このサイトは、ほんの入り口です

ここにあるのは、だれかが実際に調べ、考え、作ってきたことを集めたメモです。気になったら、ページの下の「参考にした情報源」から、もとの本や記事、それを生み出した人たちに、直接ふれてみてください。このメモには書ききれないおもしろさが、そこにあります。

きっさてんは、むかし なにを する ばしょ だった?

1ペニーで入れた「大学」 ── 喫茶店は、人と情報が集まる場所だった

コーヒーハウスから純喫茶へ ── 17世紀ロンドンと日本の喫茶店が担った役割

分野:歴史・文化

300年いじょう まえの ロンドンに、「ペニー大学」と よばれた ばしょが ありました。ほんとうの 大学では なく、コーヒーを のむ みせです。

日本の きっさてんも、はじめは コーヒーを のむ だけの ばしょでは なかったようです。みせが なにを 売って いたのか、さがして みましょう。

17世紀のロンドンには、1ペニーほどで入れて「ペニー大学」とあだ名された店がありました。コーヒーを飲みながら、新聞や印刷物を読み、人の話を聞く場所です。

日本の喫茶店の歴史も、コーヒーそのものの話だけでは説明できません。ロンドンのコーヒーハウスから、明治の可否茶館、カフェー、純喫茶へ。店が売っていたものは何だったのかを、資料を読みくらべながら見ていきます。

17世紀のロンドンのコーヒーハウスは、入場料が1ペニーほどで新聞や印刷物が読めたことから、「ペニー大学」と呼ばれた[1]。日本では1888年(明治21年)に上野で可否茶館が開かれ、日本初の喫茶店として知られる[8]。

この2つの店は、何を売っていたのか。コーヒーという飲み物ではなく、店という空間の役割に注目し、英国の事例と日本のカフェー・純喫茶・音楽喫茶を、公的機関の解説や論文要旨などを突き合わせて整理する。

読み方を切り替えられます。画面の上にある「よみかた」のボタンで、小学校低学年むけ・小学校高学年むけ・中学生むけの3つの書き方に切り替わります。むずかしいと思ったら、いつでもやさしい方に戻ってください。選んだ読み方はブラウザが覚えているので、次に別の記事を開いたときも同じ読み方で始まります。

1. 「ペニー大学」って、なに?

1. コーヒーハウスが「ペニー大学」と呼ばれたわけ

1. 入場料1ペニーの店 ── ペニー大学と「最初の店」をめぐる注意点

ペニーは、イギリスの おかねです。むかしの ロンドンの コーヒーハウスは、はいる ときに 1ペニーほど はらう みせだったと いわれます[1]。

みせの 中では、新聞や 本が よめました。いろいろな 人が あつまって、はなしを して、ニュースを 知る ことが できました。それで 「ペニー大学」と よばれたのです[1]。

ロンドンで いちばん はじめの みせは、1652年に ひらいたと 長く いわれて きました[1]。ただ、その 話は 何十年も あとに 書かれた ものに もとづくので、ほんとうに いちばんかどうかは、はっきり しません[3]。

ペニーはイギリスの昔のお金の単位です。17世紀のロンドンのコーヒーハウスは、入場料が1ペニーほどで、新聞や印刷物が読めたため、「ペニー大学」というあだ名がついたと説明されます[1]。学校ではありませんが、人が集まって話を聞き、情報を得られる場所だったことが、この呼び名から分かります。

料金の説明は、資料によって少しちがいます。英語版の解説は入場料1ペニー、日本語版の解説は入場料1ペニーにコーヒー1杯2ペニーの仕組みとしています[1][2]。ここでは「1ペニーほど」にとどめます。

ロンドンで最初の店は、1652年にパスカ・ロゼーがコーンヒルの近くで開いた店と、長く言われてきました。ただ、場所は教区の記録に残る借地契約で確かめられる一方、「最初」という主張は数十年あとの回想にもとづいているという指摘があります[3]。

