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ここにあるのは、だれかが実際に調べ、考え、作ってきたことを集めたメモです。気になったら、ページの下の「参考にした情報源」から、もとの本や記事、それを生み出した人たちに、直接ふれてみてください。このメモには書ききれないおもしろさが、そこにあります。

見えない つぶを かぞえた 人 ── ボルツマンの かんがえは どう たしかめられた?

墓石の式は本人のものではない? ── 見えない粒を数えたボルツマンの考えが確かめられるまで

ボルツマンと分子の実在 ── 統計的な見方、ブラウン運動の測定による裏づけ、2019年のボルツマン定数の定義

分野:歴史・文化

ウィーンの おはかの いしには、ある 式が きざまれて います。でも その 式を かいたのは、ボルツマン ほんにん では ないと いわれます[1]。

では、ボルツマンは なにを かんがえた 人なのでしょう。そして、なぜ 名前が いまも のこって いるのでしょう。この メモでは、その なぞが ほどける までが わかります。

ウィーン中央墓地にあるボルツマンの墓には、有名な式が刻まれています[9]。ところが、その式の形をボルツマン自身が書いたわけではないと、資料は述べています[1]。

では、ボルツマンは何を考えた人で、なぜ名前が温度の単位に残っているのでしょうか。このメモを読むと、目に見えない粒の考えが、顕微鏡の中の粒のふるえで確かめられていった道すじが分かります。

ウィーン中央墓地のボルツマンの墓には「S = k log W」が刻まれているが[9]、この形をボルツマン自身が書き残したわけではない[1]。定数 k も、物理に持ちこんだのはプランクである[2]。

それでも2019年、ボルツマン定数は温度の単位ケルビンの定義に使われるようになった[8]。ボルツマンが生前に示した、分子を数えて熱を考える見方は、のちにブラウン運動の測定で裏づけられた。この経緯と、定数の名が残った理由が分かる。

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1. おはかの 式は、だれが かいたの?

1. 墓石の式は、だれのものだったのか

1. 墓石の「S = k log W」と、ボルツマン定数の名づけ

オーストリアの ウィーンに、ボルツマンの おはかが あります。いしには、かがくの 式が きざまれて いるそうです[9]。

ところが ふしぎな ことが あります。この 式の かたちを、ボルツマンが じぶんで かいた わけでは ないと いわれる のです[1]。

式に でて くる 数「k」を、物理に もちこんだ のは、プランクという べつの 学者でした。そのプランクも、1920年の ノーベルしょうの こうえんで「ボルツマンが この 数を つくった とは、しらなかった」と のべて います[2]。

じぶんで つけた わけでも ない 名前が、いま「ボルツマンていすう」として のこって います。ボルツマンは、どんな かんがえを して いたのでしょう。

ボルツマンの墓に式が刻まれていると紹介されることは多いのですが[9]、スタンフォード哲学百科は、この形の式をボルツマン自身が書き残したわけではないと述べています[1]。

式に出てくる定数「k」を物理に導入したのは、1900〜01年ごろのプランクだとされます。プランク自身も1920年のノーベル賞講演で、ボルツマンがこの定数を導入したとは自分の知る限り考えにくい、という趣旨のことを話しています[2]。

名づけた人と、考えた人は別だった

つまり「ボルツマン定数」は、ボルツマンが自分で名づけたものではありません。それでも彼の名が付いたのは、この定数の背後にある考え方がボルツマンのものだったからだと思われます。その考え方とは何だったのかを、次の章で見ていきます。

ウィーン中央墓地の墓に「S = k log W」が刻まれていることは広く紹介される[9]。しかしスタンフォード哲学百科は、この形の式をボルツマンが自ら書いたわけではないと述べる[1]。

定数 k を物理に導入したのはプランクで、1900〜01年ごろのことだとされる。プランクは1920年のノーベル賞講演で、この定数はボルツマン定数と呼ばれるが、自分の知る限りボルツマン自身は導入していない、という趣旨を述べた[2]。

したがって「墓に自分の式を刻んだ」という語りは正確ではない。名前と実際の導入者がずれているのに、なぜボルツマンの名が残ったのか。それは、定数が表す関係の背後にある発想を、ボルツマンが先に示していたからだと考えられる。その発想を次章で確かめる。

2. ボルツマンは、なにを かぞえて いたの?

