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ここにあるのは、だれかが実際に調べ、考え、作ってきたことを集めたメモです。気になったら、ページの下の「参考にした情報源」から、もとの本や記事、それを生み出した人たちに、直接ふれてみてください。このメモには書ききれないおもしろさが、そこにあります。

うみの なかの いしがきは、なにが ささえて いたの? 高輪たかなわ築堤ちくていの なかみ

海に積んだ石垣を支えていたのは、石の下の木と、石の裏の小石だった:高輪たかなわ築堤ちくていの見えない部分

石垣の下の胴木どうぎ、海側の杭くい、石垣裏の排水:高輪たかなわ築堤ちくていに、台場の技術とイギリス由来の考えはどう使われたか

分野:歴史・文化

めいじの はじめ、とうきょうの うみの 上に、でんしゃの ための いしがきが 2.7キロメートルほども つくられました。ところが、一ど うめた つちが なみに ながされて、くずれて しまうほどの たいへんな こうじでした。

いしを つむだけで、うみに たえられたのでしょうか。この メモでは、いしがきの 下の 木、うみがわの 杭くい、うらに つめた 小いしから、築堤ちくていの なかみが わかります。

明治のはじめ、東京の海の上に、鉄道のための石垣が約2.7kmにわたって築かれました。ところが、一度埋めた土が波に流されて築堤が崩れるほどの難工事で、完成は正式開業の直前でした[1]。石を積むだけで、波の打ちよせる海に耐えられたのでしょうか。答えは、石垣の下の胴木と海側の杭、裏込石の排水が、築堤を支えていたようです。

この記事では、石垣の下の木の土台、海側の杭、石垣の裏に詰めた小石などから、築堤の見えない中身が分かります。

高輪築堤は、本芝から高輪海岸を経て品川停車場までの約2.7kmを、海上に築いた鉄道用の堤である。一度埋めた土砂が波に流され、築堤が崩れるほどの難工事で、完成は明治5年(1872)9月、正式開業の直前だった[1]。石を積むだけで、なぜ海の中の堤が保てたのか。

この記事では、発掘で見えてきた胴木・杭・石垣裏の排水・埋立の方法と、台場の技術やイギリス由来の考えの混ざり方から、築堤の見えない中身が分かる。

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1. なみに ながされた あとで、どう なおしたの?

1. 埋めた土が波に流された海で、石垣はどこまで頼れたのか

1. 埋めた土が波に流された:石垣だけでは足りなかった海上築堤

いま わかって いる ところでは、この 道は、明治めいじ3ねんごろに はじまり、明治めいじ5ねんの 9月に できあがりました。2ねん ほどの こうじです。

うみの 上に つくった わけは、ひとつの せつとして、たかなわの あたりの 土地は 国を まもる ために 大じだと して、へいぶしょうが ひきわたさなかったから、と つたえられて います。

こうじでは、うめた つちが なみに もって いかれて、つつみが くずれる ことも ありました。では、いしを つんだ だけで、なみに まけない つつみに なったのでしょうか。つぎに、いしがきの 下を のぞいて みましょう。

東京と横浜のあいだに鉄道を通すことが決まったのは、明治2年(1869)のことです。ただ、高輪一帯は国防上必要だとして兵部省が鉄道側への引き渡しを断ったため、本芝から品川停車場までの約2.7kmを海の上に築いた、という説があります[1]。資料も「一説によると」と断っています。

工事はイギリス人技師エドモンド・モレルの指導のもと、民部省の鉄道掛(のちの工部省鉄道寮)が担当しました。一度埋めた土砂が波に流されて築堤が崩れるなど、工事は思うように進まず、完成は明治5年(1872)9月でした。着工は明治3年ごろで、工期は2年ほどです[1][4]。

海の上の工事では、積んだ石垣だけでなく、その下や裏の作りが仕事を分けたはずです。石垣の下には、何が置かれていたのでしょうか。

明治2年(1869)に東京〜横浜間の鉄道建設が決まったとき、高輪一帯は国防上必要だとして兵部省が引き渡しを拒んだ。そのため、本芝から高輪海岸を経て品川停車場までの約2.7kmは海上に築堤した、とされる。港区・JR東日本の資料自身が「一説によると」と断っており、理由は一説にとどまる[1]。

