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ここにあるのは、だれかが実際に調べ、考え、作ってきたことを集めたメモです。気になったら、ページの下の「参考にした情報源」から、もとの本や記事、それを生み出した人たちに、直接ふれてみてください。このメモには書ききれないおもしろさが、そこにあります。

ふじさんに いけない 人は、まちに ふじさんを つくった

富士山に登れない人のため、江戸の富士講は町に富士塚を築いた ── 登りたい気持ちが広がるまで

江戸の富士講は、富士山の代わりに富士塚を築いた ── 女性・外国人・余暇の登山へ広がるまで

分野:歴史・文化

えどの まちには、「ミニ ふじさん」が つくられました。ほんものの ふじさんに いけない 人が、まちの 中で おがむ ためです。いまも のこって いて、5つは 国の だいじな ぶんかざいです。

どうして そこまで して、ふじさんに のぼりたかったのでしょう。この メモを 読むと、えどの 人の ふじさん のぼりが、いまの 夏の 20万人に つながって いく ところまで わかります。

江戸時代の町には、本物の富士山に行けない人のために、土を盛ってつくった「ミニ富士山」がありました。富士塚と呼ばれ、いまも残るもののうち5基は国の重要有形民俗文化財になっていて、いちばん古いものは1800年に築かれたとされます。

そこまでして、人びとが富士山に登りたかったのはなぜでしょうか。仲間と登った江戸の人たち、女性、外国人、そしていまの夏に登る約20万人まで、富士登山がどう広がったのかが分かります。

江戸の庶民は、富士山に登れない人のために、町の中に土を盛って富士山そのものを模した「富士塚」をつくった。現存するもののうち5基は国の重要有形民俗文化財に指定され、築造年代が明らかな最古は1800年築とされる[4]。

ではなぜ、そこまで登拝にこだわったのか。江戸の富士講から、女性への開放、外国人の登頂、余暇としての登山を経て、2025年夏の約20万5千人に至る流れが、公的機関の資料から分かる。

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1. むかしの 人は、だれと ふじさんに のぼったの?

1. 江戸の人は、仲間を組んで白装束で富士山をめざした

1. 富士講 ── 団体で登る江戸の富士登山

えどじだいの 人たちは、「こう」と いう なかまの 会を つくって、ふじさんに のぼりました。白い ふくを きて、すずを ならし、「ろっこんしょうじょう」と となえながら あるいたそうです[3]。

なかまの 世話を する 人も いました。「おし」と よばれる 人で、とまる 家は、ふつうの 家とは ちがう つくりだったと いいます[1]。

この 会は 「えどはっぴゃくやこう」と いわれる ほど ふえました。ただし 八百八は 「たくさん」と いう ことで、ほんとうの 数では ありません[3]。

でも、ふじさんは とおくて、のぼるのは たいへんです。みんなが のぼれたのでしょうか。

講という仲間

江戸時代の初め、富士山のふもとの人穴で修行した角行が、富士山への信仰を教えとしてまとめたのが始まりといわれます。その弟子たちを通じて広まり、江戸の後半に「富士講」として盛んになりました[1]。

18世紀になると、江戸では富士山を信仰する仲間の集まりが次々に現れました[2]。その数は「江戸八百八講」といわれるほどでした。八百八は「たくさん」を表す言い方で、本当に808あったという意味ではありません[3]。

白装束に鈴と杖

講の人たちは、旧暦6月1日の山開きに合わせて団体を組みました。白装束にわらじ掛けで、鈴を振り、金剛杖をつき、「六根清浄」と唱えながら登ったと伝えられています[3]。世話や指導をしたのは御師と呼ばれる人たちで、御師の宿は、ふつうの民家や商家とはずいぶん違う構えでした[1]。

ただ、富士山は江戸から遠い山です。みんなが何度も登れたわけではありません。そんな人たちは、どうしたのでしょうか。

富士山信仰は、江戸初期に人穴で修行した長谷川角行が教義としてまとめたのが始まりとされ、弟子の村上光清や食行身禄らを通じて広まり、江戸後期に富士講として盛んになった[1]。18世紀には、江戸で富士山を崇拝する結社が相次いで現れた[2]。その盛況ぶりは「江戸八百八講」と形容されたが、八百八は「多数」の比喩で実数ではない[3]。

