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ある日、さむらいが 刀を もてなく なった

廃刀令 ── 武士が刀を手放した日

廃刀令 ── 武士が刀を手放した日

分野:歴史・文化

むかし、さむらいは いつも こしに 刀を さして 生きて きた。でも、ある 年、国の きまりで、とつぜん それが できなく なる 日が やって きた。

刀を うしなった さむらいたちの 中には、はんたいして たたかいを おこす 人も いた。

昔、武士はいつも腰に刀をさして生きてきた。でも、ある年、国の決まりで、突然それができなくなる日がやってきた。

刀を失った武士たちのなかには、反発してたたかいを起こす人もいた。

1876年、明治政府は武士から刀を取り上げる決まりを出した。何百年ものあいだ、武士の身分と誇りの象徴だった刀を、法律ひとつで手放させたのだ。

刀を手放すことは、士族にとって誇りと生活の両方を奪われることでもあり、この決まりに反発した士族たちは各地で武器を取って立ち上がることになる。

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1. 1876年、刀を さす ことが きんしに なった

1. 1876年、刀をさすことが禁止になった

1. 1876年3月28日、廃刀令の布告

1876年3月28日、明治めいじせいふは「廃刀令はいとうれい」と いう きまりを 出した。とくべつな ふくを 着る ときや、ぐんじんや けいさつかんが せいふくを 着て いる とき いがい、刀を こしに さす ことを きんし する、と いう ないようだった[1]

刀は、それまで、士族しぞく(むかし さむらいだった 人たち)が、いつも 身に つけて いる ものだった。それが とつぜん、できなく なったのだ。

1876年3月28日、明治政府は「廃刀令」という決まりを出した。特別な服を着るときや、軍人や警察官が制服を着ているとき以外、刀を腰にさすことを禁止する、という内容だった[1]

刀は、それまで、士族(昔武士だった人たち)が、いつも身につけているものだった。それが突然、できなくなった。

1876年(明治9年)3月28日、太政官(明治初期の最高行政機関)は「廃刀令」を布告した。大礼服を着用するときと、軍人・警察官・官吏が制服を着用している場合を除き、帯刀を禁止するという内容だった[1]

刀は、江戸時代を通じて武士の身分を示す象徴であり、「苗字帯刀」として武士だけに許された特権だった。それが、法律ひとつで一般の士族から取り上げられることになった[1]

2. なぜ 刀が いらなく なったのか

2. なぜ刀がいらなくなったのか

2. 徴兵令・警察制度の確立と、秩禄処分が重なった

明治めいじせいふは、あたらしく「けいさつ」を つくり、また、ふつうの わかものたちを へいたいに する「ちょうへいれい」と いう しくみを はじめて いた。つまり、まちを まもる しごとも、たたかう しごとも、士族しぞくだけの ものでは なく なって いた。

しかも おなじ 年の 8月には、士族しぞくが うけとって いた おかねも、うちきられる ことに なった。刀と、くらしの おかねと、両ほうを 一どに うしなう ことに なった士族しぞくも 多かった。

明治政府は、新しく「警察」をつくり、また、普通の若者たちを兵隊にする「徴兵令」というしくみを始めていた。つまり、町を守る仕事も、戦う仕事も、士族だけのものではなくなっていた。

しかも同じ年の8月には、士族が受け取っていたお金も、打ち切られることになった。刀と、暮らしのお金と、両方を一度に失うことになった士族も多かった。

1875年、陸軍卿だった山縣有朋は、徴兵令の導入と全国的な警察制度の確立により、個人が武力を保持する必要はなくなったとして、廃刀の建議を行った。これが翌年の廃刀令布告につながる[2]

さらに追い打ちをかけたのが、同年8月に行われた「秩禄処分」だ。華族・士族に支給されていた俸禄(家禄)を全廃し、代わりに5〜14年分の価額に相当する「金禄公債証書」を一括交付するという措置だった。ただし公債の額は身分によって大きく差があり、華族が平均6万円余りを受け取ったのに対し、士族は平均500円ほどにとどまった。刀という誇りと、俸禄という生活の糧を、同じ年にほぼ同時に失った士族は少なくなかった[2]

3. 刀だけで たちあがった 170人

3. 刀だけで立ち上がった170人

3. 1876年10月、神風連の乱

廃刀令はいとうれいから はんとし ほどたった 1876年10月、くまもとの 士族しぞく やく170人が、この きまりに はんたいして たちあがった。「神風連しんぷうれん」と よばれる この グループは、じゅうや たいほうを もつ 明治めいじせいふの ぐんたいに、刀や やりだけで きりこんで いった[3]

しかし よるの うちに、明治めいじせいふの ぐんたいに おいつめられ、つぎの 日には ほとんどが 死んで しまった。

廃刀令から半年ほどたった1876年10月、熊本の士族約170人が、この決まりに反対して立ち上がった。「神風連」と呼ばれるこのグループは、銃や大砲を持つ明治政府の軍隊に、刀や槍だけで斬りこんでいった[3]

