1. 1876年、刀を さす ことが きんしに なった
1. 1876年、刀をさすことが禁止になった
1. 1876年3月28日、廃刀令の布告
1876年3月28日、明治せいふは「廃刀令」と いう きまりを 出した。とくべつな ふくを 着る ときや、ぐんじんや けいさつかんが せいふくを 着て いる とき いがい、刀を こしに さす ことを きんし する、と いう ないようだった[1]。
刀は、それまで、士族(むかし さむらいだった 人たち)が、いつも 身に つけて いる ものだった。それが とつぜん、できなく なったのだ。
1876年3月28日、明治政府は「廃刀令」という決まりを出した。特別な服を着るときや、軍人や警察官が制服を着ているとき以外、刀を腰にさすことを禁止する、という内容だった[1]。
刀は、それまで、士族(昔武士だった人たち)が、いつも身につけているものだった。それが突然、できなくなった。
2. なぜ 刀が いらなく なったのか
2. なぜ刀がいらなくなったのか
2. 徴兵令・警察制度の確立と、秩禄処分が重なった
明治せいふは、あたらしく「けいさつ」を つくり、また、ふつうの わかものたちを へいたいに する「ちょうへいれい」と いう しくみを はじめて いた。つまり、まちを まもる しごとも、たたかう しごとも、士族だけの ものでは なく なって いた。
しかも おなじ 年の 8月には、士族が うけとって いた おかねも、うちきられる ことに なった。刀と、くらしの おかねと、両ほうを 一どに うしなう ことに なった士族も 多かった。
明治政府は、新しく「警察」をつくり、また、普通の若者たちを兵隊にする「徴兵令」というしくみを始めていた。つまり、町を守る仕事も、戦う仕事も、士族だけのものではなくなっていた。
しかも同じ年の8月には、士族が受け取っていたお金も、打ち切られることになった。刀と、暮らしのお金と、両方を一度に失うことになった士族も多かった。
3. 刀だけで たちあがった 170人
3. 刀だけで立ち上がった170人
3. 1876年10月、神風連の乱
廃刀令から はんとし ほどたった 1876年10月、くまもとの 士族 やく170人が、この きまりに はんたいして たちあがった。「神風連」と よばれる この グループは、じゅうや たいほうを もつ 明治せいふの ぐんたいに、刀や やりだけで きりこんで いった[3]。
しかし よるの うちに、明治せいふの ぐんたいに おいつめられ、つぎの 日には ほとんどが 死んで しまった。
廃刀令から半年ほどたった1876年10月、熊本の士族約170人が、この決まりに反対して立ち上がった。「神風連」と呼ばれるこのグループは、銃や大砲を持つ明治政府の軍隊に、刀や槍だけで斬りこんでいった[3]。
しかし夜のうちに、明治政府の軍隊に追いつめられ、次の日にはほとんどが死んでしまった。
4. さいごの、いちばん 大きな たたかい
4. 最後の、いちばん大きな戦い
4. 1877年、西南戦争が士族反乱の最後を飾る
そして つぎの 年、1877年。こんどは、めいじの はじめに 大きな しごとを した 西郷隆盛と いう 人を、かごしまの 士族たちが かつぎあげて、明治せいふと たたかう ことに なった。これを「せいなんせんそう」と いう。
はんとし いじょうも つづいた この たたかいは、日本で さいごの、いちばん 大きな 士族の 反らんだった。さいごには 西郷たちも やぶれて しまった。
そして次の年、1877年。今度は、明治の初めに大きな仕事をした西郷隆盛という人を、鹿児島の士族たちがかつぎあげて、明治政府と戦うことになった。これを「西南戦争」という。
半年以上も続いたこの戦いは、日本で最後の、いちばん大きな士族の反乱だった。最後には西郷たちも敗れてしまった。
5. たくさんの 刀は、どう なったのか
5. たくさんの刀は、どうなったのか
5. 帯刀が終わり、鍛刀の技術も失われていった
刀を こしに さす 人が いなく なると、あたらしい 刀を つくる しごとも、どんどん へって いった。刀を つくる しょくにんの わざを もつ 人は、少なく なって しまった。
それでも、むかしから つくられて きた 刀じたいは、びじゅつひんとして、いまも たくさん のこされて いる。
刀を腰にさす人がいなくなると、新しい刀を作る仕事も、どんどん減っていった。刀を作る職人のわざを持つ人は、少なくなってしまった。
それでも、昔から作られてきた刀自体は、美術品として、今もたくさん残されている。
6. いまも、とうしょうは 刀を 作って いる
6. 今も、刀匠は刀を作っている
6. 刀匠は、今も美術品として刀を作り続けている
いまの 日本で、武器として つかう ための 刀を 作る ことは できない。でも、びじゅつひんとしての 刀を 作る 「刀匠」は、いまも いる。とくべつな ゆるしを もらった 人だけが、むかしながらの やりかたで、1本 1本 手作りして いる。
今の日本で、武器として使うための刀を作ることはできない。でも、美術品としての刀を作る「刀匠」は、今もいる。特別な許しをもらった人だけが、昔ながらのやりかたで、1本1本手作りしている。
現在の日本では、銃砲刀剣類所持等取締法にもとづき、美術品としての価値を持つ刀剣のみ、作刀承認を受けた刀匠だけが製作を許されている。完成した刀は都道府県の教育委員会に登録され、銃砲刀剣類登録証が発行される。武器としての帯刀は明治9年に終わったが、鍛刀という技術と文化そのものは、こうした制度のもとで今日まで受け継がれている[5]。
