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「しょうきん 1000まん円」が ドッキリと うたがわれた M-1グランプリは、どうやって はじまったの?

若手が「賞金1000万円はドッキリでは」と疑った:M-1グランプリが生まれた経緯

若手が「賞金1000万円」を疑った ── 2001年、M-1グランプリ創設の経緯と賞レースの時代

分野:歴史・文化

2001年、「賞金しょうきんは 1000万円です」と よびかけた 漫才まんざいの 大会が ありました。ところが「ドッキリでは?」と うたがって、なかなか もうしこまない わかい 人も いたそうです。そんな 大会を、だれが どうやって 形に して、第1回に 何組 あつめたのかが 分かります。

2001年に始まったM-1グランプリは、「賞金1000万円」と呼びかけても「ドッキリでは」と疑われ、応募をためらう若手がいたと伝わります。のちに多くの賞レースを生むきっかけになった大会は、なぜそんな形で生まれたのでしょうか。社員の谷良一と島田紳助がどんな順番で形を決め、第1回に何組を集めたのかが分かります。

2001年に始まったM-1グランプリは、賞金1000万円と呼びかけても「ドッキリでは」と疑われ、応募をためらう若手がいたと伝わる。のちに他の賞レースを生むきっかけになる大会が、なぜ最初は信じてもらえなかったのか。賞金1000万円の大会なのに、応募をためらう若手がいたのはなぜか。谷良一と島田紳助は、賞金・放送・資格をどう決めて形にし、第1回に1603組を集めたのかが分かる。

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1. 1000万円なのに どうして 人が あつまらなかったの?

1. 賞金1000万円と呼びかけたのに、応募が集まらなかった

1. 2001年8月、賞金1000万円の呼びかけに応募が集まらなかった

2001年の 8月11日、大会の もうしこみが はじまりました。出られるのは 「コンビを くんで 10年いない」の 漫才まんざいの 人たち。プロでも アマチュアでも、どこの 事務所じむしょの 人でも だいじょうぶです。

賞金しょうきんは 1000万円。ところが、そう つたえても「どうせ ドッキリでしょ?」と うたがって、もうしこまない 若手わかてが いたそうです。

それほど 大きな 話を、いったい だれが 考えたのでしょう。

2001年8月11日、のちにM-1グランプリと呼ばれる大会の出場受付が始まりました。資格は「コンビ結成10年以内の漫才師。プロ・アマ、所属事務所は問わない」でした[4]。

ところが、賞金1000万円と呼びかけても「ドッキリでは」と誤解され、なかなか応募してくれない若手もいたと伝わります[4]。大きすぎる話は、かえって信じてもらえなかったようです。

この大会を最初に動かしたのは、芸人ではなく、吉本興業の一人の社員でした。

2001年8月11日、のちのM-1グランプリの出場受付が始まった。応募資格は「コンビ結成10年以内の漫才師。プロ・アマ、所属事務所は問わない」というものだった[4]。ただし、第1回の資格を「結成10年未満」と書く資料もあり、表記は資料によって揺れる[2]。

ここで、主催側の想定どおりにはいかなかった。「賞金1000万円」と呼びかけても「ドッキリでは」と誤解され、なかなか応募しない若手がいたと、立ち上げに関わった谷良一は語っている[4]。現実の大会に1000万円という額が付くこと自体が、当時の若手にとっては信じにくい話だったことがうかがえる。

では、そのような大会を、誰が、何を考えて始めたのか。出発点は、舞台に立つ芸人ではなく、吉本興業の社内にあった。

2. はじめに うごいたのは だれ?

