このサイトは、ほんの入り口です

ここにあるのは、だれかが実際に調べ、考え、作ってきたことを集めたメモです。気になったら、ページの下の「参考にした情報源」から、もとの本や記事、それを生み出した人たちに、直接ふれてみてください。このメモには書ききれないおもしろさが、そこにあります。

はっぱの 山は、どうして あつく なるの? ── あいしと すくもの おはなし

葉の山が65〜70℃になる ── 藍師がすくもをつくる1年と、阿波藍のあゆみ

藍師とすくも ── 約100日の発酵管理と、阿波藍の栄えた道すじ

分野:技術

9月の はじめ、徳島県とくしまけんの 畑の そばで、かわいた はっぱが 山のように つみ あげられます。そこに 水を かけると、4、5日で 山が 湯気を あげて、65〜70どまで あつく なるそうです[2]。

この はっぱは、藍染あいぞめの もとに なります。はっぱの 山を 100日 せわする ひとが、藍師あいしです。

刈り取って乾かした藍の葉を積み上げ、水を打つ。すると4〜5日で、山の中が65〜70℃の高温になるといいます[2]。お風呂のお湯は40℃前後ですから、それよりずっと熱い山です。

この山を約100日かけて世話し、藍染めの染料「すくも」に変えるのが、徳島の藍師です。藍師の1年の仕事と、阿波藍が栄えたわけ、そして今を、資料をたどりながら見ていきます。

徳島県の資料によると、すくもはタデ科の藍の乾燥葉を発酵させてつくる天然の藍染料で、製造には1年近くかかる。積んだ葉に水だけをかけ、温度を管理しながら約100日発酵させて、阿波藍が完成する[1]。

藍住町の資料では、9月に山積みにした葉は4〜5日で65〜70℃に達する[2]。この熱を100日あつかう藍師の仕事を、栽培の1年、藩の保護と流通、明治以降の衰退、現在の藍師まで、複数の資料を突き合わせて整理する。

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1. はっぱの 山は、なにを して いるの?

1. 水をかけた葉の山は、なぜ熱くなるのか

1. 積んだ葉が65〜70℃になる ── すくもづくりの入口

あいしは、9月に はっぱを 山に して、水を かけます。はっぱの 中で、目に 見えない ちいさな 生きものが はたらきはじめる からだと いわれます。

すると、山の 中が あつく なります。おふろの おゆは 40どくらい。それより ずっと あつい 65〜70どです[2]。

この あつい 山を、100日ほど せわします。できあがった ものを、蒅すくもと いいます[1]。

ただし、ほんとうに 山の 中で 何が おきて いるかは、むずかしい はなしです。ここでは、山が あつく なる ことを 見ていきます。

藍師は9月、しまっておいた藍の葉(葉藍)を出して山のように積み、水を打ちます。すると4〜5日で葉が発酵し、山の中は65〜70℃になります[2]。

葉の中では微生物がはたらいていて、その発酵が熱を生むと説明されます。藍の色のもとになる成分は、もともと葉に含まれていて、それが変化して色素になっていくと説明されています[9]。ただ、この記事では化学の細かい話には入りません。注目したいのは、この熱い山を、人がどう世話するかです。

山ができてから約100日続く世話の終わりに、藍染めの染料「すくも」ができあがります[1]。

すくもの製造は、9月に保存していた葉藍を出して山積みにし、水を打つ「寝せ込み」から始まる。4〜5日で発酵して65〜70℃の高温になる[2]。

藍色の色素については、葉に含まれる黄色いインジカン(資料の表記は「インジゴカン」)がインドキシルに変わり、その2分子がインジゴ(藍色)をつくる、という説明がある[9]。この説明は葉の成分の変化を述べたもので、すくもの発酵工程そのものの解説ではない。ここでは化学の詳細には踏み込まない。

徳島県の資料では、この工程を約100日続けると阿波藍が完成し、製造全体には1年近い期間を要するとされる[1]。なお、約100日は切り返しなどの発酵の期間で、1年近くかかるのは栽培から数えた全体である点は区別しておきたい[2]。

熱を生む山を、人の手でどう扱うのか。次にそこを見る。

2. すくもって、どんな もの?

