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「ウン」「スン」って、なんの ふだ? きんしされても のこった カルタ

禁止のあとも人吉球磨に伝わる75枚のウンスンカルタ

ウンスンカルタは禁令のあとも、なぜ人吉球磨に伝わったのか ── 75枚の札、寛政の改革、鍛冶屋町通りの現在

分野:歴史・文化

むかし、日本中で はやったのに、おかみから 「やっては いけない」と きんしされた カードが あります。そのなかまの ほとんどが きえた なかで、くまもとけんの 人よしと 球まの 土地には、いまも つたわって いると いわれます。

なまえは 「ウンスンカルタ」。ふだにも 「ウン」「スン」と かいて あります。どうして この カードだけ のこったのでしょう。この メモを 読むと、ふだの ひみつと、いま あそべる ばしょまでが 分かります。

江戸時代、日本中で人気になったカードゲームが、幕府に禁止されました。ところが熊本県の人吉球磨では、禁止のあとも伝わり、いまも残っているとされます。札の名前は「ウンスンカルタ」。札そのものに「ウン」「スン」という名前がついています。

なぜ、このカードだけが人吉球磨に残ったのでしょうか。札の正体、禁止の理由、残った理由として語られる説、そして鍛冶屋町通りでの現在の姿までが分かります。

ウンスンカルタは、16世紀にポルトガルの商人がもたらした遊びから進化した5組75枚の札で、日本中で人気になった[1]。ところが18世紀末に江戸幕府が禁止し、各地で姿を消していったが、人吉・球磨では禁止のあとも伝わり、現在まで残っているとされる[1][5]。

賭けごとに使われうるとして禁じられた札が、なぜ人吉球磨にだけ残ったのか。札の構成と名前の由来、禁止の経緯、残った理由として語られる説、鍛冶屋町通りの現在までが分かる。

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1. 「ウン」「スン」って、なんの ふだ?

1. 札に「ウン」「スン」と書いてある

1. 5組75枚の構成と、「ウン」「スン」の名前の由来

ウンスンカルタは、ぜんぶで 七十五まい。五つの なかまに わかれて いて、一つの なかまは 十五まい ずつ です[4]。

一から 九までの 数の ふだの ほかに、絵の ふだが あります。その 絵の ふだに かいて ある なまえが、「ウン」「スン」「ソウタ」「ロバイ」「ウマ」など。ふしぎな ひびきです[4]。

この ひびきは、ポルトガルの ことばに 近いと いわれます。「ウン」は 「一」の いみだと いう せつが あります。「スン」は 「いちばん 上」だと いう せつも ありますが、 「スン」の いみには、きまった こたえが ありません[3]。

では、ポルトガルの ことばの ふだが、どうして 日本に あるのでしょう。

ウンスンカルタは、5つの組が15枚ずつ、合わせて75枚のカードです。各組には1〜9の数札のほかに、「ウン」「スン」「ソウタ」「ロバイ」「キリ」「ウマ」という6枚の絵札があります[4]。組の印は剣や杯などで、呼び名には資料によって揺れがあります。

数字ではなく、札そのものに名前がついているのが特徴です。しかもその名前は、日本語の発音とはかけ離れた、外国語らしい響きをしています[4]。

「ウン」はポルトガル語で「1」、「スン」は「最高」を意味する言葉に由来するという一説があります。ただし「スン」の意味には定説がなく、複数の説が並んでいます[3]。

ポルトガル語らしい名前の札が、なぜ日本で遊ばれたのでしょうか。

札は5組で、各組が1〜9の数札と、「ウン」「スン」「ソウタ」「ロバイ」「キリ(コツ)」「ウマ」の絵札6枚、計15枚からなり、全体で75枚になる[4]。組の紋の呼び名は資料により揺れるため、ここでは数と構成だけを示す。

特徴は、絵札が数ではなく固有の名前で呼ばれ、その名前が日本語の発音とかけ離れていることだ[4]。「ウン」はポルトガル語の um(1)、「スン」は sum(最高)に由来するという一説があるが、「スン」の語源には定説がなく、複数の説がある[3]。カルタ自体も、ポルトガル語の carta(カード)に由来する語である。

では、このポルトガル風の名前は、どんな経路で日本の札になったのか。

2. ポルトガルの ふねから 来た カードが、どう そだったの?

