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ここにあるのは、だれかが実際に調べ、考え、作ってきたことを集めたメモです。気になったら、ページの下の「参考にした情報源」から、もとの本や記事、それを生み出した人たちに、直接ふれてみてください。このメモには書ききれないおもしろさが、そこにあります。

手を あらうと いのちが たすかった のに、どうして みんなは しんじなかったの?

手洗い・コレラ菌・ピロリ菌の発見は、なぜすぐに信じられなかったのか

医学史に見る発見への抵抗 ── ゼンメルワイスの手洗い(1847)・スノウとパチーニのコレラ(1854)・マーシャルらのピロリ菌(1982〜)

分野:からだ

おなじ 1854ねん。ロンドンの お医者さんは「みずが コレラを はこぶ」と かんがえ、イタリアの お医者さんは けんびきょうで コレラの ばいきんを 見つけました。あとで ただしいと わかった はっけんでしたが、すぐには みとめて もらえませんでした。

それから 128ねん あと、パースの わかい お医者さんが、ふっかつさいの おやすみに おいた ばいよう皿に、いの ばいきんが そだって いるのを 見つけました。

ただしい はっけんが しんじて もらえるまで、どうして じかんが かかったのでしょう。手あらい、コレラ、いの びょうきの 3つの おはなしで、その わけが 分かります。

1854年、ロンドンの医師スノウは「水がコレラを運ぶ」と考え、同じ年にイタリアのフィレンツェでは、パチーニが顕微鏡でコレラの菌を見つけました。スノウの水の説は今では正しいとされ、パチーニが見た菌はのちにコレラの原因菌と分かりましたが、当時は広く受け入れられませんでした。

1982年の復活祭の連休には、捨てずに置いた培養皿に、胃の菌が育っていました。正しい発見が信じてもらえるまでに、なぜ時間がかかったのでしょうか。手洗い、コレラ、ピロリ菌という3つの場面から、「なぜそうなるのか」の説明と、確かめる方法という2つの手がかりが分かります。

1854年、ロンドンのスノウは「水がコレラを運ぶ」と論じ、フィレンツェのパチーニはコレラ患者の腸から曲がった形の細菌を見つけて論文にした。スノウの水系感染説は現在の知見に合い、パチーニの見た菌も後に原因菌と分かったが、当時の医学界では広く受け入れられなかった。

発見が正しくても、なぜ長く抵抗されるのか。ゼンメルワイスの手洗い(1847)、スノウとパチーニのコレラ(1854)、マーシャルとウォレンのピロリ菌(1982〜)の3例から、抵抗の理由と、それを越えたものが分かる。

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1. 手を あらうと、へった いのち

1. ゼンメルワイスの手洗いで死亡率が下がったのに、なぜ広まらなかったのか

1. 1847年のウィーン ── 手洗いで産褥熱の死亡率が下がったのに、なぜ広まらなかったか

むかし、ウィーンの びょういんに、ゼンメルワイスという お医者さんが いました。あかちゃんを うむ お母さんが、うんだ あとに 「さんじょくねつ」という びょうきで なくなることが、おおかったのです。

ゼンメルワイスは、お医者さんたちに、くすりを まぜた みずで 手を あらう ことを きめました。すると、びょうとうの なくなる 人の わりあいは、100人に 18人ほどから、100人に 1人ほどに へりました。1848ねんの すうじです[1]。

それなのに、この やりかたは すぐには ひろがりませんでした。どうしてでしょう。

ウィーン総合病院の第1産科で

1847年、ハンガリー出身の医師ゼンメルワイスは、ウィーン総合病院の第1産科で、医師や学生に塩素石灰液で手を洗うことを義務づけました。出産した女性が、産褥熱という熱の病気で亡くなることが多かった病棟です。

