1. けんがくの ひに ならんだ ゲーム
1. 研究所の見学日に並んだ行列 ── 1958年のテニスゲーム
1. 1958年の見学日 ── 「テニス・フォー・ツー」は何のために作られたのか
1958ねん 10がつ 18にち、アメリカの ブルックヘブンと いう けんきゅうじょで、だれでも けんがくできる ひが ありました。そこに、ふしぎな そうちが おかれました[1]。
ちいさな がめんに、テニスコートを よこから みた せんと、ひかりの てんが うつります。ふたりで ダイヤルを まわして、ボタンを おして、てんを うちかえします。
つくったのは、ぶつりがくしゃの ヒギンボサムさんです。けんがくの ひを すこし にぎやかに して、かがくは しゃかいと つながって いる ことを つたえたい、と かんがえたそうです[1]。なんびゃくにんも ならびました。
でも、ヒギンボサムさんは、すごい はつめいとは おもって いませんでした。特許も とって いません[1]。これが、いちばん さいしょの ゲームなのでしょうか。
ブルックヘブン国立研究所は、年に1回、一般の人に研究所を公開する見学日を開いていました。1958年10月18日、その会場に、オシロスコープの画面でテニスをする装置が置かれました[1]。画面には、テニスコートを横から見た線と、はねる光の点が映ります。2人のプレーヤーは、角度を決めるダイヤルとボタンで、点をネットの上へ打ち返します。点の動きの計算には、アナログコンピューターが使われました[1]。
作った物理学者のウィリアム・ヒギンボサムは、見学日を少しにぎやかにして、科学が社会と関係していることを伝えられるゲームがあるとよい、と考えたそうです[1]。設計は2時間ほど、部品を決めるのに数日、組み立ては技術者のボブ・ドボラックが約3週間かけました。見学日には、何百人もが列を作りました[1]。
意外なのは、本人がこれを大発明と思っていなかったことです。特許は申請しませんでした。取っても連邦政府のものになると考えたからで、とくに新しい仕組みとも見ていなかったといいます[1]。翌1959年には画面を大きくし、月・地球・木星の重力を選べる形で展示されましたが、その後は部品を別のことに使うために分解されました[2]。
研究所は自分たちのページで、これより前の例として、1948年のブラウン管を使った遊びの装置の特許、1951年の「ニムロッド」、1952年の三目並べを挙げています[1]。では、「いちばん最初のゲーム」はどれなのでしょうか。
ブルックヘブン国立研究所は、年に1回、一般の人に研究所を公開する見学日を開いていた。1958年10月18日、その会場に、オシロスコープの画面でテニスをする装置が置かれた[1]。画面には、テニスコートを横から見た線と、はずむ光の点が映る。2人のプレーヤーは、角度を決めるダイヤルとボタンで、点をネットの上へ打ち返す。点の動きの計算には、アナログコンピューターが使われた[1]。
作った物理学者のウィリアム・ヒギンボサムは、見学日を少しにぎやかにし、科学が社会に関係していることを伝えられるゲームがあるとよい、と考えたという[1]。設計は2時間ほど、部品を決めるのに数日、組み立ては技術者のボブ・ドボラックが約3週間かけ、そのあとに1〜2日の調整があった。見学日には、何百人もが列を作った[1]。
意外なのは、本人がこれを大発明と考えていなかったことだ。特許は申請していない。取っても連邦政府のものになると考えたからで、とくに新しい仕組みとも見ていなかった[1]。翌1959年には、画面を大きくし、月・地球・木星の重力を選べる版が展示された。その後は、部品を別の用途に使うために分解された[2]。
研究所は自分たちのページで、これより前の例として、1948年のブラウン管を使った遊戯装置の特許、1951年のニムロッド、1952年の三目並べを挙げている[1]。では、「世界最初のコンピューターゲーム」はどれなのか。
2. いちばん さいしょの ゲームは どれ?
2. 「最初のゲーム」は、ひとつに決まらない
2. 「世界最初のコンピューターゲーム」が決められない理由 ── 1940年から1962年の候補
じつは、テニスの ゲームより まえにも、ゲームを する きかいは ありました。1951ねんの イギリスの はくらんかいには、「ニム」と いう いしとりゲームを する おおきな きかいが ありました[5]。1952ねんには、だいがくの けんきゅうで、まるバツゲームの プログラムが つくられました[7]。
この ふたつは、ゲームそのものを うる ための ものでは ありません。きかいの ちからを みせたり、けんきゅうの ために つくられたり しました。
では、どれが「いちばん さいしょ」なのでしょう。それは、なにで くらべるかで かわります。たとえば「いちばん はやい」は、50メートルで くらべるか、ながい きょりで くらべるかで、かわります。ゲームの「さいしょ」も おなじです。がめんが あるかどうか、えが うごくかどうか、だれでも あそべたかどうか、など、いろいろな ものさしが あります。ものさしを かえると、こたえも かわります。
ただし ほんとうは、かけっこと ゲームは ちがいます。ここでの「ものさし」は、くらべる ための きめごと、と いう ことです。
テニスのゲームより前にも、ゲームをする機械はありました。1940年のニューヨーク万国博覧会には、ニムという石取りゲームをする「ニマトロン」が置かれました。電気の部品で動く機械で、ゲーム専用の装置としては、いちばん早い例のひとつとされます[3]。1950年には、カナダの博覧会に、三目並べ専用の背の高い機械「バーティー・ザ・ブレイン」が置かれました[4]。
コンピューターらしくなってくるのは、そのあとです。次の表は、その後の候補を、何のために作られたと資料に書かれているかといっしょに並べたものです。