初期のロンドンのコーヒーハウスは、入場料が1ペニーほどで、新聞や印刷物が読めたため「ペニー大学(penny university)」と呼ばれた[1]。日本語版の解説は、入場料1ペニー、コーヒー1杯2ペニーの仕組みからこの名がついたとし、料金の説明が英語版と異なる[2]。料金の説明は資料によって異なるため、ここでは「1ペニーほど」とする。

イングランド最初の店は、1650年または1651年のオックスフォードとされ、ロンドンでは1652年にパスカ・ロゼー(Pasqua Rosée)がコーンヒルのセント・マイケルズ・アレーで開いた店が、最初と長く言われてきた[1]。

ただし、ロゼーと共同経営者クリストファー・ボウマンの店は、教区の記録に残る借地契約から場所が確かめられる一方、「最初」という主張は17〜18世紀の好古家の記録に由来し、いずれも出来事の数十年後に書かれたものだと、ロンドン史の専門誌の論文要旨は述べる[3]。「最初」は確定した事実ではなく、長く伝えられてきた説として扱う。

2. 王さまは、なぜ みせを とじさせようと したの?

2. 王の布告は、10日で取り消された

2. 1675年の閉鎖布告と、1676年1月8日の撤回 ── 実施2日前の方針転換

1675年12月29日、イギリスの 王さま チャールズ2世は、コーヒーハウスを とじさせる おふれを 出しました[4]。

おふれに 書かれた 理由の 1つは、商人が しごとの 時間を むだに する ことです。もう 1つは、国の やりかたを わるく いう うそが、みせで つくられて ひろまる ことです[4]。

1676年1月10日から 始める 予定でした。ところが 1月8日に、べつの おふれで とりけされました。出してから 10日、はじまる 2日前です[5]。みせの 人たちが おねがいの 手紙を 出した ことも かかわったと いわれます[5]。

1675年12月29日、国王チャールズ2世は、コーヒーハウスを閉じさせる布告を出しました。1676年1月10日から実施される予定でした[4]。

布告に書かれた理由は、商人がそこで仕事の時間を無駄にすることと、政府をおとしめる偽りの噂が店で作られて広まることなどです[4]。人が自由に集まって話せる場所は、王様にとって心配の種にもなったようです。

ところが、1676年1月8日に別の布告が出て、この閉鎖命令は取り消されました。布告から10日後、実施の2日前です[5]。店主たちの請願が背景にあったとする説明もあります[5]。

なお、日本語版の解説には、この禁止令の出し手をジェームズ2世とする記述がありますが、布告文などからはチャールズ2世です[2][4]。

1675年12月29日、チャールズ2世はコーヒーハウスを閉鎖する布告を出した。1676年1月10日からの実施予定で、理由として、商人が仕事の時間を浪費すること、政府を中傷する虚偽の噂が店で作られ広まることなどが挙げられている[4]。「反乱の恐れ」という説明もよく見かけるが、布告文の言葉は、時間の浪費と政府への中傷である。

この布告は、1676年1月8日の別の布告で撤回された[5]。12月29日から数えて10日後、施行予定の2日前にあたる。店主らの請願が背景にあったとする説明もある。

この経緯から読み取れるのは、当時の為政者が、コーヒーハウスを「情報が集まり、噂が広がる場所」と見ていたことである。日本語版の解説がこの布告の主をジェームズ2世とする点は、布告文の転載や英国の資料と合わず、誤りと考えられる[2][4]。

3. コーヒーの みせから、ほけんの 会社が うまれた?