工事はイギリス人技師エドモンド・モレルの指導のもと、民部省の鉄道掛(のち工部省鉄道寮)が担った。ところが、一度埋めた土砂が波に流されて築堤が崩壊するなど難工事となり、完成は明治5年(1872)9月にずれこんだ[1]。着工は、『工部省沿革報告』が明治3年6月、港区年表が同年10月とし、月は食いちがう。ここでは「明治3年」として、工期は約2年とみる[4]。

埋め立てた土が流された、という失敗は、石垣を積むだけでは海の堤を保てないことを示している。では、石垣の下と裏には何があったのか。発掘調査は、その中身を見せた。

2. いしがきの 下に、木が しいて あった?

2. 石垣の一番下に敷かれた「胴木」と、海側に打たれた杭

2. 石を受ける角材「胴木」と、海側の群杭:土台と波よけの二重の備え

いしがきの いちばん下には、胴木どうぎという 木の ざいが おかれて いました。しかくに けずった 木で、いしを 下から うけます。

その 上に、いしを 1だんずつ ならべて、ななめに つみあげて います。うみがわの いしがきは、多い ところで 15だんも みつかって います。

さらに、胴木どうぎの うみがわには、たくさんの 杭くいが うって ありました。なみに けずられて つつみが くずれるのを ふせる ためと 考えられて います。

木と 杭くいが、うみの 中の いしがきを まもって いたようです。では、いしがきの うしろは、どう なって いたのでしょう。

発掘された海側の石垣は、最大で15段が確認されています。いちばん下の土台は、角材に加工した「胴木どうぎ」で、最下段の「根石ねいし」を受けます。その上に、約30度の傾きで石を1段ずつ横に並べて積み上げています[2]。

胴木の海側には、杭が列になって見つかっています。調査を担当した青木敬さん(國學院大學)は、海水の侵食で堤が崩れるのを防ぐため、堤の外の海側に多数の杭が打たれたことを、幕末の品川台場で育った技術を使った部分だと説明しています[4]。

木の土台と杭は、石垣が沈んだり流されたりしないように下と外から支える、という役目をもっていたようです。ただ、海の堤が心配するのは波の力だけではありません。石垣の裏にたまる水は、どうなるのでしょうか。

海側の石垣は最大15段が確認されている。土台は角材に加工した「胴木(土台木)」で、最下段の根石を支え、その上は約30度の傾斜で石を1段ずつ並べる「布積み」で積み上げる。布積みは目地が各段で横に通る積み方で、開業期の石垣にあたる[2][1]。

胴木の海側には「群杭(杭列)」があり、築堤を支える構造物の一部と想定されている[2]。調査を担当した青木敬(國學院大學)は、海水の侵食による堤体の崩壊を防ぐため、堤体外の海側に多数の杭が打たれた点を、幕末の品川台場で培った海上構造物の築造技術を利用した部分と位置づけた[4]。

胴木が石垣を下から受け、杭が海側から守る。この二重の備えは、波で堤が崩れた失敗への対策として理にかなって見えるが、資料から確かめられるのは、構造がこうなっていたという点までだ。では石垣の背後の水はどう扱われたのか。

3. いしがきの うしろに、小いしを つめたのは なぜ?

3. 石垣の裏に詰められた小石は、海水をどうさばいたのか

3. 緩い傾斜と石垣裏の排水:川の堤防とは何が違ったのか

いしがきの うしろには、裏込石うらごめいしという 小さな いしが つめられて います。

うみの みずは、いつも すこしずつ つつみの 中に しみこみます。みずが 中に たまったままだと、つつみに よくありません。そこで、いしの すきまを とおして、みずを ぬく しくみが いると 考えられて います。

この 研究を した 青木さんは、うみの つつみは かわの つつみとは つくりが 大きく ちがう と のべて います。かわの つつみは、みずが あふれるのを ふせるのが 大じです。うみの つつみは、みずが しみこむ ことまで 考えなければ ならないからです。

では、つつみの 中の つちは、どこから どうやって うめたのでしょう。

石垣の裏には「裏込石うらごめいし」と呼ばれる小石が詰められています[1]。青木さんは、石垣の裏に分厚く石を入れた排水のしくみと、なだらかな堤の傾きが築堤の大きな特徴だと述べ、どちらも品川台場には見られないとしています[4]。

