1. 下書きは、どうして 101首 なの?
1. 下書きの『百人秀歌』は、なぜ「百」ちょうどではないのか
1. 草稿とされる『百人秀歌』は、なぜ101首なのか ── 百人一首とのずれ
百人秀歌は、藤原定家が えらんだ 歌集と いわれて います[4]。百人一首の 下書きだと いう 見かたも あります。
この 本を 数えると、101首 あります。百人一首より 1首 多いのです。この 本に だけ ある 歌人が 3人 います。反対に、百人一首に だけ ある 後鳥羽院と 順徳院の 歌は、この 本に ありません[4]。
ならびかたも ちがいます。百人一首は、ひとり 1首を 時代の じゅんばんに ならべます。この 本は、2首ずつ ペアに して ならべる、歌合せの 形です[4]。
百首ぴったりに こだわった 本では なさそうです。それなら、「百」という 数は、どこから 来たのでしょう。
百人秀歌は、藤原定家が選んだとされる歌集で、1951年に存在が世に紹介されました[4]。数えると101首あり、小倉百人一首より1首多くなります。
中身を比べると、出入りは5人ぶんです。百人秀歌にだけある歌人が、一条院皇后宮、権中納言国信、権中納言長方の3人。逆に、百人一首にだけある歌人が、後鳥羽院と順徳院の2人です[4][5]。100から2人を引いて3人を足すと、101になります。
並べ方も違います。百人一首は一人一首を年代順に並べ、百人秀歌は二首で一組の歌合せの形をとります[4]。百首ちょうどにそろえることが、いちばんの目的だったようには見えません。
それでも、百人一首の「百」は動きません。この数には、定家より前から続く下地がありました。
『百人秀歌』は藤原定家撰とされる歌集で、1951年にその存在が世に紹介された[4]。収める歌は101首で、小倉百人一首と比べると、97首が一致し、3首が異なる(歌人の数え方では98人)[5]。
全体で1首多くなる理由は、出入りの差し引きで説明できる。百人秀歌にだけあるのは、一条院皇后宮、権中納言国信、権中納言長方の3人。百人一首にだけあるのが、後鳥羽院と順徳院の2人で、出入りは合わせて5人になる[4]。100から2を引き、3を足せば101になる。この数え方では、百人秀歌は厳密には「百一人一首」になる、という指摘もある。
配列も異なる。百人一首が一人一首を年代順に並べるのに対し、百人秀歌は二首で一組の歌合せの形をとる[4]。つまり、定家の手もとにあった選集は、「百」ぴったりを守る構造ではなかった。ところが、後世に残った名は「百人一首」である。この「百」は、どこから来たのか。
2. 歌を 百首で 一まとめに する きまりが あった
2. 歌を百首で一まとめにする「百首歌」は、定家より前からあった
2. 百首歌という型 ── 一人百首から、複数人の百題へ
じつは、歌を 百首 あつめて 一つに する やりかたが、むかしから ありました。百首歌と いいます[1]。
ひとりで 百首 つくる ものと、なん人かで 百首に する ものが あります。ひとりで 百首 つくった はじまりは、960年ごろの 曽禰好忠の 「百ちの 歌」と いわれます。ほかの 人が はじまりだと いう 考えも あり、はっきり 決まっては いません[2]。
1105年ごろには、ほりかわ ひゃくしゅと いう 本が できました。十数人の 歌人が、はるなつ あきふゆの 歌、こいの 歌、その ほかの 100この 題で、1首ずつ つくった 本です[2]。
つまり 「百首で 一まとめ」は、百人一首より ずっと 前から ある、なじみの 形でした。
歌を百首集めて一つにまとめる形式を、百首歌と呼びます。一人で四季や恋などの部に分けて百首詠むものと、同じ題で数人が詠むものがあります[1]。
一人で詠む百首歌の始まりは、960年(天徳4年)ごろの曽禰好忠の「百ちの歌」とされます。源重之の百首歌を最初とみる見方もあり、起源の説は一つに決まっていません[2]。
複数の歌人による百首歌は、1105〜06年ごろに堀河天皇へ差し出された『堀河百首』が最初とされます。藤原公実ら十数人が、四季・恋・雑にわたる100の題を、それぞれ1首ずつ詠みました[2]。この百題の組み方は、のちの題詠の手本になりました。
こうして見ると、「百で一まとめ」は、定家が思いついた数というより、すでに歌の世界で使い慣れた単位でした。
百首歌は、和歌を100首まとめて詠む形式で、二つの型がある。一人が四季・恋・雑などの部類にわたって詠むものと、同じ題で複数の歌人が一人百題ずつ詠む組題である[1]。
一人で詠む百首歌の始まりについては、960年(天徳4年)ごろ、曽禰好忠の家集『曽丹集』にある「百ちの歌」とする説明がある。ただし源重之の百首歌を最初とみる見方もあり、起源は説が分かれる[2]。
複数人の型を代表するのが、1105〜06年ごろに堀河天皇に奏覧された『堀河院御時百首和歌』、通称『堀河百首』である。藤原公実ら十数人が参加し(資料により14〜16人と幅がある)、四季・恋・雑の100題に各人が一首ずつ詠んだ。この題の組み方は、のちの題詠の手本になったとされる[2]。
ここで押さえたいのは、「百」が歌の世界で単位として定着していたことである。では、その型は、定家の時代にはどのくらい広まっていたのか。
3. 百首は、なんのために つくられたの?