登山の形は団体行動だった。講員は旧暦6月1日の山開きに合わせて団体を組み、白装束にわらじ掛け、鈴を振り金剛杖をつき「六根清浄」を唱えて登拝した[3]。山中の世話や指導を担ったのが御師で、その宿は一般の民家・商家とは大きく異なる構えだったという[1]。

ここで疑問が残る。登山期間が決まっていて、江戸から山までの距離もある以上、全員が毎年登ることは現実的ではない。登れない人の「登りたい」は、どこへ向かったのか。

2. いけない 人は、まちに ふじさんを つくった

2. 登れない人のために、町に「ミニ富士山」がつくられた

2. 富士塚 ── 登拝の代わりに築かれたミニ富士山

のぼれない 人の ために、地元に つくられたのが、「ふじづか」です。土や 石で つくった 小さな ふじさんで、「ミニ ふじさん」とも よばれます[4]。

えどの 目黒(いまの 東京)では、1812年と 1819年に ふじづかが できました。ほんものに いかなくても、小さな 山に のぼって おがめば ごりやくが ある。そう 考えて、よろこんだ 人が 多かったと 考えられて います[3]。

いまも のこる ふじづかが あります。5つが 国の 「じゅうような みんぞくの ぶんかざい」に なって いて、いちばん 古いのは 1800年の ものです[4]。

ところで、ふじさんに のぼって いたのは、男の 人ばかり だったのでしょうか。女の 人が のぼれる 場所は、そのころ かぎられて いました。

町の中に富士山をつくる

富士塚は、実際に富士山へ登る代わりに、富士講の人たちが江戸時代に地元に築いたミニ富士山です[4]。

東京の目黒では、元富士が文化9年(1812年)、新富士が文政2年(1819年)に築かれました。本物の富士山に苦労して行かなくても、築山に登って富士山を拝めばご利益があるとなれば、多くの人に歓迎されただろうと考えられています[3]。

いまも残る富士塚

築造年代と築いた人がはっきりしている富士塚のうち、5基が国の重要有形民俗文化財になっています。いちばん古いのは、1800年の木曽呂の富士塚です[4]。ただし「最古」は、築造年代が明らかなものの中での話です。

こうして江戸の人たちは、行けない山を、町の中に引き寄せました。ところで、この登山に、女性は加われたのでしょうか。

登れない人の願いに応えたのが富士塚だ。富士山の登拝の代用として、富士講の人びとが江戸時代に地元へ築いたミニ富士山である[4]。

目黒区の解説によれば、元富士が文化9年(1812)、新富士が文政2年(1819)に築かれた。本物に難儀して行かずとも築山に登って拝めば霊験が得られるなら、多くの人に歓迎されただろう、と推測されている[3]。築造の動機は推測で、当時の人びとの声が直接残っているわけではない点に注意したい。

富士塚は残っている。築造年代・築造者が明らかな5基が国の重要有形民俗文化財に指定され、最古は寛政12年(1800)の木曽呂の富士塚とされる。ただしこれは「築造年代が明らかなもの」の中での最古である[4]。

では、本物の富士山の側はどうだったか。登拝の担い手は、じつは偏っていた。女性が登れる範囲は、江戸の世では限られていたのである。

3. 女の 人は、いつから のぼれるように なったの?

