1. 名前を ひっくりかえすと どうなる?
1. 本名を「ひっくり返す」と、ルイス・キャロルになる
1. ペンネームの作り方 ── Charles Lutwidge から Lewis Carroll へ
ほんとうの 名前は、チャールズ・ラトウィッジ・ドジソンです。ドジソンさんは、この 名前の 前の 2つを つかって、あそびの ような 名前づくりを しました。
まず、ラテン語という 昔の ことばに なおします。すると「カロルス・ルドウィクス」に なります。つぎに、じゅんばんを ぎゃくに します。さいごに、また えいごに もどすと「ルイス・キャロル」です[2]。
この 名前は、1856年に、小さな ざっしに のった 詩で はじめて つかわれたと いわれます[4]。
のちに、大学に「ルイス・キャロルさまへ」と かいた 手紙が とどくと、「そんな 人は ここに いない」と うけとらなかった、と つたえられて います[2]。ふたつの 顔を わけて いたのですね。
本名は、チャールズ・ラトウィッジ・ドジソンです。ペンネームの作り方は、ちょっとした言葉遊びでした。まず、Charles Lutwidge をラテン語に直して Carolus Ludovicus にします。次に、順番を入れかえて Ludovicus Carolus にします。それを、ゆるやかに英語へ戻すと、Lewis Carroll になります[2]。
この名前が初めて使われたのは、1856年に出た短命の雑誌『ザ・トレイン』に載った詩「孤独」だとされます。ドジソンがいくつか候補を出し、編集者のイェーツが「ルイス・キャロル」を選んだとする資料もあります[4]。
ドジソンは、この名前をとても大切にしていたようです。オックスフォードの大学あてに「ルイス・キャロル様」と書かれた手紙は、「そんな人はここにいない」と言って受け取りを断った、と伝えられています[2]。
数学の先生としての顔と、物語の作者としての顔。ドジソンは、この二つを別々にしておきたかったようです。では、昼間の顔の数学の先生は、どんな人だったのでしょうか。
ペンネームの作り方は、The Lewis Carroll Society of North America のFAQによれば、Charles Lutwidge をラテン語化して Carolus Ludovicus とし、順序を逆にして Ludovicus Carolus とし、それをゆるく英語に戻して Lewis Carroll としたものである[2]。ラテン語を一度はさむ二段階の変換が、思いつきの偽名と違うところだ。
初出は1856年、短命に終わった雑誌『ザ・トレイン』(編集者エドマンド・イェーツ)掲載の詩「孤独」とされる。ドジソンが複数の候補を示し、イェーツが選んだとする資料もある[4]。
そのため、この名前は本人にとって、本名とは別の顔を守る境界線として働いた、と考えられる。大学宛てに「ルイス・キャロル様」と書かれた手紙を「そんな人はここにいない」と断った、という逸話が同FAQにある[2]。では、本名の側の顔は、どんな暮らしをしていたのか。
2. 大学の 先生は、どんな 人?
2. 昼間のドジソンは、どんな先生だったのか
2. 数学講師ドジソン ── 吃音・難聴と、聖職をめぐる選択
ドジソンさんは、1832年に、イギリスの ダーズベリーと いう まちで うまれました。お父さんは ぼくしさんで、きょうだいは 10人。11人の にぎやかな 家でした[1]。
1851年に オックスフォード大学に 入り、数学で とても いい せいせきを とりました。1855年からは、クライスト・チャーチと いう 学校で、数学を おしえる 先生に なりました[1]。
ドジソンさんには、一生、ことばが つかえる どもりが ありました。右の みみも 聞こえにくかった そうです。それでも、先生の しごとを 26年 つづけました[1]。
1832年、チャールズ・ドジソンは、イングランドのダーズベリーで、牧師の父の長男として生まれました。きょうだいは10人で、11人の子がいる家庭でした[1]。
1851年にオックスフォード大学に入り、数学で最優等の成績を取りました。1855年からは、クライスト・チャーチというカレッジで数学の講師になり、1881年に辞めるまで26年続けました。辞めたあとも、学生寮に住む権利は持ち続けました[1]。
ドジソンには、生涯、吃音がありました。右耳も聞こえにくかったそうです。1861年には教会の助祭の資格を得ましたが、牧師にはなりませんでした。吃音が理由だったかどうかは、はっきり書かれていません[1]。