しかし夜のうちに、明治政府の軍隊に追いつめられ、次の日にはほとんどが死んでしまった。

1876年10月24日夜、熊本の士族・太田黒伴雄を首領とする約170人の「敬神党(神風連)」は、廃刀令と秩禄処分への反発から決起した。7隊に分かれ、熊本県令の官邸や熊本鎮台の司令官宅、砲兵営などを一斉に襲撃した[3]

刀と槍のみで武装した神風連に対し、態勢を立て直した政府軍は近代兵器で応戦した。太田黒は銃撃を受けて重傷を負い、義弟の介錯によって自刃した。ほかにも多くの党員が命を落とし、乱はわずか1日で鎮圧された。この決起に呼応して秋月の乱(福岡)・萩の乱(山口)も起こり、いずれも翌1877年の西南戦争に先立つ、一連の士族反乱として位置づけられている[3]

4. さいごの、いちばん 大きな たたかい

4. 最後の、いちばん大きな戦い

4. 1877年、西南戦争が士族反乱の最後を飾る

そして つぎの 年、1877年。こんどは、めいじの はじめに 大きな しごとを した 西郷隆盛さいごうたかもりと いう 人を、かごしまの 士族しぞくたちが かつぎあげて、明治めいじせいふと たたかう ことに なった。これを「せいなんせんそう」と いう。

はんとし いじょうも つづいた この たたかいは、日本で さいごの、いちばん 大きな 士族しぞくの 反らんだった。さいごには 西郷さいごうたちも やぶれて しまった。

そして次の年、1877年。今度は、明治の初めに大きな仕事をした西郷隆盛という人を、鹿児島の士族たちがかつぎあげて、明治政府と戦うことになった。これを「西南戦争」という。

半年以上も続いたこの戦いは、日本で最後の、いちばん大きな士族の反乱だった。最後には西郷たちも敗れてしまった。

1877年1月末、政府のやり方に不満をもった私学校の生徒たちが、政府の火薬庫を襲撃した。これをきっかけに、2月、私学校生を中心とする士族たちが、明治維新の中心人物の一人だった西郷隆盛を盟主として挙兵した。政府軍との戦闘は熊本城の攻防戦を経て半年以上に及び、9月24日、西郷は鹿児島城山で銃弾を受け、別府晋介の介錯によって自刃した[4]

廃刀令や秩禄処分をめぐる士族の不満は、各地で起きた反乱の背景にあったとされる。西南戦争は、そうした一連の士族反乱のなかで最大かつ最後のものとなった。この戦いを最後に、武力による士族の異議申し立ては終わりを迎える[4]

5. たくさんの 刀は、どう なったのか

5. たくさんの刀は、どうなったのか

5. 帯刀が終わり、鍛刀の技術も失われていった

刀を こしに さす 人が いなく なると、あたらしい 刀を つくる しごとも、どんどん へって いった。刀を つくる しょくにんの わざを もつ 人は、少なく なって しまった。

それでも、むかしから つくられて きた 刀じたいは、びじゅつひんとして、いまも たくさん のこされて いる。

刀を腰にさす人がいなくなると、新しい刀を作る仕事も、どんどん減っていった。刀を作る職人のわざを持つ人は、少なくなってしまった。

それでも、昔から作られてきた刀自体は、美術品として、今もたくさん残されている。

帯刀の実用的な需要が失われたことで、刀鍛冶という職業の存立基盤も大きく揺らいだ。多くの刀工が廃業を余儀なくされ、鍛刀の技術を受け継ぐ者は急速に減少していった[5]

一方で、江戸時代以前に作られた刀剣そのものは、武器としての役割を終えたのちも、美術品・工芸品として博物館や個人のもとに数多く伝えられている[5]

6. いまも、とうしょうは 刀を 作って いる

6. 今も、刀匠は刀を作っている

6. 刀匠は、今も美術品として刀を作り続けている

いまの 日本で、武器ぶきとして つかう ための 刀を 作る ことは できない。でも、びじゅつひんとしての 刀を 作る 「刀匠とうしょう」は、いまも いる。とくべつな ゆるしを もらった 人だけが、むかしながらの やりかたで、1本 1本 手作りして いる。

今の日本で、武器として使うための刀を作ることはできない。でも、美術品としての刀を作る「刀匠」は、今もいる。特別な許しをもらった人だけが、昔ながらのやりかたで、1本1本手作りしている。

現在の日本では、銃砲刀剣類所持等取締法にもとづき、美術品としての価値を持つ刀剣のみ、作刀承認を受けた刀匠だけが製作を許されている。完成した刀は都道府県の教育委員会に登録され、銃砲刀剣類登録証が発行される。武器としての帯刀は明治9年に終わったが、鍛刀という技術と文化そのものは、こうした制度のもとで今日まで受け継がれている[5]