2. 漫才の復活を任されたのは、一人の社員だった

2. 谷良一はなぜ「漫才復活プロジェクト」のリーダーになったのか

はじめに うごいたのは、吉本よしもとという 会社で はたらく、たに りょういちさんです。

2001年の はじめ、会社の えらい 人から「漫才まんざいを ふっかつさせる チームの リーダーを やって」と たのまれました。

そのころ、むかし 大にんきだった 漫才まんざいの ブームは すぎさり、劇場げきじょうに くる 人も へって、テレビの 漫才まんざいの 番組も なくなっていたと いわれます。

たにさんは、大学を そつぎょうして 1981年に 会社に はいった 人。漫才まんざいの ふたり組の まねーじゃーを したこともありました。漫才まんざいを 一番 近くで 見てきた 人に、ふっかつの 仕事が まわってきたのです。

では、たにさんは、まず だれに 話を しに いったのでしょう。

2001年の初め、谷良一は、吉本興業の木村政雄常務から、漫才を復活させるプロジェクトのリーダーに指名されました[3]。

当時、1980年代初めの漫才ブームはすでに過去のものになり、劇場の入場者は減り、テレビの漫才番組もなくなっていたとされます[3]。漫才がまったくなくなっていたわけではありませんが、かつての勢いを失っていたようです。

谷は京都大学を出て1981年に入社し、やすし・きよしのマネージャーを務めた経験がありました。2000年には総務室長になっていて、現場の芸人の近くにいた人に、再び漫才の仕事が回ってきたことになります[3]。

プロジェクトの形は、まだ何も決まっていませんでした。谷は、ある人気芸人の楽屋を訪ねます。

この疑われた大会は、2001年初頭、谷良一が吉本興業の木村政雄常務から、漫才復活プロジェクトのリーダーに指名されたところから動き出す[3]。指名の背景には、80年代初頭の漫才ブームが過去のものになり、劇場の入場者が減り、テレビの漫才番組もなくなっていたとされる状況があった[3]。ただし「漫才が全くなかった」とまで言い切れる資料ではなく、勢いを失っていたと読むのが妥当である。

谷は京都大学を出て1981年に入社し、やすし・きよしのマネージャーを務めた。2000年には総務室長に配置されていた[3]。漫才の現場に近い経歴を持つ社員に、復活の仕事が回ってきたことになる。

とはいえ、肩書きがリーダーになっても、何を作るかは白紙のままだった。若手が目指す舞台を作るには、まず業界の中心にいる誰かの賛同が要る。谷が最初に頼ったのが、島田紳助だった。

3. しんすけさんは なんと こたえたの?

3. 島田紳助の楽屋で、賞金1000万円と全国放送が出てきた

3. 島田紳助の提案:賞金1000万円と全国ネットのゴールデン放送

たにさんは、しまだ しんすけさんの 楽屋がくやを たずねました。しんすけさんは 当時から テレビで にんきの 芸人げいにんです。

話を きくと、しんすけさんは 大よろこび。「漫才まんざいに 恩おん返しを したい」と いったそうです。

あとで また 会うと、しんすけさんは ふたつの ことを 言いました。

ひとつは、賞金しょうきんを 1000万円に すること。もうひとつは、日本じゅうの テレビで 夜の いい 時間に 見せること。

お金が 大きいだけでは ありません。日本じゅうの 人が 見られる 時間に 流すことも、いっしょに きまりました。

谷が島田紳助の楽屋を訪ね、「MANZAIプロジェクト」について話すと、紳助は好意的に反応し、「漫才に恩返しをしたい」と語ったといいます[2]。

後日あらためて会うと、紳助は二つのことを提案した、とWikipediaは紹介しています。優勝賞金を1000万円にすること、そして全国ネットのゴールデンタイムで放送することです[2]。大会は吉本興業と朝日放送が2001年に創設し、紳助と谷が企画したとも紹介されています[2]。

賞金が大きいのは、挑戦する若手の目標を大きくするためだったと読めます。全国放送は、漫才を知らない人にも見てもらう場所を用意するためでしょう。ただし、紳助がその理由をどう語ったかの原文は、書籍にあたらないと分かりません。