| 年 | 名前 | どこで | 何のために(資料の説明) | 遊べた人 |
|---|---|---|---|---|
| 1951 | ニムロッド | イギリスの博覧会 | 会社が、コンピューターの設計とプログラムの力を見せるため[5] | 博覧会の来場者 |
| 1952 | OXO(三目並べ) | ケンブリッジ大学 | 博士の研究(人とコンピューターのやりとり)の一部[7] | 特別な許可を得た人 |
| 1958 | テニス・フォー・ツー | ブルックヘブン国立研究所 | 見学日をにぎやかにし、科学と社会のつながりを伝えるため[1] | 見学日の来場者 |
| 1962 | スペースウォー! | MIT(アメリカの大学) | 新しいコンピューターPDP-1の力を見せる題材として[9] | 学生や関係者、実演を見た客 |
ニムロッドを作ったフェランティ社は、機械にゲームをさせるのはむだに見えるかもしれないが、ゲームの理論は複雑で、研究する意味がある、という説明書を出しました[5]。OXOは、EDSACというコンピューターのブラウン管に三目並べの盤面を映し、電話のダイヤルで手を入れる形でした。EDSACは動かせなかったので、遊べたのは、ケンブリッジの研究室で許可を得た人だけです[8]。
こうして並べると、どれも、ゲームそのものを売る商品ではありません。展示、研究、実演のためのものでした。そして「最初」は、物差しで変わります。物差しには、コンピューターで動くか、画面があるか、絵が動くか、だれでも遊べたか、などがあります。OXOは、絵が動かないことを理由に、最初のビデオゲームから外す考え方もあります[8]。テニス・フォー・ツーは、計算がアナログなので、デジタルのコンピューターで動くものだけを数えるなら外れます。
テニス・フォー・ツーより前にも、ゲームをする機械はあった。1940年のニューヨーク万国博覧会には、ニムという石取りゲームをする「ニマトロン」が置かれた。リレー(電気の開閉部品)で動く機械で、ゲーム専用の計算装置としては最も早い例のひとつとされる。エドワード・コンドンが考え、10万回以上遊ばれたと本人が報告している[3]。1950年には、カナダ国立博覧会に、高さ約4メートルの三目並べ専用機「バーティー・ザ・ブレイン」が置かれた。作ったジョゼフ・ケイツは、自分の考えた新しい真空管(アディトロン管)を見せるために作ったとされる[4]。
コンピューターらしくなってくるのは、そのあとだ。次の表は、その後の候補を、何のために作られたかの説明といっしょに並べたものである。
| 年 | 名前 | どこで | 何のために(資料の説明) | 遊べた人 |
|---|---|---|---|---|
| 1951 | ニムロッド | イギリスのフェスティバル・オブ・ブリテン | フェランティ社が、コンピューターの設計とプログラムの力を見せるため[5]。自動デジタル計算機の原理を示す機械でもあった[6] | 博覧会の来場者 |
| 1952 | OXO(三目並べ) | ケンブリッジ大学 | A.S.ダグラスの博士論文(人とコンピューターのやりとり)の一部[7][8] | 数学研究所で特別な許可を得た人 |
| 1958 | テニス・フォー・ツー | ブルックヘブン国立研究所 | 見学日をにぎやかにし、科学と社会のつながりを伝えるため[1] | 見学日の来場者 |
| 1962 | スペースウォー! | MIT | 新しく入るPDP-1の力を見せる題材として。のちに、見込み客への実演にも使われた[9] | 学生や関係者、実演を見た客 |
ニムロッドは、1951年5月のフェスティバル・オブ・ブリテンに出た、ニム専用の大きな機械だ。ジョン・ベネットが設計し、幅12フィート(約3.7メートル)ほどあった。フェランティ社は、機械にゲームをさせるのはむだに見えるかもしれないが、ゲームの理論は複雑で、研究する意味がある、という趣旨の説明書を出した[5]。OXOは、EDSACというコンピューターのブラウン管の1つに、三目並べの盤面を映し、電話のダイヤルで手を入れる形だった。EDSACは動かせず、遊べたのは、許可を得た人だけだ。元のプログラムは捨てられ、のちに歴史家が再現した[8]。スペースウォー!は、SF小説に触発された学生が作った、宇宙船どうしが撃ち合うゲームで、1961年に着想され、1962年に改良された[9]。
こうして並べると、この表の例は、ゲームそのものを売る商品ではなく、展示・研究・実演のためのものだった。そして「最初」は、物差しの選び方で変わる。コンピューターで動くものだけか。画面があるか。絵が動くか。だれでも遊べたか。OXOには、絵が動かないことを理由に、最初のビデオゲームから外す考え方がある[8]。テニス・フォー・ツーは、計算がアナログなので、デジタルのコンピューターで動くものだけを数えるなら外れる。研究所自身も、自分たちのゲームを「最初」と言い切らず、先立つ例を挙げている。
3. コインを いれて あそぶ ゲームへ
3. 研究室から、コインを入れる箱へ ── 1971年のコンピュータースペースと1972年のポン
3. 研究室からコインの箱へ ── 1971年の「コンピュータースペース」と1972年の「ポン」
けんきゅうじょの ゲームは、けんがくの ひに きた ひとしか あそべませんでした。まちの ひとが おかねを いれて あそべるように なるのは、そのあとです。
1971ねん、アメリカで、コインを いれて あそぶ ゲームが うられました。でも、そうさが むずかしくて、おもった ほどは うれませんでした[10]。