じぶんでも しらべて みる

自分でも調べてみたくなったら

自分でも調べてみたくなったら

むかしの さむらいの しゃしんや えを 見て、刀を こしに さして 立って いる すがたを さがして みよう。今の 人の 立ちすがたと、どこか ちがって 見えるだろうか。

昔の武士の写真や絵を見て、刀を腰にさして立っている姿を探してみよう。今の人の立ち姿と、どこかちがって見えるだろうか。

明治初期の写真や錦絵には、帯刀した士族の姿が数多く残されている。立ち姿や座り方、着物の合わせ方など、刀を腰にさしていたことがどこに表れているか、探してみるのもおもしろい。

しらべた ところ

参考にした情報源

参考にした情報源

  1. 国立公文書館「日本のあゆみ」明治9年(1876)3月「廃刀令が発せられる」、フリー百科事典『ウィキペディア』「廃刀令」。 https://www.archives.go.jp/ayumi/kobetsu/m09_1876_02.html https://ja.wikipedia.org/wiki/廃刀令 (1876年3月28日に太政官が廃刀令を布告したこと、大礼服着用時と軍人・警察・官吏が制服を着用している場合を除き帯刀を禁止したことは国立公文書館「日本のあゆみ」による。刀が江戸時代を通じて武士の身分の象徴であり「苗字帯刀」が武士の特権だったことはウィキペディア「廃刀令」による)
  2. フリー百科事典『ウィキペディア』「廃刀令」、明治博物館「明治政府の刀狩り」、国立公文書館「日本のあゆみ」明治9年(1876)8月「秩禄処分が行われる」、刀剣ワールド「秩禄処分」。 https://ja.wikipedia.org/wiki/廃刀令 https://www.meihaku.jp/sword-basic/meiji-katanagari/ https://www.archives.go.jp/ayumi/kobetsu/m09_1876_03.html https://www.touken-world.jp/history/history-important-word/chitsuroku-shobun/ (1875年に陸軍卿・山縣有朋が徴兵令と警察制度の確立を理由に廃刀を建議したことはウィキペディア「廃刀令」と明治博物館の解説の双方で確認できる。1876年8月の秩禄処分で華族・士族の俸禄が全廃され金禄公債証書が交付されたことは国立公文書館「日本のあゆみ」による。公債額が華族平均6万円余り・士族平均500円ほどと身分により大きな差があったことは刀剣ワールドの解説による)
  3. フリー百科事典『ウィキペディア』「神風連の乱」、刀剣ワールド「神風連の乱」。 https://ja.wikipedia.org/wiki/神風連の乱 https://www.touken-world.jp/history/history-important-word/shimpuren-noran/ (1876年10月24日夜、熊本の士族・太田黒伴雄を首領とする約170人の敬神党〈神風連〉が廃刀令等への反発から決起し、熊本県令の官邸や熊本鎮台などを襲撃したこと、乱がわずか1日で鎮圧されたこと、太田黒が銃撃を受けたのち義弟の介錯で自刃したこと、この決起に呼応して秋月の乱・萩の乱が起こったことは刀剣ワールドの解説による。ウィキペディア「神風連の乱」は同様の経緯を伝える)
  4. フリー百科事典『ウィキペディア』「西南戦争」、鹿児島県「西南戦争」、鹿児島県歴史・美術センター黎明館「西郷隆盛像」。 https://ja.wikipedia.org/wiki/西南戦争 https://www.pref.kagoshima.jp/ab23/pr/gaiyou/rekishi/bakumatu/seinan.html https://www.pref.kagoshima.jp/ab23/reimeikan/josetsu/theme/gendai/seifu/kgs04_s3_1.html (1877年1月末、政府のやり方に不満をもった私学校生徒が政府の火薬庫を襲撃したこと、2月に私学校生を中心とする士族たちが西郷隆盛を盟主として挙兵したことは鹿児島県の解説による。政府軍との戦闘が半年以上に及んだこと、西南戦争が一連の士族反乱のなかで最大かつ最後のものとなったことはウィキペディア「西南戦争」による。9月24日に西郷が鹿児島城山で銃弾を受け、別府晋介の介錯で自刃したことは鹿児島県歴史・美術センター黎明館による)
  5. 文化庁「銃砲刀剣類所持等取締法」、日本刀・刀剣買取専門店の解説。 https://www.bunka.go.jp/seisaku/bunka_gyosei/shokan_horei/juhotouken/index.html https://www.touken-collection-nagoya.jp/touken-introduction/token-licence/ (現在の日本で銃砲刀剣類所持等取締法にもとづき美術品としての価値を持つ刀剣のみ作刀承認を受けた刀匠だけが製作を許されていること、完成した刀が都道府県教育委員会に登録され銃砲刀剣類登録証が発行されることは文化庁および刀剣専門店の解説による)

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