1. 大学の はじまりが、どうして 「種痘を する ばしょ」 なの?
1. 東京大学医学部の最初は、どうして「種痘をする場所」だったのか
1. 医学部の起源が、どうして種痘を行う施設なのか
むかし、天然痘と いう おそろしい びょうきが ありました。この びょうきを ふせぐ ために、牛の びょうきを もとに した ものを うでに うつ ことを 種痘と いいます。いまの 予防接種の なかまです。
1858年、江戸の 神田に、その 種痘を する ばしょが できました。つくったのは、国では なく、江戸に すむ 医者たちです。数は 82人とも 83人とも いわれるので、「80人ほど」と 書きます。
この 小さな ばしょが、のちに 東京大学の 医学部に つながって いきます。
天然痘は、かかると重くなることのある感染症で、これを防ぐために、牛痘(牛の病気をもとにしたもの)を接種する方法が種痘です。いまの予防接種の仲間にあたります。
1858年(安政5年)、江戸に住む蘭方医(オランダ経由の西洋医学を学んだ医者)たちが、神田のお玉ヶ池に種痘所を開きました。呼びかけたのは伊東玄朴や大槻俊斎らで、お金を出し合った医者は82人とも83人ともいわれます[1]。この記事では「約80人」と書きます。
東京大学の公式年表は、1858年の「種痘所」から1877年の「東京大学」創設までを一続きに載せています[5]。では、この約80人は、どうやって種痘所をひらいたのでしょうか。
天然痘は、種痘(牛痘を接種して天然痘を防ぐ方法)で防ぐ感染症である。いまの予防接種の源流にあたる。
1858年(安政5年)、江戸在住の蘭方医が神田お玉ヶ池に種痘所を開いた。伊東玄朴、大槻俊斎らが呼びかけ、醵金した医者は82名とも83名ともされ、資料によって数が異なる[1]。ここでは「約80人」とする。国の事業ではなく、医者たちの私営だった点が出発点の特徴である。
東京大学の公式年表は、1858年5月の「種痘所」から、1877年4月の「東京大学(法理文・医)」創設までを、一つの流れとして示す[5]。では、この私営の施設は、どのような手順で成立したのか。
2. 80人は、どうやって この ばしょを ひらいたの?
2. 約80人の医者は、どうやって種痘所をひらいたのか
2. 蘭方医たちは、禁止令のあと、どう種痘所を開いたか
はじめに、お金を 出し合いました。そして、幕府に おねがいして、許可を もらいました。
その 少し まえ、江戸では、西洋の 医学を 学ぶ 医者が やりにくい ことも あったと いわれます。だから、みんなで 力を あわせる ことが 大切だったのでしょう。
許可は 1858年の 1月に おりたと いわれます。つくろうと 言いだした 人たちの 名前が のった 名ぼの いちばん 上には、箕作阮甫と いう 人の 名前が あったそうです。
お金を出し合った医者たちの連名帳の筆頭には、箕作阮甫の名が書かれていて、阮甫が主導的な役割を担ったといわれます[2]。
設立までには壁もありました。江戸では1849年(嘉永2年)に、漢方医らの働きかけで「蘭方医学禁止令」が出され、そのため種痘の広まりが遅れたとされます[3]。その後、1857年の蝦夷地での天然痘の流行をきっかけに、種痘所をつくる機運が高まったと伝えられます[3]。
阮甫は川路聖謨を通じて幕府に働きかけ、1858年1月に老中の堀田正睦から許可が下りました[3]。お金は医者たちが出し、許可は幕府から得た、という二本立てで始まった種痘所だったことが分かります。
種痘所が実際に設立されたのは同年の5月7日で、川路聖謨の屋敷の中だったとされます[3]。
設立の背景には、江戸の蘭方医が置かれた立場がある。1849年(嘉永2年)3月、既得権益を守りたい漢方医らの働きかけから「蘭方医学禁止令」が出されたとされ、これが江戸での種痘の普及を遅らせたという説明がある[3]。この経緯は二次資料にもとづく説明であり、禁止令の細部には踏み込まない。
転機として挙げられるのが、1857年の蝦夷地での天然痘の流行である。これをきっかけに、設立の機運が高まったとされる[3]。箕作阮甫は川路聖謨を通じて幕府に働きかけ、1858年1月に老中堀田正睦の許可が下りた。岡山県の資料は、阮甫が連名帳の筆頭に名を記し、主導的な役割を担ったといわれると述べる[2]。
つまり、私費で運営を支える約80人の医者と、幕府の許可という二つがそろって初めて、種痘所は動き出せた。実際の設立は同年5月7日、川路聖謨の屋敷内とされる[3]。ところが、その半年後に、種痘所は大きな試練を迎える。
3. ひらいて 半年で 火事に なった 種痘所は、どうなったの?