1972ねん、アタリと いう かいしゃが、もっと かんたんな ゲームを つくりました。てんを ラケットで うちあう「ポン」です。おためしで おさけの のめる みせに おいたら、2しゅうかんぐらいで「きかいが こわれた」と れんらくが きました。げんいんは、コインを うける いれものが いっぱいに なって、つまって いたことでした。それだけ たくさんの ひとが あそんだのです[11]。
研究室のゲームは、見学日などに来た人しか遊べませんでした。町の人がお金を入れて遊べるようになったのは、そのあとです。
1971年、ノーラン・ブッシュネルとテッド・ダブニーが、MITのスペースウォー!をもとに、コインで遊ぶ「コンピュータースペース」を作り、ナッティング・アソシエイツ社から売り出しました。ふつうは、「最初の商品として売られたアーケードのビデオゲーム」とされます。1,300〜1,500台ほど売れましたが、操作が複雑で、期待したほどは売れなかったといいます[10]。同じ年には、スペースウォー!を大きなコンピューターで動かすコイン式の「ギャラクシーゲーム」もありましたが、コンピューターが約2万ドルもして、商売にはむずかしいものでした[10]。
翌1972年、ブッシュネルたちのアタリ社は、新人のアラン・アルコーンに、点1つ、パドル2つ、点数の数字だけの、ごく単純なゲームを作らせました。それが「ポン」です[12]。試作機は、カリフォルニア州サニーベールの酒場アンディ・キャップスに置かれました。2週間ほどして「機械が壊れた」と連絡が来ます。原因は、コインを受ける牛乳の容器がいっぱいになって、詰まっていたことでした。アルコーンは、ずっと動き続けていた、と振り返っています[11]。1974年までに8,000台以上、最終的には3万5,000台が売れました[11]。
研究室のゲームは、見学日などに来た人しか遊べなかった。一般の人が、自分でお金を入れて遊べるようになるのは、そのあとだ。
1971年、ノーラン・ブッシュネルとテッド・ダブニーが、MITのスペースウォー!をもとにコイン式の「コンピュータースペース」を作り、ナッティング・アソシエイツ社から売り出した。一般には、最初に商品として売られたアーケードのビデオゲームとされる。1,300〜1,500台ほど売れたが(ブッシュネルの1976年の説明)、操作が複雑で、使いこなすまでがむずかしく、期待には届かなかった。大学の近くでは受けたが、ふつうの酒場では苦戦したという[10]。同じ1971年には、スペースウォー!を大きなコンピューターで動かすコイン式の「ギャラクシーゲーム」もあったが、外づけのPDP-11が約2万ドルかかり、商売としては成り立ちにくかった[10]。
翌1972年、ブッシュネルたちのアタリ社は、新人のアラン・アルコーンに、動く点1つ、パドル2つ、点数の数字だけの単純なゲームを作らせた。それが「ポン」だ[12]。同年の夏、試作機はカリフォルニア州サニーベールの酒場アンディ・キャップスに置かれた。2週間ほどして「機械が壊れた」と連絡が来る。原因は、コインを受ける牛乳の容器が満杯になって、コインが詰まっていたことだった。アルコーンは「ずっと動き続けていた」と振り返っている[11]。ポンは1974年までに8,000台以上、最終的には3万5,000台が売れた[11]。
4. にほんの ゲームセンターは いつから?
4. 日本のゲームセンター ── デパートの屋上から、1978年のインベーダーまで
4. 日本のゲームセンターの広がり ── 百貨店の屋上の木馬から、1978年のスペースインベーダーまで
にほんの ゲームセンターは、ビデオゲームより まえから ありました。デパートの おくじょうに、のって うごく うまの のりものが おかれて いました。ナムコの まえの かいしゃは、1955ねんに、よこはまの デパートの おくじょうに その のりものを 2だい おいて、はじまりました[14]。
1978ねん、タイトーの「スペースインベーダー」が だいにんきに なりました。うちゅうから せめて くる てきを うつ ゲームです。うりだす まえの はっぴょうかいでは「むずかしすぎて にんきが でない」と いわれたそうです。でも、きっさてんの テーブルが そのまま ゲームきに なって いる ものも あって、ゲームセンターが ぜんこくに ふえて いきました[16]。
「100えんだまが たりなく なった」と いわれる ほどでした。ただし ほんとうは、インベーダーだけが げんいんでは ない、と いう ことです[16]。
日本のゲームセンターは、ビデオゲームより前からありました。日本アミューズメント産業協会は、1950年代半ばまで、一般の人が触れられたのは、百貨店の屋上などにある自動の木馬くらいで、そのあと遊園地や映画館、ホテルなどにピンボールやガンゲームのゲームコーナーができ、ボウリングブームとともに全国に広がった、と整理しています[13]。ナムコの前身の中村製作所も、1955年に、横浜の百貨店の屋上に木馬を2台置いたところから始まりました[14]。
1960年代後半には、お金にも景品にも換えないメダルゲームという日本独自の形が生まれ、1971年にはビデオゲームが登場しました[13]。そして1978年、タイトーの「スペースインベーダー」が大ヒットします。宇宙から攻めてくる敵を撃つゲームです。作った西角友宏さんによると、売り出す前の発表会では、古い業者に「むずかしいゲームは流行らない」と言われました。でも、喫茶店から「テーブル型を置きたい」という注文が来て、家具のように使える台が広がり、インベーダーだけを置く「インベーダーハウス」もできました[16][13]。
「100円玉が足りなくなった」という話も語られます。ただ、インベーダーだけが原因ではなかったとされます[16]。ゲームセンターの歴史を研究する川﨑寧生さんの整理では、1970年代にメダルゲームがゲームセンターの独立した店を支え、1978年のインベーダーの人気が、それをさらに押し広げました[15]。
