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ここにあるのは、だれかが実際に調べ、考え、作ってきたことを集めたメモです。気になったら、ページの下の「参考にした情報源」から、もとの本や記事、それを生み出した人たちに、直接ふれてみてください。このメモには書ききれないおもしろさが、そこにあります。

フィリピンの いちばん いい ふくは、どうして すけて いるの?

バロンタガログはなぜすそを出して着るのか ── 武器説、ピーニャ織の手間、アロハシャツとのつながり

バロンタガログのすそ出しと透ける生地 ── 「武器を隠させないため」説の検討、ピーニャ織の手間、国の正装への歩み、アロハシャツとの関係

分野:歴史・文化

フィリピンの 男の人が とくべつな 日に きる ふくは、むこうが すけるほど うすい ぬのです。しかも、シャツの すそを ズボンの 外に 出して きます。

「ぶきを かくせない ように、スペイン人が そう させた」という はなしが ゆうめいです。でも、れきしを しらべる 人の なかには、そのころの きろくは みつかって いないと いう 人が います。では、なぜ すけて いるのでしょう。ぬのの ひみつと、ハワイの アロハシャツとの つながりが わかります。

フィリピンの男性の正装、バロンタガログは、向こう側がすけるほど薄い生地でできています。しかも、シャツのすそをズボンに入れず、外に出して着ます。

「武器を隠せないように、スペイン人がそう着せた」という説明が有名ですが、歴史の研究者は、その記録は見当たらないと述べています。ではなぜ、すけた布が正装になったのでしょうか。布の手間、着る人の移り変わり、ハワイのアロハシャツとの結びつきまでが分かります。

フィリピンの正装バロンタガログは、すけるほど薄い生地で仕立て、すそを出して着る。その理由として「植民地支配者のスペイン人が、武器を隠せないようにさせた」という説明が広まっているが、スペイン統治期の服装を研究したCooらは、16世紀から19世紀末までそれを示す記録はないと述べる[3]。

では、すけた布はなぜ正装になったのか。このメモを読むと、「武器説」への疑問の出どころ、ピーニャ織の手間、1953年と1975年に起きたこと、すそ出しの習慣がハワイのアロハシャツと結びつけて語られる理由が分かる。

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1. どうして すけた ぬのが、せいそうなの?

1. 正装なのに、向こうがすけている

1. バロンタガログのすける生地とすそ出しに、武器説は当てはまるか

バロンタガログは、フィリピンで けっこんしきなどに きる、とくべつな シャツです。うすくて、すけて います。

ふつうの シャツは、ズボンに 入れて きる ことが おおいですね。でも、これは すそを 外に 出します。

よく きく せつめいが あります。「むかし、フィリピンは スペインに おさめられて いた。だから、ぶきを かくして もてない ように、すけた ふくを きせられた」というのです。

なるほど、と おもいます。でも、これは ほんとうの はなしでしょうか。

広まっている説明

バロンタガログは、フィリピンで婚礼などの正式な場に着る男性用のシャツです。生地は向こうがすけるほど薄く、すそはズボンの外に出します[1]。

この着かたには、よく聞く説明があります。フィリピンを治めていたスペイン人が、武器などを隠せないように、すける生地ですそを出して着させた、というものです[3]。筋が通って聞こえるので、信じている人も多いようです。

ただし、この説明にはその根拠となる記録がない、と言う研究者がいます。次の章でその話を見ます。

バロンタガログは、薄くてすける生地で仕立て、すそを外に出して着る正装である[1]。この特徴について広く言われるのが、スペインの植民地支配者が、武器などを隠せないようにすける生地ですそ出しを強いた、という説明だ[3]。支配する側が、される側の服装を管理したという筋は、一見もっともらしい。

ところが、この説明は史料でどこまで支えられるのか。歴史研究者の見方は、次の章で検討する。

2. その はなしは、きろくに のこって いるの?

