、これに にて います。610ねんの 話は、「日本の かみづくりに ついて、いま 手もとに ある いちばん ふるい 記ろく」と 言われます[2]。

ただし、本当に かみが いつ 日本に きたのかは、はっきり しません。5せいきごろには、もう 日本で かみが 作られて いたかも しれない、と いう 見かたも あります。でも、これは すいそくです[2][3]。

クラスの名簿に名前が初めて載った日と、その子が初めて登校した日は、同じとはかぎりません。610年の記事と紙の伝来の関係も、これに似ています。

紙の博物館は、610年の曇徴の記事を「日本の製紙に関する最古の記録」とする一方で、5世紀ごろまでには渡来した人たちによって国内で紙が作られていただろう、という見方も示しています[2]。日本製紙連合会も、610年に曇徴が伝えたと「いわれる」と書いたうえで、それ以前から紙すきが行われていたという説もあると注記しています[3]。

さらに、538年ごろの仏教の伝来といっしょに、紙づくりの知識も入ったのではないか、540年に渡来人に戸籍を作らせた記事から紙があったと考えられないか、といった推測もあります。ただ、これらは伝承をもとにした推測で、遺物では確かめられていません[6]。

610年の記事は、日本の製紙に関する最古の記録とされる一方、伝来年そのものを示すものではない。紙の博物館は、5世紀ごろまでには渡来人によって国内でも紙が作られていただろうという見方を併記し[2]、日本製紙連合会も、610年に曇徴が墨とともに製紙法を伝えたと「いわれる」としつつ、それ以前から紙すきがあったとする説を挙げる[3]。

さらに古い説として、538年(宣化天皇3年)の仏教伝来とともに造紙の知識が入った可能性や、540年(欽明天皇元年)に渡来人に戸籍を編ませた記事から紙の存在を推す見方が紹介されている[6]。ただし、これらは伝承ベースの推測で、遺物や一次史料で裏づけられたものではない。

整理すると、紙の博物館などが610年の記事を「最古の記録」としていること、そして推測にとどまるのは「それ以前に紙が入っていた」ことである。両者を混ぜないことが、この話を読むときの要点になる。

3. 「年が たしかな」 いちばん ふるい かみは?

3. 年代がたしかな現存最古の紙 ── 702年の戸籍

3. 702年の戸籍用紙 ── 美濃・筑前・豊前

では、いまも 見られる かみで、年が はっきり している いちばん ふるい ものは なんでしょう。

それは、702ねんの 戸籍こせきの かみだと されて います。戸籍こせきは、どこに だれが すんで いるかを 書いた、役所の 名ぼの ような ものです。奈良ならの 正倉院しょうそういんという 場所に、つたえられて います[2]。

さきほどの 610ねんから、およそ 90ねん あとの ものです。

今も見ることができる紙のうち、年代がはっきりしている最古のものは、702年(大宝2年)の戸籍用紙とされています。美濃国・筑前国・豊前国の戸籍が、奈良の正倉院に伝わっています[2]。

文化庁の「文化遺産オンライン」も、大宝2年の美濃国の戸籍用紙が正倉院に残ると説明していて、別々の機関の資料で702年が一致します[4]。

610年の記事から、およそ90年あとの紙です。

年代が確かな現存最古の紙とされるのは、正倉院に伝わる702年(大宝2年)の、美濃国・筑前国・豊前国の戸籍用紙である[2]。文化庁の文化遺産オンラインも、大宝2年の美濃国の戸籍用紙が正倉院に残ると記しており、別機関の資料で702年が一致する[4]。

610年の曇徴の記事とは92年の差がある。この差は、紙の伝来から現存最古の紙までの長さではなく、「最古の記録」と「年代が確かな最古の実物」の年の差にすぎない点に注意したい。

4. どうして、その かみだけ のこったの?

4. 戸籍はなぜ、写経の帳簿の裏紙になったのか

4. 戸籍はなぜ、帳簿の裏紙として約1300年残ったのか

おどろく ことに、その 戸籍こせきは、大じに しまって おかれた から のこった のでは ありません。

戸籍こせきには、ほぞんする 年数が きまって いました。この ころの 戸籍こせきは、その 年数が すぎたら、すてる ことに なって いました[5]。

ところが、東大寺とうだいじという お寺の 写経所しゃきょうじょに、ゆずられました。お経きょうを 書きうつす ところです。そこで、748ねんの 帳ぼの うらがわに、もう 一ど つかわれました[5]。

うら紙に なった おかげで、およそ 1300ねん、つたえられたのです。

実はこの戸籍は、大切に保存されるために残ったのではありません。美濃国の半布里の戸籍は、決められた保存期間が終わったあと、本来なら廃棄されるところでした[5]。

ところが、東大寺の写経所に払い下げられました。写経所は、お経を書き写す仕事をする場所です。そこで748年の写経の帳簿の裏側に、もう一度使われたのです。

役所の記録としての役目を終えた紙が、写経所の帳簿の裏紙として使われ、そのまま正倉院に約1300年伝わりました[5]。捨てられずに、もう一度使われたことが、残った理由の一つです。

美濃国半布里(はにゅうり)の702年の戸籍は、保存期間の満了後は廃棄されるはずだったが、東大寺の写経所へ払い下げられた。写経所は、経典を書き写す部署である。そこで748年の写経の帳簿の裏面に再利用され、結果として正倉院に約1300年伝わった[5]。

この戸籍が残った理由の一つは、裏紙として再利用されたことだ。役所の書類として大切に保管されたのではない点が、この話の面白さである。

5. そのあと、かみは どう かわった?