日本のゲームセンターは、ビデオゲームより前からあった。日本アミューズメント産業協会は、1950年代半ばまで、一般の人が触れられたのは百貨店の屋上などに置かれた自動木馬くらいで、その後、遊園地や映画館、ホテルなどにピンボールやガンゲームを中心にしたゲームコーナーができ、ボウリングブームとともに全国に広がった、と整理している[13]。ナムコの前身の中村製作所は、1955年に、横浜の百貨店の屋上に木馬2台を置いて、遊具の事業を始めた。1963年には日本橋三越の屋上に「ロードウエイライド」を置き、1974年には米アタリ社から日本のアタリ社を取得して、ビデオゲームに進出している[14]。
1960年代後半には、換金せず景品も出さない、純粋な遊びの機械としてのメダルゲームという日本独自の仕組みが生まれた。1971年にビデオゲームが誕生し、1975年からもぐらたたきがブームになり、1977〜79年にブロック崩しとインベーダーのブームが来た[13]。
1978年、タイトーの「スペースインベーダー」が大ヒットする。開発した西角友宏は、発売前の販売業者向けの発表会で「こんなむずかしいゲームは流行らない」と言われたと振り返っている。ところが、喫茶店からテーブル型の筐体の注文が集まり、家具を兼ねる形で広がった。専用の店「インベーダーハウス」も生まれた[16][13]。全国で100円玉が足りなくなったという話も語られるが、インベーダーだけが原因ではなかったとされる[16]。
ゲームセンターの歴史を研究する川﨑寧生の整理では、1970年代にメダルゲームがゲームセンターを独立した店に育て、1978年のインベーダーの人気が全国に押し広げた[15]。「ゲームセンターはいつから広がったのか」への答えは、屋上の遊具やピンボールの時代に少しずつ、ビデオゲームで大きく、とくに1970年代後半、ということになる。
5. おうちの テレビで あそべるように
5. 家のテレビへ ── ブラウンボックスからファミコンまで
5. 家のテレビへ ── 1966年のブラウンボックスから、1983年のファミコンまで
ゲームセンターの ゲームを、おうちの テレビで あそべないかと、かんがえた ひとが いました。ラルフ・ベアさんです。1966ねんに、ちゃいろの はこの そうちを つくりました。「ブラウンボックス」と よばれます。コンピューターは つかって いません[17]。
1972ねん、その せっけいを かった マグナボックスの かいしゃが「オデッセイ」を うりました。がめんに、プラスチックの シートを せいでんきで はりつけて、えを たしました。3まん5せんだい いじょう うれました[17]。
にほんでは 1975ねんに、エポックしゃの「テレビテニス」が でました[18]。そして 1983ねん7がつ15にち、任天堂の「ファミリーコンピュータ」が 14800えんで はつばいされました。カセットを さしかえて、いろいろな ゲームを おうちで あそべます[20]。
ゲームセンターで遊べるゲームを、家のテレビでも遊べないかと考えたのが、技術者のラルフ・ベアです。1966年に、茶色い箱に入った家庭用のゲーム装置を作りました。「ブラウンボックス」と呼ばれます。コンピューターもマイクロプロセッサーも使わず、のちのポンに似た卓球ゲームなどが遊べました[17]。
1972年、マグナボックス社がその設計を買い、テレビにつなぐ「オデッセイ」を発売しました。ゲームの絵をおぎなうために、静電気でテレビの画面にはりつけるプラスチックのシートが使われました。最初は売れ行きに苦労しましたが、広告のあと、35万台以上が売れました[17]。
日本では、1975年9月12日にエポック社の「テレビテニス」が19,500円で発売され、国産では最初の家庭用ゲーム機とされます。アメリカのマグナボックス社と技術提携して作られました[18]。1976年には、アメリカのフェアチャイルド社の「チャンネルF」が、マイクロプロセッサーとROMカセットを使った最初のゲーム機とされます[19]。そして1983年7月15日、任天堂の「ファミリーコンピュータ」が14,800円で発売されました。カセットを差しかえて、家でいろいろなゲームを遊ぶ形が、日本の多くの家庭に届きました[20]。
ゲームセンターで遊べるゲームを、家のテレビでも遊べないか。そう考えた技術者がラルフ・ベアだ。空き時間に作った家庭用のゲーム装置が、1966年の「ブラウンボックス」で、コンピューターもマイクロプロセッサーもソフトウェアも使わずに、のちのポンを予告するような卓球ゲームなどを遊べた[17]。
1972年、マグナボックス社がその設計を買い、テレビにつなぐ「オデッセイ」を発売した。ゲームの絵をおぎなうため、静電気でテレビ画面にはりつくプラスチックのシートが使われた。最初は売れ行きに苦労したが、広告の成功のあと、35万台以上が売れた[17]。
日本では、1975年9月12日にエポック社の「テレビテニス」が19,500円で発売された。国産では最初の家庭用ゲーム機とされる。マグナボックス社と技術提携して作られ、販売は約1万台だった[18]。1976年11月には、アメリカのフェアチャイルド社の「チャンネルF」が発売された。マイクロプロセッサーを使い、ROMカセット(同社の呼び名は「ビデオカート」)でゲームを替える、最初のゲーム機とされる[19]。そして1983年7月15日、任天堂の「ファミリーコンピュータ」が14,800円で発売された[20]。ファミコン以前は、コインを入れる機械が中心で、ゲームセンターで遊ぶものだった。家に届き、子どもがいつでも遊べるようになったことが、大きな変化だった、と同記事は説明している[20]。
6. ゲームの「いれもの」は どう かわったの?