2. 「武器を隠させるため」の記録は見つかっていない

2. 通説の検討 ── 16世紀から19世紀末に、強制を示す記録はあるか

れきしの 先生の ひとり、コーさんは、「その きろくは ない」と いいます。かいた 本は、1820ねんから 1896ねんの ふくそうを しらべた ものです[4]。

「ぶきを かくさせる ために、すけさせた」という 文は、16せいきから 19せいきの おわりまでの 本や しょるいに みつからない、と かいて います[3]。

ただし、「きろくが ない」ことと「ぜったいに なかった」ことは ちがいます。わかって いるのは、いま ある しりょうでは ささえられない、と いう ところまでです。

それなら、すけた ぬのは、なにで できて いるのでしょう。

歴史研究者の指摘

19世紀の服装を研究したCooらは、「植民地の支配者が、すそ出しとすける生地を着させた」という話は広まっているが、16世紀から19世紀末までの記録にそれを示すものはない、と述べています[3]。Cooの『Clothing the Colony』は、1820年から1896年のフィリピンの服装を扱った本です[4]。

Cooは、バロンタガログが強制だったという話について、いまのところ裏づける文書は見ていないと語ったと報じられています[3][4]。

「記録がない」の意味

記録が見つからないことは、「絶対になかった」の証明にはなりません。分かるのは、この説明を支える史料が今のところ示されていない、というところまでです。

では、すけて見える布はなんでできているのでしょうか。

この通説について、Cooらは、16世紀から19世紀末までの記録に該当するものはないと述べる[3]。Cooは『Clothing the Colony』(ハワイ大学出版局)の著者で、同書は1820〜1896年の服装を扱う[4]。バロンタガログの着用が植民地政府による強制だったという話についても、裏づける文書は見ていないと語ったとされる[3][4]。

注意したいのは、これが「史料が示されていない」ことの指摘であり、「そのような命令が絶対になかった」ことの証明ではない点だ。とはいえ、「武器を隠させないため」は、現時点では史料の裏づけを欠いた説明として読むのが妥当だろう。では、薄くすける生地そのものは、何でできているのか。

3. すけた ぬのは、なにで できて いるの?

3. パイナップルの葉からとる糸で、布1メートルに約8時間

3. ピーニャ ── 繊維の性質と、無地1mに約8時間という手間

すけた ぬのの なかでも ゆうめいなのが、「ピーニャ」です。パイナップルの 葉から とる せんいで できた ぬのです。

せんいは、ぞうげの ような しろい いろで、つやが あります。ぬのに すると、すけて やわらかく なります[2]。

この ぬのを おるのは、たいへんです。むじの ぬのを 1メートル おるのに、8じかん ほど かかる、と せつめいされて います[2]。

せんいを とる、つなぐ、おる まで ぜんぶ あわせて、じゅぎょう 8じかんぶんくらいの てまが、1メートルに かかります。

そんな ぬのの ふくを、むかしは だれが きて いたのでしょう。

ピーニャという布

ピーニャは、パイナップルの葉からとる繊維です。象牙色でつやがあり、布にすると半透明でやわらかくなります。おもにバロンタガログや婚礼衣装など、正装に使われます[2]。

気が遠くなる手間

博物館の解説では、無地の布1メートルを仕上げるのに約8時間かかるとされます。製作は、葉から繊維をとる、手でつなぐ、機で織る、と手間のかかる作業の連続です[2]。

ピーニャ織は、18世紀後半から19世紀前半に最盛期を迎えたといわれ、アクラン州が最も古い主要な産地として挙げられています[2]。

これほど手間のかかる布なら、だれが着ていたのでしょうか。

ピーニャは、パイナップルの葉からとる繊維で、象牙色で自然なつやがあり、布は半透明で柔らかく、光沢が高い。おもにバロンタガログや婚礼衣装などの正装に使われる[2]。すけて見えるのは、この布そのものの性質である。

製作の手間は大きい。博物館の解説は、無地の布1メートルを仕上げるのに約8時間かかると説明し、葉から繊維をとり、手でつなぎ、機で織るという工程を挙げる[2]。ピーニャ織は18世紀後半から19世紀前半に最盛期を迎え、アクラン州が最古の主要産地とされる[2]。ならば、これほど手間のかかる布の服は、だれのものだったのか。

4. むかしは、どんな 人が きて いたの?