科学史研究所によると、この病棟の死亡率は、1848年に18.27%から1.27%へ下がりました。100人のうち約18人が、約1人になった計算です[1]。

正しいのに、受け入れられなかった

当時の医師の多くは、産褥熱の原因を「悪い空気」などと考えていました。ゼンメルワイスは、解剖した死体からの汚れが手について運ばれると考えましたが、病気のもとになる細菌の考え方がまだ定着していなかったため、納得してもらえる説明を出せませんでした[1]。

もう一つ、気持ちの問題もあったと歴史家は指摘します。手洗いを求めることは、「医師の手が患者を死なせていた」と言われたように受け取られかねなかったのです[2]。ただし、パリやロンドンなどで実践したり賛同したりした同僚もいて、全員が拒んだわけではありません[2]。

1847年のウィーン総合病院第1産科で、ゼンメルワイスは塩素石灰液による手洗いを義務づけた。産褥熱で亡くなる産婦が多い病棟だったからだ。科学史研究所は、この病棟の死亡率が1848年に18.27%から1.27%へ下がったと述べる[1]。100人中約18人が約1人になる規模の変化である。

では、なぜ受け入れられなかったのか。第一に、説明の欠如がある。当時の医学者の多くは産褥熱の原因を「悪い空気」などと考えていた。ゼンメルワイスは死体からの汚れが原因と結論したが、病原体という考えが定着していなかったため、受け入れられる形の説明にならなかった。多くの医師は、パスツールが細菌説を確かめる前の時期、批判的だったという[1]。

第二に、立場の問題がある。歴史家は、手洗いの要求が「医師が患者を死なせていた」と受け取られかねなかった点を、抵抗の理由に挙げる[2]。ただしパリやロンドンなどには実践・賛同した同僚もおり、抵抗は一様ではなかった[2]。

ゼンメルワイスは1849年にウィーン総合病院の職を離れ、1861年に主著を出したが、発見が医学界全体に受け入れられたのは、彼の死後だった[1]。外科医が日常的に手を洗うようになったのは1870年代にリスターが消毒を広めた後で、米国の医療現場で手洗いの正式な指針が採用されたのは1980年代である[2]。

2. 「わるい くうき」の まちで、みずを うたがった 人

2. 「悪い空気」が原因とされた町で、水を疑った人

2. 1854年ロンドン・ソーホー ── ミアズマ説のなかで、なぜスノウは水を疑ったか

わけが 見えない びょうきは、どうやって しらべれば いいのでしょう。1854ねんの ロンドンで、コレラという びょうきが はやりました。

そのころの お医者さんの おおくは、コレラは くさい くうきで ひろがると かんがえて いました。ところが スノウという お医者さんは、なくなった 人が すんでいた ばしょを ちずに かいて みました。すると、なくなった 人の すんでいた ばしょが、ブロードがいの ポンプの まわりに あつまって いたのです[3]。

死者の住所を地図に描く

1854年8月31日、ロンドンのソーホーでコレラの流行が始まりました。当時の医師の多くは、病気は悪臭のある空気「ミアズマ」を吸うことで広がると考えていました[3]。

医師のスノウは、亡くなった人の住所を地図に描き、ブロード街のポンプの周りに集まっていることを示しました[3]。空気ではなく、水を疑ったのです。

ハンドルを外したら、止まったのか

スノウは9月7日の夜に教区の理事会で話し、翌8日にポンプのハンドルが外されました[4]。ただしスノウ自身が、ハンドルを外す前から患者は減り始めていたと書いています[4]。ハンドルを外しただけで流行が止まったと言い切れないことを、本人が分かっていたのです。

この「水がコレラを運ぶ」という説は、ビクトリア朝の医学界には広く受け入れられませんでした。エドウィン・チャドウィクらは、空気感染説を主張しました[5]。

手洗いの次の問いは、原因の正体が見えないとき、どう示すかである。1854年8月31日に始まったソーホーのコレラ流行のとき、医師の多くは病気が悪臭のある空気(ミアズマ)で広がると考えていた[3]。スノウは、死者の住所を地図に落とし、ブロード街のポンプの周りに集中していることを示した[3]。