2. すくもとは何か ── 水だけで100日

2. すくもの定義 ── 天然藍染料と「約100日/1年近く」

すくもは、あいの はっぱを はっこうさせて つくる、天然てんねんの 染料せんりょうです[1]。

つくる ときに かけるのは、水だけ。ほかの ものを たして あじを つけるのでは ありません。

できあがった すくもは、俵たわらに つめます。1ぴょうで 60キログラムです[2]。

この すくもが、あいぞめの ぬのに なります。

すくもは、タデ科の植物である藍の乾燥した葉を発酵させてつくる、天然の藍染料です。積んだ葉にかけるのは水だけで、温度を見ながら約100日発酵させます[1]。

12月のはじめにできあがると、すくもは俵に詰められます。1俵が60キログラムです[2]。

その色を布に写すときは別の作業が必要ですが、この記事では、染める前の「すくもをつくる人」に絞ります。

徳島県の資料は、すくもを「タデ科の藍の乾燥葉を発酵させてつくる天然藍染料」とし、約100日の発酵を経て阿波藍が完成すると説明する[1]。

藍住町の資料によれば、山は12月初旬にできあがり、俵に詰められる。1俵は60キログラムである[2]。

藍染めの化学(不溶性のインジゴをどう溶かして染めるか)や染色の工程は、既存のメモ「藍染めの歴史」で扱っているため、ここでは踏み込まない。本稿が扱うのは、染める前の、すくもをつくる側である。

3. あいしは、なにを たよりに せわを するの?

3. 水のかげんは「手の感覚」── 熱を読む仕事

3. 水と熱の判断 ── 切り返し約20回と、水師・七悪の伝承

山に かける 水は、おおくても すくなくても いけません。ちょうど よい かげんが だいじです[3]。

むかしは、水の かげんを 見る 「水師みずし」と いう しごとが あったそうです。山の うえ、まんなか、したの あつさを、湯気と、手で さわった かんじで はかったと つたえられます[3]。

そして、山の はっぱが ぜんぶ おなじように はっこうするように、20回ほど うつしかえます[2]。おおきな おふろの おゆを、ぜんぶ まぜるような ものです。

ただし、おふろの おゆと ちがって、この 山は 100日 つづきます。

すくもづくりで大事なのは、加える水の量と発酵の温度です。水が足りなくても、多すぎてもうまくいきません[3]。

ある藍師の記事によると、昔は水をかけることを専門にする「水師」がいました。積んだ藍の上・中・下の熱を、湯気や手の感覚で測って水をかけたそうです。失敗のしかたにも名前がついていて、それを七つに数えたので「七悪」と呼ばれた、と紹介されています[3]。1つの私的サイトの記述なので、確かな一次資料というより、現場に伝わる知恵の一例として読んでください。

山は1つではなく、1つの山(1床)の葉が均等に発酵するよう、約100日のあいだに20回ほど移し替える「切り返し」をします。最後は、むしろで覆う「ふとんかけ」をします[2]。

温度計もなかった時代に、湯気と手ざわりで山の中の熱を読む。湯気や手ざわりを手がかりに、山の熱を見ていたそうです。

藍住町の資料は、1床の葉藍がまんべんなく発酵するよう、約100日のあいだに20回ほど移動させる「切り返し」を挙げ、最後にむしろで覆う「ふとんかけ」を経て12月初旬に完成する、と述べる[2]。

要点は加える水の量と発酵温度である。藍師・水師を扱う私的サイトの記事は、水師を「水分量を調節する人」とし、積んだ藍の上層・中層・下層の熱を湯気と手の感覚などで測って水をかけた、と伝える(平島嘉太郎〈1866年生まれ〉の見解に基づく記事)[3]。

同じ記事は、製造上の失敗を「七悪」として名づけている。水の不足や過多、覆いが薄い・厚いなどがそれぞれ別の名で呼ばれたという[3]。失敗に名前をつけるほど、現場が経験を言葉にして受け渡してきたことがうかがえる。ただし単一の私的サイトであるため、細部は一例として扱う。

なお、この例だけから、水師がどの時期・地域で一般的だったかまでは言えない。

4. あいしの 1ねんは、どんな ふうに すぎるの?

