1. つくえの 上で あおむけに なる 学者?
1. 机の上であおむけ ── 研究所の意外な空気
1. 机の上のあおむけ ── 1920年代の研究所の「形式ばらなさ」
1920ねんだいの この けんきゅうじょは、ドイツの けんきゅうしゃが びっくりするほど、かたくるしく なかったと いわれます[4]。
ある ロシアの 学者が、つくえの 上で あおむけに なって いました。その 上から、えらい 先生が かがみこんで、あつく はなして いたそうです[4]。
ボーア先生も、あまり きびしい きまりを つくらなかったと いいます。学生が 先生の 本で たっきゅうを した ときだけは、ちがったそうです[4]。
これは、大学の 記事が しょうかいして いる はなしです。見た 人から 聞いた はなしとして つたえられて います。
では、この けんきゅうじょは、いつ、なんの ために できたのでしょう。
2. ボーア先生の ために つくられた けんきゅうじょ
2. 教授になって5年、ボーアのために建てられた研究所
2. 1921年3月3日の開所 ── ボーアのために作られた理論物理学研究所
この けんきゅうじょは、1921ねん3月3日に、ただしく ひらかれました[1]。コペンハーゲン大学の「りろんぶつりがく けんきゅうじょ」です。
ボーア先生が 大学の きょうじゅに なって、5ねんが たった ころでした[1]。先生の ために つくられた けんきゅうじょだったと、せつめいされて います[2]。
おかねは、いろいろな ところから 出ました。ビールがいしゃ カールスバーグの ざいだんが 力を かしたと いわれます[8]。のちに、ロックフェラー ざいだんも たすけました[8]。
1965ねんには、ボーア先生の 80さいの たんじょうびを きっかけに、「ニールス・ボーア けんきゅうじょ」と いう なまえに かわりました[2]。
ここで、ふしぎな ことが あります。この たてものの 中には、先生の 家も あったのです。
ボーアのための研究所
研究所が正式に開かれたのは1921年3月3日です。コペンハーゲン大学の理論物理学研究所として、ボーアが教授になった5年後にあたります[1]。NBIの歴史ページは、ボーアのために作られた研究所だと説明しています[2]。
資金は、ビール会社カールスバーグの財団の支援が大きかったとされ、のちにはロックフェラー財団も支援しました[8]。1965年、ボーアの80歳の誕生日を機に、名前がニールス・ボーア研究所に変わりました[2]。
研究所と家が同じ建物に
開所のころ、ボーア夫妻と3人の息子は同じ建物の住居に引っ越していて、研究と教育がもう始まっていました[1]。研究所の長が、研究所の建物で家族と暮らしていたのです。この近さは、研究所の空気とどうつながっていたのでしょうか。
NBIの歴史ページによれば、研究所は1921年3月3日に正式に開所した。コペンハーゲン大学の理論物理学研究所で、ボーアが教授に就任して5年後にあたる[1]。ボーアのために設けられ、1965年にボーアの80歳の誕生日を機にニールス・ボーア研究所と改称された[2]。
資金面では、民間の有志の寄付で土地を購入したうえで、カールスバーグ財団の支援が加わって開所に至り、のちにロックフェラー財団の支援も受けたとされる[8]。大学の研究所でありながら、民間の資金にも支えられて育った場所だった。
注目したいのは、開所のころ、ボーア夫妻と3人の息子が建物内の住居に引っ越し、同じ建物で研究と教育が始まっていたことだ[1]。所長の家族の暮らしと、研究・教育の場が同じ建物にあった。では、そこで議論はどんな空気のなかで交わされたのか。
3. りろんの 人にも、じっけんの どうぐを
3. 理論の研究所に、実験設備があった理由
3. 理論と実験の接続 ── 設備を備えた「理論物理学」研究所と、国際的な集合地
この けんきゅうじょは、「りろん」を 考える 人の ための ばしょでした。それでも、じっけんの どうぐも そなえて いました[2]。
ボーア先生は、りろんを 考える 人にも、思いついた ことを すぐ ためせる チャンスが ひつようだと 考えたからです[2]。