4. バロは昔から着られ、1700年代には限られた男性の服だった

4. バロの成立と、1700年代の着用者 ── イルストラードに限られたとされる説明

この ふくの なまえ「バロンタガログ」は、「タガログの 人の ふく」と いう いみです。「バロ」が、タガログごで「ふく」です[1]。

スペイン人が くる まえから、ルソンとうの タガログの 人は、バロを きて いたと いわれます。くびの まわりは まるく、そでは まっすぐで、ながい ものでした。あとから、えりや そでぐちが くわわりました[1]。

すがたには、中国の ゆったりした ふくや、インドの かぜとおしの よさ、ヨーロッパの かざりの すくない ふくなど、いろいろな えいきょうが あると いわれます[1]。

はくぶつかんの せつめいでは、1700ねんだいには、土地を もち、まちで いくらか ちからの ある 男の人に かぎって きて いたと いいます[1]。

とくべつな 人の ふくだった バロは、どうやって みんなの ふくに なって いったのでしょう。

名前に残る「衣服」

「バロ」はタガログ語で衣服を意味し、バロンタガログは「タガログ人の衣服」という意味です。スペイン人が来る前から、ルソン島のタガログ人は、土地に昔からある衣服から発展したバロを着ていたとされます[1]。

基本の形は、丸い首まわり、まっすぐな長袖、太ももの中ほどまでの丈です。あとから、えり、カフス、わきのスリットが加わりました。この形には、中国のゆったりした線、インドやマレー系の風通しのよさ、ヨーロッパの男性服の飾りの控えめさなど、複数の影響があるといわれます[1]。

限られた人の服

1700年代には、バロを着るのは、土地を持ち、地域でいくらかの権威をもつ男性(イルストラード)に限られていた、と博物館の解説にあります[1]。これは一つの解説に基づくため、「そういう説明がある」ととらえてください。

特別な人の服が、どうして広く着られる服になったのでしょうか。

「バロ」はタガログ語で「衣服」の意で、バロンタガログは「タガログ人の衣服」を意味する。スペイン人が来る以前から、ルソン島のタガログ人は、先住の衣服から発展したバロを着ていた[1]。つまり、すけた布の正装の原型は、植民地の支配者が持ち込んだものではなく、すでにあった服にさかのぼるとされる。

基本形は、丸首・まっすぐな長袖・太もも中ほどまでの丈で、後世にえり、カフス、わきのスリットが加わった。形には、中国のゆったりした線、インド・マレー系の風通しのよさ、ヨーロッパ男性服の控えめな装飾など、複数の影響が指摘される[1]。

1700年代のバロの着用は、土地を持ち地域で一定の権威をもつ男性(イルストラード)に限られていたと、同じ博物館の解説はいう[1]。ただし、これは博物館の解説1件にもとづく説明で、強く言いきれる段階ではない。ここから、「限られた人の服」が「広く着られる服」に変わるきっかけを探すことになる。

5. だいとうりょうは、どう つかったの?

5. 大統領が着て、国の正装として注目された

5. 1953年の就任式と1975年のバロン・フィリピーノ週間

1953ねん、ラモン・マグサイサイ だいとうりょうは、だいとうりょうに なる しきで、バロンタガログを きたと いわれます。ふつうの 人の 味方で ある ことを、ふくで しめしたと されます[3]。

1975ねんには、だいとうりょうが「ふこく」という きまりを 出しました。1975ねんの 5月5日から 11日を「バロン・フィリピーノ しゅうかん」と する ものです。はじめての 全国てんじかいを ひらき、くにの せいそうへの ちゅうもくを あつめ、もっと つかわれる ように、そして 外国へも うる ことを ねらいました[5]。

半そでで、わたなどの ぬのを つかった「ポロ・バロン」も ひろまりました。ふだんの ふくにも なりました[1]。

ところで、バロンタガログの「すそを 出す きかた」は、うみを こえた ハワイとも つながって いると いわれます。

就任式の一着

1953年、ラモン・マグサイサイ大統領は、就任式でバロンタガログを着て、自分が「庶民の人」であることを示したとされます。これでバロンタガログが庶民にも広まったという説明があります[3]。この点は一つの二次資料による説明なので、「そう説明されている」ととらえてください。