話すことに苦労があっても、教える仕事を長く続けた人でした。そのドジソンが、人と出会うために選んだ道具の一つが、カメラでした。
ドジソンは1832年1月、チェシャーのダーズベリー牧師館で、牧師の父の長男として生まれた。11人の子の家庭だった[1]。1851年にオックスフォード大学に入学して数学で最優等をとり、1855年にクライスト・チャーチの数学講師になった。講師職は1881年に辞したが、寮に住む権利は保った[1]。
生涯の吃音と、右耳の難聴があった。1861年に助祭の資格を得たが、牧師にはならなかった。その理由を吃音と結びつける説明を目にすることもあるが、資料は理由を断定していない[1]。
ここから分かるのは、ドジソンの前には「話しにくさ」という条件があったのに、26年間講師を続けたという事実だ。その人が、話すこととは別の手段、つまり写真や物語で人と向き合うようになっていく。では、物語の入口になった出会いは、何がきっかけだったのか。
3. カメラが つれて きた 出会い
3. カメラが結んだ、リデル家の姉妹との出会い
3. 写真と出会い ── 1856年、リデル家の3姉妹
1856年、ドジソンさんは はじめての カメラを 手に 入れました。その 年の 4月、お友だちと 大きな おてらを うつそうと して いたとき、学校の 校長先生の むすめさんたちに 会いました。3人 しまいの まん中が、アリス・リデルです[1]。
そのころの 写真は、いまの スマホとは ちがって、とても 手間が かかりました。それでも ドジソンさんは、1868年からは 自分の 部屋の 上に、写真を とる ための 小さな スタジオも もちました[3]。
ドジソンさんは、いろいろな 服を いれた たなも もって いました。どんな 絵に するかを 頭の 中で 考えてから、とって いたそうです[3]。
1856年、ドジソンは最初のカメラを手に入れました。その年の4月、友人と大聖堂を撮ろうとして、クライスト・チャーチの学寮長リデルの娘たちに出会います。三姉妹のまん中が、アリス・リデルでした。MacTutor は、アリスとの出会いを1856年4月25日としています[1]。
ドジソンは写真に熱中し、1868年からは、自分の部屋の上に、撮影室と着替え室のある自前のスタジオも持ちました[3]。
衣装を入れた戸棚があり、どんな絵にするかを頭の中で組み立ててから撮ったそうです。写真は、ドジソンにとって、場面を作って見せる、一種の物語づくりだったようです[3]。
1880年ごろには、写真をやめたとされます[5]。写真から離れたドジソンの手に残ったのは、物語でした。その物語は、どこで生まれたのでしょうか。
1856年、ドジソンは最初のカメラを手に入れた。その4月、友人と大聖堂を撮ろうとして、学寮長リデルの娘たちに会う。三姉妹のまん中がアリス・リデルだった。MacTutor は、アリスとの出会いを1856年4月25日とする[1]。
この出会いが物語につながるのは、写真が彼の暮らしの中心にあったからだ。写真に打ちこみ、1868年からは自室の上に撮影室と着替え室を備えた私設スタジオを持った。衣装の入った戸棚があり、構図を頭の中で組んでから撮影した[3]。写真もまた、場面を作って人に見せる仕事だったことになる。
撮影をやめた時期は1880年ごろとされる[5]。では、写真に代わって、物語はどう生まれたのか。
4. ふねの 上で、お話は うまれた
4. 舟の上で「進みながら考えている」と語った日
4. 1862年7月4日 ── テムズ川の舟遊びと即興の物語
1862年の 7月4日、ドジソンさんは、お友だちの ダックワースさんと、リデル家の 3人の しまいを ふねに のせました。オックスフォードの 近くの 川を、3マイル(5キロぐらい)のぼって、ゴッドストウという ところまで いきました[1]。
この ふねの 上で、ドジソンさんは、お話を 思いつく ままに 語りました。ダックワースさんが「どうして 話が つづくの?」と たずねると、「そう、すすみながら 考えて いるんだ」と こたえたと いいます[1]。
この とき アリス・リデルは 10さい。アリスに「お話を かいて」と せがまれて、ドジソンさんは かきのこす ことに しました[2]。