1920ねんだいの この たてものは、りょうしりきがくを つくり、みがいた わかい ぶつりがくしゃたちが あつまる ばしょでした[2]。デンマークは 中立の 国で、せかいの いろいろな 国の ふんいきが ただよって いたと せつめいされて います[2]。
ヨーロッパの たくさんの 国から、ときには もっと とおい 国からも、学者が ボーア先生に あいに 来ました[8]。「せかいの メッカ」と たとえる 人も います。メッカは、みんなが めざして あつまる ばしょと いう ことです。
あつまった 人たちは、どんな ふうに 話しあったのでしょう。
仮説をすぐ試せる場所に
ボーアは、理論の物理学者にも、自分の仮説をすぐに試せる機会が必要だと考えました。そこで、研究所には実験設備も備えられました[2]。のちの1930年代には、研究の中心が原子核の物理へ移っていきます[2]。
若い理論物理学者の集まる場所
NBIの歴史ページは、1920年代のこの建物を、量子力学を作り、磨いた若い理論物理学者たちの集まる場所だったと紹介しています。第一次世界大戦後の中立国デンマークで、国際的な雰囲気が作られたという説明もあります[2]。
ヨーロッパ各地から、ときにはもっと遠い国からも、物理学者が新しい理論や発見についてボーアと話し合うために訪れました[8]。国際的な「メッカ」だったと説明されることもあります[8]。そこで、どんな議論が交わされたのでしょうか。
理論物理学の研究所なのに、実験設備を備えた理由は、ボーアが、理論家にも仮説を即座に検証できる機会が必要だと考えたことにある[2]。1930年代には、研究の中心が原子核物理へ移った[2]。理論と実験の距離が近いことが、この研究所の設計思想だった。
NBIの説明では、1920年代のこの建物は、量子力学を作り磨いた若い理論物理学者たちの集合地であり、第一次世界大戦後の中立国デンマークで国際的な雰囲気を形づくった[2]。欧州各地、ときにはさらに遠い地域から、物理学者が新しい理論や発見について議論するために訪れた、と二次資料は記す[8]。二次資料は、ボーアが国際的な「メッカ」を作ったと説明している[8]。
4. まよなかを すぎても、やめなかった はなしあい
4. 真夜中を過ぎても続いた、ボーアとハイゼンベルクの議論
4. 1927年2月、ハイゼンベルクとの議論 ── 不確定性原理と意見の食いちがい
1927ねんの 2月、ハイゼンベルクという わかい 学者が、この けんきゅうじょの 先生として はたらいて いました。1927ねんに、ハイゼンベルクは「ふかくていせいげんり」と いう 大事な 考えを まとめました[5]。
ボーア先生と ハイゼンベルクは、よく 夜おそくまで 話しました。真夜中を はるかに すぎても つづき、「これだ」と いう こたえには ならず、ふたりとも くたくたに なったそうです[5]。
のちに ボーア先生は、ハイゼンベルクの ろんぶんの 下書きを 読み、アインシュタインに 手紙を 書きました。ガンマ線の けんきゅうの せつめいには まちがいが あるけれど、こたえは あっている、と いう 内ようです[5]。
そして その 年の 秋までに、まわりの じょうきょうは かわって いきました[5]。
意見が ちがっても、話しあいを やめなかったのです。そんな ふたりの ようすは、毎年ひらかれる 会にも 見られます。
不確定性原理が形になった年
1927年2月、ハイゼンベルクはボーア研究所の講師として、不確定性原理をまとめました[5]。原子のようなごく小さな世界の量について、ある決まり方があることを示す、量子力学の大切な考えです。
ただし、研究所でひとりで発見したというより、議論のなかで形になっていったものです。ボーアとの話し合いは真夜中をはるかに過ぎても続き、満足のいく結論は出ませんでした[5]。
意見がちがっても、話し合いは続く
ボーアはハイゼンベルクの論文草稿を見て、アインシュタインへの手紙に、アプローチは狭く、ガンマ線顕微鏡の議論には欠陥があるが、結果は正しい、と書きました[5]。それでも話し合いは続き、秋までに状況は変わっていきました[5]。
こうした議論の空気は、研究所の会議でも続いていきます。
AIP(アメリカ物理学協会)の資料は、ハイゼンベルクが1927年2月、ボーア研究所の講師として不確定性原理を定式化したと記す。ところが、ボーアとの議論は真夜中をはるかに過ぎても続き、満足のいく結論は出ず、二人とも疲れ果てたという[5]。したがって、「研究所で一人で発見した」というより、議論のなかで形になったと読むのが適切だ。
