1. ためしに、ひとりの 歌声を つかったのは なぜ?
1. 一人の歌声が、試験にぴったりだった理由
1. 単独の声が試験に向く条件:ほぼモノフォニックで、音の広がりが大きい
MP3を つくる とき、ためしに つかわれた 歌が あります。スザンヌ・ヴェガという 人の「Tom's Diner」で、ピアノや ギターが なく、声だけの 歌です。
わけは、声が ほとんど ひとつ だけで、しかも 高い 音から ひくい 音まで 広く ふくまれて いたからです。ほかの 音が まざらない ので、MP3が 音を かえて しまっても、すぐ 気づけます[1]。
にぎやかな 曲だと、かえた ところが ほかの 楽きの 音に まぎれて、耳では 見つけにくく なります。
では、MP3は 音を どうやって かえるのでしょう。
MP3の試験に使われたのは、スザンヌ・ヴェガの「Tom's Diner」という歌です。ピアノもギターもなく、声だけで歌うアカペラの曲でした。
この曲が選ばれた理由として、ほとんど単独の声でできていること、そして音の広がり(高い音から低い音までの幅)が大きいことが挙げられています[1]。声が一つなら、圧縮で生じたゆがみが、ほかの楽器の音にまぎれません。広い範囲の音を含んでいるので、圧縮によるおかしさも聞き取りやすくなります。
そもそも圧縮とは、何をすることなのでしょうか。試験の相手になった「ゆがみ」の正体から見ていきます。
この曲が試験に使われた理由は、ほぼモノフォニック(単独の旋律)であり、スペクトルの広がりが大きいことだとされる[1]。声が一つなら、圧縮で生じたゆがみが伴奏に隠れて聞こえなくなることがない。つまり、符号化による劣化を聴き分けやすい素材である。さらに広い周波数にわたる成分を含むので、圧縮による不具合も聞き取りやすい。
ただし、MP3の設計がこの1曲だけに合わせてあるわけではない。この曲は多くの試験素材の一つであり、MP3は様々な音楽を対象にしている。
では、試験される側のMP3は、そもそも音に何をしているのか。まず圧縮の大きさから確かめる。
2. CDの 11ぶんの 1で、音は なくならないの?
2. CDの約11分の1にして、何を減らしているのか
2. 1,411.2kbit/sを128kbit/sにする:11分の1という値の条件
音楽CDは、1びょうの 音を とても こまかく 数に して しまって います。その かずは、1びょうで およそ 1,411,000この 0と 1です。
MP3の 128という せっていだと、これが およそ 11ぶんの 1に なります[1]。3分の 曲で くらべると、CDは およそ 32メガバイト、MP3は およそ 3メガバイトです。
こんなに へらしても、ふつうに 聞く ぶんには 十分な 音が のこる と、MP3の せつめいには あります。11ぶんの 1は 128の ときの ことで、せっていを かえれば かわります。
へらした ぶんは、耳が 気づきにくい ところ です。つぎは、耳の くせを 見て みましょう。
音楽CDの音は、1秒間に44,100回の細かさで測り、1回あたり16ビット、左右2チャンネルで記録されています。計算すると1秒あたり約1,411,200ビット(1,411.2 kbit/s)です。MP3の128 kbit/sは、これを約11分の1にした値です[1]。
3分の曲で数字を比べてみます。CDなら約32メガバイト、128 kbit/sのMP3なら約2.9メガバイトです。ただしこれは128 kbit/sの場合の話で、設定を変えれば比も変わります。
これだけ小さくしても、ふつうに聴くぶんには十分な音質を保てるとされています[1]。では、減らされたのは何でしょうか。MP3は、人の耳の「聞きのがし」を利用して、ほとんどの人に聞こえないと考えられる成分を手放します[1]。
その聞きのがしの代表が、聴覚マスキングです。
音楽CDのPCMは、標準化周波数44.1 kHz、16ビット、2チャンネルなので、ビットレートは44,100×16×2=1,411,200 bit/s(1,411.2 kbit/s)になる。MP3の128 kbit/sはその約11分の1(1,411.2÷128≒11.03)である[1]。
3分の曲で換算すると、CDは約31.8 MB、128 kbit/sのMP3は約2.9 MBである。ただし11分の1はビットレートが128 kbit/sのときの値で、ビットレートを上げれば圧縮率は下がり、下げれば上がる。
このサイズ変化の根拠は、MP3が人間の聴覚の限界であるマスキングを利用し、ほとんどの人に聞こえないと考えられる成分を処理上「手放す」点にある[1]。では、どんな条件で耳は聞きのがすのか。
3. 大きな 音の そばで、小さな 音は どうなる?