2. 船で来たカードは、どうして75枚になったのか

2. 16世紀の伝来から、天正カルタを経て5種75枚へ

むかし、ポルトガルの 人たちが ふねで 日本に 来ました。そのとき、あそびを もって きたと いわれます[1]。

その あそびが 日本で かわって いって、五つの なかまの 七十五まいの ふだに なりました。日本中で にんきに なったと されます[1]。

はじめは 四つの なかま 四十八まいの 「てんしょうカルタ」だったと いう せつが あります。それが 日本の 世の中で ふえて、いまの かたちに なったそうです[2]。

たくさんの 人が あつまって あそべる カード。でも、それが のちに もんだいに なります。

16世紀、ポルトガルの商人たちが日本にもたらした遊びが、ウンスンカルタの出発点だといわれます。その遊びが日本で進化して、5組75枚のカードになり、日本中で人気になりました[1]。

辞典には、もとは天正年間(16世紀末)に流行した「天正かるた」(4種48枚)から派生し、元禄の終りころに考案されて、5種75枚に増えて日本風になったと説明されています[2]。

船で運ばれた遊びが、およそ100年以上かけて、日本の遊びとして育っていったことになります。みんなに愛された札には、ところが次の問題が待っていました。

16世紀にポルトガルの商人がもたらした遊びが日本で進化し、5組75枚の札になって日本中で人気を集めた[1]。辞典の説明では、天正年間に流行した天正かるた(4種48枚)から派生し、元禄の終りころに考案されて5種75枚に増え、日本化したとされる[2]。

年代は資料によって幅があり、考案の時期は一つに決められない。日本中に広まったこの遊びは、賭けごとへの警戒から禁止されることになる。

3. ウンスンカルタは、どうやって あそぶの?

3. 8人で二組に分かれて札を取り合う

3. 「八人メリ」── 大人数で遊ぶ札

あそびかたは 一つでは ありません。「八人メリ」は、八人で あつまり、四人ずつ ふた組に わかれて、ふだを とりあう あそびかただと つたえられて います[3]。

ほかにも 「六人メリ」「天下とり」「シクとり」などの あそびかたが あります[3]。

大ぜいで わいわい あそぶ カードだったのです。

遊び方はひとつではなく、「八人メリ」では8人が4人ずつの2組に分かれて札を取り合うと伝わります。ほかに六人メリ、天下取り、シク取りなどの遊び方が伝わっています[3]。

ルールの細かい手順は資料によって説明が違うので、ここでは「大人数が2組に分かれて競う遊び」とだけ押さえておきます。

大勢が真剣に勝負を競うこの遊びは、ある疑いを招くことになります。

遊び方は複数が伝わり、「八人メリ」は8人が4人ずつ2組に分かれて札を取り合うとされる。このほか六人メリ・天下取り・シク取りなどの遊び方がある[3]。細かい手順は資料によって説明が異なるため、ここでは人数と組分けにとどめる。

注目したいのは、多人数が組に分かれて勝負を競うという形である。この形が、人気の理由であると同時に、次に述べる禁止の背景にもなった。

4. どうして きんしされたの?

4. 江戸幕府は、なぜこの札を禁止したのか

4. 寛政の改革のもとでの禁止 ── 賭けごとへの警戒

この あそびは、おかねを かける 「かけごと」に つかわれる ことが あると 考えられました。そこで、むかしの 日本を おさめて いた えどばくふが、きんしに しました[1]。

きんしされた のは、いまから 二百三十年ほど 前、千七百九十年ごろ。「かんせいの かいかく」と よばれる 世の中の ひきしめの ころです[1]。

みんなが たのしんで いた カードが、日本中から すがたを けして いったのです。

ウンスンカルタが禁止された理由は、賭けごとに使われる可能性があったことです。18世紀末、江戸幕府が行った保守的な施策、いわゆる寛政の改革(1787〜1793年)のもとで禁じられました[1]。

遊び自体が悪いというより、賭けに使われやすいことが警戒されたのでしょう。人気があったぶん、取り締まりの対象にもなりやすかったと考えられます。

全国で禁止された札は、各地で姿を消していきました。ところが人吉球磨では、禁止のあとも伝わったとされます。

禁止の理由は、賭けごとに使われる可能性があったことで、18世紀末の寛政の改革(1787〜1793年)に象徴される保守的な施策のもとで、江戸幕府が禁止した[1]。人気の高さと、賭けに結びつく性格が、取り締まりの対象になった理由と読める。

そのため札は、全国で弾圧を受けた。ところが人吉・球磨の地域では、継続して伝承されてきたとされる[5]。この食いちがいが、次章の問いになる。

5. どうして 人よし 球まだけ のこったの?