6. カセット、ディスク、ダウンロード ── ゲームの入れものが変わった理由
6. ROMカセット、ディスク、ダウンロード ── ゲームの「入れもの」が変わってきた理由
ゲームの いれものは、カセット、ディスク、ダウンロードと かわって きました。
1986ねんの「ディスクシステム」では、おもちゃやさんなどに ある きかいで 500えんを はらうと、ディスクの ゲームを べつの ゲームに かきかえて もらえました[21]。
1994ねんの プレイステーションは、CD-ROMを つかいました。カセットより たくさん はいり、つくる じかんも みじかい、と いわれます[24]。たとえば、カセットが ちいさな ひきだしなら、CD-ROMは おおきな ひきだしです。ただし ほんとうは、ゲームの いれものは、おおきさだけでなく、よみこむ はやさなども ちがいます[25]。
そして いまは、インターネットで ダウンロードする ゲームが ふえました。任天堂の しりょうでは、2026ねん3がつまでの 1ねんで、ソフトの うりあげの はんぶんいじょうが ダウンロードなどの「デジタル」でした[28]。でも、カードの かたちも のこって います。スイッチ2の「ゲームキーカード」は、カードなのに、ゲームの ぜんぶは はいって いません。インターネットで ダウンロードする ための「かぎ」です[29]。
ファミコンのゲームは、ROMカセットに入っていました。1986年には、任天堂の「ディスクシステム」が出ます。おもちゃ屋などに置かれた「ディスクライター」で500円を払うと、ディスクカードの中身を別のゲームに書きかえてもらえました。ディスクカードは、ROMカセットの半分くらいの値段だったといいます[21]。店に行って書きかえる形は、のちのダウンロードの先ぶれと見る人もいます[22]。
1994年12月3日、ソニーの「プレイステーション」が39,800円で発売されました。ゲームの入れものにCD-ROMを選んだのは、大容量で、値段が安く、量産の時間も短いからと説明されます[24]。当時、ゲームソフトの値段は1万円近くまで上がっていた、という記事もあります[23]。ニンテンドウ64のカセットは4〜64メガバイト、CDは650メガバイト以上と、大きな差がありました[25]。それでも任天堂はカセットを選びました。読み込みを待たなくてよいことと、本体が高くなりすぎないことが理由として挙げられています[25]。
ダウンロードが広がったのは、2000年代です。2003年に始まったパソコン向けの「Steam」は、最初は、開発会社が自分のゲームの更新を自動で届けるための仕組みでした[26][27]。2004年にはXbox Live Arcade、2006年にはWiiのバーチャルコンソールが始まりました。背景には、インターネットの回線が速く、多くなったことがあるとされます[22]。
任天堂の2026年3月期の資料では、ゲーム機用ソフトの売り上げの54.6%が、ダウンロード版や追加コンテンツ、ニンテンドースイッチオンラインなどの「デジタル」でした。前の年度は53.5%でした[28]。それでもカードは残っています。2025年に出たスイッチ2の「ゲームキーカード」は、カードなのにゲーム全部のデータは入っておらず、インターネットからダウンロードするための「かぎ」の役をします[29]。カセットやディスクの形は、中身がダウンロードに変わっても残ることがある、ということです。
ファミコンのゲームは、ROMカセットに入っていた。1986年2月21日、任天堂は「ディスクシステム」を発売する。全国の玩具店などに置かれた「ディスクライター」で500円を払うと、ディスクカードの中身を別のゲームに書きかえてもらえた。ディスクカードは、ROMカセットの半額くらいだったと、ファミ通の記事は書いている。宣伝の言葉は「ソフトは買う時代から、書き換える時代へ!」だった[21]。店に行って書きかえる形は、のちのダウンロードの先ぶれとして紹介されることがある[22]。
1994年12月3日、ソニーの「プレイステーション」が39,800円で発売された[23]。入れものにCD-ROMを選んだ理由として、日本語版Wikipediaは、大容量、低価格、量産時間の短縮を挙げる[24]。当時、ゲームソフトの価格が1万円近くまで高騰していたことが背景にある、とする記事もある[23]。容量にも差があった。ニンテンドウ64のカセット(Game Pak)は4〜64メガバイト、CDは650メガバイト以上だった[25]。それでも任天堂はカセットを選んだ。読み込みを待たなくてよいことと、CD-ROMドライブを入れると本体が高くなることが理由として挙げられている。一方でスクウェアは、大容量を必要とした「ファイナルファンタジーVII」を、ニンテンドウ64ではなくプレイステーション向けに移したとされる[25]。
ダウンロードが広がったのは2000年代だ。2003年9月にパソコン向けの「Steam」が正式に始まった。最初の目的は、開発会社のValve社が自社のゲームの更新を自動で届け、不正対策を強めることだったと説明される[26][27]。2004年11月には「ハーフライフ2」がSteamの導入を必要とする形で出た[26]。家庭用ゲーム機では、2004年にXbox Live Arcade、2006年にWiiのWiiショッピングチャンネル(バーチャルコンソール)が始まった。背景には、インターネットの回線が十分に速く多くなったことがあるとされる[22]。
今の割合は、任天堂の2026年3月期の決算資料で見られる。ダウンロード版、ダウンロード専用ソフト、追加コンテンツ、ニンテンドースイッチオンラインなどを合わせた「デジタル」の売上は4,076億円で、専用ゲーム機ソフトの売上の54.6%。前の年度は3,260億円、53.5%だった[28]。それでもカードは残る。2025年6月に出たスイッチ2の「ゲームキーカード」は、ゲームのデータ全部が入っておらず、インターネットからダウンロードするための「かぎ」だ。ダウンロードしたあとは、カードを本体に入れれば、通信なしで遊べる[29]。
まとめると、ROMカセット→CD-ROM→ダウンロードの変化は、資料から見る限り、ゲームの大きさ、作って運ぶ手間、通信回線の速さ、更新の届け方などが重なって進んだ。会社ごとに事情はちがい、どれが決め手かは、この範囲の資料では決められない。
7. いちばん うれた ゲームは なに?