ボーアはハイゼンベルクの論文草稿を読み、アインシュタインへの手紙で、アプローチは狭く、ガンマ線顕微鏡の議論には欠陥があるが、結果は正しいと評した[5]。つまり、結論の正しさは認めつつ、道筋の弱さは遠慮なく指摘していた。それでも対立は決裂に至らず、同じ年の秋までに状況は変わった[5]。
では、こうした議論の空気は、研究所の外の人も巻きこむ形で、どう制度になっていったのか。
5. ぶつりがくの 会で ならされた おもちゃの トランペット
5. プログラムなしの会議と、「ファウスト」のパロディ劇
5. 1929年に始まった会議 ── プログラムの無い議論と、1932年の「ファウスト」パロディ
ボーア先生と わかい 学者たちの 形ばらない 話しあいは、1929ねんから、まいとし ひらかれる ぶつりがくの 会に なりました[3]。
この 会には、きまった プログラムが ありませんでした。そのため、気らくな ふんいきの なかで、いま いちばん ホットな もんだいを 話しあえたと せつめいされて います[3]。
ある しょうかいでは、聞いて いた 人が 気に いった 発表には、おもちゃの トランペットを ふいたと いいます。りろんに あなが あると、ちいさな 大ほうを うったそうです[4]。これも 大学の 記事の しょうかいで、きろくには かぎらない、つたえられた はなしです。
1932ねんの 4月には、会の なかで、ゲーテの お話「ファウスト」を まねした げきも ありました[6][3]。ボーア先生は「しゅ」の 役でした。ニュートリノという、まだ 見つかって いない つぶが、ヒロインの 役に なって いました[6]。
パウリ という 学者は、1930ねんに この つぶを 考えだしました。じっさいに たしかめられたのは 1956ねんで、げきの ころは まだ 見つかって いませんでした[6]。
見つかって いない つぶを げきの 役に して わらいあえる ほど、みんな 気らくに 話せたのでしょう。この ふんいきを、にほんへ もちかえった 人が います。
決まったプログラムのない会議
ボーアと若い同僚たちの形式ばらない議論は、1929年から毎年の物理学会議になりました。会議には決まったプログラムがなく、そのことが気楽な雰囲気と、最新の問題についての議論を後押ししたと、NBIは説明しています[3]。
大学の広報記事は、聴衆が気に入った発表におもちゃのトランペットを吹き、理論に穴があれば小さな大砲を撃ったと紹介しています[4]。NBI公式の会議ページにはこの記述がないため、「そう伝えられている」話として読むのがよいでしょう。
1932年の「ファウスト」パロディ
1932年4月の会議(3〜13日)では、研究所の10周年とゲーテの没後100年に合わせて、ゲーテの「ファウスト」のパロディ劇が上演されました[6][3]。台本は主にデルブリュックが書き、ボーアが「主」、パウリ役がメフィストフェレス、エーレンフェストがファウスト、ニュートリノがグレートヒェンの役でした[6]。
パウリは、懐疑的なエーレンフェストにニュートリノの考えを売りこもうとする役です。ニュートリノはパウリが1930年12月に提案した粒子で、実験で確認されたのは1956年です[6]。つまり劇の時点では、まだ存在が確かめられていない粒子が、ヒロインに選ばれていたのです。
議論の空気は、日本の若い研究者にも届いていました。
NBIの会議ページによれば、ボーアと若い同僚たちの形式ばらない議論は、1929年に毎年の物理学会議として制度化された。決まったプログラムを置かなかったことが、気楽な雰囲気と、最新の問題についての議論を促した[3]。
ここに遊び心が重なる。大学広報の記事は、聴衆が気に入った発表におもちゃのトランペットを吹き、理論に穴があれば小さな大砲を撃ったと紹介する[4]。ただしNBI公式の会議ページには同じ記述がなく、単独の二次資料にとどまるため、「伝えられる」逸話として扱う。
