1. どうして「スペイン」と いうの?
1. 名前の由来 ── 出どころではなく「報道」
1. 名称の由来と、発生地が確定していないこと
この 大りゅうこうの とき、スペインは 大きな あらそいに くわわって いませんでした。ですから、ニュースを 自由に のせる ことが できました。
スペインで びょうきが はやって いる ようすは、せかい中に つたわりました[3]。スペインの ようすが よく 知られた ために、「スペインかぜ」と いう 名前が ひろまりました[5]。
でも、この 名前は、どこから はじまったかを しめして いる わけでは ありません。
では、どこから はじまったのでしょう。じつは、いまも きまって いません[1]。
スペインが「たくさん伝えた」
当時のスペインは、戦争をしていた国々のあいだで中立を保っていました。そのため新聞が自由に流行の被害を書くことができました[5]。日本の内閣感染症危機管理統括庁の解説にも、情報を抑える動きがなかったスペインの流行が、世界に広く報じられたと書かれています[3]。
その結果、「スペインで始まった病気だ」と受け取られ、誤って「スペインかぜ」という名前が広まりました[5]。
では、どこで始まったのか
米国のCDC(疾病対策センター)は、ウイルスの出どころについて、専門家のあいだに一致した見解はないとしています。最初に確認された患者は、1918年春の米国の軍人でしたが、それが出どころだとは言い切れません[1]。歴史や疫学の記録だけでは、発生した場所を特定するには足りないという論文もあります[2]。
2. はじめは、どこで ふえたの?
2. 春に見つかった最初の集団 ── 米国の軍のキャンプ
2. 第1波(1918年春)── キャンプ・ファンストンと欧州・アジアへの拡大
1918ねんの 3がつ、アメリカの カンザスしゅうに ある へいたいさんの キャンプで、百人を こえる 人が、かぜに にた びょうきに なりました。これが、アメリカで さいしょに わかった 流行です[4]。
そこから 春の あいだに、ヨーロッパの くにぐにへ うつりました。6がつごろには、アフリカや アジア、みなみアメリカにも とどいて いたと いわれます[3]。
3か月ほどで、ちきゅうを ぐるっと まわった ことに なります。
3. ふねの 中で、なにが おきたの?
3. 同じ船に乗った1万1千人 ── 混み合いと移動が広げた
3. 大規模な移動と密集 ── リヴァイアサン号の航海(1918年9〜10月)
1918ねんの 9がつ、アメリカの みなとから、大きな ふねが でました。のって いたのは、1まん1せん人ほどの へいたいさんです[3]。
ふねが フランスに つく まで、10日 たらず。そのあいだに、ふねの 中で 2せん人が びょうきに なりました。5人に 1人ぐらいです。80人いじょうが なくなりました[3]。
せまい ふねの 中に おおぜいが 10日ちかく いっしょに いたので、かぜが うつりやすい じょうたいでした。
こうした 大きな 人の いどうが、せかいへの ひろがりを たすけたと いわれます[4]。
リヴァイアサン号の航海
1918年9月29日、米国の港を出た兵員輸送船リヴァイアサン号には、およそ1万1千人が乗っていました。10月7日にフランスへ着くまでの約1週間で、約2千人が発症し、80人以上が亡くなりました[3]。2千人は1万1千人の約18%、つまり5人に1人ほどです。
混雑と移動
混み合った兵営では、インフルエンザとその主な合併症である肺炎の危険が10倍になったという報告があります。ただしこれは兵営での数字で、社会全体の数字ではありません[5]。
CDCは、数十万人が海を渡るような大規模な部隊の移動が、世界への広がりを助けたとしています[4]。
1918年9月29日に米国の港を出た兵員輸送船リヴァイアサン号は、約1万1千人を乗せ、10月7日にフランスへ着くまでに約2千人が発症し、80人以上が死亡した[3]。発症率は約18%(2000÷11000)で、約5人に1人にあたる。
過密の影響として、混雑した兵営ではインフルエンザと主な合併症の肺炎のリスクが10倍に増えたと報告されている。ただしこの数値は兵営に限った値で、社会全体には当てはまらない[5]。流行は軍の動きに沿って、ボストン、フリータウン、フランスのブレストから広がったとされる[5]。CDCは、数十万人規模の米兵の大西洋横断が世界的拡大に寄与したとする。人数の細かい断定はできない[4]。
4. なみが 三かい きたって、ほんと?