なぜ排水が要るのかについて、青木さんは次のように説明しています。増水のときの越水を防ぐのが目的の川の堤防に対して、海岸の堤防は常に海水がしみこむので、排水の計画を組みこむ必要があり、構造が大きく異なる、と。築堤の海側の斜面は30度前後で、品川台場より緩やかです[4]。

石垣は、石を積んだだけの壁ではなく、背後の水を逃がす層をともなう作りだったようです。その内側には、土を埋め立てた堤の本体があります。その土は、どうやって海の中に入れたのでしょうか。

石垣の裏には小石「裏込石」が詰められる[1]。青木は、堤体が緩傾斜であることと、堤体内部に石垣裏の分厚い捨て石による排水工を設けることを、大きな特徴と指摘する。いずれも近代以降の築堤技術に採用されるが、品川台場には認められない[4]。

排水が問題になるのは、川の堤防と海の堤防では考えるべきことが違うからである。青木によれば、河川堤防は増水時の越水を防ぐ役割があり、海岸堤防は常時海水が浸透するため排水計画も組みこむ必要があり、構造が大きく異なる。堤の海側斜面は30°前後で、品川台場より緩い[4]。

では、その堤体そのものは、どんな土で、どちらから埋められたのか。近年の確認調査には、その手がかりがある。

4. つつみの 中の つちは、どちらから うめたの?

4. 堤の中身の土は、海のどちら側から埋められたのか

4. 2024年の確認調査が示した、海側からの埋立と盛土の層

つつみの まんなかの 部分は、まず つちや すなで うめてから、その 上に つちを もって つくります。そして、うみがわと 山がわの りょうほうに、いしがきを つみました。

2024ねんの しらべでは、いしがきの 下から、胴木どうぎ、根石ねいし、いしがき 5だんが みつかりました。みぞの かべを みると、うみの すな、しろい ねんど、ローム という つちを つかって、うみがわから うめた ようすが わかったそうです。

ただし、これは はやい おしらせで、あとの しらべで かわる ことも あります。

いしがきも、うしろの 小いしも、つつみの 中の つちも、ぜんぶ 土の 中に かくれて いました。では、そのことは、どうやって 見つかったのでしょう。

築堤の芯は、まず土砂で埋め立て、その上に盛土をして、海側と山側の両方に石垣を積み上げた構造だと想定されています[2]。築堤の芯に使われたのは、硬質粘土を含む「土丹」という非常に硬い土だと、見学会の資料は説明しています[1]。

令和6年(2024)の港区の確認調査では、明治5年ごろの開業期の海側の石垣の下から、胴木、根石、石垣5段が見つかりました。トレンチ(試掘溝)の壁には、海砂、白色粘土、ローム土を使って海側から埋め立てた様子が確認されています。ただし、速報で、今後の調査で内容が変わる可能性があると資料に書かれています[3]。

築堤は場所によっても作りが違い、盛土の種類や積み上げる向きの差から、当時の工区の境とみられる箇所も見つかりました[1]。土の中に、工事のようすが残っていたのです。この中身は、どのように調べられたのでしょうか。

築堤部は、堤の芯を土砂で埋め立てたあとに盛土し、海側と山側に石垣を積み上げた構造と想定されている。先行調査部の断面が根拠である[2]。見学会の資料は、築堤の芯に「土丹」(硬質粘土を含む非常に硬い土)が使われたと記す[1]。

令和6年(2024)の港区の確認調査では、開業期の海側石垣の下から、胴木・根石・石垣5段を確認した。トレンチ壁面からは、海砂・白色粘土・ローム土を用いて海側から埋め立てた状況が読み取れた。資料は速報で、今後の調査で内容が変わる可能性があると明記している[3]。

築堤の構造は場所ごとに異なり、盛土の種類や土を積む方向の差から、当時の工区境と思われる箇所も見つかった[1]。つまり、潮の干満や作業手順まで直接述べた記録は得られていなくても、土の層は施工の跡として読める。では、この築堤はどう発見され、どう読まれたのか。

5. うもれて いた つつみは、どう みつかったの?