ここで大切なのは、彼が証拠の限界を自覚していた点だ。ポンプのハンドルが外されたのは、スノウが9月7日夜に教区理事会で話した翌日の9月8日だが、スノウ自身が「この措置が取られる前に患者は減っていた」と書いている[4]。そのため、ハンドル撤去だけで流行が止まったとは単純に言えない。

それでも説は広くは受け入れられなかった。チャドウィクらは空気感染説を主張し、1855年には一般保健局の報告書、教区の調査委員会の報告、スノウの著書(第2版)が別々に出た[5]。

3. おなじ 年に、けんびきょうで ばいきんを 見つけた 人

3. 同じ年、顕微鏡でコレラの菌を見つけた人がいた

3. 1854年フィレンツェ ── パチーニのコレラ菌は、なぜ1884年のコッホまで注目されなかったか

おなじ 1854ねんに、イタリアの フィレンツェでも、パチーニという お医者さんが けんびきょうを のぞいて いました。コレラに かかった 人の おなかから、まがった かたちの ばいきんを 見つけたのです。

パチーニは ろんぶんを かきましたが、この ときも、イタリアの がくしゃに くうき せつが つよく、あまり ちゅうもく されませんでした[6]。

30ねんほど あと、コッホが この ばいきんを、それだけ ふやして そだてる ことに せいこうしました。1965ねんには、この ばいきんの なまえに「パチーニ 1854」が くわえられました[6]。

顕微鏡の中の、曲がった菌

フィレンツェの医師パチーニは、1854年にコレラの患者の腸から、コンマの形に曲がった細菌を見つけて論文にしました。しかし当時のイタリアの学者にも、ミアズマ説が強く、注目されませんでした[6]。

この菌だけを増やして育てる純粋培養に、コッホが成功したのは1884年1月です。その後、国際命名委員会が1965年に、学名を「Vibrio cholerae Pacini 1854」として正式に採用しました[6]。発見者の名前と年が、学名の中に残ったのです。

菌が見つかっても、すぐには変わらなかった

1874年の国際衛生会議では、コレラの原因物質を運ぶ主な媒体は「周囲の空気」とする議決がされています[6]。コッホの発見後も、欧州の主要な医学界で受け入れられるまでには時間がかかりました[6]。

スノウと同じ1854年、フィレンツェのパチーニはコレラ患者の腸から、コンマ形の細菌を見つけて論文にした。だが当時のイタリアの学者にもミアズマ説が強く、注目されなかった[6]。空気が病気を運ぶという見方が強い場では、腸で見つかった菌の報告は、話題になりにくかったのだ。

コッホが1884年1月に純粋培養に成功し、のちに国際命名委員会は1965年に学名を「Vibrio cholerae Pacini 1854」と正式に採用した[6]。ただし変化は速くなかった。1874年の国際衛生会議は、コレラの原因物質を運ぶ主な媒体を「周囲の空気」と議決しており、コッホの発見後も欧州の主要な医学界で受け入れられるまでには時間がかかった[6]。

ここで次の問いが生まれる。菌が見えても信じてもらえないなら、疑う側が納得する手順とは何か。それを、20世紀の終わりに、ある若い研修医が体で示すことになる。

4. 「いの びょうきに ばいきんが いる」と いった 人

4. 胃の病気に菌がいる? ── 育たなかった菌と、置き忘れた培養皿

4. 1979〜1984年 ── ウォレンとマーシャルのピロリ菌は、なぜ培養が決め手になったか

1979ねんごろ、オーストラリアの パースで、ウォレンという お医者さんが、いの ぐあいを しらべる ぬのの かけらの なかに、うずまきの かたちの ばいきんを 見つけました。ばいきんが いる ところは、いが あれて いました。

わかい マーシャルが くわわり、100人の 人の いを しらべました[7]。でも、この ばいきんを そだてる ことが できません。すぐに すてて しまって いたのです。この ばいきんは、そだつのが とても おそいからでした[8]。