3. 大きな音のそばの小さな音は、耳に届いても気づけない
3. 周波数マスキングと時間マスキング:聞こえなくなる条件
うるさい 教室で、となりの 子が ささやいても 聞こえない ことが あります。小さな 声が、大きな 音に かくれて しまうのです。
これを、ちょうかくマスキングと いいます。ある 音が あるせいで、ほかの 音が 聞き取りにくく なる ことです[3]。
たかさが 近い 大きな 音は、小さな 音を かくします。また、大きな 音の すぐ 前や すぐ 後の 小さな 音も、聞こえにくく なります[3]。
ただし、小さな 音が きえた わけでは ありません。耳には とどいて いるのに、気づけないだけ です。
にぎやかな教室で、隣の子が小さな声で何か言っても聞き取れないことがあります。大きな音のそばでは、小さな音が聞こえにくくなるのです。
これが聴覚マスキングで、ある音のせいで別の音の認識がさまたげられる現象です[3]。大きく二つの種類があります。一つは、高さ(周波数)が近い大きな音が小さな音を隠す周波数マスキング。もう一つは、音の前後の短い時間に別の音が隠れる時間マスキングです[3]。
大事なのは、隠された音も、音としては空気中にあり、耳には届いているという点です。それなのに気づけないなら、わざわざ細かく記録する意味は薄くなります。これがMP3の出発点の考え方です[1]。
では、気づけない音を、実際にはどう扱うのでしょうか。
聴覚マスキングは、ある音の存在が別の音の知覚を損なう現象である[3]。周波数が近い大きな音が小さな音を覆う周波数(同時)マスキングと、時間的に前後する音の間で起こる時間マスキングに分けられる[3]。
注意すべきは、マスクされた音も信号としては存在し、鼓膜には届いているという点である。聞こえ方は聴取者で異なるが、聞き取れない成分を厳密に符号化しても利得が少ない。MP3の符号化は、この性質を使う[1][2]。
ただし、どの程度の差があれば隠れるかは、音の高さや強さ、聞く人によって違う。だからMP3は、平均的な聴覚を仮定した心理音響モデルで「ほとんどの人に聞こえない」範囲を見積もる[1]。問題は、この見積もりを、どうビットの節約につなげるかである。
4. 小さな 音は、なくなって しまうの?
4. 聞こえない音は、消すのではなく精度を落とす
4. 量子化雑音をマスキングの下に収める:帯域ごとのビット配分
MP3は、かくれた 音を ぜんぶ なくして しまうのでは ありません。ざっくり 言うと、「ていねいに 記ろく する ところ」と「おおざっぱに して いい ところ」を 分けます。
音を 高さ ごとに 24くらいの はんいに 分け、はんいごとに「どれくらい 小さな 音まで かくれるか」を 見つもります。かくれやすい はんいは おおざっぱに、かくれにくい はんいは ていねいに 記ろくします[2]。
おおざっぱに すると、音に 小さな ざつ音が まざります。でも、その ざつ音が 大きな 音の かげに かくれて いれば、耳には 聞こえません。
この 見つもりが まちがうと、どうなるでしょう。
MP3は聞こえない成分を単純に削るというより、記録の細かさを調整します。エンコーダは、音をいくつもの周波数帯域(臨界帯域)に分け、帯域ごとにどこまでの大きさの音が隠れるかを見積もります。そして、隠れやすい帯域には少ないビット、隠れにくい帯域には多くのビットを割り当てます[2]。
ビットが少ないと記録が粗くなり、小さな雑音(量子化の雑音)が生じます。しかし、その雑音がマスキングの限度の下に収まっていれば、耳は気づきません。つまり「聞こえない音を消す」というより、「雑音が目立たない範囲で、記録の細かさを落とす」のです。教材では、帯域を約24に分けて説明することもありますが、数は設計によってちがいます。
ここで、この方法の弱点が見えてきます。見積もりが耳の実際とずれると、雑音が隠れないまま耳に届いてしまうのです。
エンコーダは、信号を複数の臨界帯域に分け、帯域ごとにマスキング閾値を見積もる。閾値が高い(隠れやすい)帯域には少ないビットを、低い帯域には多いビットを配分する[2]。教材では約24帯域に分ける説明もあるが、帯域数は設計で異なる。
ビットを減らすと、量子化の刻みが粗くなって雑音が増える。しかし雑音の大きさがマスキング閾値を下回れば、聴取者には知覚されない。したがって処理の本質は「聞こえない成分の削除」ではなく、「量子化雑音をマスキングの下に収めるための精度の再配分」である[2]。
この考え方は、閾値の見積もりが正しいことに全面的に依存する。聞こえ方は聴取者によって異なり、心理音響モデルはその聞こえにくさを見積もるものなので、見積もりが外れると雑音が閾値を超え、可聴な劣化になる。この危うさを突くのが、単独の声である。
5. ためしで、声が ゆがんだ ときは?