金額と放送枠は決まりました。次に必要なのは、だれが出られて、だれが審査するのかという形です。

谷が島田紳助の楽屋を訪ね、漫才のプロジェクトの構想を話すと、紳助は好意的に反応し、「漫才に恩返しをしたい」と語った。後日あらためて会うと、紳助は優勝賞金1000万円と、全国ネットのゴールデン枠での放送を提案した、とWikipediaは紹介している[2]。この提案を受けて、吉本興業と朝日放送が2001年に創設する大会は、紳助と谷の企画として動き出した[2]。

この二つは、「若手にとっての目標」と「視聴者にとっての入口」を同時に作る条件だったと読める。1000万円という賞金は挑戦する側の目標になり、全国ネットのゴールデン枠は漫才をふだん見ない人にも届くからだ。もっとも、紳助が提案の理由をどう語ったかは、書籍の原文にあたらないと分からない。複数の媒体が紹介しているのは、「漫才への恩返し」という動機までである[5]。

賞金と放送枠は決まった。だが、これだけでは大会の形としてまだ足りない。誰が出られて、誰が審査するのか。

4. どんな 大会に したの?

4. 事務所を問わず、現役の有名芸人が審査する大会にした

4. 資格と審査員の設計:事務所不問、現役の有名芸人が審査

大会の きまりは こうです。

まず、プロでも アマチュアでも、どこの 事務所じむしょの 人でも 出られます。吉本よしもとの 人だけの 大会では ありません。

つぎに、決勝けっしょうは 日本じゅうの テレビで、生の まま 放送します。

そして、審査しんさする 人には、テレビで かつやくしている 今の 人気芸人げいにんが えらばれました。しまだ しんすけさんや、ダウンタウンの まつもと ひとしさんが ならびました。

テレビで 見なれた 人が 審査しんさする 大会でした。

さて、そんな 大会に、まっさきに 出てくれた 人は だれだったのでしょう。

大会の形は、次のように決まりました。応募はプロ・アマを問わず、所属事務所も問いません[4]。決勝は全国ネットで生放送し、審査員にはダウンタウンの松本人志が就きました[5]。

事務所を問わないのは、吉本興業が主催する大会でありながら、他の事務所の漫才師やアマチュアにも門を開くということです。審査員には、島田紳助や松本人志など、テレビで活躍する現役の有名芸人が起用されました。そのことで審査の客観性とお墨付きが生まれた、と評されています[6]。

見る人にとっては、知っている芸人が点を付けるので、結果の重みが分かりやすくなります。賞金1000万円という額を信じさせる力もあったのではないでしょうか。

では、この大会に最初に出た人たちは、どんな顔ぶれだったのでしょうか。

形は三つの条件で固まった。資格は結成10年以内で、プロ・アマも所属事務所も問わない[4]。決勝は全国ネットの生放送で、賞金は1000万円。審査員にはダウンタウンの松本人志が就いた[5]。

事務所を問わない設計は、主催者の吉本興業だけで完結しない大会にするための条件だったと読める。そのうえで、審査員に島田紳助や松本人志ら、テレビで活躍する現役の有名芸人を起用したことが、審査の客観性とお墨付きを与えたと評されている[6]。応募する側からすれば、「誰が決めるのか」が見えている大会のほうが、1000万円という賞金の話も受け入れやすかったはずだ。これは評価の言葉から導いた読みであり、応募者の本心を記した資料があるわけではない。

形は決まったが、実際に若手が応募するかどうかは別の問題だった。冒頭の「ドッキリでは」は、その壁を示している。それを越えた最初の出場者の中に、すでに実績のあったコンビがいた。

5. だれが はじめての 王者おうじゃに なったの?