2. 粒の並び方の数から、熱が移る向きを考える

2. 巨視的状態と微視的配置 ── 1877年のエントロピーの確率的解釈

へやの 空気は、目に 見えない ちいさな つぶ(分子)が、たくさん とびまわって できて いると かんがえます。

ボルツマンは、この つぶの「ならび方」の 数に ちゅうもく しました。1877年の ことです[1]。

たとえば、トランプを ばらまく ところを おもいうかべて ください。きれいに そろった ならびは 1とおり ぐらいしか ないのに、ばらばらの ならびは かぞえきれない ほど あります。だから ばらまくと、たいてい ばらばらに なります。

ボルツマンは、空気や 水の ようすも おなじだと かんがえました。いちばん たくさんの ならび方が ある じょうたいが、「つりあった じょうたい」なのです[1]。ただし ほんとうの つぶは、トランプより ずっと ずっと たくさん あります。

でも、目に 見えない つぶの はなしを、みんなは すぐに しんじたのでしょうか。

空気や水は、目に見えない小さな粒(分子)の集まりだと考えられます。ボルツマンは1877年、ある見かけの状態が、粒の細かい配置の何通りで実現できるかを数える考え方で、エントロピーを確率と結びつけました[1]。

身近な例で考えると、トランプをばらまく場面が近いかもしれません。きれいに順に並ぶ並べ方は1通りでも、ばらばらの並べ方は無数にあります。だからばらまけば、たいていばらばらになります。

この考えでは、つりあいの状態とは「最も多くの仕方で実現できる状態」のことです[1]。熱いものと冷たいものを触れさせると温度が近づいていくのも、熱を分け合って温度が近くなる粒の配置のほうが、はるかに多いからだ、という見方になります。ただしこの例は、粒の数があまりにも多いことを省いた、大ざっぱなたとえです。

見えない粒を前提にした考え方

この見方は、粒が本当にあることを前提にします。では、粒の存在を、当時の人々はどう受け止めたのでしょうか。

ボルツマンは1877年、ある巨視的状態が何通りの微視的な配置で実現できるかを数え、エントロピーを確率と結びつけた。平衡とは、最も多くの仕方で実現できる巨視的状態のことだと捉え直した[1]。熱が高温から低温へ流れるといった一方向の変化は、法則で禁じられているのではなく、そうなる配置が圧倒的に多いために起こる、という読み方が開けた。

ここでは式の係数や対数の厳密な定義には入らない。重要なのは、この見方が分子を実在の粒として数えることを前提にしている点である。当時は、そもそも原子や分子を実在とみなすかどうかに意見の分かれがあった。そのため、この理論は物理の内容だけでなく、粒を認めるかどうかという前提そのものが問われる理論でもあった。

3. 目に 見えない つぶは、ほんとうに あるの?

3. 「見えない粒」を疑う科学者もいた

3. 原子論への懐疑と、原子に反対していたオストヴァルトの転向

むかしの 学者の なかには、「目に 見えない つぶなんて、ほんとうに あるのか」と うたがう 人も いました。たとえば、化学者の オストヴァルトは、はじめ げんしの 考えに はんたい して いました[6]。

ボルツマンは、ぶつりの 本で、「いまは はやらなくても、あとで だれかが この 考えを つかうかも しれない。そのとき ゼロから やり直さなくて すむ ように したい」という 気もちを のべた と しょうかい されて います。

では、つぶが ほんとうに ある しょうこは、どう やって 見つかったのでしょう。

当時、原子や分子が実在すると考えない科学者もいました。ドイツの化学者オストヴァルトは、その立場だったとされます。ところがのちに、ブラウン運動の説明によって原子論に「改宗」したと、ゾンマーフェルトが記録しています[6]。