公式の記録に残る遊びの一つが、1932年4月の会議(3〜13日)で上演されたゲーテ「ファウスト」のパロディ劇だ。NBIの会議ページとCERNアーカイブがともに記す[3][6]。研究所10周年とゲーテ没後100年に合わせたもので、台本は主にデルブリュックが書き、ボーアが「主」、パウリ役がメフィストフェレス、エーレンフェストがファウスト、ニュートリノがグレートヒェンの役だった[6]。
配役の核心は、ニュートリノが、パウリが1930年12月に提案したばかりで、実験確認は1956年になる粒子だったことにある[6]。だから、この劇は、まだ誰も見ていない粒子の可否を、懐疑的な同僚に売りこむという、当時の理論物理学の最前線の議論を、そのまま笑いに変えたものと読める。では、この空気は、遠い日本の若者にどう届いたのか。
6. にほんの 学者が 手紙で たのんだ
6. 仁科芳雄が日本へ持ち帰った「コペンハーゲン精神」
6. 仁科芳雄の留学(1921〜1928年)── 理研に根づいたコペンハーゲン精神
にしな よしおさんは、にほんの けんきゅうじょ「りけん」の 学者です。1920ねんの 8月に、りけんから 外国で べんきょうする ように いわれました[7]。
つぎの 年の 4月に、神戸の みなとから ふねに のりました[7]。イギリスの ケンブリッジと、ドイツの ゲッティンゲンを とおって、1923ねんに コペンハーゲンへ きました[7]。
にしなさんは、ボーア先生に 手紙を 書き、「先生の げんしの しくみの 考えを、とことん けんきゅうしたい」と たのみました[7]。ボーア先生は、デンマークの ざいだんの しょうがくきんを 用意して くれました[7]。
にしなさんは 5ねんかん、ここで べんきょうしました。帰国の まえの 1928ねんには、スウェーデンの クラインさんと いっしょに、「クライン・にしなの こうしき」を 発表して います[7]。
りけんは、にしなさんが「ぶんやや たちばに とらわれず、とことん 話しあう」けんきゅうの しかたと、おおらかな 心(コペンハーゲン せいしん)を 学んで、りけんで ためしたと しょうかいして います[7]。
理研から、手紙1通でコペンハーゲンへ
仁科芳雄は1920年8月、理研から欧米への留学を命じられ、翌1921年4月に神戸港を出航しました。ケンブリッジ、ゲッティンゲンを経て、1923年にコペンハーゲンへ移り、1928年に帰国しています[7]。
仁科は1923年、ボーアに「先生の原子構造論を突き詰めて研究したい」と手紙で願い出ました。ボーアはデンマークのエルステッド財団の奨学金を手配し、仁科は5年間、量子力学が確立していく現場で学びました[7]。
持ち帰ったもの
帰国前の1928年には、スウェーデンのクラインと共同で、光子と電子の散乱に関するクライン−仁科の公式を発表しました。ディラックの相対論的電子論にもとづくものです[7]。
理研は、仁科が分野や立場にとらわれず徹底的に議論する研究スタイルと、寛容の精神(コペンハーゲン精神)を身につけ、帰国後に理研で実践したと紹介しています[7]。机の上であおむけになって議論する空気が、海をこえて届いたのかもしれません。
理研のHistoriaによれば、仁科芳雄は1920年8月に理研から欧米諸国への留学を命じられ、翌年4月に神戸港を出航した。ケンブリッジ、ゲッティンゲンを経て、1923年にコペンハーゲンへ移り、1928年に帰国した[7]。
コペンハーゲンに来られたのは、仁科が1923年にボーアへ手紙を書き、「原子構造論を突き詰めて研究したい」と願ったからで、ボーアはデンマークのエルステッド財団から奨学金を獲得した[7]。そのため仁科は、量子力学が確立する現場で5年間学べた。成果の一つが、帰国前の1928年にスウェーデンのクラインと共同で発表した、ディラックの相対論的電子論にもとづく、光子と電子の散乱に関するクライン−仁科の公式だ[7]。
理研は、仁科がここで、分野や立場にとらわれず徹底的に議論を重ねる研究スタイルと寛容の精神(コペンハーゲン精神)を体得し、帰国後に理研で実践したと紹介する[7]。ここまでの議論の空気と重ねると、仁科が持ち帰ったのは公式だけでなく、議論の流儀でもあったと読める。ただし、この点は理研の紹介にもとづく見方である。
7. じぶんでも しらべて みたく なったら
7. 自分でも調べてみたくなったら
7. 自分でも調べてみたくなったら
今日 できること