3. 女性に開かれた山 ── まず8合目まで、12年後に正式な禁止が解けた

3. 女性登山の解禁 ── 1860年の8合目許可と1872年の布告

1860年、ふじさんは 60年に 1どの とくべつな 年を むかえました。この とき、女の 人が 8合目まで のぼる ことが ゆるされました[5]。

ただし、ゆるされたのは 8合目までで、60年に 1どの ことです。いつでも ぜんぶ のぼれる わけでは ありませんでした。

それから 12年後の 1872年、国は 「女の 人が はいれない きまりの 場所を やめて、のぼる ことを 自由に する」と きめました[5]。ふじさんでも、正式な きんしが とかれました[6]。

ふじさんの 門は、少しずつ ひらいて いきました。ひらいたのは 女の 人だけでは ありません。

1860年の一歩

1860年、富士山は「庚申の御縁年」に女性が8合目まで登ることを認めました[5]。庚申の御縁年は60年に一度巡ってくる年です。つまり、全面的な解禁ではなく、8合目までで、しかも60年に一度の特別なことでした。

1872年の布告

それから12年後の1872年、国は「神社仏閣女人結界ノ場所ヲ廃シ登山参詣ヲ随意トス」という太政官布告を出しました。女性が入れない決まりの場所をやめて、登山や参拝を自由にするという内容で、多くの山で女性への制限が解かれました[5]。国土交通省の解説も、富士山で1872年に正式な禁止が解かれたとしています[6]。

ちょうど同じ1860年、もう一つの「初めて」が富士山で起きていました。

女性への開放は、段階を踏んだ。1860年、富士山は60年に一度の「庚申の御縁年」に限って、女性の8合目までの登山を認めた[5]。全面解禁ではなく、範囲も周期も限られた特例である。

転機は1872年に来る。太政官布告第98号「神社仏閣女人結界ノ場所ヲ廃シ登山参詣ヲ随意トス」により、多くの山で女性の入山制限が解かれた[5]。国土交通省の多言語解説文も、富士山では1872年に長年の正式な禁止が解かれたとする[6]。ただし布告の日付は資料によって月の記述が異なるため、ここでは年にとどめる。

特例の1860年は、別の意味でも節目だった。同じ年に、富士山には最初の外国人が立っていた。

4. 外国人は、いつ ふじさんに のぼったの?

4. 外国人も登った ── オールコックと、パークス公使夫人ファニー

4. 外国人の登頂 ── オールコック(1860)とファニー(1867)

1860年、日本に きて いた イギリスの 公使(国の だいひょう)、オールコックが、外国人として はじめて ふじさんの 上に たどりつきました[7]。いまから 160年 いじょう 前の ことです。

そして 1867年、イギリスの 公使 パークスの おくさん、ファニーが、外国人の 女の 人として はじめて のぼりました[5]。

オールコックは、日本で 見た ことを 『大君の 都』と いう 本に かきました[7]。外国の 人が 日本を 知る てがかりにも なりました。

のぼる 人は ふえて いきます。こんどは、のぼる 「わけ」が かわり はじめました。

外国人として初めての頂上

1860年(万延元年)、初代の駐日英国公使オールコックが、外国人として初めて富士山に登頂しました。日本での見聞は『大君の都』という著書に記されています[7]。登頂した日付は資料によって7月26日や27日と揺れるので、ここでは年だけを書きます。

外国人女性も続く

1867年には、オールコックの後任の英国公使パークスの夫人ファニーが、外国人女性として初めて富士山に登頂しました[5]。日本の女性に8合目までの登山が認められた1860年から、7年後のことです。

富士山に登る人は、江戸の講の人、女性、外国人と、広がっていきました。それでは、登るわけはどうなったのでしょうか。

1860年(万延元年)、初代駐日英国公使オールコックが外国人として初めて富士山に登頂した。見聞は著書『大君の都』に記されている[7]。登頂日は資料により7月26日・27日と揺れるため、年のみを記す。

1867年には後任の英国公使パークスの夫人ファニーが、外国人女性として初めて登頂した[5]。オールコックの妻ではない点に注意が要る。1860年に日本の女性が8合目まで認められた年から数えて、7年後である。

登り手は、講の人びと、女性、外国人と広がった。だが、これは登る人の幅の話である。登る「理由」そのものは、同じままだったのか。

5. のぼる わけは、どう かわったの?