1862年7月4日、ドジソンは友人のダックワース牧師と、リデル家の三姉妹をボートに乗せました。オックスフォード近くのフォリー橋から、ゴッドストウまで、テムズ川をさかのぼります。約3マイルは、約5キロメートルです[1]。
物語は、この舟の上で、その場で思いつくままに語られました。ダックワースが「どうして話が続くのか」とたずねると、ドジソンは「そう、進みながら考えているんだ」と答えた、という回想が、ダックワースのものとして伝わっています[1]。
この日のアリス・リデルは、10歳でした。アリスが「お話を書いて」とせがんだことで、ドジソンは書き残すことにした、とFAQは伝えます[2]。
即興で語った話を、もう一度、文字にする。その仕事が、ドジソンを次の挑戦へ連れていきました。
決定的な日は1862年7月4日だ。ドジソンは友人ダックワース牧師と、リデル家の三姉妹をボートに乗せ、フォリー橋からゴッドストウまで約3マイル(約4.8km)をテムズ川(アイシス川)でさかのぼった[1]。物語はこの舟の上で即興で語られた。「進みながら考えているんだ」というドジソンの答えは、ダックワースの回想として伝わる[1]。
アリス・リデルは1852年生まれで、この日は10歳。FAQは、書き記す仕事が「アリスがドジソンさんにせがんだ」ことで始まったと伝える[2]。
即興の話は、文字にしなければ消える。書き残すと決めたことが、次の1年あまりの手間につながる。では、書かれた原稿は、どんな形で少女に渡されたのか。
5. てがきの 本と、やりなおしに なった 本づくり
5. 手書きの贈り物と、刷り直された最初の本
5. 『地下の国のアリス』から『不思議の国のアリス』へ ── 1864〜1866年
ドジソンさんは、お話を 自分の 手で 本の ように かいて、1864年の 11月に、クリスマスの おくりものとして アリスに わたしました。『地下の 国の アリス』と いう 題でした[6]。
この 手がきの 本には、ドジソンさん 自分で かいた 絵が 37まい ありました。「ある 夏の 日の 思い出に、大すきな 子への クリスマスの おくりもの」と いう ことばも のって いたそうです[6]。
その あと、本として 売る ことに なりました。1865年に 出した さいしょの 本は、絵を かいた テニエルさんが、「いんさつが よくない」と 言いました。そこで ドジソンさんは、本を つくりなおす ことに しました。さいしょの 本の ほとんどは、アメリカへ おくられたと いいます[6]。
なおした 本は、1865年11月11日に 出ました。売り出して 3週間で 500さつ、ドジソンさんが なくなる 1898年までには 15万さつ いじょうが 売れたと いわれます[6]。
ドジソンは、物語を手書きの本にして、1864年11月、アリスにクリスマスの贈り物として贈りました。題は『地下の国のアリス』です。ドジソン自身が描いた37枚の挿絵があり、献辞は「ある夏の日の思い出に、大好きな子へのクリスマスの贈り物」だったと伝えられます[6]。
やがて、これを本として出すことになります。1865年に出た最初の版は、挿絵を描いたジョン・テニエルが印刷の質に不満を示したため、刷り直しになりました。最初の版の大半は、アメリカへ送られたといいます。刷り直した版が1865年11月11日に出て、表紙の年は1866年になっています[6]。
やり直した本は、発売3週間で500部が売れました。ドジソンが亡くなる1898年までに、マクミラン社だけで15万部以上が売れたとされます[6]。
刷り直しは、手間もお金もかかる決断です。さて、数学の先生の顔は、物語のなかで消えてしまったのでしょうか。
手書き原稿『地下の国のアリス』は1864年11月、アリスへクリスマスの贈り物として贈られた。ドジソン自身が描いた37枚の挿絵があり、献辞は「ある夏の日の思い出に、大好きな子へのクリスマスの贈り物」と伝わる[6]。
これを出版物にするとき、問題になったのが印刷だった。1865年に出た初版は、挿絵を描いたテニエルが印刷の質に不満を示したため、刷り直しになった。最初の版は約2000部のうち大半が米国へ送られたという[6]。刷り直しの版は1865年11月11日に出て、表紙の年は1866年とされた。ここで質を優先したことが、のちの売れ行きにつながったかどうかは断定できないが、発売3週間で500部、ドジソンの没年(1898年)までにマクミラン社で15万部以上が売れた[6]。
では、物語で有名になった作者は、本業の数学を手放したのか。
6. 数学の 先生の 顔は、きえたの?