5. 取り壊されたと思われていた築堤は、どう見つかり、何を語ったのか

5. 2019年の発見と「設計図に代わる情報」:築堤の断面を読む

この つつみは、まわりが うめたてられて、なくなった と 思われて いました。

2019ねん 4月、品川しながわえきを なおす こうじの とき、いしがきの 一ぶが みつかりました。せんろの 下に、かいぎょうの ころに しいた いしも のこって いたそうです。

つつみを たてに きって 中を しらべると、つくりかたや つかった つち、つみかたが わかりました。港みなと区は、これを「設計図せっけいずに かわる 大じな じょうほう」と よんで います。

2021ねんには、のこった つつみの 一ぶ(およそ 120メートル)が、国の 史跡しせきに くわえられました。

2019年4月、品川駅の改良工事のさなかに石垣の一部が見つかりました。周辺の埋め立てで取り壊されたと思われていた築堤が残っていると分かるきっかけで、旧山手線・旧京浜東北線の線路の下から、開業当時のバラスト(線路に敷く石)も残る比較的よい状態で現れました[2]。

発掘では、築堤を垂直に切って内部を観察しました。築き方や手順、使われた素材、伝統的な技術の活用が読み取れたことから、港区はこれを「設計図に代わる貴重な情報」と位置づけています[1]。

山側の石垣は、石を斜めに使う「谷積み」でした。明治32年(1899)の3線化にあわせて築堤が広げられた際のものと考えられています[2]。令和3年(2021)9月には、築堤のうち延長約120mが国史跡に追加指定されました[1]。海の上の石垣が、いまは土の中から語りはじめています。では、この技術は、どこから来たのでしょう。

平成31年(2019)4月の品川駅改良工事で石垣の一部が見つかった。周辺の埋立で取り壊されたと思われていた築堤が残っていたのである。旧山手線・旧京浜東北線の線路下から、開業当時のバラストも含め、比較的良好な状態で出土した[2]。

築堤を垂直に切って観察すると、築堤の方法・手順・素材、伝統技術の活用が分かり、場所による構造の違いも示された。港区はこれを「設計図に代わる貴重な情報」とする[1]。山側の石垣は石を斜めに使う「谷積み」で、明治32年(1899)の3線化に伴う拡幅時のものと考えられている[2]。開業期の布積みとは積み方が違うので、断面や石の積み方から築堤の拡幅の時期差を読み分けられる。

令和3年(2021)9月17日には、第7橋梁橋台部と公園予定部の築堤(延長約120m)が国史跡「旧新橋停車場跡及び高輪築堤跡」に追加指定された[1]。このような海上構造物の技術は、どこから来たのか。

6. うみの つつみの わざは、どこから きたの?

6. 台場の技術とイギリス由来の考えは、築堤でどう混ざったのか

6. 台場の技術と、イギリス由来と推定される考え:和洋の混ざり方

いしがきの 石には、台場だいばや たかなわの うみべの いしがきの 石が つかわれました。台場だいばとは、えどの おわりに うみに つくられた、大ほうを おく ための しまです。

石だけでなく、うみの 中に つくる わざも、台場だいばで つかわれた ものが いかされた 部分が あると、調べた 青木さんは いいます。

いっぽう、ゆるやかな かたむきや、いしがきの うしろの 石の みずぬきは、台場だいばに みられません。青木さんは、イギリスの わざが 入って いるのでは、と 考えて います。こうじを みちびいた モレルさんや、イギリスで まなんだ 井上勝いのうえまさるさんが いたからです。

ただ、これは 研究者の 考えで、ほかの わざも まざって いたかもしれないと、青木さんは 話して います。台場で つかわれた わざと、イギリスから きたと 考えられる みずぬきの 考えかたが、この つつみに とりいれられたのかもしれません。

石垣の石材には、台場や高輪海岸の石垣などが使われました[1]。工事の材料だけでなく技術も、台場から受けついだ部分があるようです。青木さんは、斜面を覆う石垣の築き方と、海側に打つ多数の杭を、幕末の品川台場で育った海上構造物の技術と位置づけています[4]。

一方、緩やかな堤の傾きと、石垣裏の分厚い石による排水は、品川台場には見られません。青木さんは、初代鉄道建築師長エドモンド・モレルや、イギリスで土木と鉄道の技術を学んだ井上勝の存在から、イギリス由来と「考える」と書いています。ただし、川の堤防とは構造が大きく違うので、在来の技術以外の要素も考える必要がある、とも述べています[4]。