1975年のバロン・フィリピーノ週間

1975年1月17日、マルコス大統領は布告第1374号で、1975年5月5日から11日を「バロン・フィリピーノ週間」と定めました。第1回の全国バロン・フィリピーノ博覧会を開き、国の正装への関心を高め、利用を広げ、輸出も伸ばすことが目的です[5]。

その後、半袖で綿などを使ったポロ・バロンも普及し、バロンは略式の服としても着られるようになりました[1]。

ところで、このバロンの着かたは、海を越えたハワイとも結びつけて語られています。

1953年、ラモン・マグサイサイは大統領就任式でバロンタガログをあえて着て、「庶民の人」であることを示したとされ、これが庶民への普及の契機になったと説明される[3]。この説明は二次資料の引用による。「国の正装と定めた」のはこの年ではない。

国の側が動いたのは1975年で、1月17日、マルコス大統領は布告第1374号で、1975年5月5〜11日を「バロン・フィリピーノ週間」とした。第1回全国バロン・フィリピーノ博覧会の開催、国の正装への注目、利用の拡大と輸出の拡大が狙いである[5]。この布告は、週間を設けて関心と利用を呼びかけるものだった。そのうえで、特別な人の服は、半袖で綿などの略式の「ポロ・バロン」としても広まった[1]。この「すそを出す」着かたは、さらに海を渡ったとされる。

6. アロハシャツの きかたも、にて いるの?

6. ハワイのアロハシャツの「すそ出し」とのつながり

6. 研究者は、アロハシャツのすそ出しをバロンタガログと結びつけている

ハワイの アロハシャツも、すそを 外に 出して きる ことが おおい シャツです。アロハの ふくを しらべる リンダ・アーサーさんは、この きかたは、ハワイに いた フィリピンの 人たちが きて いた バロンタガログから きて いると いいます[6]。

アロハシャツには、ヨーロッパふうの みごろ、日本の ぬの、中国の 人の したて、フィリピンの きかたが まざって いると いう せつめいも あります[6]。

べつの 記事にも、「フィリピンと 中国の 人たちが、すそを 出す シャツと いろとりどりの きぬを もって きた」と かかれて います[7]。

ただし、「アロハシャツが バロンタガログから できた」とは いえません。いわれて いるのは、「すそを 出す きかた」の はなしです。

研究者の説明

アロハシャツの研究者リンダ・アーサーは、アロハシャツを「すそを出して着る」習慣は、島にいたフィリピン系の人びとが着ていたバロンタガログに由来する、と述べます[6]。

アロハシャツには、西洋式の身ごろ、日本の生地、中国系の仕立て職人、フィリピンの着かたが合わさった、という「5つの文化」の説明もあります[6]。

ほかの資料にも、フィリピン系と中国系の新来者が、すそ出しのシャツ(「バロン・タロン」と書かれている)と色とりどりの絹を持ち込んだ、という説明があります[7]。綴りは、バロンタガログの別表記の可能性があります。

言えること・言えないこと

ここで話題になっているのは、「すそを出す着かた」のつながりです。「バロンタガログがアロハシャツの元」だとまでは言えません。

では、身のまわりの服の着かたを、自分で調べてみるには、どうすればよいでしょうか。

アロハ服の研究者リンダ・アーサーは、シャツをズボンの外に出して着る習慣は、島にいたフィリピン系の人びとが着ていたバロンタガログに由来する、と述べる[6]。アロハシャツの成り立ちには、西洋式の身ごろ、日本の生地、中国系の仕立て職人、フィリピンの着かたが合わさったという「5つの文化」の説明もある[6]。Mental Flossも、フィリピン系と中国系の新来者が、すそ出しのシャツ(原文の綴りは「barong talong」)と色とりどりの絹をそれぞれ持ち込んだと書く[7]。

ただし、論点は「すそ出しの習慣」であり、「バロンタガログがアロハシャツの元になった」ではない。すそ出しの由来については、研究者がそう説明している、という位置づけだ。