3. 開いて半年で火事にあった種痘所は、どう続いたのか
3. 開設半年で焼失した種痘所は、どう種痘を続け、再建したか
ひらいてから、半年ほどで、江戸で 大きな 火事が ありました。種痘を する ために できた たてものは、やけて しまいました。
それでも、医者たちは あきらめませんでした。とくに 名前が 出て くる 2人の 医者の いえを かりに つかって、種痘を つづけたと いわれます。つぎの 年には、たてなおして います。
お金を 出し合った 医者たちの 家が、そのまま 種痘の ばしょに なったのです。
1858年11月15日、神田方面で起きた大火によって、種痘所は焼けてしまいました[3]。開設から半年あまりのことです。
それでも種痘は止まりませんでした。伊東玄朴の家と大槻俊斎の家を仮の場所にして、種痘を続けたとされます[3]。翌年のことは、資料によって書き方がちがい、再建したとも、別の場所に移ったとも書かれます[2][3]。
場所をなくしても、医者たちの家が仮の種痘の場になりました。移った先は下谷和泉橋通りだと、百科事典や岡山県の資料に出てきます[1][2]。ここまで来て、私営の施設は次の変化を迎えます。
1858年11月15日、神田相生町から始まった大火で、種痘所は焼失した[3]。設立からわずか半年である。それでも種痘事業は止まらず、伊東玄朴宅と大槻俊斎宅を仮の場所として種痘を続け、翌年に再建された[3]。
岡山県の資料や百科事典は、類焼のため別の地、下谷和泉橋通りへ移ったと記す[1][2]。仮所の使用と別の地への移転は、順序や関係を含めて、資料の書き方に幅がある。
注目したいのは、このとき種痘所が国の機関ではなく、医者たちが自分で支える私営の施設だったことである。伊東玄朴と大槻俊斎の自宅を仮の場所にして、種痘を続けた。だが、私費に頼る運営には限界もある。次の転機は、運営主体の交代だった。
4. 種痘所は、いつ 幕府の 学校に なったの?
4. 私営の種痘所は、いつ幕府の医学校になったのか
4. 私営の種痘所は、どう幕府直轄の医学教育機関になったか
この 種痘所は、種痘だけを して いたのでは ありません。西洋の 医学を おしえる 会も ひらいて、江戸の 西洋医学の 中心の ひとつに なって いたと いわれます。
1860年、幕府が 自分の ものとして 引きうけました。つぎの 年には、名前が 「西洋医学所」に かわり、人の からだの つくりを しらべる 学びも ふくめて、医者を そだてる 役わりも もつように なりました。
のちに、大坂の 有名な 医者、緒方洪庵が この 学校の 頭に まねかれました。
種痘所は、種痘だけの場所ではありませんでした。西洋医学の講習も行い、江戸における西洋医学の拠点になったとされます[1]。
1860年(万延元年)10月、幕府の直轄となり、名称は改めて「種痘所」とされ、大槻俊斎が頭取に就きました。1861年(文久元年)には「西洋医学所」と改称し、種痘、解剖、教育の部門をもち、医者を育てる役割も持つようになりました[4]。
1862年に俊斎が亡くなると、幕府は大坂から緒方洪庵を招いて頭取としました[4]。1863年には、名称から「西洋」の文字を除いた「医学所」になります[4]。
このころの変化は、「種痘を行う施設」が「医者を育てる学校」へ役割を広げていく途中だったとも読めます。
種痘所は、種痘だけでなく西洋医学の講習も行い、江戸における西洋医学の拠点になったとされる[1]。この教育面の広がりのあとに、運営の主体が変わる。
1860年(万延元年)10月、種痘所は幕府直轄となり、大槻俊斎が頭取となった。翌1861年(文久元年)には「西洋医学所」に改称され、種痘・解剖・教育の部門をもつ医学教育機関へ位置づけが変わった[4]。これは、私営の予防接種施設が、官立の医学校の性格をもち始めたことを示す。
1862年に俊斎が亡くなると、幕府は大坂から緒方洪庵を招いて頭取とした。1863年には、西洋の文字を除いた「医学所」へ改称された[4]。資料は、こうした改称の理由までは述べていないため、名称の変化から運営の考え方の変化を断定することはできない。
5. 幕府の 学校は、どうして 東京大学の 医学部に なったの?