築堤の石垣は、台場で積み重ねた海の経験と、イギリス由来と考えられる考え方とが、ひとつの堤で出会った仕事だったようです。石垣の下の木や裏の小石など、見えない部分にこそ、その混ざり方が現れていました。

石垣の石材には台場や高輪海岸の石垣などが使われた[1]。技術面でも、青木は、斜面を覆う石垣の構築技術や、海側の多数の杭といった部分に、幕末の品川台場で培った海上構造物の築造技術を認める[4]。

ところが、緩い堤体と、石垣裏の分厚い捨て石の排水工は、品川台場には認められない。青木は、初代鉄道建築師長E・モレルと、イギリスで土木・鉄道技術を学んだ井上勝の存在から、イギリス由来と考える[4]。これは研究者の推定で、断定ではない。さらに青木は、川の堤防と構造が大きく異なる点を挙げ、在来技術以外の要素も考慮すべきだと述べる[4]。

結局、築堤には、台場で培われた海の技術と、イギリス由来と推定される排水の考え方が取り入れられた可能性がある。ただし、どこまでが台場で、どこからが外来かは、資料からは線が引けない。見えている石垣より、見えない胴木・杭・裏の石・埋立の層にこそ、和洋の接点が刻まれている。

7. じぶんでも しらべて みたく なったら

7. 自分でも調べてみたくなったら

7. 自分でも調べてみたくなったら

ちかくの いしがきを みて みよう

まちの 中の いしがきや、ひくい いしの かべを さがして みましょう。いしの ならびかたが、ひとつの だんごとに よこに そろって いるか、ななめに なって いるか、えに かいて みると おもしろいです。かべの 下の ほうに、ちいさな あなが あいて いるかも みて みましょう。くるまの とおる 道や、入っては いけない ばしょには ちかづかず、かべには のぼらないで ください。

しらべる とき

港みなと区の ホームページに、築堤ちくていの しりょうが のって います。おうちの ひとと いっしょに よんで みましょう。

石垣の積み方を見比べる

身近な石垣を探して、石が段ごとに横へそろっているか、斜めに並んでいるかを観察してみましょう。築堤でも、開業期の石垣と明治32年(1899)の拡幅部分とで、積み方が違っていました。壁の下のほうに小さな穴があれば、水を逃がす工夫かもしれません。道路や壁のそばでは、車と足元に気をつけてください。

資料を読むなら

港区教育委員会の「高輪築堤」の資料には、胴木や裏込石などの用語と、発掘の写真が載っています。現地の公開状況は、港区の公式情報で確かめてください。

積み方と水の出口を探す

身近な石垣や擁壁で、布積み(目地が横に通る)か谷積み(石が斜め)かを見分け、水抜きの穴の有無も見てみるとよい。観察の際は、車の通行と足元に注意する。

資料を読むなら

港区教育委員会と JR東日本の見学会説明資料・出土の解説資料、港区の確認調査速報(令和6年11月)、日本考古学協会のシンポジウム概要集(青木敬の報告を含む)が出典である。速報は今後の調査で内容が変わる可能性があるので、最新の発表を確かめたい。

しらべた もとの じょうほう

参考にした情報源

参考にした情報源と、その使い方

出典の記述は、港区教育委員会・JR東日本・日本考古学協会の資料の範囲で書いています。

  1. 港区教育委員会・JR東日本「高輪築堤 見学会説明資料」(2022年2月20日). https://www.minato-rekishi.com/pdf/tikutei_20220220.pdf (築堤の位置・工事・用語・史跡指定)
  2. 港区教育委員会・JR東日本「高輪築堤 出土の解説」. https://www.minato-rekishi.com/pdf/tikutei_05.pdf (石垣の構造・2019年の発見・谷積み)
  3. 港区教育委員会「高輪三丁目 確認調査速報」(令和6年11月1日). https://minato-rekishi.com/pdf/tikutei_20241113.pdf (海側からの埋立・胴木と根石)
  4. 日本考古学協会 シンポジウム概要集「高輪築堤を考える」(老川慶喜・青木敬の報告を含む). 日本考古学協会のシンポジウム概要集(PDF) (工期・台場の技術・排水とイギリス由来の推定)

なおした ところ

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