ボルツマンの著書『気体論講義』の序文には、気体論が一時の反感で忘れられてしまわないように、また理論が再び注目されたとき、再発見が少なくて済むようにしたい、という趣旨の言葉があると紹介されています。

ここで言う「改宗」は、信念を変えたという意味の言葉です。では、オストヴァルトを変えたブラウン運動とは何だったのでしょうか。

当時、原子・分子を実在とみなすかどうかについては科学者の間でも立場が分かれており、化学者オストヴァルトは原子論に反対していた。ところが彼は、ブラウン運動の完全な説明によって原子論に「改宗」したと、ゾンマーフェルトが記録している[6]。

ボルツマンは1896・1898年の『気体論講義』の序文で、気体論が一時の敵意のために忘れられることを惜しみ、理論が再び起こるとき再発見が少なくて済むよう貢献したいという趣旨を述べたと紹介される。

では、立場を変えさせたほどの「完全な説明」とは何だったのか。次章で見る。

4. はなの こなの ふるえが、つぶの しょうこに なった

4. 顕微鏡の中の粒のふるえが、分子の証拠になった

4. ブラウン運動の理論と測定 ── アインシュタイン(1905年)とペランの検証

みずに うかぶ、とても ちいさな はなの こなは、けんびきょうで 見ると、ぷるぷると ふるえるように うごきます。これを ブラウンうんどうと いいます。

1905年、アインシュタインは「これは、みずの 分子が ぶつかって くるから では ないか」と かんがえました[5]。そして、こなの うごきの 大きさを はかれば、分子が どれくらい たくさん あるかも わかる、と いいました[5]。

ペランという 人は、1908年ごろから、大きさの そろった じゅしの つぶを けんびきょうで おいかけました。そして この いいぶんが ただしいか たしかめました[6]。

ペランは 1926年に、ぶっしつが つぶで できて いる ことの けんきゅうで、ノーベルしょうを うけました[7]。

ボルツマンは この とき、すでに この 世に いませんでした。ひとつ、ふしぎです。ボルツマンは 1905年に、どんな ことを して いたのでしょう。

水に浮かぶ花粉のような小さな粒は、顕微鏡で見るとふるえるように動きます。これがブラウン運動です。1905年にアインシュタインは、これを水の分子が粒に衝突するためだと説明しました。そして、粒の動きの大きさから、分子の数(アボガドロ定数)を求められると予言しました[5]。粒が動く距離の代表的な大きさ(平均二乗変位の平方根)は、時間にそのまま比例するのではなく、時間の平方根に比例します[5]。

この予言を確かめたのが、ペランらです。1908年ごろから、大きさのそろった樹脂の粒を顕微鏡で追い、アボガドロ定数を複数の方法で求めました。粒を約200個追った測定では、約7×10の23乗という値が得られたとされます。現代の値は約6×10の23乗なので、近い桁の値が出たことになります[6]。

ペランは1913年の著書『原子』で成果をまとめ、1926年に、物質が不連続な構造をもつことの研究でノーベル物理学賞を受けました[7]。

粒を数える考えが、目に見える形で裏づけられた

見えない粒の存在を前提にしたボルツマンの考えは、こうして数年後に、顕微鏡の中の動きで確かめられたのです。でも、1905年のボルツマンは、どこで何をしていたのでしょうか。

1905年にアインシュタインは、花粉などの微粒子のふるえ(ブラウン運動)を分子の衝突で説明した。粒の変位の代表的な大きさ(平均二乗変位の平方根)は経過時間そのものではなくその平方根に比例し、そのため変位の大きさから分子の数(アボガドロ定数)を求められると予言した[5]。

ペランらはこの予言を、大きさのそろった樹脂粒を顕微鏡で追う測定で確かめ、アボガドロ定数を複数の方法で求めた。約200個の粒を追った測定では7.15×10²³という値が得られたとされる(現代の値は約6.02×10²³)[6]。ただしこれは一つの測定の値で、複数の方法で6〜7×10²³台の値に集まったと読むのが妥当だ。ペランは1913年の著書『原子』で成果をまとめ、1926年、物質の不連続な構造の研究でノーベル物理学賞を受けた[7]。

分子を数える理論が、粒の動きの統計という別の道から実測に結びついた点が重要である。では、その理論を築いたボルツマンは、この時期どこにいたのか。

5. ボルツマンは、どんな 人だったの?