5. 人吉球磨に残った理由として語られる説

5. 地理と領主 ── 残存の理由をめぐる説

ぜんこくで きんしされたのに、人よし 球まだけで あそび つづけられました。いまも この 土地に つたわって いると されます[5]。

わけは はっきり していません。いくつか せつが あります。一つは、人よしが 山に かこまれた 土地で、外との 行き来が すくなかった こと[6]。

この 土地を おさめた 人たちは、七百年ほど つづいたと いいます。むかしから ある ものを こわさず、そこに くらす 人の ぶんかを たいせつに したと つたえられます[7]。ウンスンカルタの ことでは なく、土地の ふんいきの はなしです。

これだと きめる ことは できません。

人吉球磨でだけ、ウンスンカルタは禁止後も継続して伝承されてきたとされます[5]。

理由として語られる説のひとつは、険しい山に囲まれた盆地で、外との行き来が少なかったという地理的な説明です[6]。

背景として、日本遺産の説明では、相良氏は約700年にわたって人吉を治め、それまでに暮らしていた人たちの文化を尊重して古いものを壊さなかったとされます[7]。この説明はウンスンカルタを見逃したという話ではなく、文化を大切にする土地柄を伝えるものです。

決め手となる記録があるわけではなく、説の紹介にとどまります。

残存の理由として語られる説の一つは、人吉が急峻な山に囲まれた盆地で、外部との行き来が限られていたという地理的な隔絶である[6]。これも説であり、断定はできない。

相良氏の人となりについては、日本遺産の説明が参考になる。相良氏は約700年にわたり人吉を治め、前代からの人々の文化を尊重して、古くからあるものを壊さなかったという[7]。ただしこの説明にウンスンカルタを黙認したという記述はなく、あくまで土地の気風を知る背景にとどまる。

因果を一つに絞ることはできず、地理の説も土地の気風も、理由として語られる背景の紹介にとどまる。では、残った札は現在、どう受け継がれているのか。

6. いま、どこで あそべるの?

6. 鍛冶屋町通りと「ウンスンかるたの家」の現在

6. 鍛冶屋町通りの現在 ── 展示・体験・大会と文化財の指定

人よしの 町に、「かじやまち」という 通りが あります。むかし、かなづちの おとが ひびいた 町です。この 通りに、かじやさんたちが あそんだ ウンスンカルタの ことが かいてある ひょうしきが あります[1]。

「ウンスンかるたの 家」は 二千七年に ひらきました。ふだの てんじや、まもる 会の きろくが 見られます。あそびを たいけんできる ばしょでも あります[5]。

この 通りでは 大会も ひらかれ、県の 中や 外から 十六チーム 六十四人が あつまった ことが あります。ねらいは 「ぶんかを つたえる こと」と 「ちいきの 人との こうりゅう」でした[9]。

人吉市の鍛冶屋町通りは、江戸時代に金槌の音が響いた町です。通りの案内標識には、かつて鍛冶屋たちが遊んだウンスンカルタなど、地元の文化が紹介されています[1]。

通りにある「ウンスンかるたの家」は2007年(平成19年)4月13日に開館し、カルタの展示や保存会の活動記録を見ることができます。遊びの体験や学びの場にもなっています[5]。

通りの4会場で開かれた大会には、県内外から16チーム64人が集まり、目的は文化の継承と地域の交流だったと新聞が伝えています[9]。

ウンスンカルタは熊本県の重要無形民俗文化財(県指定)で、1965年に指定されたとされます[2]。日本遺産「相良700年が生んだ保守と進取の文化」の構成文化財にも入っています[8]。禁止された遊びが、いまは土地の宝として守られているわけです。

鍛冶屋町通りは、江戸時代に金槌の音が響いた町で、標識にはかつて人吉の鍛冶屋たちが遊んだウンスンかるたが紹介されている[1]。禁止の時代を生き延びた遊びが、職人町の暮らしの中にあったことがうかがえる。

現在は、2007年(平成19)4月13日に開館した「ウンスンかるたの家」で、札の展示と保存会の活動記録を見学でき、体験や学びの場にもなっている[5]。通りの4会場で開かれた大会には、県内外から16チーム64人が参加し、目的は文化の継承と地域の交流とされた(開催年は資料から特定していない)[9]。

指定の面では、ウンスンカルタは熊本県の重要無形民俗文化財(県指定、人吉市)で、辞典には1965年の指定とある[2]。日本遺産「相良700年が生んだ保守と進取の文化」の構成文化財でもある[8]。観光庁DBの「重要無形民俗文化財」は国指定と読み違えやすいが、この文化財は国指定ではなく、熊本県の指定である。つまり、禁止された遊びが、いまは地域が守る文化として位置づけられている。