1982ねんの ふっかつさいの やすみ。ばいよう皿が、4日間 そのまま おかれました。つぎの 日、小さな ばいきんの かたまりが 見つかりました[8]。

らせん形の細菌と、炎症

1979年ごろ、オーストラリアのパースの病理医ウォレンは、胃の組織を調べて、らせん形の細菌を見つけ、細菌がいる場所に炎症があることに気づきました。若い研修医のマーシャルが加わり、100人の患者の組織を調べました[7]。

捨てすぎていた培養皿

1982年の初め、マーシャルは培養に何度も失敗しました。この菌は増えるのがとても遅く、成長を待たずに捨てていたためです[8]。

転機は、復活祭の連休(4月9〜12日)でした。培養皿がインキュベーターに置きっぱなしになり、連休明けの4月13日に、小さな透明な菌のコロニーが現れていました[8]。失敗の続いた理由が、待つ時間の短さだったと分かったのです。

それでも、すぐには受け入れられなかった

ところが、地元の消化器学会は二人の抄録を受け付けず、論文の編集者も、好意的な査読者を探すのに苦労しました[8]。手紙が1983年6月、主論文が1984年6月に、医学雑誌ランセットに載りました[8]。

BMJの2005年の記事は、この菌を誰も分離・培養できなかったため、以前の観察は無視されたか、実験のミスとされたと述べています[9]。

手洗いもコレラも、原因の物質が見えないことが壁になった。ピロリ菌では、その壁がはっきり見える。1979年ごろ、パースの病理医ウォレンは胃の生検でらせん状の細菌を見つけ、菌のいる場所に炎症があることに気づいた。若い研修医マーシャルが加わり、100人の患者の生検を調べた[7]。

では、なぜ受け入れられなかったのか。BMJ(2005)は、誰もこの菌を分離・培養できなかったため、以前の観察は無視されたか、実験のミスとされたと述べる[9]。マーシャル自身も1982年初めに何度も培養に失敗した。増殖が非常に遅く、早く捨てすぎていたからだ。復活祭の連休(4月9〜12日)に培養皿がインキュベーターに置きっぱなしになり、4月13日に小さな透明なコロニーが見つかった[8]。

培養が成功しても、抵抗は残った。地元の消化器学会は二人の抄録を受け付けず、論文の編集者も好意的な査読者を探すのに苦労した。1983年6月に2通の手紙、1984年6月に主論文がランセット誌に載った[8]。

5. じぶんで のんで たしかめた、そして くすりへ

5. 自分で菌を飲んで確かめた話と、治療の指針

5. 動物モデルの不在と自己実験 ── 1994年NIH合意形成会議に至るまで

これから はなすのは、とても きけんで、まねを しては いけない ほうほうです。

マーシャルは、この ばいきんが いの びょうきの もとに なるのか、たしかめる どうぶつが いませんでした。そこで、じぶんで ばいきんを のんだ と つたえられて います。すうじつ あとに、はきけが でたそうです[10]。

「たしかめる ほうほうが ない」ときに、じぶんの からだで しめそうと した 人が いた、という はなしです。

1994ねん、アメリカの けんきゅうじょは、ピロリきんに うつって いる いの かいようの 人には、ばいきんを たいじする くすりが いる、と けつろんしました[11]。

動物では試せなかったから

マーシャルは、実験に使える動物モデルがなかったため、自分でピロリ菌の培養液を飲んだと、複数の資料が伝えています。数日後に吐き気や嘔吐があり、10日後の内視鏡で胃炎と菌が確かめられたとされます[10]。年は1980年代なかばとされ、資料により細部が異なります。