5. 禁酒の町にワインを持ちこんだ、陽気な教授

5. 1905年のバークレー訪問 ── 『ドイツ人教授のエルドラド旅行』

ボルツマンは、1844年に うまれた オーストリアの 物理学者です。グラーツ、ウィーン、ミュンヘン、ライプツィヒの 大学で、先生を つとめました[3]。

1905年の なつ、ボルツマンは アメリカの カリフォルニア大学バークレーに まねかれて、こうぎを しました[4]。

この たびを 書いた 文には、お酒を のんでは いけない 町に、ワインを こっそり もちこんだ はなしが でて きます。たびの できごとが 中心で、物理の はなしは あまり ないと しょうかい されて います[4]。

ボルツマンは、1906年に なくなりました[3]。

では、名前は どうして いまも のこって いるのでしょう。

ボルツマン(1844〜1906)はオーストリアの理論物理学者です。グラーツ、ウィーン、ミュンヘン、ライプツィヒの大学で教えました[3]。

1905年の夏には、カリフォルニア大学バークレーに招かれて講義をしています[4]。この旅の記録「ドイツ人教授のエルドラド旅行」は、禁酒の町にワインをこっそり持ちこむ話などが書かれ、物理の話は少ない文章だと紹介されています[4]。

ブラウン運動で粒の存在が確かめられていく少し前の旅でした。ボルツマンは翌1906年に亡くなりました[3]。

では、名前が今も残っている理由は何なのでしょうか。

ボルツマン(1844〜1906)はオーストリアの理論物理学者で、グラーツ、ウィーン(1873〜76、1894〜1900、1902〜06)、ミュンヘン、ライプツィヒの各大学で教えた[3]。

1905年の夏にはカリフォルニア大学バークレーに招かれ講義した。そのときの旅行記「ドイツ人教授のエルドラド旅行」は、禁酒の町へワインをこっそり持ちこむ話などが書かれ、物理の話は少ないと紹介される[4]。

翌1906年に亡くなった[3]。ブラウン運動による分子の実在の検証が進んだのは、その後である。

6. いま、なにに つかわれて いるの?

6. 温度の単位ケルビンに、名前が残った

6. 2019年のSI改定 ── ボルツマン定数の定義とケルビン

2019年、せかいの たんいの きまりが かわりました。この とき、ボルツマンていすうは、ちょうど 1.380649×10のマイナス23じょう(ジュール まいケルビン)と きめられました[8]。

そして、温度の ものさし「ケルビン」は、この すうじを もとに きめられる ことに なりました。むかしは「水が こおりかけ とけかけ にえかけの ようす(さんじゅうてん)」に たよって いました[8]。

ボルツマンが つけた 名前では なくても、見えない つぶを かぞえる 考えの なごりが、温度の ものさしの もとに なって います。

2019年のSI(国際単位系)の改定で、ボルツマン定数は正確に1.380649×10の−23乗 J/K と定義されました。温度の単位ケルビンは、この定数にもとづく単位になりました[8]。以前のように、水の三重点に頼る決め方ではなくなったのです[8]。

名前は人が付けたが、考えは残った

定数の名前はボルツマンが決めたものではありません[2]。それでも、見えない粒を数えて熱を考えるという発想は、顕微鏡の中の粒の動きで確かめられ[6]、いま温度の単位を支える定数に名前が残りました。

2019年のSI改定で、ボルツマン定数は正確に1.380649×10⁻²³ J/K と定義され、ケルビンはこの定数にもとづく単位になった。水の三重点に頼る旧来の定義とは異なる[8]。

この定数の名前をボルツマン自身が決めたわけではない[2]。しかし、分子の運動と熱を結びつける統計的な見方[1]は、ブラウン運動の測定による裏づけ[6]を経て、現在の温度の定義の基礎に名を残している。名前の由来と、考えの出どころは別だが、どちらも資料で追える。