3. 百首歌は、何のために詠まれたのか
3. 百首歌の目的と、定家との距離 ── 約275年の習慣
百首歌は、平安時代の おわりごろから 鎌倉時代に かけて、とても さかんに なりました[1]。
いろいろな わけが ありました。えらい 人が 歌集を つくる ときに、歌を あつめる ため。歌の れんしゅうの ため。神社や お寺に ささげる ため[1]。
藤原定家も、百首歌を つくって います[2]。定家にとって 百首は、ふだんから 見なれた 形でした。
だから 「百」は、定家が 思いついた ふしぎな 数と いうより、むかしから つづく 百首の 形と かさなる 数だと 考えられます。ただし、定家が 「百に しよう」と 決めた わけを 書いた ものは、のこって いません。
百首歌は、平安時代の後期から鎌倉時代にかけて盛んになり、目的もさまざまでした。勅撰和歌集を編むとき、主要な歌人に百首を詠ませて基礎資料にすることがありました。個人の百首は、作歌の練習や、社寺への奉納として詠まれました[1]。
藤原定家にも、『藤川百首』などの百首歌があります[2]。百首歌は、定家にとって身近な、使い慣れた形式でした。
960年ごろの始まりから、定家が嵯峨の山荘の色紙を書いたとされる1235年までは、約275年です。歌人たちは、それだけ長く「百首で一まとめ」に親しんできました。
ここから、「百」は百首歌の伝統と重なる数だと考えられます。ただし、定家自身が百にした理由を書いた資料は、ここで使った範囲にはありません。状況から読み取れるのは、そこまでです。
百首歌は平安後期から鎌倉期にかけて盛んになり、目的は一つではなかった。勅撰和歌集を編む際の基礎資料として、主要な歌人に百首を詠ませた。個人の百首は、作歌の練習や、社寺への奉納などに使われた[1]。定家自身にも『藤川百首』などの百首歌がある[2]。
この習慣の長さを計算してみる。一人百首の始まりとされる960年ごろから、定家が色紙を書いたとされる1235年まで、約275年。複数人の型の最初とされる『堀河百首』(1105〜06年ごろ)からでも、およそ130年ある。定家にとって、百首は身近な形式だったことになる。
そこで、現時点で言える範囲はこうである。百人一首の「百」は、百首歌という長い習慣と重なっており、その延長にある数と読むのは自然である。しかし、定家(または別の誰か)が百にした理由を直接述べた資料は、ここで使った範囲にはない。これは状況証拠からの読みであり、定説として断定はできない。
では、百人一首の原型は、いつ、どんな形でできたのか。手がかりは、定家の日記にある。
4. 日記に 出てくる 色紙は、百首 だった?