これは大変な危険を伴う行いで、まねはできません。ここでは、動物で示せないとき、自分の体で答えを出そうとした人がいた、という話にとどめます。

「必要だ」という結論へ

1994年2月の米国国立衛生研究所(NIH)の合意形成会議は、ピロリ菌に感染した潰瘍の患者には、胃酸を抑える薬に加えて、抗菌薬による治療が必要と結論しました[11]。2005年のノーベル生理学・医学賞は、ウォレンとマーシャルに「ピロリ菌の発見と、胃炎・消化性潰瘍におけるその役割」で贈られました[7]。

培養ができても、菌が病気の原因かどうかは別の問いだ。マーシャルには動物モデルがなく、複数の二次資料は、彼が自分でピロリ菌の培養液(約10の9乗個)を飲み、数日後に吐き気と嘔吐、10日後の内視鏡で胃炎と菌が確かめられたと伝える[10]。時期は1980年代なかばとされるが、資料によって細部が異なる。この方法は危険を伴い、推奨できるものではない。

その後、NIHは1994年2月7〜9日の合意形成会議で、ピロリ菌に感染した潰瘍の患者には、胃酸を抑える薬に加えて抗菌薬が必要と結論した[11]。2005年のノーベル生理学・医学賞は、二人に「ピロリ菌の発見と、胃炎・消化性潰瘍におけるその役割」で授与された[7]。最初の観察(1979年ごろ)から、公的な指針まで約15年、賞まで約26年かかった計算になる。

6. 3つの おはなしに ある、おなじ こと

6. 3つの場面に共通していたもの

6. 抵抗の型 ── 説明の欠如・立場との衝突・確かめる手順

3つの おはなしを ならべて みると、にた ところも ちがう ところも あります。

にて いる ことは、「みとめて もらうまで じかんが かかった」ことです。ひとつめは、「どうして そうなるのか」が うまく せつめい できなかった ことです。ふたつめは、いまの かんがえや、じぶんの たちばと ぶつかった ことです。みっつめは、だれかが たしかめる ほうほうを つくった ことです。

ただしいと みとめて もらうには、じかんも、くふうも いりました。手あらいの すうじ、ちず、ながく まつ ばいようと、たしかめる ほうほうが すこしずつ そろって、ようやく みんなが なっとく して いきました。

3つの場面を並べると、目立つことが3つあります。

1つ目は、仕組みの説明が足りなかったことです。ゼンメルワイスの時代には細菌説が定着しておらず[1]、ピロリ菌は培養できなかったため、観察が実験のミスとされました[9]。2つ目は、当時の常識や立場とぶつかったことです。空気感染説が強いなかで水を疑い[3]、手洗いは医師の責任を問うように受け取られました[2]。

3つ目は、確かめる方法を誰かが作ったことです。コッホの純粋培養[6]、復活祭の連休に成功したマーシャルの培養[8]、NIHの合意形成会議[11]がそれにあたります。これは3つの事例からの筆者の読み取りで、抵抗の理由が他にないと言いたいのではありません。

抵抗した医師たちを、単に愚かだったと決めつけることもできません。当時の知識では、確かに説明のつかない部分があったからです。

3例を並べると、抵抗には少なくとも3つの型が見える。ただしこれは筆者の整理で、資料が断言する一般理論ではない。

第一は、機構の説明の欠如だ。ゼンメルワイスの時代には細菌説が定着しておらず[1]、ピロリ菌は分離・培養できなかったため、観察が無視されたか実験のミスとされた[9]。第二は、常識・立場との衝突だ。ミアズマ説が強い環境で水を疑うことは[3]、多数派の説と衝突した。手洗いの要求は、医師の責任を問うように受け取られかねなかった[2]。

第三は、確かめる手順の存在だ。コッホの純粋培養(1884)[6]、マーシャルの培養成功[8]、NIHの合意形成会議(1994)[11]のように、共有できる確かめ方が整うと、状況が動いた。スノウが自分の証拠の限界を書いていたこと[4]も、確かめる姿勢の一例といえる。