5. 試験で声がひどくゆがみ、モデルが作り直された
5. 1988年ごろの調整:「Tom's Diner」で露わになった見積もりの甘さ
MP3を つくった カールハインツさん たちは、1988ねんごろ、「Tom's Diner」を MP3の しくみで ちいさく して みました。すると、声が ひどく ゆがんで しまったと つたえられて います[4]。
ひとりの 声だけなので、ざつ音を かくす 音が ありません。見つもりが あまかった ことが、すぐ 耳に 出たのです。
チームは、耳の モデルを 作り直しました。ほんにんは、この 歌を なんども 聞いたと 話して います[4]。
ためしの 年は、1988ねんと する ものと、ほかの 年と する ものが あり、はっきり しません。
MP3の きかくは、そのあと 1993ねんに 公開され、MP3と いう 名前は 1995ねん7月14日に 決まりました[5]。
MP3を開発したカールハインツ・ブランデンブルクらのチームは、1988年ごろ、「Tom's Diner」を使って試験をしたと伝えられています[4]。ところが、MP3の方式でこの曲を圧縮すると、声がひどくゆがんでしまいました。心理音響のモデルが、まだ十分に正確ではなかったのです[4]。
伴奏がないので、雑音を隠してくれる別の音がありません。見積もりの甘さが、そのまま耳に出ました。チームはモデルを作り直し、本人は、この曲を何度も聴いたと語っています[4]。なお、試験の年は資料によって1988年とほかの年があり、一致していません。
こうして磨かれた方式は、1993年にISO/IEC 11172-3として規格が公開され、「MP3」という拡張子は1995年7月14日に決まりました[5]。MP3がこの1曲だけに合わせてあるわけではなく、試験の一つだったことは覚えておきたい点です。
では、いったん捨てた精度は、あとから戻せるのでしょうか。
MP3の符号化を開発したカールハインツ・ブランデンブルクらは、1988年ごろ、スザンヌ・ヴェガのアカペラ曲「Tom's Diner」で試験し、声が大きく歪むのを確認した。心理音響モデルが不十分だと分かり、アルゴリズムに立ち戻ってモデルを作り直した。彼自身は、この曲を何度も聴いたと語っている[4]。
この試験が効いたのは、前章の条件が重なるからである。伴奏がなければ雑音を覆う成分が乏しく、見積もりの誤りがマスキング閾値の外に出ると即座に可聴になる。複雑な曲では埋もれる欠陥が、単独の声では露わになる[1]。ただし試験年は資料により1988年説とほかの年の説があり、一致していない。
規格はその後、1993年にISO/IEC 11172-3として公開され、「MP3」の拡張子は1995年7月14日に決まった[5]。MP3はこの1曲に最適化されたものではなく、この曲は多くの試験の一つである。
最後に、この方式の限界を確かめる。精度を落とした分は、あとから戻せるのか。
6. 小さく した 音は、もとに もどせる?