5. 修行や信仰だけでなく、楽しみや観測で登る人も現れた

5. 明治以降の登山 ── 信仰から余暇・気象観測へ

めいじの 時代に なって、西ようの 人たちと 会う ことが ふえると、あたらしい 「あそびの 時間」も 入って きました。そして、おがむ ためでは なく、ただ たのしむ ために ふじさんに のぼる 人が あらわれました[6]。

1895年には、天気を しらべる 人が、ふじさんの いちばん 上で、冬の 天気を しらべようと しました。きびしい 冬の ふじさんに、はじめて のぼれた 人だと いわれます[5]。

こうして ふじさんは、おがむ 山でもあり、たのしむ 山でもあり、しらべる 山にも なりました。

では、いまは どれくらいの 人が のぼって いるのでしょうか。

おがむためではなく

明治維新(1868年)のあと、西洋との交流で新しい余暇の過ごし方が入ってきました。修行や信仰のためではなく、楽しみのために富士山に登る人も現れました[6]。

冬の山頂で観測する

1895年には、気象学者の野中至が、富士山頂での冬の気象観測に挑戦しました。厳冬期の富士登山に初めて成功したとされます[5]。

富士山は、おがむ山であり、楽しむ山であり、調べる山にもなりました。それでは、いまの富士山には、どれくらいの人が登っているのでしょうか。

明治維新(1868)以降、西洋との接触を通じて新しい余暇の考え方が入った。人びとは修行や信仰ではなく、純粋な楽しみのために富士山へ登るようになったという[6]。

登る目的は、さらに広がる。気象学者の野中至は1895年、山頂での冬の気象観測に挑み、厳冬期の富士登山に初めて成功したとされる[5]。「とされる」とあるとおり、これは一つの資料にもとづく記述である。

信仰、余暇、観測と、登る理由が重なっていった。ではその結果として、現在の山はどれほどの登山者を迎えているのか。

6. いまの 夏の ふじさんには、なん人 のぼるの?

6. いまの夏の富士山には、約20万人が登る

6. 現代の登山者数 ── 2025年夏の約20万5千人

かんきょうしょうの しらべでは、2025年の 夏、山びらきの 日から 9月10日までに、8合目の ちかくを とおった 人は、やく 20万5千人でした[8]。

この うち いちばん 多い 道は よしだルートで、12万人 ぐらいです。ぜんたいの 6わりほどに なります[8]。

のぼれる 時期は、夏の 2か月 ほどです。山びらきは 7月1日(やまなしけんがわの よしだルート)か 7月10日(しずおかけんがわ)、とじる 日は 9月10日と きまって います[8]。

この 数は、8合目に おいた きかいが 数えた ものです。ちょうじょうに ついた 人の 数では ありません。

環境省の調べ

環境省の調査では、2025年の開山日から9月10日までに、八合目付近を通った登山者は、全登山道の合計で約20万5千人(205,100人)でした。前年は約20万4千人、コロナ前の2019年(約23万6千人)の87%です。吉田ルートが121,068人で最も多く、全体の約6割にあたります[8]。

これは八合目の赤外線カウンターの数で、山頂に着いた人の数ではありません。欠けていた期間は補った値です[8]。

登れるのは夏の約2か月

開山日は、2014年に山梨県側(吉田ルート)が7月1日、静岡県側が7月10日とされました。閉山日は2016年から両県で9月10日に統一されています[8]。

江戸の講の人たちも、旧暦6月1日の山開きに合わせて登りました。登れる時期が夏に限られるのは、昔もいまも同じです。

環境省の調査によれば、2025年の開山日から9月10日までに、八合目付近を通過した全登山道の登山者は約20万5千人(205,100人)である。前年は約20万4千人、コロナ前の2019年(約23万6千人)の87%で、吉田ルートが121,068人と最多だった。121,068÷205,100≒0.59で、全体の約6割を占める[8]。

この数字は、八合目の赤外線カウンターによる通過者数で、山頂到達者数ではない。欠測期間は補完した値である[8]。

登山期間は短い。開山日は2014年に山梨県側(吉田ルート)が7月1日、静岡県側が7月10日とされ、閉山日は2016年から両県で9月10日に統一された[8]。期間が約2か月に限られる点は、旧暦6月1日の山開きに合わせた江戸の富士講の登山[3]と共通する。ただし両者の人数を直接比べられる資料は、ここで使った中にはない。