7. いちばん売れたゲームは? ── 「売れた」の数え方
7. いちばん売れたゲームは何か ── 「売れた」の数え方で答えが変わる
せかいで いちばん うれた ゲームは、なんでしょう。ギネスせかいきろくでは、マインクラフトです。2025ねん4がつまでに、3おく5000まんこを こえました[30]。
でも、テトリスも すごい かずです。2014ねんには、ケータイなどで おかねを はらって ダウンロードした ぶんが 4おく2500まん、はこに はいった ソフトが 7000まんほどだった、と いう はなしが ありました[31]。テトリスは 1984ねんに、モスクワの けんきゅうじょで けんきゅうしゃが つくった ゲームです[34]。
ほかにも、ゲームきに つけて くばった ぶんも かずに はいる ゲームが あります。「うれた」を どう かぞえるかで、いちばんが かわります。ただし ほんとうは、どれかが「まちがい」と いう ことでは ありません。かぞえかたが ちがうだけです。
世界でいちばん売れたゲームは何でしょうか。ギネス世界記録は、マインクラフトを挙げています。2025年4月時点で3億5000万本を超え、開発元のMojangが確認した数です。2023年10月に、ゲームとして初めて3億本を超えました[30]。
でも、テトリスも大きな数字を持っています。2014年に、権利をもつ会社の創業者ヘンク・ロジャースは、有料の携帯電話向けダウンロードが4億2500万、ゲームボーイ版が3500万、箱入りソフトは全部で約7000万と話しました。無料版は入っていません[31][32]。その後も増え、テトリス・カンパニーは2024年12月時点で5億2000万本としています[33]。テトリス自体も、1984年にモスクワの研究所で、研究者が作ったゲームです[34]。
数え方を見ると、答えが決まらない理由が分かります。任天堂の決算資料は、任天堂が店や取引先などに売った数を「sell-in」として示し、消費者への売れ行きは社内の推定として「sell-through」で別に示しています(この資料の該当スライドは、ハードの販売の説明です)[36]。この2つは、同じ商品でも別の数字になりえます。ソフトの本数には、本体に同梱して配った分も入ります[35]。「Wiiスポーツ」の約8279万本は、本体と一緒に配られた分を含む数です[35]。携帯電話の有料ダウンロードを入れるか、無料版を入れるか、シリーズ全部を1つと数えるかでも、順位は変わります。資料によって、テトリスを挙げるものも、マインクラフトを挙げるものもあります[37]。
世界でいちばん売れたゲームとして、ギネス世界記録が挙げているのはマインクラフトだ。2025年4月時点で3億5000万本を超え、開発元のMojangが公式の年鑑で確認した数とされる。2023年10月15日に、ゲームとして初めて3億本を超えている[30]。
一方、テトリスは別の数え方でさらに大きな数字を持つ。2014年に、権利をもつテトリス・カンパニーの創業者ヘンク・ロジャースは、有料の携帯電話向けダウンロードが4億2500万、ゲームボーイ版が3500万、箱入りソフトが全部で約7000万と話した。無料版は入っていない[31][32]。その後も増え、テトリス・カンパニーは2024年12月時点で5億2000万本としているが、その大半は有料の携帯電話向けダウンロードだという[33]。テトリスは1984年に、モスクワのソ連科学アカデミーの計算センターで、研究者のアレクセイ・パジトノフが作ったゲームでもある[34][33]。
数え方を見ると、答えが決まらない理由が分かる。
- 同梱:任天堂の売上本数の表には、「ハードと一緒に配られた分」が入る。「Wiiスポーツ」の約8279万本(2016年9月30日時点)は、本体同梱の分を含む[35]。
- 店に売った数か、消費者に売れた数か:任天堂の決算資料は、グループが外部に売った数を「sell-in」として示し、消費者への売れ行きは社内の推定として「sell-through」で別に示す(資料の該当スライドは、ハードの販売の説明)[36]。
- ダウンロード:任天堂の決算資料の sell-in には、ダウンロードで売った分も入る[36]。テトリスは有料の携帯電話向けを数えるが、無料版は入れていない[31]。
- どこまでを1つのゲームと数えるか:テトリスは、ゲームボーイ版、パソコン版、携帯電話版など、機種や時代がちがう版が数えられる。ウィキペディアの一覧の注記では、再発売は合算、リメイクは別、拡張パックは足さない、と決めている[37]。
資料によって、テトリスを1位とするものも、マインクラフトを1位とするものもある[37]。どれかがまちがいというより、数え方がちがうのだ。
8. じぶんで しらべて みよう
8. 自分の「物差し」で、表を作りかえてみる
8. 自分の物差しで「最初」と「売れた」を数えなおす
「さいしょ」や「いちばん うれた」は、くらべる ものさしを きめないと、こたえが でません。じぶんの ものさしを きめて、しらべて みましょう。
- おうちの 人に、はじめて あそんだ ゲームを きいて みましょう。それは カセットでしょうか、ディスクでしょうか、ダウンロードでしょうか。こたえを ならべると、いれものの ながれが みえて きます。
- ゲームの はこや、みせの がめんで、「ようりょう」(どれだけ はいるか)を みて みましょう。
みるだけに しましょう。かったり、ダウンロードしたり しません。おうちの 人と いっしょに みましょう。
このメモの表は、資料に書かれた「何のために作られたか」を並べたものです。同じ資料から、自分の物差しで表を作りかえてみましょう。
- 「最初のゲーム」の物差しを1つ決めます。たとえば「コンピューターで動く」「画面に絵が映る」「絵が動く」「一般の人が遊べた」などが物差しになります。物差しを変えると、候補のうちどれが残るかを考えてみます。
- 家族に、最初に遊んだゲームを聞いて、入れもの(カセット、ディスク、ダウンロード)を年代順に並べてみます。このメモの流れと同じ順番になるでしょうか。
- もっと知りたくなったら、ブルックヘブン国立研究所の「The First Video Game?」のページ[1]や、コンピューター歴史博物館のスペースウォー!のページ[9]、任天堂の決算資料のデジタル売上のページ[28]を読んでみましょう。英語のページも、図や年号だけ追えば読めます。
ゲームの画面やストアを調べるときは、見るだけにします。買ったり、ダウンロードしたりはしません。家の人といっしょに見ましょう。