5. 賞を取っていた中川家が出て、第1回の王者になった

5. 第1回(2001年):1603組から、中川家が王者になるまで

すでに べつの 新人の 賞しょうを とっていた 中川家には、たにさんが 直せつ「でてください」と たのみました。

中川家は 予選よせんに 出ました。「もうしこみの お金 2000円を、おれたち からも とるのか」と ぼやいていた、とも つたわります。それでも 出たのです。

第1回は 2001年の 9月9日から 12月25日まで。もうしこんだのは、1603組でした。

その中から 決勝けっしょうに すすめたのは 10組。1603を 10で わると、およそ 160組に 1組です。

12月25日の 決勝で、いちばん 点が 高かったのは 中川家。829点でした。はじめての 王者おうじゃです。

第1回の あと、この 大会は どうなって いったのでしょう。

すでに他の大会で新人賞を取っていた中川家には、谷が直接頼んで予選に出てもらったと伝わります。エントリーフィー2000円を「俺たちからも取るのか」とぼやいていた、という話も聞こえてきますが、これは伝聞です[4]。

第1回は2001年9月9日から12月25日にかけて行われ、1603組がエントリーしました。決勝に進んだのは10組で、1603を10で割ると、およそ160組に1組が決勝へ届いた計算になります[1][2]。

12月25日の決勝は、中川家が829点で優勝しました。上位2組が最終決戦に進み、投票で最終順位が決まりました[1]。

賞を取った実績のあるコンビでも、予選から出てくる。その姿は、大会の重みを若手に伝えたのではないでしょうか。第1回のあと、この大会はどうなっていったのでしょうか。

中川家は、すでに他の新人賞を取っていたコンビだが、谷が直接頼んで予選に出てもらったと伝わる。エントリーフィー2000円を「俺たちからも取るのか」とぼやいていたという話は、インタビューでの伝聞である[4]。実績のあるコンビが予選から参加したことは、「ドッキリでは」と疑っていた若手にとって、大会が本物であることを示す材料になったとも読める。

第1回は2001年9月9日から12月25日にかけて行われ、1603組がエントリーした[1][2]。12月25日の決勝に進んだのは10組である。単純に割ると、1603組のうち約160組に1組が決勝に届いた計算になる。

優勝は中川家(829点)。決勝は上位2組が最終決戦に進み、投票で最終順位が決まる方式だった[1]。

第1回の結果は、この大会が一度きりの催しで終わらないことを示した。その後、大会と、それにならう賞レースはどう広がっていったのか。

6. そのあと 大会は どうなったの?

6. 一度終わった大会は、復活して賞レースの時代を開いた

6. 2002年のR-1創設、2010年の終了発表、2015年の復活

M-1の 次の年、2002年には「R-1ぐらんぷり」という 大会も はじまりました。ひとりで えんじる おわらいの 大会です。M-1の あとに、こうした 新しい 大会が ふえていきました。

M-1じたいは 2010年の 第10回で いったん おわりました。「わかい 才のうを 見つける ねらいは かなった」と いう 理由でした。

けれど 2015年に ふたたび はじまります。出られる 年数も 10年から 15年に ふえました。

のちには、もうしこむ 人が 5000組を こえる 年も 出ました。第1回の 1603組と くらべると、3倍 あまりです。

M-1グランプリの成功に触発されて、新しい賞レースがいくつも始まりました。代表は2002年に始まったR-1ぐらんぷり(ピン芸人の日本一を決める大会)です[6]。M-1の成功に触発され、2002年にはR-1ぐらんぷりが始まりました。

M-1自体は、2010年の第10回で終了が発表されました。吉本興業は「若い才能を発掘するという当初の目的が達成できた」「10年の節目をもって発展的解消することが次につながる」と説明しています[5]。

ところが2014年に、朝日放送が2015年の復活を発表しました。出場資格は結成10年以内から15年以内に広がり、最後の年を迎えた組の救済も兼ねていたとされます[2]。