6. 物語を書いても、数学者であり続けた
6. 数学・論理の著作と『アリス』 ── 二つの顔の連続性
ドジソンさんは、物語を かいた あとも、数学の 本を かきつづけました。1879年には『ユークリッドと げんだいの ライバルたち』、1896年には『きごう ろんりがく』の 第1ぶを だして います[1]。
『アリス』にも、数学の なぞなぞのような しかけが たくさん 入って います。ただ、出た ころの 本の ひょうばんでは、すぐには 気づかなかった そうです[6]。
ドジソンさんは、1898年に、66さいで なくなりました。数学の 先生でもあり、お話を かく 人でも ありました。
『アリス』を出したあとも、ドジソンは数学や論理の本を書き続けました。『ユークリッドと現代のライバルたち』(1879年)、『論理学のゲーム』(1886年)、『記号論理学』第1部(1896年)などです。物語では、続編の『鏡の国のアリス』(1871年末)と、『スナーク狩り』(1876年)も出しています[1]。
『アリス』には、数学の仕掛けがたくさん入っているのに、出たころの書評はすぐには気づかなかった、とNatureのブログは述べます[6]。どんな仕掛けがあるかは、ここでは書きません。みなさんが自分の目で探してみてください。
ドジソンは1898年1月14日、実家のあるギルフォードで、肺炎のため亡くなりました[1]。物語の作者と数学の先生という二つの顔は、本の中で、ずっとつながっていました。
『アリス』のあとも、数学・論理の著作は続いた。『代数学第一部の覚え書き』(1861年)、『ユークリッドと現代のライバルたち』(1879年)、『論理学のゲーム』(1886年)、『記号論理学』第1部(1896年)がある。物語でも、『鏡の国のアリス』(1871年末)、『スナーク狩り』(1876年)を出した[1]。
『アリス』には数学的な謎解きが多数含まれるが、当時の書評はすぐには気づかなかった、とNatureのブログは述べる[6]。どんな仕掛けがあるのかは、読み手が自分で探す楽しみに残しておく。
ドジソンは1898年1月、ギルフォードの実家で肺炎のため亡くなった[1]。名前の言葉遊びで分けた二つの顔は、作品の側から見ると、最後まで切れていなかった。読み手が自分で数学の仕掛けを探すことが、資料への入口になる。
自分でも しらべて みたく なったら
自分でも調べてみたくなったら
自分でも調べてみたくなったら
名前を ひっくりかえして あそぼう
自分の 名前の 文字を ぎゃくに ならべて、あたらしい 名前を つくって みましょう。ことばに なったら、あだ名に して みるのも たのしいです。
本を 読んで みよう
図書館で、『ふしぎの 国の アリス』を さがして みましょう。ふねの 上で 生まれた お話に、数学の しかけが ないか、さがして みて ください。
自分の名前で試す
自分の名前の文字を逆に並べて、新しい名前を作ってみましょう。ドジソンのように、ほかの言葉に置きかえるひと手間を足すと、もっと面白くなります。
『アリス』を読み、数学の仕掛けを探す
図書館で『不思議の国のアリス』の日本語訳を探してみましょう。ふしぎな言葉遊びや、数のなぞが隠れていないか、本を読みながら探すのも楽しみ方の一つです。
資料を読むなら
MacTutor の Dodgson の項(DNB収録)が、年表と著作の確認に向く。The Lewis Carroll Society of North America のFAQは、ペンネームの作り方を扱う。Bodleian Libraries のブログは、写真について扱う。
自分で試すなら
自分の名前の文字を逆順にして、読める名前になるか試してみる。『アリス』の日本語訳を読み、数学的な仕掛けが何か、自分の目で探してみる読み方もある。
しらべた もとの じょうほう
参考にした情報源
参考にした情報源と、その使い方
出典について:MacTutor、ルイス・キャロル協会(北米)のFAQ、ボドリアン図書館、Natureのブログ、メリーランド大学の展示、Wikipediaを使った。何に使ったかは、それぞれの項目の最後に書いている。
- MacTutor(DNB収録)Dodgson。https://mathshistory.st-andrews.ac.uk/DNB/Dodgson.html (生い立ち、経歴、1856年の出会い、1862年の舟遊び、著作、没年について)
- The Lewis Carroll Society of North America FAQ。https://www.lewiscarroll.org/carroll/faq/ (ペンネームの作り方、手紙の逸話、アリスにせがまれたことについて)
- Bodleian Libraries blog「Charles Dodgson's Photography」。https://blogs.bodleian.ox.ac.uk/oxfordtrainees/charles-dodgsons-photography-a-different-kind-of-story-telling/ (スタジオ、撮影の組み立て方について)
- メリーランド大学 Alice150 展示「About Lewis Carroll」。https://exhibitions.lib.umd.edu/alice150/lewis-carroll/about-lewis-carroll (ペンネームの初出について)
- Wikipedia「Lewis Carroll」。https://en.wikipedia.org/wiki/Lewis_Carroll (写真をやめた時期について。二次資料)
- Nature blog「The making of Alice」。https://blogs.nature.com/blog/the-making-of-alice/ (手書き原稿、初版の刷り直し、売れ行き、数学のなぞについて)
なおした ところ
更新履歴
更新履歴(改版の記録)
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