3. 船の情報を求めた客と、証券取引所の名前

3. ロイド氏の店からロイズ、ジョナサンズから証券取引所へ ── 1688〜1773年

ロンドンの タワーどおりに、エドワード・ロイドさんの みせが ありました。1688年の 「ロンドン・ガゼット」という 新聞に はじめて 名前が 出ます[6]。

ここには、船の 持ち主や 船長さんが あつまりました。船の ニュースを 知りたかったからです。1691年に べつの 通りへ うつると、船の ほけんを 引きうける 場所に なりました[6]。ほけんとは、船に こまる ことが あった ときの ために、おかねを 出しあう しくみです。

1734年には、船の 出入りや うみの どろぼうの ニュースを のせた 「ロイズ・リスト」が 出ました。今も つづく 世界で いちばん ふるい よみものの 1つと いわれます[7]。

1773年には、べつの みせの かぶの 売り買いを する 人たちが、店の 名前を 「ストック・エクスチェンジ」に かえました[1]。かぶを 売り買いする ところ、という 意味です。

そのあと、1750年代には コーヒーより こうちゃが 多く のまれるように なり、コーヒーハウスは お金持ちの ための みせに かわって、すがたを 消して いきました[1]。

ロンドンのタワー通りにあったエドワード・ロイドの店は、1688年に『ロンドン・ガゼット』という新聞に初めて登場しました。船主や船長が、船の情報を求めて集まる店でした[6]。

1691年にロンバード通りへ移ると、船の保険を個人が引き受ける場所になります[6]。保険とは、船が事故にあったときの損害を、みんなで分けて負担する仕組みです。今の世界的な保険市場「ロイズ」の名前は、この店に由来します。

1734年には、船の出入りや積み荷、海賊の情報を載せた「ロイズ・リスト」が出ました。今も続く、世界で最も古い部類の刊行物の1つとされます[7]。ただし、この1734年版を出したのはロイド本人ではなく、トマス・ジェムソンという人です[7]。

ほかの店でも似たことがありました。1773年、ジョナサンズという店に集まっていた株式の仲買人たちが、店の名前を「証券取引所(The Stock Exchange)」に改めたと伝えられます[1]。

その後、1750年代までに紅茶がコーヒーより多く飲まれるようになり、コーヒーハウスは裕福な客だけを相手にする店に変わって衰えていったと説明されます[1]。

エドワード・ロイドの店(タワー通り)は、1688年に『ロンドン・ガゼット』に初めて登場した。船主や船長が船の情報を求めて集まり、1691年にロンバード通り16番地へ移ってからは、船の保険を個人が引き受ける場になった。現在のロイズ(Lloyd's、世界的な保険市場)は、この店に由来する[6]。

「ロイズ・リスト」は、船の出入り・積み荷・海賊の情報を載せ、1734年にトマス・ジェムソンによる最初の公式版が出た。現在まで続く世界最古級の定期刊行物とされる。なお、1696年の「ロイズ・ニュース」はロイド自身が出したとする別の資料もあり、刊行の経緯には複数の説がある[7]。

1773年には、ジョナサンズ(Jonathan's)の株式仲買人たちが店名を「証券取引所(The Stock Exchange)」に改めたと伝えられる[1]。

コーヒーハウスの衰えは、1750年代までに紅茶の消費がコーヒーを上回り、店が裕福な客向けの、いわば会員制に近い場に変わったことと結びつけて説明される[1]。

4. 日本で はじめての きっさてんは、どんな みせ?

4. 上野の可否茶館 ── 新聞もトランプもある、高い店

4. 1888年の可否茶館 ── 「知識を得る場」を志向した日本初の店と、4年後の閉店

1888年(明治めいじ21年)、東京の 上野に 「かひさかん」と いう みせが ひらきました。日本で はじめての きっさてんと して 知られて います[8]。

みせの 中には、新聞や ざっし、トランプ、いご、しょうぎ、クリケットが ありました。手紙を 書く ための へやも あったと いわれます[8]。ロンドンの コーヒーハウスと、どこか にて いませんか。

コーヒーは いっせんごりん。そばは はちりんから いっせんほどの じだいでした。そばより 高い ねだんです[11]。

みせは 1892年に とじました。お金の やりくりが うまく いかなく なった ことなどが、りゆうと いわれて います[11]。

1888年(明治21年)、東京の上野に開店した可否茶館は、日本初の喫茶店として知られます。店内には新聞や雑誌のほか、トランプ、碁、将棋、クリケットが置かれ、手紙を書くための文房室もあったとされます[8]。