じぶんでも しらべて みる
自分でも調べてみたくなったら
自分でも調べてみたくなったら
むかしの さむらいの しゃしんや えを 見て、刀を こしに さして 立って いる すがたを さがして みよう。今の 人の 立ちすがたと、どこか ちがって 見えるだろうか。
昔の武士の写真や絵を見て、刀を腰にさして立っている姿を探してみよう。今の人の立ち姿と、どこかちがって見えるだろうか。
明治初期の写真や錦絵には、帯刀した士族の姿が数多く残されている。立ち姿や座り方、着物の合わせ方など、刀を腰にさしていたことがどこに表れているか、探してみるのもおもしろい。
しらべた ところ
参考にした情報源
参考にした情報源
- 国立公文書館「日本のあゆみ」明治9年(1876)3月「廃刀令が発せられる」、フリー百科事典『ウィキペディア』「廃刀令」。 https://www.archives.go.jp/ayumi/kobetsu/m09_1876_02.html https://ja.wikipedia.org/wiki/廃刀令 (1876年3月28日に太政官が廃刀令を布告したこと、大礼服着用時と軍人・警察・官吏が制服を着用している場合を除き帯刀を禁止したことは国立公文書館「日本のあゆみ」による。刀が江戸時代を通じて武士の身分の象徴であり「苗字帯刀」が武士の特権だったことはウィキペディア「廃刀令」による)
- フリー百科事典『ウィキペディア』「廃刀令」、明治博物館「明治政府の刀狩り」、国立公文書館「日本のあゆみ」明治9年(1876)8月「秩禄処分が行われる」、刀剣ワールド「秩禄処分」。 https://ja.wikipedia.org/wiki/廃刀令 https://www.meihaku.jp/sword-basic/meiji-katanagari/ https://www.archives.go.jp/ayumi/kobetsu/m09_1876_03.html https://www.touken-world.jp/history/history-important-word/chitsuroku-shobun/ (1875年に陸軍卿・山縣有朋が徴兵令と警察制度の確立を理由に廃刀を建議したことはウィキペディア「廃刀令」と明治博物館の解説の双方で確認できる。1876年8月の秩禄処分で華族・士族の俸禄が全廃され金禄公債証書が交付されたことは国立公文書館「日本のあゆみ」による。公債額が華族平均6万円余り・士族平均500円ほどと身分により大きな差があったことは刀剣ワールドの解説による)
- フリー百科事典『ウィキペディア』「神風連の乱」、刀剣ワールド「神風連の乱」。 https://ja.wikipedia.org/wiki/神風連の乱 https://www.touken-world.jp/history/history-important-word/shimpuren-noran/ (1876年10月24日夜、熊本の士族・太田黒伴雄を首領とする約170人の敬神党〈神風連〉が廃刀令等への反発から決起し、熊本県令の官邸や熊本鎮台などを襲撃したこと、乱がわずか1日で鎮圧されたこと、太田黒が銃撃を受けたのち義弟の介錯で自刃したこと、この決起に呼応して秋月の乱・萩の乱が起こったことは刀剣ワールドの解説による。ウィキペディア「神風連の乱」は同様の経緯を伝える)
- フリー百科事典『ウィキペディア』「西南戦争」、鹿児島県「西南戦争」、鹿児島県歴史・美術センター黎明館「西郷隆盛像」。 https://ja.wikipedia.org/wiki/西南戦争 https://www.pref.kagoshima.jp/ab23/pr/gaiyou/rekishi/bakumatu/seinan.html https://www.pref.kagoshima.jp/ab23/reimeikan/josetsu/theme/gendai/seifu/kgs04_s3_1.html (1877年1月末、政府のやり方に不満をもった私学校生徒が政府の火薬庫を襲撃したこと、2月に私学校生を中心とする士族たちが西郷隆盛を盟主として挙兵したことは鹿児島県の解説による。政府軍との戦闘が半年以上に及んだこと、西南戦争が一連の士族反乱のなかで最大かつ最後のものとなったことはウィキペディア「西南戦争」による。9月24日に西郷が鹿児島城山で銃弾を受け、別府晋介の介錯で自刃したことは鹿児島県歴史・美術センター黎明館による)
- 文化庁「銃砲刀剣類所持等取締法」、日本刀・刀剣買取専門店の解説。 https://www.bunka.go.jp/seisaku/bunka_gyosei/shokan_horei/juhotouken/index.html https://www.touken-collection-nagoya.jp/touken-introduction/token-licence/ (現在の日本で銃砲刀剣類所持等取締法にもとづき美術品としての価値を持つ刀剣のみ作刀承認を受けた刀匠だけが製作を許されていること、完成した刀が都道府県教育委員会に登録され銃砲刀剣類登録証が発行されることは文化庁および刀剣専門店の解説による)
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