5. 名前が何度も変わった学校は、どう東京大学医学部になったのか
5. 医学校は、改称を重ねて1877年に東京大学医学部になった
それから、名前は 何度も かわりました。「大学東校」「東校」「東京医学校」と、じゅんに かわって います。
そして 1877年、東京医学校は、べつの 学校と 一つに なって、「東京大学」が うまれました。このとき、東京医学校が 医学部に なりました。
種痘所が できてから、19年が たって いました。
明治の新しい時代になると、学校の名前はさらに変わります。東京大学医学部の資料では、明治2年(1869年)に「医学校兼病院」から「大学東校」、明治4年に「東校」、明治7年(1874年)に「東京医学校」と改称されたとされます[6]。
そして明治10年(1877年)4月、東京医学校は東京開成学校と合併して「東京大学」となり、東京医学校は医学部になりました[6]。種痘所が開かれた1858年から、19年後のことです。
岡山県の資料も、お玉ヶ池種痘所から西洋医学所、大学東校、東京医学校へと改称しながら発展し、1877年の東京大学創設時に医学部となったと述べています[2]。なお、百科事典の中には1878年とするものがあり、本稿は東京大学の公式資料にある1877年を採っています[6]。
明治に入ると、名称はさらに続く。東京大学医学部の資料によれば、明治2年(1869年)に医学校兼病院から大学東校、明治4年に東校、明治7年(1874年)に東京医学校へ改称された[6]。
明治10年(1877年)4月、東京医学校は東京開成学校と合併して東京大学となり、東京医学校は同大学の医学部になった[6]。1858年の種痘所設立から数えて19年である。東京大学の年表も、1858年の「種痘所」から1877年の「東京大学」創設までを一本の流れとして示す[5]。岡山県の資料も、官立お玉ヶ池種痘所から東京医学校までの改称を経て、1877年に医学部となったと述べる[2]。
注意したいのは年の食いちがいである。百科事典の記述には1878年とするものがあるが、本稿は東京大学の公式資料である1877年を採った。名称の変化が複数あるため、どの時点を「医学部の誕生」とするかは、資料ごとに表現が異なる可能性がある。
6. じぶんでも しらべて みたく なったら
6. 自分でも調べてみたくなったら
6. 自分でも調べてみたくなったら
おうちの 人に たのんで、母子手帳の 予防接種の ページを ひらいて みましょう。いつ、どんな 予防接種を うけたか、かいて あります。その 記ろくを 見ながら、むかしの 医者たちが ひろげた 種痘との つながりを 考えて みましょう。
お出かけの ときは、東京の 神田岩本町の あたりに、お玉ヶ池 種痘所の あとを しめす ひが あると いわれます。ひが 見つかるか、さがして みる 人も いるかも しれません。
おうちの人に頼んで、母子手帳の予防接種のページを見てみましょう。いつ、どんな予防接種を受けたかが記録されています。手帳の記録を見ながら、江戸の医者たちが広めた種痘と、いまの予防接種とのつながりを考えてみましょう。
お出かけできる人は、いまの千代田区神田岩本町あたりにお玉ヶ池種痘所の跡があるといわれるので、交差点の近くにある記念碑を探してみるのもよさそうです。碑の場所は、出かける前に千代田区の案内などで調べておくと安心です。
もっと知りたい人は、東京大学の公式年表[5]や医学部の紹介資料[6]を開くと、1858年から1877年までの流れが年ごとに並んでいます。
確かめる手がかりは、2つある。1つは、母子健康手帳の予防接種の欄である。自分が受けた接種の種類と時期の記録を見ながら、1858年に医者たちが始めた種痘と、いまの定期接種とのつながりを考えてみたい。
もう1つは、一次に近い資料を読むことである。東京大学の公式年表[5]は、1858年「種痘所」から1877年「東京大学」までを年ごとに示し、東京大学医学部の紹介資料[6]は、明治2年から明治10年までの改称を順にたどれる。二次資料は、設立の経緯を補う材料として使える[1][3]。
お玉ヶ池種痘所の跡は、いまの千代田区神田岩本町あたりで、交差点付近に記念碑があるといわれる。訪ねる際は、千代田区などの案内で場所を調べてからにするとよい。
しらべた もとの じょうほう
参考にした情報源
参考にした情報源と、その使い方
本文の[ ]の番号は、下の資料の番号に対応しています。URLは取得日2026年10月1日時点のものです。
- コトバンク「種痘所」(日本大百科全書ほか) https://kotobank.jp/word/%E7%A8%AE%E7%97%98%E6%89%80-290675 (設立の経緯、医者たちの出資、西洋医学講習)
- 岡山県「箕作阮甫」の紹介ページ https://www.pref.okayama.jp/page/detail-91023.html (阮甫の役割、移転、改称の流れ)
- Wikipedia「種痘所」(二次資料) https://ja.wikipedia.org/wiki/種痘所 (禁止令、許可の経過、設立日、火事と再建)
- コトバンク「西洋医学所」 https://kotobank.jp/word/西洋医学所 (幕府直轄、改称、頭取の交代)
- 東京大学「沿革・年表」 https://www.u-tokyo.ac.jp/ja/about/history/b03_02.html (1858年から1877年までの流れ)
- 東京大学医学部 Prospectus 2019-2020 https://www.m.u-tokyo.ac.jp/information/pamphlet/Prospectus_2019-2020j.pdf (1869年から1877年までの改称と医学部の成立)
なおした ところ
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