このサイトは、ほんの入り口です

ここに書いてあることは、誰かが実際に手を動かして調べ、考え、作り上げてきたものを拾い集めています。専門の本や論文、作品、そしてそれを生み出した人たち。気になったことがあれば、ぜひそのおおもとに直接ふれてみてください。このメモには書ききれない熱を、感じてもらえると思います。

まちの しごとは、どうやって うまれて つづくの?

地場産業は、どうやって生まれ、どうやって続くのか

地場産業は、どうやって生まれ、どうやって続くのか

分野:歴史・文化

ゆきが たくさん つもる 村では、ふゆの あいだ、たんぼの しごとが できない。そんな 村の 1つが、いまでは、日本の めがねフレームの ほとんどを 作る まちに なって いる。

ふゆの あいだの しごとが、どうして そんな 大きな しごとに なったのだろう。

雪がたくさん積もる村では、冬のあいだ、田んぼの仕事ができない。そんな村の一つが、今では、日本の眼鏡フレームのほとんどを作る町になっている。

冬のあいだの仕事が、どうしてそんな大きな仕事になったのだろうか。

雪深い農村では、冬のあいだ田んぼの仕事ができない。そんな地域の一つ、福井県鯖江市は、今では国内の眼鏡フレームの95%を生産する産地になっている。

一つの製品づくりが、なぜこれほど一つの土地に集中するのか。そして、そうして生まれた「地場産業」は、なぜ100年以上も続くことがあるのか。

読み方を切り替えられます。画面の上にある「よみかた」のボタンで、小学校低学年むけ小学校高学年むけ中学生むけの3つの書き方に切り替わります。むずかしいと思ったら、いつでもやさしい方に戻ってください。選んだ読み方はブラウザが覚えているので、次に別の記事を開いたときも同じ読み方で始まります。

1. ふゆの あいだの しごととして はじまった

1. 冬のあいだの仕事として始まった

1. 1905年、雪国の冬の副業として始まっためがねづくり

福井ふくいけんは、ふゆに ゆきが たくさん つもる ところだ。ふゆの あいだ、たんぼの しごとは できない。

1905年、鯖江さばえから すこし はなれた 村の やくにんだった 増永五左衛門ますながござえもんと いう 人が、「ふゆの あいだに おかねを かせぐ しごとを つくろう」と かんがえた。えらんだのは、めがね作りだった。大阪おおさかから しょくにんを よんで、村の わかものに 作りかたを おしえて もらった[1]

福井県は、冬に雪がたくさん積もる土地だ。冬のあいだ、田んぼの仕事はできない。

1905年(明治38年)、鯖江から少し離れた村の議員をしていた増永五左衛門という人が、「冬のあいだにお金を稼げる仕事をつくろう」と考えた。選んだのは、めがね作りだった。大阪から職人を招いて、村の若者たちに作り方を教えてもらった[1]

福井県は、冬になると深い雪に閉ざされる。稲作以外に現金収入の手段がとぼしいことは、この地域の農村にとって長年の課題だった。

1898年に村会議員となった増永五左衛門は、雪深い地元の経済を救う産業として眼鏡づくりに目をつけた。1905年(明治38年)、現在の福井県生野町にあたる村に工場を設立し、大阪の眼鏡職人・米田与八を招いて村の若者に技術を伝えてもらった。翌年には東京から豊島松太郎も招かれ、技術の幅はさらに広がっていった[1]

2. 1つの まちに、しょくにんが あつまった

2. 一つの町に、職人が集まった

2. 鯖江が、めがね職人の集まる町になった理由

さいしょの めがね工場こうじょうで うでを みがいた 鯖江さばえしゅっしんの しょくにんたちが、じもとに かえって じぶんの 店を もつ ように なった。それに くわえて、せんそうが おわった あと、まちに あった 大きな ぐんたいの あとちの おおくが、めがね工場を たてる ばしょに かわった。こうして、めがね作りは 鯖江さばえで さかんに なって いった[2]

めがねは、いろいろな ぶひんを くみあわせて 作る。ぜんぶを 1人で 作るのは たいへんなので、「ここは つると、ここは わっかを 作る」と、しごとを わけて、それぞれの しょくにんが とくいな ところだけを やる ように なった。これを「分業ぶんぎょう」と いう[2]