7. じぶんでも しらべて みよう

7. 自分でも調べてみたくなったら

7. 自分でも調べてみたくなったら

きょう できること

おなじ 大きさの コップを 2つ よういして、おなじ りょうの 水と、ぬるい おゆ(さわれる くらいの あたたかさ)を、それぞれ いれます。おなじ ばしょに ならべて、うごかさずに おきます。どちらにも、水で うすめた インクを 1てきだけ おとして、ひろがる ようすを 見くらべて みましょう。おゆは あつすぎないように、おとなと いっしょに やります。

しらべて みよう

もしも 水の 分子が うごいて いる なら、あたたかい ほうが よく うごく のかな。そんな ことを、おうちの 人と はなして みましょう。

今日できること

同じコップを2つ用意し、同じ量の水とぬるま湯(さわれる程度の温度)をそれぞれ入れ、同じ場所に動かさずに置きます。どちらにも水で薄めたインクや食紅を1滴だけ落とし、広がり方を見比べてみましょう。湯は熱すぎないようにし、大人と一緒に行ってください。

見えない粒が動いているなら、温度で広がり方は変わるのだろうか。そんな疑問を持つところが、この記事の考えの出発点です。

もっと調べるなら

「ブラウン運動」や「温度とは何か」を、学校や図書館の理科の本で調べてみましょう。この記事の最後にある情報源は、さらに知りたくなったときの入り口です。

資料を読む

ボルツマンの統計的な見方は、スタンフォード哲学百科の解説[1]が読みやすい。ボルツマン定数の名の由来はウィキペディアの解説[2]から、プランクの1920年の講演へたどれる。ブラウン運動の検証は、アインシュタインとペランを扱う資料[6]が出発点になる。2019年の単位改定はNIST[8]で確認できる。

自分で試すなら

同じコップ2つに、同じ量の水とぬるま湯を入れ、同じ場所に動かさずに置き、水で薄めたインクを1滴ずつ落として広がり方を比べる。湯は熱すぎないようにし、大人と一緒に行う。広がり方の違いが何で決まるのかを、自分で考えてみたい。

しらべた もとの じょうほう

参考にした情報源

参考にした情報源と、その使い方

本文は、次の資料をつき合わせて書きました。ウィキペディアは二次資料として、ほかの資料と合わせて使っています。

  1. Stanford Encyclopedia of Philosophy「Boltzmann's Work in Statistical Physics」 https://plato.stanford.edu/entries/statphys-Boltzmann/ (1877年の考え方・墓石の式)
  2. Wikipedia「Boltzmann constant」 https://en.wikipedia.org/wiki/Boltzmann_constant (定数の名づけ・プランクの講演)
  3. Wikipedia「Ludwig Boltzmann」 https://en.wikipedia.org/wiki/Ludwig_Boltzmann (経歴・没年)
  4. Physics Today「A German Professor's Trip to El Dorado」 https://physicstoday.aip.org/features/a-german-professors-trip-to-el-dorado (1905年のバークレー訪問・冒頭紹介の範囲)
  5. Wikipedia「Brownian motion」 https://en.wikipedia.org/wiki/Brownian_motion (アインシュタインの予言)
  6. 「Einstein, Perrin, and Avogadro's Number – 1905 Revisited」 https://www.ias.u-psud.fr/boudine-days/presentations/EPA%205.doc (ペランの測定・オストヴァルトの転向)
  7. Wikipedia「Jean Baptiste Perrin」 https://en.wikipedia.org/wiki/Jean_Baptiste_Perrin (ペランのノーベル賞)
  8. NIST「Kelvin and the Boltzmann constant」 https://www.nist.gov/si-redefinition/kelvin/kelvin-boltzmann-constant (2019年の単位の定義)
  9. Atlas Obscura「Boltzmann's Grave」 https://www.atlasobscura.com/places/boltzmanns-grave (墓の式)

なおした ところ

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