7. すけるぬのを、じぶんで ためして みよう

7. 薄い布で、「すける」を試す

7. 出口 ── 布のすけ方を試す体験と、資料の読みどころ

うちに ある うすい ぬのを、あかるい まどに かざして みましょう。ハンカチや ガーゼ、うすい シャツで いいです。

1まいで、むこうが どれくらい みえますか。2まい、3まいと かさねると、どう かわりますか。ピーニャの ようすが、すこし だけ そうぞうできます。

つぎに、おうちの 人の シャツを、ズボンに いれた ときと、そとに だした ときを くらべて みましょう。ちがいは あるでしょうか。

もっと しりたく なったら、はくぶつかんの ページや、フィリピンの ふこくの ぶんしょを ひらいて みて ください。

家にある薄い布を、明るい窓にかざしてみましょう。ハンカチ、ガーゼ、薄いシャツなどで構いません。1枚で向こうがどれくらい見えるか、2枚、3枚と重ねると見え方がどう変わるかを確かめます。ピーニャのすけ方を、少しだけ想像できます。

家族の薄手のシャツを、ズボンに入れた場合と出した場合で見比べ、見た目の印象がどう変わるかも試せます。

もっと読みたくなったら、フィリピン・フォークライフ博物館の解説[1][2]や、布告第1374号の文書[5]を開いてみてください。

家にある薄い布(ガーゼ、ハンカチ、薄いシャツなど)を明るい窓にかざし、1枚と重ねた場合とで、向こうの見え方がどう変わるかを比べると、すける布の感覚をつかめる。さらに、シャツをズボンに入れた着かたと出した着かたを見比べると、すそ出しが与える印象の違いも確かめられる。

資料を読むなら、バロの成り立ちと着用者の説明はフィリピン・フォークライフ博物館の解説[1]、ピーニャの工程は同館の別ページ[2]、1975年の制度的な動きは布告第1374号の原文[5]が英語で読める。アロハシャツとのつながりは、すそ出しの由来が他の資料でどこまで支えられるかという問いとして、自分で調べてみる価値がある。

しらべた もとの じょうほう

参考にした情報源

参考にした情報源と、その使い方

出典について:博物館の解説、歴史研究者の著書の紹介、フィリピンの布告原文、アロハシャツ研究者のインタビューなどを使った。何に使ったかは、それぞれの項目の最後に書いている。

  1. Philippine Folklife Museum Foundation「Barong Tagalog」。https://philippinefolklifemuseum.org/portfolio-items/barong-tagalog/ (バロの成り立ち、形、着用者、略式のバロンについて)
  2. Philippine Folklife Museum Foundation「History and Origin of Piña」。https://philippinefolklifemuseum.org/portfolio-items/history-and-origin-of-pina/ (ピーニャ繊維の性質、製作の手間、最盛期について)
  3. Wikipedia「Barong Tagalog」。https://en.wikipedia.org/wiki/Barong_Tagalog (すそ出し説へのCooらの指摘、マグサイサイの就任式について。Cooらの研究を引いた二次資料)
  4. University of Hawai‘i Press「Clothing the Colony」書籍ページ。https://uhpress.hawaii.edu/title/clothing-the-colony-nineteenth-century-philippine-sartorial-culture-1820-1896/ (Cooの著書の対象年代について)
  5. Proclamation No. 1374, s. 1975(Lawphil)。https://lawphil.net/executive/proc/proc1975/proc_1374_1975.html (バロン・フィリピーノ週間の期間と目的について。布告の原文)
  6. Collectors Weekly「An Interview with Aloha Shirt Author and Scholar Linda Arthur」。https://www.collectorsweekly.com/articles/an-interview-with-aloha-shirt-author-and-scholar-linda-arthur/ (アロハシャツのすそ出しとバロンタガログについて。インタビュー)
  7. Mental Floss「A Brief History of the Hawaiian Shirt」。https://www.mentalfloss.com/article/66921/brief-history-hawaiian-shirt (フィリピン系の人びとが持ち込んだすそ出しのシャツについて。二次資料)

なおした ところ

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