このメモの表は、資料に書かれた「何のために作られたか」を並べたものだ。同じ資料から、自分の物差しで数えなおしてみる。
- 「最初のゲーム」の物差しを1つ決める(コンピューターで動く/画面に絵が映る/絵が動く/一般の人が遊べた、など)。物差しを変えたとき、表の候補のうちどれが残るかを見る。
- 「売れた」の物差しを決める(同梱を入れるか、無料版を入れるか、ダウンロードを入れるか)。任天堂の資料の注記[35]と、ヘンク・ロジャースの数え方[31]で、結果がどう変わるかを比べる。
- 原典にあたる。BNLの「The First Video Game?」[1]は、研究所自身が先立つ例を挙げている。コンピューター歴史博物館のスペースウォー!のページ[9]は、何のために作られたかの説明が読める。任天堂の決算資料[28]には、デジタル売上の数字と、その定義が載っている。
ゲームの画面やストアを調べるときは、見るだけにする。買ったり、ダウンロードしたりしない。家の人といっしょに見る。
しらべた もとの じょうほう
参考にした情報源
参考にした情報源と、その使い方
このメモは、下にあげた公開情報をもとに書いています。文章や図を無断で転載してはいません。もっと正確に知りたいときは、必ず下の出典にあたってください。リンク先の内容や、リンク先で起きたことについて、当サイトは責任を負いません。英語のページは、何のページかを日本語で添えました。
- ブルックヘブン国立研究所(BNL、アメリカのエネルギー省の研究所)「The First Video Game?」。 https://www.bnl.gov/about/history/firstvideo.php (テニス・フォー・ツーの展示日、ヒギンボサムの狙い、製作期間、特許を取らなかった理由、先立つ例)
- Wikipedia(英語)「Tennis for Two」。 https://en.wikipedia.org/wiki/Tennis_for_Two (ネット百科事典。1959年の改良版、分解されたこと)
- Wikipedia(英語)「Nimatron」。 https://en.wikipedia.org/wiki/Nimatron (ネット百科事典。1940年のニム専用機、コンドンの報告)
- Wikipedia(英語)「Bertie the Brain」。 https://en.wikipedia.org/wiki/Bertie_the_Brain (ネット百科事典。1950年の三目並べ専用機、作った目的)
- Wikipedia(英語)「Nimrod (computer)」。 https://en.wikipedia.org/wiki/Nimrod_(computer) (ネット百科事典。ニムロッドの設計者、展示、フェランティ社の説明書)
- Pete Goodeve「NIMROD」(Pete's Pages、個人のサイトによる解説ページ)。 https://www.goodeveca.net/nimrod/ (ニムロッドが自動デジタル計算機の原理を示すために作られた機械だったこと)
- コンピューター歴史博物館(アメリカ)「1952 | Timeline of Computer History」。 https://www.computerhistory.org/timeline/1952/ (OXOと、ダグラスの博士研究)
- Wikipedia(英語)「OXO (video game)」。 https://en.wikipedia.org/wiki/OXO_(video_game) (ネット百科事典。OXOの仕組み、遊べた人が限られたこと、「最初のゲーム」をめぐる考え方)
- コンピューター歴史博物館(アメリカ)「Spacewar! | PDP-1 Restoration Project」。 https://www.computerhistory.org/pdp-1/spacewar/ (スペースウォー!の成り立ちと、実演に使われたこと)
- Wikipedia(英語)「Computer Space」。 https://en.wikipedia.org/wiki/Computer_Space (ネット百科事典。1971年のコイン式ゲーム、販売台数、ギャラクシーゲーム)
- コンピューター歴史博物館(アメリカ)「Pong | CHM Revolution」。 https://www.computerhistory.org/revolution/story/183 (酒場でのポンの試作機、コインが詰まった話、販売台数)
- Wikipedia(英語)「Pong」。 https://en.wikipedia.org/wiki/Pong (ネット百科事典。アタリ社の創業、アルコーンへの指示)
- 一般社団法人日本アミューズメント産業協会「アミューズメントマシンの軌跡」。 https://jaia.jp/history/ (日本のゲームセンターとゲーム機の年ごとの歴史)
- バンダイナムコエンターテインメント「ナムコ50年の歩み」。 https://www.bandainamcoent.co.jp/corporate/history/namco/index.php (1955年の創業と屋上の木馬、1963年、1974年のアタリ・ジャパン取得)
- 立命館大学「shiRUto」「『ゲーセン』はどこから来て、どこに向かうのか ニッポンゲーセン変遷史」(川﨑寧生さんの研究の紹介)。 https://shiruto.jp/culture/4787/ (1970年代のメダルゲームと、1978年のインベーダー)
- ウォーカープラス「“名古屋撃ち”に“100円玉不足”…社会現象を巻き起こしたゲーム「スペースインベーダー」の45年の歩みに迫る」。 https://www.walkerplus.com/article/1121451/ (西角友宏さんの発言、喫茶店のテーブル型、インベーダーハウス、100円玉不足)
- コンピューター歴史博物館(アメリカ)「Games On Your TV? | CHM Revolution」。 https://www.computerhistory.org/revolution/computer-games/16/190 (ラルフ・ベアのブラウンボックスと、オデッセイの発売、販売台数)