4. 日記に出てくる色紙は、百首だったのか
4. 『明月記』の色紙と百首 ── 1235年の記事が語ること
定家は 明月記という 日記を 書いて います。1235年の 日記には、こんな 記事が あります[3]。
うつのみや れんじょうという 人に たのまれて、さがの やまの おやしきの ふすまに はる 色紙に、歌を 書いた。天智天皇から いえたか、まさつねまで、むかしの 人の 歌を 1首ずつ。
この 色紙が、いまの 百人一首そのものだったかは、はっきり していません。日記には、「百首」とも 「百人一首」とも 書いて いません。
百首では なかったかも しれない、と いわれる ことも あります[5]。「百」には、まだ なぞが のこって います。
定家の日記『明月記』の文暦2年(1235)5月27日の記事には、宇都宮蓮生(頼綱)に頼まれて、嵯峨の山荘の障子に貼る色紙和歌を書いたとあります。天智天皇から家隆・雅経まで、昔の人の歌を一人一首ずつ、という内容です[3]。
この色紙が、いまの小倉百人一首そのものだったという確証はなく、研究者の間でも論点です。嵯峨山荘の色紙は「百首とはしていない」、つまり百首ではなかった可能性も指摘されています[5]。日記の記事に、「百首」という言葉は出てきません。
だから、「定家が百首と決めて色紙にした」とは言い切れません。わかっているのは、日記に一人一首の色紙の話があること、そして、のちに「百」の名で広まったことです。
手がかりの一つが、定家の日記『明月記』の文暦2年(1235)5月27日条である。宇都宮蓮生(頼綱)に請われて、嵯峨の山荘の障子に貼る色紙和歌を書いた。天智天皇から家隆・雅経に及ぶ、昔の人の歌各一首、という記事である[3]。ここでの引用は二次資料の要約によるもので、日記の原文を直接開いたものではない。
この記事は、百人一首の原型を考える際によく引かれる。しかし、この色紙が現在の小倉百人一首そのものだったという確証はなく、学説上の論点にとどまる。嵯峨山荘の色紙は「百首とはしていない」、すなわち百首ではなかった可能性も示されている[5]。また、日記の記事に「百首」「百人一首」という語が出るとも、ここでは確認していない。
したがって、「定家が百首と決めて色紙にした」という説明は、そのままでは資料に支えられない。「百」の由来を、1235年の色紙だけで説明することはできない。では、百人秀歌と百人一首のどちらが先に生まれたのか。
5. 下書きと 百人一首、どちらが 先なの?
5. 百人秀歌と百人一首は、どちらが先にできたのか
5. 先後関係と、後鳥羽院・順徳院の謎
百人秀歌と 百人一首は、どちらが 先に できたのでしょう。これも、学者の 考えが 分かれて います。下書きの 本が 先だと いう 意見が 多いと いう 話も あれば、百人一首が 先だと いう 考えを たしかめ なおす 研究も あります[5]。
鎌倉時代の おわりごろの 古い 写しが、れいぜいけに のこって いると わかり、あとから 作った にせ物だという 考えは むずかしく なりました[6]。
後鳥羽院と 順徳院の 歌が、下書きの 本に ない わけも、はっきり しません。あとから 入れたという 考えも ありますが、決まっては いません[3]。
百人秀歌と 百人一首を 見くらべると、ちがいが 見つかります。
百人秀歌と百人一首の先後には、学説の分かれがあります。百人秀歌が先とみる意見が大勢だという説明がある一方で、百人一首が先だとする根拠を見直す研究もあります[5]。
鎌倉時代末期ごろの写本が冷泉家に伝わっていると分かり、後世の偽書だという説は考えにくくなりました。先後の関係は、いまも論じられています[6]。
後鳥羽院と順徳院の歌が百人秀歌にない理由にも、定説はありません。両院の歌は『明月記』の記事にも百人秀歌にも見えず、のちに定家の子の為家が加えたとする説や、定家が私的な選集で入れたとする説があります[3]。
はっきりしないことが多いのは、それだけ、読み比べる余地が残っているということです。
百人秀歌と百人一首のどちらが先かは、学説が分かれる。百人秀歌が先とみる意見が大勢との説明がある一方、百人一首が先とする根拠を再検討する議論もある[5]。鎌倉末期ごろの写本が冷泉家に伝わることが分かり、偽書説は考えにくくなったが、先後関係は今も論じられている[6]。
後鳥羽院・順徳院の歌が百人秀歌にない理由も、定説はない。両院の歌は『明月記』の記事にも百人秀歌にも見えない。後に為家が加えたとする説や、定家が私的な選集で入れたとする説が出ているが、決め手は伝わっていない[3]。