最初の眼鏡工場で腕を磨いた鯖江出身の職人たちが、地元に帰って自分の店を持つようになった。それに加えて、戦争が終わったあと、町にあった大きな軍隊の跡地の多くが、眼鏡工場を建てる場所に変わった。こうして、眼鏡作りは鯖江でさかんになっていった[2]

眼鏡は、いろいろな部品を組み合わせて作る。すべてを一人で作るのは大変なので、「ここはつる、ここは輪の部分を作る」と仕事を分けて、それぞれの職人が得意なところだけを担当するようになった。これを「分業」という[2]

福井の工場で修業した鯖江・河和田地区出身の職人たちが、地元に帰って独立していったこと、そして第二次世界大戦後、鯖江に置かれていた陸軍歩兵第36連隊の広大な跡地の多くが眼鏡工場へ転用されたことが重なり、福井で始まった眼鏡づくりは鯖江へと広がっていった[2]

眼鏡フレームづくりは200以上の工程からなる。一つの工房がすべてを担うのではなく、部品ごと、工程ごとに専門の業者が分かれる「分業制」が、この産地を支えている。狭い範囲に専門業者がひしめきあうことで、部品を隣の工房に回し、技術やノウハウを融通しあう土壌ができた。現在、鯖江市の眼鏡フレームは全国シェア95%とされる[2]

3. くぎを 作る まちが、スプーンを 作る まちに かわった

3. 釘を作る町が、スプーンを作る町に変わった

3. 江戸の和釘から大正の洋食器へ ── 燕の転身

にいがたけんつばめと いう まちにも、にた はなしが ある。えどじだい、この まちの 人たちは、こう水で こまった 田んぼの かわりに、和釘わくぎと いう 日本の くぎを 作る しごとを はじめた[3]

でも めいじじだいに なると、外国から やすい くぎが はいって きて、和釘わくぎは うれなく なって しまった。まちの しょくにんたちは、くぎを 作る うでを いかして、こんどは スプーンや フォークと いった 「洋食器ようしょっき」を 作りはじめた[3]

新潟県の燕市という町にも、似た話がある。江戸時代、この町の人たちは、川の氾濫で困った田んぼの代わりに、和釘という日本の釘を作る仕事を始めた[3]

でも明治時代になると、外国から安い釘が入ってきて、和釘は売れなくなってしまった。町の職人たちは、釘を作る腕を生かして、今度はスプーンやフォークといった「洋食器」を作りはじめた[3]

新潟県燕市の金属加工も、同じ構図をたどっている。江戸時代初期、信濃川の氾濫に苦しむ農民の副業として、和釘づくりが始まったとされる。明治初期まで、燕の産業の8割は和釘生産が占めていた[3]

ところが明治になると西洋から安価な洋釘が輸入されるようになり、和釘の需要は急速にしぼんだ。職人たちは金属を打ち、削り、磨く技術を、キセルや銅器づくりへ応用してしのいでいたが、転機が訪れたのは1911年(明治44年)ごろだったという記録がある。洋食器の試作注文が燕に持ちこまれたのだ。当初はドイツからの輸入が止まった第一次世界大戦下のイギリスからの注文が中心で、まもなくヨーロッパやアジア各地向けの輸出品として、燕の金属洋食器は量産体制を築いていった[3]

4. ものが かわっても、うでは のこる

4. ものが変わっても、うでは残る

4. 製品が変わっても、技術は残る

つばめで はじめに 作って いた 「くぎ」は、いまは あまり 作られて いない。でも まちは なくならなかった。鯖江さばえでも、めがねを 作る うでが、いまは めがね いがいの ものにも いかされて いる。

それは、まるで、りょうりの きほんが わかって いれば、わしょくだけでなく ようしょくも 作れる ように なる のと にて いる(ただし ほんとうは、めがねや スプーンは りょうりでは なく、手さきの わざだ)。ものを 作る「うで」を みんなで もって いれば、作る ものが かわっても、まちは しごとを つづけられる。