4. 春の種まきから、冬の俵づめまで

4. 藍師の1年 ── 3月下旬の種まきから12月初旬の完成まで

春、3月から 4月に、あいの たねを まきます。1か月ほどで なえに なります[2]。

なつ、7月ごろと 8月ごろに、はっぱを かります。かった はっぱは、きざんで かわかして、ぼうで たたいて、はっぱと くきを わけます[2]。

9月に すくもづくりが はじまり、12月の はじめに できあがります。

ただし、この じきは めやすです。としや ばしょ、あいしに よって ちがいます。

藍師の1年を、季節でたどってみます。3月下旬から4月上旬に種をまき、約1か月で苗になります。刈り取りは、一番刈りが7月ごろ、二番刈りが8月ごろです[2]。

刈った葉は刻んで乾燥させ、からさおでたたいて葉と茎に分けます[2]。こうして集めた葉が、9月に山積みにされて発酵に進みます。

9月に発酵が始まり、約100日後の12月初旬に、すくもが俵に詰められます。畑の仕事から発酵まで、1年近い仕事の流れがひと続きになっています。これらの時期は目安で、年や地域、藍師によって違います。

藍住町の資料によれば、藍の種まきは3月下旬から4月上旬、約1か月で苗になる。刈り取りは一番刈りが7月ごろ、二番刈りが8月ごろで、刈った葉は刻んで乾燥し、からさおでたたいて葉と茎を分ける[2]。

9月の寝せ込み以降が発酵の工程で、12月初旬に俵詰めに至る[2]。栽培から完成まで1年近いという県の説明と、栽培と発酵の時期はおおむね合っている[1]。

この時期は目安であり、年・地域・藍師によって違う。

5. かわが、あいを そだてたって ほんとう?

5. 洪水の川が運んだ土 ── 吉野川と藍

5. 吉野川の客土と夏の収穫 ── 藍が徳島に根づいた理由の一説

とくしまには、吉野川よしのがわという おおきな かわが あります。この かわは、ときどき あふれて、洪水こうずいを おこしました。

ところが、あふれた かわが はこんで きた つちは、ようぶんが たっぷり。あいを そだてるのに よかったと いわれて います[5]。

あいは なつに かりとります。たいふうの じきの まえに しゅうかくできたと される ため、かわが あふれても、あいは まにあったのだと いう せつめいも あります[5]。

これは 「そうだったと いわれる」 はなしです。ほかの りゆうも あったかもしれません。

徳島を流れる吉野川は、何度も洪水を起こす川でした。その洪水が運んできた肥えた土(客土)が、藍づくりに合っていたので、産地が続いたともいわれます[5]。

藍は夏に刈り取る作物で、台風のシーズンの前に収穫できたとされます。洪水のあとでも、流れこんだ土砂のおかげで、同じ畑で続けて藍をつくれたという説明もあります[5]。

洪水は、ふつうなら困る出来事です。それを、土を運んでくれる川の力として使えた土地が阿波でした。ただし、これは資料で「ともいわれる」「とされる」と書かれている説明で、理由はほかにもあったかもしれません。

藍と吉野川の関係について、一つの資料は、洪水が運ぶ肥沃な客土が藍の栽培に適していたので産地であり続けた、とも言われていると述べる[5]。あわせて、タデアイは台風の時期の前の夏に収穫できること、洪水後に流れ込んだ土砂で連作できたことも、この説明では挙げられる[5]。

収穫時期と連作は「〜とされる」の範囲で読むのが妥当だろう。産地が続いた理由は、後述の藩の保護策など、ほかの要因と重なる可能性がある。

吉野川は別名を四国三郎と呼ばれる大河で、洪水の川と藍の産地が結びついた点は、阿波藍を考える手がかりになる。

6. あいは、いつごろから ひろまったの?

6. 室町の記録から、藩の保護と藍商へ

6. 1445年の記録から1903年の最大面積へ ── 藩の保護と衰退

あいの きろくは、600年ちかく まえの 1445年に あります。ひょうごの みなとに、あいを つんだ ふねが はいったと きろくされて います[1]。

そのあと、とくしまの おとのさまが、あいを まもり、そだてました。江戸えどの じだいには、日本じゅうに あわあいが ひろまったと いわれます[1]。

あいの はたけは、1903年に いちばん ひろく なりました。ところが、そのあと、やすい あいや、くすりで つくる あおい そめものが はいって きて、あいの はたけは へって いきました[1]。