ここまでの整理はこうなる。百人一首の「百」は、百首歌という長い習慣と重なっている。しかし、定家が百にした理由は書かれておらず、原型の色紙が百首だったかも、百人秀歌(101首)との先後も、決着していない。題名の問いへの答えは、「型は分かるが、決めた理由は分からない」である。
この「分からない」は、自分で確かめられる形で残っている。次の章で、その見比べ方を示す。
6. 手もとの 百人一首で、「百」を たしかめよう
6. 手もとの百人一首で、「百」の中身を数えてみる
6. 手もとの百人一首で、数と顔ぶれを確かめる
家に 百人一首の かるたや 本が あれば、かるたの ふだを 数えて みましょう。読み札と 取り札を、それぞれ 数えて みましょう。どちらも 100まい あるか、たしかめられます。
つぎに、絵の ふだの 中から 後鳥羽院と 順徳院を さがして みます。この 二人の 歌は、百人秀歌には ありませんでした[4]。
百人一首には、男の 人も 女の 人も います。女の 人は 何人 いるか、こいの 歌は 何首 ありそうか、数えて みましょう。
図書館の 人に、「百人秀歌の 本を さがして います」と 聞いて みるのも いいですね。
手もとに百人一首のかるたや本があれば、数えてみましょう。歌人は100人で、男女の人数や、恋の歌がどれくらいあるかも数えられます。恋の歌がいちばん多いと説明されているので、自分で数えて確かめてみましょう[3]。
数えたあとは、後鳥羽院と順徳院の歌を探します。この二人の歌は、百人秀歌にはありませんでした[4]。かるたでは、この二人の札が、あの101首の謎の入口になります。
百人秀歌のほうは、図書館で百人一首の解説書や和歌の本を探します。見つからなければ、図書館の人に「百人秀歌を扱う本を探しています」と聞いてみましょう。秀歌にだけある3人の歌を読み、百人一首では同じ歌人の歌が置かれた場所と見比べてみましょう。
「百」は、決まった答えのある数ではなく、いまも読み解かれている数です。
確かめ方は三つある。第一に、手もとの百人一首の札や本で、歌人と歌の数を数える。小倉百人一首の歌人は100人で、男女の内訳や、部立(歌の分類)ごとの数も数えられる。恋歌が最も多いとされるが、分け方の基準が本によって違わないかも見比べるとよい[3]。
第二に、後鳥羽院と順徳院の歌の位置を探す。両院は百人一首にあり、百人秀歌にはない[4]。第三に、可能なら図書館で、百人秀歌を扱う解説書を探し(見つからなければ司書に「百人秀歌を扱う本を探しています」と尋ねる)、秀歌にだけある3人の歌を読んで、百人一首の中でどの歌と置きかわるのかを自分で見比べる。
百首歌の習慣、101首の草稿、1235年の色紙という三つの手がかりは、どれも二次資料を通した情報である。図書館で『明月記』の現代語訳や、写本を活字にした本を探し、1235年の日記に「百首」と書かれているかを見てみるとよい。
しらべた もとの じょうほう
参考にした情報源
参考にした情報源と、その使い方
二次資料(辞典・解説・公的機関の文章)を中心に突き合わせました。日記や写本の原典は直接開いていません。
- コトバンク「百首歌」 https://kotobank.jp/word/%E7%99%BE%E9%A6%96%E6%AD%8C (百首歌の形式・目的)
- Wikipedia「百首歌」 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BE%E9%A6%96%E6%AD%8C (曽禰好忠・堀河百首)
- Wikipedia「小倉百人一首」 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E5%80%89%E7%99%BE%E4%BA%BA%E4%B8%80%E9%A6%96 (明月記の記事・歌人の内訳)
- Wikipedia「百人秀歌」 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BE%E4%BA%BA%E7%A7%80%E6%AD%8C (101首・百人一首との違い)
- 三重県 斎宮歴史博物館「斎宮百話 第61話」 https://www.bunka.pref.mie.lg.jp/saiku/hyakuwa/journal61.html (成立をめぐる論点)
- 日本かるた文化館「百人一首成立史の理解」 https://japanplayingcardmuseum.com/002-5-hyakuninisshu-understanding-birth/ (写本・先後関係)
なおした ところ
更新履歴
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