ボーア先生と ハイゼンベルクのように、じぶんの 考えを 友だちや 家の 人に 話して、「ここ、へんじゃない?」と 聞いて みましょう。おもちゃの 大ほうの かわりに、「ここ、ふしぎ!」と 言って もらうだけで かまいません。
もっと 知りたく なったら
りけんの「Historia」では、にしなさんの 話を にほんごで 読めます。
今日できること
ボーアとハイゼンベルクのように、自分の考えを友だちや家の人に話して、「ここがおかしくない?」と聞いてもらいましょう。おもちゃの大砲のかわりに、「ここ、ふしぎ!」と言ってもらうだけでかまいません。反対されても、すぐにやめず、どこが合っていてどこが弱いのかを話し合うと、考えが近づくかもしれません。
もっと知りたくなったら
理研の「Historia」で、仁科芳雄の話を日本語で読めます。まずそこから始めるのがおすすめです。
今日できること
自分の考えを友人に話し、弱い箇所を指摘してもらう。ボーアとハイゼンベルクの議論のように、反論を受けても対話を続け、どこが妥当でどこが弱いのかを言葉にしてみる。
資料を読むなら
NBIの歴史ページ(英語)、CERNアーカイブの「Copenhagen Faust」、AIPのハイゼンベルク特集、理研Historiaの仁科芳雄の項が、出典欄に挙げた順で参照できる。逸話の部分(卓球、おもちゃのトランペットと大砲)は大学広報の記事に依るため、一次の記録と区別して読むとよい。
しらべた もとの じょうほう
参考にした情報源
参考にした情報源と、その使い方
研究所の成り立ちと会議はNBI(ニールス・ボーア研究所)の公式ページ、議論の場面はAIPの資料、劇はCERNアーカイブ、仁科芳雄は理研の紹介にもとづき、逸話は大学の広報記事で補いました。
- Niels Bohr Institute, "1 January 1921"(研究所の歴史). https://nbi.ku.dk/english/www/institute/History/history/ (開所日・教授就任5年後・ボーア一家の転居)
- Niels Bohr Institute, "Blegdamsvej 17". https://nbi.ku.dk/english/www/historical_sites/physical_science/blegdamsvej_17/ (研究所の設立の目的・実験設備・若手の集まる場所・改称)
- Niels Bohr Institute, "The Copenhagen conferences". https://nbi.ku.dk/english/www/institute/History/The_Copenhagen_conferences/ (1929年の会議・プログラムなし・1932年のファウスト劇)
- University Post (University of Copenhagen), "100 years of NBI". https://uniavisen.dk/en/?p=60067 (形式ばらない空気・トランペットと大砲の逸話。伝聞の紹介)
- American Institute of Physics, "Heisenberg, Triumph". https://history.aip.org/exhibits/heisenberg/triumph.html (1927年の議論とアインシュタインへの手紙)
- CERN Archives, "Copenhagen Faust". https://archives.web.cern.ch/?p=608 (1932年の劇の配役・ニュートリノの提案と確認の年)
- 理化学研究所「Historia 仁科芳雄」. https://www.riken.jp/pr/historia/nishina/index.html (仁科の留学・奨学金・クライン−仁科の公式・コペンハーゲン精神)
- Wikipedia, "Niels Bohr Institute". https://en.wikipedia.org/wiki/Niels_Bohr_Institute (資金の出どころ・来訪者。二次資料)
なおした ところ
更新履歴
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