7. ちかくの 「ミニ ふじさん」を さがして みよう

7. 自分の町に「ミニ富士山」があるか、調べてみる

7. 出口 ── 富士塚を探す手がかりと、読みたい資料

おうちの ちかくに、ふじづかが あるかも しれません。おうちの 人と、市や 区の ぶんかざいの ページで、「ふじづか」と 入れて しらべて みましょう。

見つかったら、地図で 場所を たしかめて、おうちの 人と 行って みて ください。ない 町も あります。そのときは、目黒区の ページを 読んで みるのも よいでしょう[3]。

もし のぼれる 日が きまって いる ところなら、その 日だけ のぼれる ことも あります。ふだんは はいれない 場所も ありますから、ルールを まもって ください。

えどの 人が どんな 気もちで つくったかを、そうぞうしながら 見て みましょう。

お住まいの市区町村の文化財のページで「富士塚」を検索すると、近くに残っているかどうかが分かるかもしれません。見つかったら、おうちの人と地図で場所を確かめて、行ってみてください。ない町もあります。

富士塚には、決まった日しか登れないところや、ふだんは立ち入れないところもあります。案内や掲示のルールを守って見学してください。

見るときは、江戸の人たちがどんな気持ちでこの小さな山を築いたのかを想像しながら歩くと、ただの築山とは違って見えてくるはずです。

もっと読みたくなったら、目黒区の富士塚の解説[3]や、国立国会図書館の「NDLカレイドスコープ」[5]を開いてみてください。

近隣の富士塚は、市区町村の文化財ページで「富士塚」を検索すると探しやすい。ただし公開日が限られたり、立ち入れなかったりする場合があるため、案内に従って見学する。築造の動機は目黒区の解説でも「推測」とされている[3]。現地で、何のために築かれたのかを自分で考える材料にしたい。

資料を読むなら、江戸の講と富士塚は目黒区の解説[3]、女性登山と外国人の初登頂は国立国会図書館のNDLカレイドスコープ[5]、現在の登山者数は環境省の詳細版報告[8]が日本語で読める。オールコックの『大君の都』については、立教大学図書館の展示資料[7]が入口になる。

しらべた もとの じょうほう

参考にした情報源

参考にした情報源と、その使い方

出典について:山梨県・国土交通省・目黒区・環境省など公的機関の資料と、国立国会図書館・大学図書館の資料を使った。何に使ったかは、それぞれの項目の最後に書いている。

  1. 山梨県観光「霊峰富士が織りなす文化と神秘」。https://www.yamanashi-kankou.jp/rekitabi/chishiki/reiho.html (富士講の始まりと御師について)
  2. 国土交通省 多言語解説文データベース R2-00070。https://www.mlit.go.jp/tagengo-db/en/R2-00070.html (江戸で富士講が相次いで現れたことについて)
  3. 目黒区「東部富士(富士塚)」。https://www.city.meguro.tokyo.jp/kuminnokoe/bunkasports/rekishibunkazai/tobufuji.html (江戸八百八講、登拝のようす、目黒の富士塚について)
  4. 旅マガ「富士塚(国の重要文化財5基)」。https://tabi-mag.jp/fujizuka-top5/ (富士塚の説明と重要文化財について。観光情報サイトで二次資料)
  5. 国立国会図書館 NDLカレイドスコープ「第1章 新しい登山の姿」。https://ndl.go.jp/kaleido/entry/18/1.html (女性の登山、外国人の登頂、野中至について)
  6. 国土交通省 多言語解説文データベース R2-00082。https://www.mlit.go.jp/tagengo-db/en/R2-00082.html (1872年の禁止解除と、楽しみのための登山について)
  7. 立教大学図書館 資料展示『大君の都』。https://library.rikkyo.ac.jp/_asset/pdf/archives/exhibition/exhibition1/alcock.pdf (オールコックの登頂と著書について)
  8. 環境省「2025年夏期の富士山登山者数(詳細版)」。https://www.env.go.jp/park/fujihakone/data/files/fujihakone_shosai_R7.pdf (2025年夏の登山者数と開山・閉山日について)

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