4. 春・秋・冬の3つの波 ── 秋がいちばん重かった
4. 3つの波と、W字型の死亡曲線
この 大りゅうこうは、うみの なみのように、三かい きました。1918ねんの 春、その 年の 秋、1919ねんの はじめです[2]。
春は、びょうきの 人が 多くても、なくなる 人は ふだんと あまり かわりませんでした。いちばん おそろしかったのは、秋の 二かい目です[2]。
そのころは、かぜを ふせぐ ワクチンも、ほかの ばいきんを なおす くすりも ありませんでした。人びとは、びょうきの 人を わけたり、あつまりを へらしたり、きれいに したり する ことに たよりました[1]。
ただし、なみが くる 時きは、くにや ちいきに よって ちがいます。
春・秋・冬
流行は、1918年3月ごろの春、9月から11月の秋、そして1919年の初めの3つの波で起きました。春の波は病気になる人が多い割に、亡くなる人は平年をあまり上回りませんでした。世界中に広がって、非常に多くの人が亡くなったのは、秋の第2波です[2]。国や地域によって、波の時期はずれます。
若い人にも山があった
ふつうのインフルエンザで亡くなりやすいのは、幼い子と高齢の人です。ところが1918年は、20〜40歳の人にも死亡の山があり、グラフの形が「W」に見えました。15〜34歳の肺炎・インフルエンザの死亡率は、前の年までの20倍を超えていました[2]。
薬もワクチンもない時代
当時は、インフルエンザを防ぐワクチンも、二次的な細菌感染を治す抗生物質もありませんでした。人びとは患者の隔離、検疫、衛生、集会の制限などに頼りました[1]。
5. 日本では、どう ひろがったの?
5. 日本での広がり ── 営舎・工場・学校から全国へ
5. 日本における3回の流行(内務省衛生局の集計)
日本でも、おなじ 大りゅうこうが ありました。へいたいさんが くらす ところ、いとを つむぐ 工場、すもうべやなどで、びょうきの 人が 出ました[7]。
学校や へいたいの ところを 中心に、1か月ほどで 日本中に ひろがったと いわれます[7]。
そのころの 国は、せきや くしゃみを する ときには、ハンカチや 手ぬぐいで 鼻と 口を おおう ように すすめました[7]。
日本では、この 流行が 三かい ありました。二かい目は 病気の 人が ずっと 少なかったのに、なくなる 人の わりあいは いちばん 高く なりました[6]。
人が集まる場所から
日本では、軍の営舎にいる兵士、紡績工場の工員、相撲部屋の関取などのあいだで流行し、学校や軍隊を中心に1か月ほどで全国に広がったと説明されています[7]。第1回流行の患者・死者のピークは1918年11月でした[6]。
内務省は「流行性感冒予防心得」で、咳やくしゃみのときはハンカチや手ぬぐいで鼻と口を覆うよう勧めました[7]。
患者は減ったのに、死亡の割合は高かった
内務省衛生局は、日本の流行を3回に分けて集計しました。第1回(1918年8月〜1919年7月)の患者は約2117万人、第2回(1919年9月〜1920年7月)は約241万人でした[6]。第2回は患者が10分の1ほどに減ったのに、患者1000人あたりの死者は52.9人と、3回の中で最も高くなりました。第1回は約12人(257363÷21168398×1000)なので、4倍以上です。第2回は、第1回で激しくなかった地方で激しくなる傾向がありました[6]。
日本では、軍営舎の兵士、紡績工場の工員、相撲部屋の関取などの間で流行し、学校と軍隊を中心に約1か月で全国に広がったとされる[7]。第1回流行の死者・患者数のピークは1918年11月だった[6]。内務省は「流行性感冒予防心得」で、咳やくしゃみの際にハンカチや手ぬぐいで鼻と口を覆うよう勧めた[7]。
内務省衛生局の集計は、第1回(1918年8月〜1919年7月)が患者2116万8千人余・死者25万7千人余、第2回(1919年9月〜1920年7月)が患者241万2千人余・死者12万8千人弱、第3回が患者22万4千人余・死者3698人である[6]。なお、この第1回は内務省の区分であり、世界の「第1波(春)」とは一致しない。
第2回は患者数が第1回の約11.4%にまで減ったが、患者1000人あたりの死者は52.9人と最も高い(第1回は約12.2人)。第1回で激しくなかった地方で激しく流行する傾向があった[6]。
6. なくなった 人は、なん人?