それでも あいしの しごとは、きえて しまいませんでした。

1445年の「兵庫北関舩入納帳」という記録に、藍の積み出しが残っています。このため、室町時代にはすでに阿波藍がつくられ、流通していたと考えられています[1]。

江戸時代のはじめ、徳島藩の藩主の蜂須賀家政は、1615年に播磨から藍づくりの技術者を招いて技術を教えさせ、1625年には藩の中に「藍方役所」を置いたと伝えられます[4]。藩の保護で阿波藍は盛んになり、1700年代には全国の市場で大きな力を持ったといわれます[4]。

徳島の藍の作付け面積は、1903年(明治36年)に最大となる約15,000ヘクタールに達しました。これは1辺12kmほどの正方形にあたる広さです[1]。そのあと、安いインド藍や合成の染料が入ってきて、明治の後半に急に衰えました[1]。

徳島県の資料は、1445年の『兵庫北関舩入納帳』に藍の積み出し記録があることから、室町時代にはすでに阿波藍が製造・流通していたと考えられる、と説明する[1]。断定ではなく「考えられる」水準の推定である。

近世では、蜂須賀家政が1615年に播磨から藍作の技術者を招いて指導させ、1625年に藩内へ藍方役所を置いた。徳島藩の保護奨励のもとで阿波藍は隆盛し、1700年代には全国市場で大きな力を持った、と整理されている[4]。この点は百科事典ページの記述に基づくため、原資料の確認が望ましい。

作付面積は1903年(明治36年)に徳島の約15,000ヘクタールで最大となった(全国ではなく徳島県の値。1辺約12kmの正方形に相当)。その後、安価なインド藍や合成染料の輸入で、明治後半に急速に衰えた[1]。

いつ盛んになり、なぜ衰えたか。栄えた側と衰えた側が1本の線でつながる。

7. いまも、あいしは いるの?

7. 畑が消えた町と、届き続けるすくも

7. 藍屋敷・選定保存技術・現在の藍師 ── 消えた畑と、受け継がれた技術

いまの とくしまには、あいしは 数けんしか いないと いわれます[6]。むかしの あいの まちだった 藍住町あいずみちょうでも、いまは あいの はたけを 見られなく なりました[6]。

つくる 人は すくなく なりましたが、いまも つくりつづけて いる 人が います。

けれど、できの いい すくもは、いまも 日本じゅうの そめものを する ひとの ところへ とどいて います[8]。

あいの かこうの ぎじゅつは、1978年に、くにから だいじな ぎじゅつと して えらばれました[7]。

むかしの あいしや あいの しょうにんは、藍屋敷あいやしきと いう いえで はたらき、あいの とりひきも しました[8]。

藍住町は、江戸から明治にかけて藍の大産地でした。室町時代に、勝瑞という土地に藍染料づくりが伝わったとされます。奥野・徳命・東中富の藍は一級品といわれ、徳島藩の経済を支えました。ところが今は、町の中に藍畑を見ることもできません[6]。

それでも、阿波藍の加工の技術は、1978年(昭和53年)に国の選定保存技術に選ばれています[7]。良質のすくもは、いまも全国の染織家のもとへ届けられています[8]。

藍屋敷は、江戸から明治にかけて藍の生産・加工・流通を担った藍師や藍商人の、住まいと仕事場、商談の場でした[8]。藍師が今も数軒あるとされます[6]。

畑の風景が変わっても、100日の世話で藍をつくる技を持つ人がいるから、すくもは今も染める人の手に渡ります。

藍住町の資料によれば、江戸〜明治に藍の大生産地で、室町時代に勝瑞へ藍染料づくりが伝わったとされる。奥野・徳命・東中富の藍は一級品で、徳島藩の経済を支えたが、現在は町内に藍畑を見ることすらできない[6]。

阿波藍の加工技術は、江戸時代後期に「本藍」として名声を得た技術として、1978年(昭和53年)に国の選定保存技術に選定された[7]。人間国宝や重要無形文化財ではなく、選定保存技術という別の枠である点に注意したい。

藍屋敷は、江戸〜明治に藍の生産・加工・流通を担った藍師や藍商人の住居兼生業、商談の場だった。日本遺産の資料は、良質の蒅が今も全国の染織家のもとへ届く、と述べる[8]。