7. じぶんでも しらべて みたく なったら

7. 自分でも調べてみたくなったら

7. 自分でも調べてみたくなったら ── 資料案内

今日 できること:かみで 五つの しゅるいの カードを つくって みましょう。すきな マークを 五つ きめ、一から 九までの 数の ふだを かきます。じぶんで 強さの きまりを つくり、いちばん つよい ふだに すきな なまえを つけて みましょう。「ウン」や 「スン」は、どんな ひびきの なまえ だったかな、と 思い出しながら。

おでかけで できること:くまもとけんの 人よしし かじやまちの 「ウンスンかるたの 家」では、てんじが 見られます。ひらいて いる 時間は かわる ことが あるので、おでかけの 前に 公式の ページで たしかめて ください。

公式の じょうほう:人よし 球まの かんこうガイドに、ウンスンカルタの しょうかいが のって います。

今日できること:紙で5種類のカードを作ってみましょう。好きなマークを5つ決め、1〜9の数札を書きます。そのうえで、自分で強さの決まりを作り、いちばん強い札に好きな名前をつけてみます。声に出して比べながら、どんな音が外国語らしく聞こえるのか考えるきっかけになります。

出かけてできること:熊本県人吉市の鍛冶屋町通りにある「ウンスンかるたの家」では、カルタの展示や保存会の活動記録が見られます[5]。開館時間や体験の条件は変わることがあるので、行く前に公式の案内で確かめましょう。

公式情報:人吉球磨観光ガイドと、観光庁の多言語解説文データベースに、鍛冶屋町通りとウンスンカルタの説明があります[5][1]。

今日できること:自分で5組のカードを設計してみる。組の印、1〜9の数札、名前のついた絵札を決め、その名前の由来を自分で説明してみる。札の名前がどこから来たかを考えると、「スン」の語源に定説がないという点の面白さが実感できる。

出かけてできること:人吉市鍛冶屋町通りの「ウンスンかるたの家」で、展示と保存会の活動記録を見学できる[5]。開館時間・体験の条件は変わりうるため、訪問前に公式情報を確認すること。

資料案内:観光庁の多言語解説文データベースは、鍛冶屋町通りとウンスンカルタの公的な説明が読める[1]。禁止の経緯は同DB、残存理由の諸説と指定の状況は日本遺産ポータル[7][8]や地元紙の報道[9]を読み比べると、資料ごとの書きぶりの差が見えてくる。

しらべた もとの じょうほう

参考にした情報源

参考にした情報源と、その使い方

本文で使った資料。公的機関の解説、事典、観光案内、新聞を突き合わせている。

  1. 観光庁 多言語解説文データベース「鍛冶屋町通り/ウンスンカルタ」 https://www.mlit.go.jp/tagengo-db/R4-00325.html (伝来・禁止・鍛冶屋町通りの説明)
  2. コトバンク「うんすんかるた」 https://kotobank.jp/word/%E3%81%86%E3%82%93%E3%81%99%E3%82%93%E3%81%8B%E3%82%8B%E3%81%9F-35658 (天正かるたからの変化)
  3. うんすんカルタ(事典系の解説) https://pedia.3rd-in.co.jp/wiki/%E3%81%86%E3%82%93%E3%81%99%E3%82%93%E3%82%AB%E3%83%AB%E3%82%BF (札の名前の説と遊び方の名前)
  4. World of Playing Cards "Unsun Karuta" https://wopc.co.uk/japan/unsun-karuta (札の組と枚数の構成)
  5. 人吉球磨観光ガイド「ウンスンカルタ」 https://hitoyoshikuma-guide.com/2019/12/12/unsunkaruta/ (人吉球磨に残ったこと・ウンスンかるたの家)
  6. THE GATE「ウンスンカルタ」 https://thegate12.com/article/275 (残った理由として語られる説)
  7. 日本遺産ポータル「相良700年が生んだ保守と進取の文化」 https://japan-heritage.bunka.go.jp/ja/special/120/ (相良氏と土地の文化の背景)
  8. 日本遺産ポータル 構成文化財「ウンスンカルタ」 https://japan-heritage.bunka.go.jp/ja/culturalproperties/result/1438/ (県指定と構成文化財)
  9. 熊本日日新聞「ウンスンカルタ 勝負は真剣、交流は笑顔」 https://kumanichi.com/articles/1610218 (大会の参加数と目的)

なおした ところ

更新履歴

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