- GAME Watch「国産初の家庭用ゲーム機「テレビテニス」が発売された日(1975年9月12日)」。 https://game.watch.impress.co.jp/docs/kikaku/1620747.html (発売日、価格、マグナボックス社との技術提携、販売台数)
- Wikipedia(英語)「Fairchild Channel F」。 https://en.wikipedia.org/wiki/Fairchild_Channel_F (ネット百科事典。1976年のROMカセット式ゲーム機)
- トウシル(楽天証券)「【1983(昭和58)年7月15日】任天堂が「ファミリーコンピュータ」発売」。 https://media.rakuten-sec.net/articles/-/45817 (ファミコンの発売日と価格、家庭に届いた変化)
- ファミ通.com「ファミコン ディスクシステム40周年。500円の書き換えサービスが安価で便利だった。」。 https://www.famitsu.com/article/202602/66140 (ディスクシステムの発売日、書き換えサービス、宣伝の言葉)
- Wikipedia(英語)「Digital distribution of video games」。 https://en.wikipedia.org/wiki/Digital_distribution_of_video_games (ネット百科事典。ゲームのダウンロード販売の歴史、2000年代の回線の変化)
- 週刊アスキー「今日は何の日? プレイステーション発売(1994)」。 https://weekly.ascii.jp/elem/000/002/619/2619795/ (発売日、価格、ソフト価格の高騰)
- Wikipedia(日本語)「PlayStation (ゲーム機)」。 https://ja.wikipedia.org/wiki/PlayStation_(ゲーム機) (ネット百科事典。CD-ROMを選んだ理由の説明)
- Wikipedia(英語)「Nintendo 64 Game Pak」。 https://en.wikipedia.org/wiki/Nintendo_64_Game_Pak (ネット百科事典。カセットの容量、カセットを選んだ理由、スクウェアの動き)
- Wikipedia(英語)「Steam (service)」。 https://en.wikipedia.org/wiki/Steam_(service) (ネット百科事典。Steamの開始と、当初の目的)
- GamesRadar+「History of Valve, Steam, and Gabe Newell」。 https://www.gamesradar.com/history-of-valve/2/ (英語のゲーム情報サイト。Steamの成り立ち)
- 任天堂「Financial Results Explanatory Material, Fiscal Year Ended March 2026(決算説明資料)」。 https://www.nintendo.co.jp/ir/pdf/2026/260508_4e.pdf (デジタル売上の金額、割合、その定義)
- 任天堂サポート「Nintendo Switch 2 Game-Key Card Overview」。 https://en-americas-support.nintendo.com/app/answers/detail/a_id/68415/ (任天堂の公式サポートページ。ゲームキーカードの仕組み)
- ギネス世界記録「Best-selling videogame」。 https://www.guinnessworldrecords.com/world-records/best-selling-video-game (マインクラフトの販売数と、その出どころ)
- Nintendo Life「'Mr. Tetris', Henk Rogers, Discusses Game Boy Sales and Nintendo」(2014年)。 https://www.nintendolife.com/news/2014/04/mr_tetris_henk_rogers_discusses_game_boy_sales_and_nintendo (英語のゲーム情報サイト。ヘンク・ロジャースの話したテトリスの数字)
- MCV/DEVELOP「Tetris amasses 425m paid mobile downloads」(2014年)。 https://mcvuk.com/business-news/mobile/tetris-amasses-425m-paid-mobile-downloads/ (英語のゲーム業界紙。同じ数字と、無料版が入っていないこと)
- Wikipedia(英語)「Tetris」。 https://en.wikipedia.org/wiki/Tetris (ネット百科事典。テトリス・カンパニーの2024年12月の数字と内訳、生まれた場所)
- First Versions「Tetris」。 https://www.firstversions.com/2015/11/tetris.html (英語の、最初の版を調べる解説サイト。1984年のモスクワでの誕生)
- 任天堂「IR Information: Sales Data - Top Selling Title Sales Units - Wii Software」。 https://www.nintendo.co.jp/ir/en/sale/software/wii.html (Wiiスポーツの本数と、同梱の注記)
- 任天堂「Financial Results Explanatory Material, Third Quarter, Fiscal Year Ending March 2026(決算説明資料)」。 https://www.nintendo.co.jp/ir/pdf/2026/260203_3e.pdf (sell-in と sell-through の定義の注記)
- Wikipedia(英語)「List of best-selling video games」。 https://en.wikipedia.org/wiki/List_of_best-selling_video_games (ネット百科事典。売上一覧の数え方の注記、資料による1位のちがい)
なおした ところ
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