抵抗した側を愚かと断じるのは、当時の知識の限界を見落とす。ゼンメルワイスの数字は二次資料が中心で、月別の値と年別の値では基準が異なることにも注意が要る[1]。

自分でも しらべて みたく なったら

自分でも調べてみたくなったら

自分でも調べてみたくなったら

「みんなが しんじて いる けど、どうして かな?」と おもう ことを、ひとつ 見つけて みましょう。それは どうやって たしかめられそうか、おうちの 人と はなして みると おもしろいです。

もっと しりたく なったら、としょかんで「コレラ」「ピロリきん」の ほんを さがして みて ください。

今日できることは、「みんなが当たり前と思っていること」を1つ選び、それが「なぜ本当だと言えるのか」を家族と話してみることです。説明と、確かめ方の両方を考えると、この記事の3つの場面が、少し身近になります。

もっと読みたくなったら、科学史研究所[1]やロンドン博物館[3]のページを開いてみてください。

身近な「常識」を1つ選び、その根拠が説明と確かめ方のどちらで支えられているかを分けて考えると、この3例の構造が見えてくる。

資料を読むなら、ゼンメルワイスは科学史研究所[1]とナショナル・ジオグラフィック[2]、スノウは博物館[3]とMSUのスノウ資料[4]、ピロリ菌はMJA[8]とBMJの記事[9]が原典に近い。いずれも英語の資料で、翻訳ではなく原文で確かめる価値がある。

しらべた もとの じょうほう

参考にした情報源

参考にした情報源と、その使い方

出典について:科学史研究所、ナショナル・ジオグラフィック、ロンドン博物館、MSUのスノウ関連資料、UCLAのスノウのページ、MJA・BMJの記事、NIHの資料を使った。何に使ったかは、それぞれの項目の最後に書いている。

  1. Science History Institute, "Ignaz Semmelweis". https://www.sciencehistory.org/education/scientific-biographies/ignaz-semmelweis/ (手洗いの効果、当時の考え、受け入れの遅れについて)
  2. National Geographic, "'Wash your hands' was once controversial medical advice". https://www.nationalgeographic.com/history/article/handwashing-once-controversial-medical-advice (抵抗の理由と、手洗い普及の時期について)
  3. Museum of London, "John Snow, Cholera & the Broad Street pump". https://www.londonmuseum.org.uk/collections/london-stories/john-snow-cholera-broad-street-pump/ (1854年のコレラ流行とスノウの地図について)
  4. Matrix MSU, "Snow & the pump handle". https://johnsnow.matrix.msu.edu/broadstpump/snow-the-pump-handle/ (ポンプのハンドルと患者数の減少について)
  5. Broadview Press, "Investigating Cholera in Broad Street". https://broadviewpress.com/?p=50781 (スノウの説への抵抗と、1855年の報告について。検索結果の要約による)
  6. UCLA Fielding School of Public Health, John Snow site. https://epi-snow.ph.ucla.edu/Stream5_additionalitems_g.html (パチーニ、コッホ、1874年の国際衛生会議について)
  7. Nobel Prize, 2005 Physiology or Medicine press release. https://www.nobelprize.org/prizes/medicine/2005/press-release/ (ウォレンとマーシャルの受賞理由について)
  8. Medical Journal of Australia, "The 2005 Nobel Prize in Physiology or Medicine". https://www.mja.com.au/journal/2005/183/11/2005-nobel-prize-physiology-or-medicine (培養の経緯と、学会・論文の受け入れについて)
  9. BMJ 2005 (PMC1246068). https://pmc.ncbi.nlm.nih.gov/articles/PMC1246068 (培養できなかったため観察が無視された点について)
  10. The Biomedical Scientist, "Acute gastritis and Nobel Prize". https://old.thebiomedicalscientist.net/science/acute-gastritis-and-nobel-prize (自己実験の伝聞について。二次資料)
  11. NIH Consensus Development Conference, H. pylori in Peptic Ulcer Disease (1994) (PMC3745847). https://pmc.ncbi.nlm.nih.gov/articles/PMC3745847 (1994年の合意形成会議の結論について)

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