燕で最初に作っていた「釘」は、今はあまり作られていない。それでも町はなくならなかった。鯖江でも、眼鏡を作る腕が、今は眼鏡以外のものにも生かされている。

料理の基本が分かっていれば、和食だけでなく洋食も作れるようになるのと似て、ものを作る「腕」を町全体で持っていれば、作るものが変わっても、仕事を続けていける。

燕がたどった道は、製品そのものが移り変わった例だ。和釘が売れなくなっても、金属を叩き、削り、磨く技術は町に残った。その技術は、時代の需要に応じて洋食器にもステンレス鍋にも転用できる。製品の寿命は有限でも、技術と、それを支える職人の集積は、次の製品へと引き継がれていく。

鯖江の場合は、眼鏡そのものは作り続けているが、そこで磨かれた精密な金属加工技術は、眼鏡という枠を超えて広がりつつある。ORIENSによれば、鯖江の加工技術は医療機器や精密機器の分野にも応用されているという[2]。一つの製品づくりのために積み重ねられた技術は、その製品が売れつづけているかどうかにかかわらず、まったく別の製品を支える基盤にもなる。これが、地場産業が一つの製品の浮き沈みだけでは終わらない理由だ。

5. やすさでは かてない ときに えらんだ みち

5. 安さでは勝てないときに選んだ道

5. 安さでは勝てない時代に、鯖江が選んだ道

つばめ戦後せんご、なべや フライパンも 作る ように なり、外国にも たくさん うられた[3]

鯖江さばえの めがね作りも、やすさでは しょうぶしない みちを えらんだ。かるくて さびにくい「チタン」と いう きんぞくを、じょうずに めがねに つかう ぎじゅつを みがいた。ほかの まちには あまり ない めがねを 作る みちを えらんだ[4]

燕は戦後、鍋やフライパンも作るようになり、外国にもたくさん売られた[3]

鯖江の眼鏡作りも、安さでは勝負しない道を選んだ。軽くてさびにくい「チタン」という金属を、上手に眼鏡に使う技術を磨き、他の産地にはあまりない眼鏡を作る道を選んだ[4]

燕は戦後、ステンレス加工技術の発達を追い風に、鍋やフライパンといった金属ハウスウェア産業も生み出した。生産の多くは輸出向けで、1991年にはノーベル賞授賞式の晩餐会で燕市製のカトラリーが使われたこともある。もっとも、1971年のドルショックや1973年のオイルショックでは、輸出主体の産業構造が打撃を受けた[3]

鯖江のメーカーも、安さでは勝負しない道を選んだ。軽くて丈夫、さびにくく金属アレルギーも起きにくいチタンに着目し、加工の難しさを東北大学とのチタン合金の共同開発、大阪大学とのレーザー微細接合技術の共同開発で乗り越えた。こうして確立した高品質なチタンフレームの生産技術をもとに、2009年には「ラインアート シャルマン」を発売し、同社推定で国内小売価格4万円以上の眼鏡フレーム市場のシェア5割を超えたという[4]

じぶんでも しらべて みる

自分でも調べてみたくなったら

自分でも調べてみたくなったら

家に ある スプーンや フォーク、大人の めがねの うらがわを、見せて もらおう。「MADE IN JAPAN」や、まちの 名前が ほりこんで ある ことが ある。書いて あった ばしょを、ちずで さがして みよう。

家にあるスプーンやフォーク、大人の眼鏡の内側を見せてもらおう。「MADE IN JAPAN」や、地名が刻んであることがある。書いてあった場所を、地図で探してみよう。

家にある金属製のスプーンやフォーク、眼鏡フレームの内側を確認してみよう。「MADE IN JAPAN」の刻印や、燕・鯖江といった地名が入っていることがある。書かれていた場所を地図で調べ、市区町村や商工会議所のホームページで「地場産業」を検索すると、いつ、どんなきっかけで始まった産地なのかが載っていることが多い。鯖江や燕のように、今作っているものと、その土地に根づいた技術のあいだにどんなつながりがあるのかを追ってみると、地域の歴史の見え方が変わってくる。