6. 死者の数が、資料によってちがう理由
6. 死者数の推計幅 ── 世界と日本
世界で なくなった 人の かずは、はっきり きまって いません。すくなくとも 5000万人と いわれますが、しりょうに よって かずが ちがいます[1][2]。
日本でも おなじです。二十三万人と する しりょうも あれば、四十五万人と する ものも あります[6]。
数え かたが ちがうと、答えも かわります。ですから 数字を 見た ときは、だれが どう 数えたのかを、たしかめたく なります。
世界の推計は幅がある
CDCは、この流行で世界人口の約3分の1(約5億人)が感染し、死者は少なくとも5000万人(米国で約67万5千人)と推計しています[1]。ただし別の論文は、上限を1億人までとしていて[2]、日本の統括庁は概ね2千万〜5千万人とします[3]。「約5000万人」と一つに決めることはできません。
日本の数字も割れる
日本では、内務省の報告を足すと死者は約39万人、人口動態統計では約23万人と、約16万人の差があります。歴史人口学者の速水融さんは、流行がなかった場合との差(超過死亡)から約45万人と試算しました。45万人は公式の値ではなく試算です[6]。数え方や分類の違いが影響した可能性は指摘されていますが、差の原因をはっきり裏づける資料は見つかっていません。
自分でも しらべて みたく なったら
自分でも調べてみたくなったら
自分でも調べてみたくなったら
おうちの 人に、ニュースや ほんで 見た 数字を 一つ えらんで もらいましょう。おなじ ことを のせている 本や ホームページが 二つ あれば、数字が おなじか くらべて みます。ちがったら、その わけを さがして みましょう。
さらに しらべるなら、日本の 国の ホームページに ある「スペインインフルエンザ」の せつめいが、日本語で 読めます。
今日できること:新聞やニュースで見た数字を一つ選び、同じ話題を載せている別の資料で、同じ数字になっているか見くらべてみます。ちがっていたら、数え方や調べた時期がちがわないかを探します。日本の死者数が約23万人にも約45万人にもなるのと、同じ種類の問いです。
公式情報:内閣感染症危機管理統括庁の「スペインインフルエンザ」と、総務省統計研究研修所の統計図書館ミニトピックス№30は日本語で読めます。
しらべた もとの じょうほう
参考にした情報源
参考にした情報源と、その使い方
出典について:日本の内閣感染症危機管理統括庁・総務省統計研究研修所の資料と、米国CDC・学術論文を使った。何に使ったかは、それぞれの項目の最後に書いている。
- CDC「1918 Pandemic History」。https://archive.cdc.gov/www_cdc_gov/flu/pandemic-resources/1918-commemoration/1918-pandemic-history.htm (全体の規模、出どころの見解、ワクチンや抗生物質がなかったことについて)
- Taubenberger & Morens「1918 Influenza: the Mother of All Pandemics」Emerging Infectious Diseases 12(1), 2006。https://wwwnc.cdc.gov/eid/article/12/1/05-0979_article (死者数の幅、3つの波、W字型の死亡曲線、発生地を特定できないことについて)
- 内閣感染症危機管理統括庁「スペインインフルエンザ(前半)」。https://www.caicm.go.jp/houdou/article/feature/backnumber/kako_01.html (名前の由来、世界への広がり、リヴァイアサン号について)
- CDC「1918 Pandemic: Three Waves」。https://archive.cdc.gov/www_cdc_gov/flu/pandemic-resources/1918-commemoration/three-waves.htm (米国で最初に確認された流行と、大規模な移動について)
- The Spanish Influenza Pandemic: a lesson from history 100 years after 1918(PMC)。https://pmc.ncbi.nlm.nih.gov/articles/PMC6477554/ (スペインが中立で報道が自由だったこと、混雑した兵営の危険について)
- 総務省統計研究研修所 統計図書館ミニトピックス№30。https://www.stat.go.jp/library/pdf/minitopics30.pdf (日本の3回の流行の数字と、死者数の食い違いについて)
- 内閣感染症危機管理統括庁「スペインインフルエンザ(後半)」。https://www.caicm.go.jp/houdou/article/feature/backnumber/kako_02.html (日本での広がり方と予防の呼びかけについて)
なおした ところ
更新履歴
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