5. 麻から楮へ ── 日本らしい「和紙」になるまで

5. 原料の変化と流し漉き ── 麻から楮・雁皮へ、平安時代の独自技法

はじめの ころの 日本の かみは、麻あさという 草が 主な 原料げんりょうでした。あとから、楮こうぞや 雁皮がんぴなど、日本に ある 木や 草も つかわれるように なりました[3]。

平安へいあんじだいには、「流し漉きながしずき」と いう 日本ならではの すき方が はったつしたと されます。トロロアオイという 草の 根を つかい、ねばりを 出します[6]。

こうして できた かみが、いま 「和紙」と よばれて います。

初期の日本の紙は、麻が主な原料でした。その後、楮こうぞや雁皮がんぴなど日本に生える植物も使われるようになり、日本独自の和紙が生まれたとされています[3]。

作り方も変わりました。平安時代には、「流し漉きながしずき」という日本独自の手すきの技術が発達したとされます。トロロアオイという植物の根を使い、水にねばりを出して、うすい紙をすく方法です[6]。

日本に来た技術が、この土地の植物や水に合わせて形を変えていった、ということです。

初期の日本の紙は麻が主原料で、のちに楮(こうぞ)や雁皮(がんぴ)など日本の植物が使われるようになり、日本独自の和紙が生まれたとされる[3]。

製法についても、平安時代に「流し漉き(ながしずき)」という独自の手漉き技術が発達したとされる。トロロアオイの根などから出る粘りを利用する方法である[6]。文化遺産オンラインは、石見(いわみ)でも10世紀初めに製紙が行われていたことを記している[4]。

伝来した技術が、原料と製法の両面で日本の環境に合わせて変化した、という流れがここから読み取れる。なお、流し漉きの成立時期は資料によって幅があるため、ここでは時代の範囲でとどめた。

自分でも しらべて みたく なったら

自分でも調べてみたくなったら

自分でも調べてみたくなったら

今日 できること

おうちに、うらを つかった 紙が ないか、さがして みましょう。チラシの うらや、コピー用紙の うらなどです。702ねんの 戸籍こせきと、おなじ ことを して いるかも しれません。

紙を 光に かざして みると、あつさが ところどころ ちがうのが 分かるかも しれません。

もっと しりたい とき

「紙の 博物館はくぶつかん」の ホームページには、日本の かみの 歴史れきしが のって います。気に なったら、おうちの 人と 見て みても いいですね。

今日できること

家の中で、裏面を使った紙を探してみましょう。チラシの裏、使い終わったコピー用紙の裏など、もう一度使われた紙が見つかるかもしれません。何のために作られ、あとから何に使われたのか、順番を書いてみると、写経所の帳簿の話がぐっと近く感じられます。

公式の情報

紙の博物館の「紙のQ&A」や、日本製紙連合会の「紙の歴史」には、日本への伝わり方がまとまっています。文化遺産オンラインでは和紙の技術の説明を読めます。気になったときに開いてみてください。

今日できること

身近な紙で、「記録された日」と「使い始めた日」がずれていないか探してみるとよい。ノートの表紙に書いた日付と実際に使い始めた日、プリントの日付と配られた日などである。日付が残っていても、それは使い始めの日とは限らない。610年の記事を読むときの区別と同じだと気づく。

資料を読むなら

  • 紙の博物館「紙のQ&A」:610年の記事の位置づけと5世紀説の併記[2]
  • 日本製紙連合会「紙の歴史」:日本への伝播と原料の変化[3]
  • 文化遺産オンライン/富加町の解説:702年の戸籍用紙の年代と、残った経緯[4][5]

しらべた もとの じょうほう

参考にした情報源

参考にした情報源

同じ話を、複数の資料で突き合わせて書きました。

  1. 「曇徴」Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/曇徴 (『日本書紀』610年の記事の引用と、創始者かどうかの議論)
  2. 紙の博物館「紙のQ&A」 https://papermuseum.jp/ja/qa/ (最古の記録の位置づけ、5世紀説、702年の戸籍用紙)
  3. 日本製紙連合会「紙の歴史 日本への伝播」 https://www.jpa.gr.jp/p-world/p_history/p_history_04.html (伝来に関する見方、原料の変化)
  4. 文化庁「文化遺産オンライン 和紙:日本の手漉和紙技術」 https://online.bunka.go.jp/heritages/detail/288723 (702年の戸籍用紙、石見の製紙)
  5. 富加町「奈良正倉院に残る最古の戸籍」 https://www.town.tomika.gifu.jp/docs/271.html (戸籍が写経所で再利用された経緯)
  6. 「和紙」Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/和紙 (6世紀説の紹介、流し漉きの成立)

なおした ところ

更新履歴

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