しらべた ところ

参考にした情報源

参考にした情報源

  1. ORIENS「鯖江産眼鏡づくりの歴史」、CEMEDINE Style「完成までの工程は200以上!福井に眼鏡産業を興した老舗に見る『もの作りの真髄』」。 https://oriens-opt.jp/sabae-tradition/index.html https://www.cemedine.co.jp/cemedine_reports/megane.html (1898年に増永五左衛門が村会議員となり、雪深い地元の経済を救う産業として眼鏡づくりに着目したこと、1905年〈明治38年〉に現在の福井県生野町にあたる村に工場を設立したことはCEMEDINE Styleによる。大阪の眼鏡職人・米田与八を招いて村の若者に技術を伝えたこと、翌年には東京の豊島松太郎も招かれたことはORIENSによる)
  2. ORIENS「鯖江産眼鏡づくりの歴史」、CEMEDINE Style「完成までの工程は200以上!福井に眼鏡産業を興した老舗に見る『もの作りの真髄』」、鯖江市公式サイト「めがねの聖地」。 https://oriens-opt.jp/sabae-tradition/index.html https://www.cemedine.co.jp/cemedine_reports/megane.html https://www.city.sabae.fukui.jp/kanko/feature/megane/index.html (福井の工場で腕を磨いた鯖江・河和田地区出身の職人が地元に帰って独立したこと、戦後、旧鯖江歩兵第36連隊の広大な跡地の多くが眼鏡工場へ転用されたことで、福井から始まった眼鏡づくりが鯖江へ広がったことはCEMEDINE Styleによる〈ORIENSは跡地の「払い下げ」と表現する〉。眼鏡フレームづくりが200以上の工程からなる分業制であることはCEMEDINE Styleによる。鯖江市の眼鏡フレームの全国シェアが95%であることは鯖江市公式サイトによる〈ORIENSは96%とする〉。鯖江の加工技術が医療機器・精密機器の分野にも応用されていることはORIENSによる)
  3. 燕市公式サイト「金属と向き合って400年/燕市」、ガイドアー「世界の食卓にメイドインジャパン~新潟県燕市カトラリー~」。 https://www.city.tsubame.niigata.jp/monodukuri/400.html https://www.guidoor.jp/media/japanquality-tsubame-cutlery/ (江戸時代初期、信濃川の氾濫に苦しむ農民の副業として和釘づくりが始まったこと、明治初期まで燕の産業の8割を和釘生産が占めていたこと、明治以降の洋釘輸入により和釘が衰退したことは燕市公式サイトによる〈ガイドアーは代官による奨励、信濃川に加え五十嵐川の氾濫にも触れるが、燕市公式サイトでは確認できない〉。1911年〈明治44年〉ごろ洋食器の試作注文が燕に持ちこまれたこと、当初はドイツからの輸入が止まった第一次世界大戦下のイギリスからの注文が中心だったことはガイドアーによる〈燕市公式サイトは「長く続く戦争を契機に試作注文が持ちこまれた」とするにとどまり、年・国名までは確認できない〉。戦後のステンレス加工技術の発達により金属ハウスウェア産業が生まれたことは燕市公式サイトによる。1991年のノーベル賞授賞式晩餐会での採用、1971年のドルショック・1973年のオイルショックによる打撃はガイドアーによる〈燕市公式サイトでは確認できない〉)
  4. ニュースイッチ「『めがねの街・鯖江』で希有な成功モデルを築くフレームメーカー、終わらない挑戦」。 https://newswitch.jp/p/23375 (チタンが軽量・高強度・さびにくく金属アレルギーが起きにくい素材であること、鯖江のメーカーが東北大学金属材料研究所とチタン合金を、大阪大学接合科学研究所とレーザー微細接合技術をそれぞれ共同開発し、2009年に高品質チタンフレーム「ラインアート シャルマン」を発売したこと、国内小売価格4万円以上の眼鏡フレーム市場でシェア5割を超えたことはニュースイッチによる)

なおした ところ

更新履歴

更新履歴(改版の記録)

  •  初版を公開。

このサイトでは、公開した記事の本文は原則として書き直しません。誤りが見つかったときや、内容が古くなったときだけ手を入れ、その理由をこの欄に残します。