現在の藍師の数は、藍住町の資料の記述(2018年ごろ)で、徳島県全体で5軒の藍職人が製造・販売しているとされる[6]。ただし軒数は資料や時期で変わりうるため、「数軒」と読むのが安全だろう。

自分でも しらべて みたく なったら

自分でも調べてみたくなったら

自分でも調べてみたくなったら

いえで できる こと

  • おうちに、あいぞめの ハンカチや てぬぐいが あれば、ぬの の あおを よく 見て みましょう。ほかの あおと、どこが ちがうでしょうか。
  • ちずで、とくしまけんの 吉野川よしのがわを さがしましょう。かわの まわりの 町の なまえを 1つ、メモしても いいですね。

でかけて できる こと

  • おでかけの とき、あいぞめの ものを 見かけたら、ひなたと へやの なかで、いろの 見えかたを くらべて みましょう。

家でできること

  • 家に藍染めの製品があれば、色と手ざわりを見てみましょう。1枚の布から、山の中の熱や、藍師の100日を想像してみるのもおもしろいです。
  • 地図で吉野川と藍住町を探して、川と町の位置を見てみましょう。洪水の川と藍のつながりが、少し実感できるかもしれません。

出かけてできること

  • 出かけた先で藍染めの布を見かけたら、日なたと室内で色の見え方を比べてみましょう。

公式の情報

  • 徳島県「阿波藍」のページ、日本遺産ポータルの阿波藍の項目が、出典の中では読みやすい入口です。

資料を読むなら

  • 徳島県「阿波藍」のページは、すくもの定義、1445年の記録、1903年の作付面積の3点を同じ場所で確かめられる[1]。
  • 藍住町の「すくもの加工」は、切り返しの回数や温度など工程の数字が具体的で、本稿の第2章〜第4章の柱になった[2]。
  • 日本遺産ポータルの2ページは、選定保存技術と藍屋敷、今も蒅が届くことを扱う[7][8]。

自分で確かめるなら

  • 藩の保護策(蜂須賀家政の年号)と「1700年代に全国市場で大きな力を持った」は、本稿では百科事典ページに頼った。原資料(藩の記録や郷土史)を探してみる価値がある[4]。
  • 藍師の軒数と、栽培時期の地域差は、藍師や自治体の最新の案内で確かめるとよい。

しらべた もとの じょうほう

参考にした情報源

参考にした情報源と、その使い方

本文で使った事実を確かめた資料の一覧です。時期や軒数は資料により、また年により変わりうるため、最新の情報は各公式ページで確認してください。

  1. 徳島県「阿波藍|ようこそ徳島県へ」 https://www.pref.tokushima.lg.jp/japanese/natural_culture/traditional_culture/awa-ai (すくもの定義・1445年の記録・1903年の作付面積・衰退)
  2. 藍住町「すくもの加工」 https://www.town.aizumi.lg.jp/ainoyakata/sukumono.html (発酵の温度・切り返し・俵詰め・栽培の時期)
  3. 「藍師・水師七悪」(iroai.jp) https://iroai.jp/aishi-mizushi/ (水師と七悪の伝承。私的サイトのため一例として)
  4. 阿波藍(Wikipedia) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E6%B3%A2%E8%97%8D (藩の保護策の年号。原資料の確認が望ましい)
  5. 「藍と吉野川」(japanblue-space) https://www.japanblue.info/2017/02/11/%E8%97%8D%E3%81%A8%E5%90%89%E9%87%8E%E5%B7%9D/ (洪水と客土・夏の収穫の説明。二次資料)
  6. 藍住町「阿波藍製造の復活記録1」 https://www.town.aizumi.lg.jp/docs/2018092700027/ (藍住町の歴史・藍畑の現状・藍師の軒数。2018年ごろの記述)
  7. 文化庁 日本遺産ポータル「阿波藍製造」 https://japan-heritage.bunka.go.jp/ja/culturalproperties/result/4616/ (1978年の選定保存技術)
  8. 文化庁 日本遺産ポータル「藍のふるさと 阿波」 https://japan-heritage.bunka.go.jp/ja/stories/story081/ (藍屋敷・今も染織家に届くすくも)
  9. 武庫川女子大学 牛田智「藍について」 https://www.mukogawa-u.ac.jp/~ushida/aizome.htm (発酵で藍色の成分ができる仕組みの説明)

なおした ところ

更新履歴

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