応募する組の数も増え、のちには5000組を超える年も出ました[7]。第1回の1603組の3倍あまり(5000÷1603で約3.1倍)です。

M-1グランプリの成功は、他の賞レースを生む土台にもなった。代表的なのは2002年に始まったR-1ぐらんぷり(ピン芸人の日本一を決める大会)で、M-1の成功に触発されたものと説明されている[6]。

M-1自体は、2010年の第10回で終了が発表された。吉本興業の説明は、「若い才能を発掘するという当初の目的が達成できた」「10年の節目をもって発展的解消することが次につながる」というものだった[5]。つまり、吉本興業は10年の節目に、当初の目的を達成したと説明した。

ところが2014年に、朝日放送が2015年の復活を発表した。出場資格は結成10年以内から結成15年以内に広がり、ラストイヤーを迎えた組の救済も兼ねたとされる[2]。「10年」という最初の枠が、復活の際に見直された形である。

出場組数は第1回の1603組から年々増え、のちには5000組を超える年も出た[7]。5000÷1603は約3.1倍である。ただし、この5000組超の年がいつかは、引用した記事の範囲では特定していない。

7. 1603くみを わってみよう

7. 第1回の「160組に1組」を、自分で確かめてみる

7. 数字を自分で検算する:1603組、10組、5000組

この 大会の 数字は、えんぴつと 紙が あれば しらべられます。

やってみよう。第1回は 1603組が もうしこんで、決勝けっしょうに 出たのは 10組でした。1603を 10で わると、いくつに なりますか。

つぎに、5000を 1603で わってみましょう。何倍に なりますか。

こたえが 分かったら、おうちの 人と 「どうして こんなに ふえたのかな」と 話してみても いいですね。

大会の数字は、電卓と紙があれば確かめられます。

やってみよう:第1回は1603組がエントリーし、決勝に進んだのは10組でした。1603÷10はいくつでしょう。また5000÷1603は何倍でしょう。

答えが出たら、M-1グランプリの公式サイトの歴代大会のページで、好きな年の出場組数を調べてみてください。第1回からどれだけ増えたか、自分で割り算して比べると、数字が実感に変わります。

この記事の数字は、検算できる。第1回の1603組と決勝進出10組から、決勝への到達率は約0.6%(10÷1603)、1603÷10は約160である。5000組超の年との比は、5000÷1603で約3.1倍である。いずれも出典の数字をそのまま使った単純な割り算で、実際の予選の段階ごとの通過数を示すものではない。

読みたい原典としては、M-1グランプリ公式サイトの歴代大会のページ[1]と、谷良一へのインタビュー記事[4]がある。インタビューは、応募資格や中川家への依頼を谷本人が語った資料である。

好きな年の公式の歴代情報を開き、出場組数と決勝の点数を並べて、自分で割り算してみると、記事の数字と同じ見方ができる。

しらべた もとの じょうほう

参考にした情報源

参考にした情報源と、その使い方

本文の事実は、次の資料で確かめています。

  1. M-1グランプリ公式サイト「歴代大会」 https://www.m-1gp.com/history/ (第1回の組数・優勝・方式)
  2. Wikipedia「M-1グランプリ」 https://ja.wikipedia.org/wiki/M-1グランプリ (創設・紳助の提案・復活・資格の表記)
  3. Forbes JAPAN(『笑い神』抜粋) https://forbesjapan.com/articles/detail/68046 (谷良一の経歴・当時の漫才の状況)
  4. OCEANS(谷良一インタビュー) https://oceans.tokyo.jp/article/detail/45156?page=4 (応募資格・応募の様子・中川家)
  5. All About「M-1の歴史」 https://news.allabout.co.jp/articles/o/34962/ (大会の形・終了の説明)
  6. imidas 時事用語 https://imidas.jp/jijikaitai/l-40-084-09-06-g251/ (審査員の評価・R-1)
  7. 文春オンライン https://bunshun.jp/articles/-/21478 (出場組数の増加)

なおした ところ

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