6. 一度落とした精度は、あとから戻せない
6. 不可逆であることの意味:ビットレートを上げても戻らない情報
MP3で 記ろくの 細かさを おとした 音は、もとの CDの 音には もどりません。どれだけ 細かく 記ろくした ことに しても、おとした ぶんは かえって きません。
これと ちがって、もとに ぴったり もどせる 小さく する やり方も あります。たとえば FLAC です。かわりに、小さくなる ぐあいは 半分 ぐらいと いわれ、MP3ほど 小さく なりません。
MP3は 小さく する ことを えらび、FLACは もとの 音を まもる ことを えらんだ、と いえます。
MP3のように、精度を落として小さくする方式は、元の音にぴったりは戻せません。これを不可逆圧縮といいます。落とした分の情報は、一度失われたらあとから補えません。
元に完全に戻せる方式もあります。FLACなどの可逆圧縮です。ただし、音楽ではデータ量が元の半分前後になるというのが目安で、曲によって違います。MP3の約11分の1ほどには小さくなりません。
つまり二つは、ねらいが違います。MP3は「耳にわからない範囲で、思い切り小さく」、可逆圧縮は「小さくなる量は控えめでも、元を保つ」を選んだ方式です。
聞きのがしを使う方法の限界は、耳の個人差や、聞く環境で変わる点にもあります。次は、聞きのがしそのものを、家で試してみましょう。
MP3は不可逆圧縮であり、量子化で落とした情報は、後から復元できない。ビットレートが十分高ければ劣化は小さいが、元のPCMとビット単位で一致するわけではない。
可逆圧縮(FLACなど)は、元の信号を完全に復元できる。音楽ではデータ量が半分前後になる程度が目安で、曲によって差がある。MP3の圧縮率11:1(128 kbit/s時)とは桁が異なる。
両者の差は、聴覚の限界に頼るか頼らないかの設計思想の違いである。MP3は「聴取者に知覚されない劣化」を許容して圧縮率を稼ぎ、FLACは劣化ゼロを条件に、削減幅を抑える。また、マスキングの強さは聴取者や再生環境で変わるので、「ほとんどの人に聞こえない」はあくまで統計的な見積もりである[1]。この前提を、自分の耳で確かめたくなるのが自然な流れである。
7. かくれる 音を、おうちで 聞いて みよう
7. 音が隠れる様子を、家にあるもので聞いてみる
7. 家でできるマスキングの観察と、読んでみる資料
おうちの 人に 言って、小さな 音で 音楽を ながします。しずかな 部屋と、せんぷうきや かんきせんの 音が ある 部屋で、おなじ ところを 聞きくらべて みましょう。
音楽の 小さな 音が、風の 音の かげに かくれて 聞こえにくく なる ところが あるかも しれません。そうなったら、かくれる 音を ためせたのです。ならなくても、しっぱいでは ありません。音は 大きく し すぎないで ください。
聞こえなく なった ところは、音が きえたのでは なく、耳が 気づけなく なった ところ です。
耳が聞きのがす様子は、家で確かめられます。音楽を小さな音量で流し、静かな部屋と、換気扇や扇風機の音がある部屋で、同じところを聴き比べてみます。小さな楽器の音や、息つぎの音が、ほかの音の陰で聞き取りにくくなる場所があれば、マスキングを体験できたことになります。聞き取りにくくならなくても失敗ではありません。
音量は上げすぎず、家の人に伝えてから行ってください。機械の音を使うときも、耳に近づけないようにします。
曲を変えたり、部屋を変えたりすると、隠れる音の場所も変わるかもしれません。
観察は、小音量の音楽を、静かな部屋と換気扇・扇風機などの定常的な雑音がある部屋とで聴き比べるだけでよい。小さな音(息つぎ、弱く弾く弦)が雑音に覆われて聞き取りにくくなる箇所があれば、マスキングを体験できる。起きなくても失敗ではない。音量は上げすぎず、機器を耳に近づけない。
曲や部屋、音量を変えて聴き比べると、どんな音が隠れやすいかを自分で比べられる。
なお、16 kHz付近より上を削るエンコーダが多いという話もあるが、設定や実装で異なり、理由の説明も分かれているので、ここでは触れない。
しらべた もとの じょうほう
参考にした情報源
参考にした情報源と、その使い方
本文の事実は、次の資料を突き合わせました。いずれも二次資料で、英語のものを含みます。
- Wikipedia「MP3」(英語版)https://en.wikipedia.org/wiki/MP3 (圧縮率11:1、マスキングの利用、試験曲の理由)
- Wikipedia「Auditory masking」(英語版)https://en.wikipedia.org/wiki/Auditory_masking (マスキングのデータ圧縮への利用、帯域ごとのビット配分)
- サウンドハウス「聴覚マスキング」の解説 https://www.soundhouse.co.jp/contents/translation/index?post=3604 (聴覚マスキングの種類)
- Mental Floss「How Tom's Diner Tuned MP3」https://www.mentalfloss.com/article/19727/how-toms-diner-tuned-mp3 (試験とモデルの作り直しの逸話)
- Internet Hall of Fame「How MP3 got its groove」https://www.internethalloffame.org/2014/08/13/how-mp3-got-its-groove/ (規格公開と拡張子の年)
なおした ところ
更新履歴
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