この店の小冊子には、外国の茶館や珈琲館が、社交の場、芸術家が集まる場所、商人の会館として働いていることが書かれていたそうです[8]。1ペニーで新聞が読めたロンドンの店と重なる部分があります。

ただ、値段は手ごろではありませんでした。ブラックコーヒーは一銭五厘、牛乳入りは二銭で、そばが八厘から一銭ほどだった時代の高級品でした。そばと比べると、1.5倍から2倍近い値段です[11]。

店は1892年に閉じました。経営難と、投資の失敗が理由とされますが、資料によって説明はさまざまで、値段の高さだけが原因とは言い切れません[11]。

可否茶館は、1888年(明治21年)に東京・上野で開店し、日本初の喫茶店として知られる。店内には新聞・雑誌、トランプ、碁、将棋、クリケットが置かれ、手紙を書く文房室もあったとされる[8]。開店者は鄭永慶ていえいけいである。

店の小冊子『可否茶館広告 附・世界茶館事情』には、当時の外国の茶館・珈琲館が、社交場、芸術家の集合場所、商人の会館として機能していることが記されていたと、国立国会図書館の解説は伝える[8]。ロンドンのコーヒーハウスと同じ性格を、日本でも狙った店だったと読める。

価格は、ブラックコーヒーが一銭五厘、牛乳入りが二銭。そばが八厘〜一銭だった時代の高級品で、そばの1.5倍〜約1.9倍にあたる。1892年に閉店し、経営難と投資の失敗が理由とされるが、閉店の理由には複数の説がある[11]。

開業の細かい日付や所在地の町名は、複数のサイトで一致するものの、国立国会図書館の本文では確かめられなかったため、ここでは年と上野までにとどめる。

5. 「じゅんきっさ」は、ふつうの きっさてんと ちがうの?

5. カフェーの流行と、酒を出さない店の登場

5. 1911年のカフェー3店と1929年の取締要綱 ── 純喫茶が現れる背景

1911年(明治めいじ44年)に、東京に 「カフェー」と いう みせが つぎつぎ ひらきました。3月の プランタン、8月の ライオン、12月の パウリスタです[9]。

パウリスタは、コーヒーが 5せんと やすく、制服せいふくを きた 少年が はこんで くれる ことで 話だいに なりました[9]。

ところが だんだん、カフェーは お酒と、女の 人の せっきゃくが 目立つ みせという すがたが 強まりました。1929年には、けいさつが とりしまりの きまりを 出しました[10]。

それより 少し あとの 昭和10年代には、お酒を 出さない ことを うたう みせも ふえました。そういう 店が、「じゅんきっさ」と よばれる 店に つながった、と 考えられて います[10]。

きっさてんの 数は、大きな じしんの すぐあとの 55けんから、1928年(昭和3年)には 671けんに ふえました。12ばいほどです[10]。

1911年(明治44年)、東京に「カフェー」と呼ばれる店が相次いで開店しました。3月のプランタン、8月のライオン、12月のパウリスタです[9]。

パウリスタはコーヒー1杯5銭という安さを打ち出し、女給の代わりに制服姿の少年が給仕をして評判になりました[9]。

やがてカフェーは、女給の接客と酒のイメージが強まり、1929年(昭和4年)には警視庁が「カフェー・バー等取締要綱」を通達しました[10]。

昭和10年代には、過度な接客をするカフェーとは違う「健全さ」をうたう店も増えました。その一例が、1930年(昭和5年)に開店した大阪の「ブラジレイロ」で、「アルコール分を全廃」と広告しました[10]。

喫茶店の数も増えました。国立国会図書館の資料によると、大きな地震の直後には55店だったものが、1928年(昭和3年)には671店になっています。12倍ほどです[10]。この流れの中で、酒を出さない店が「純喫茶」と呼ばれ、カフェーと区別されていった、と考えられます。

1911年(明治44年)、東京でカフェー・プランタン(3月)、カフェー・ライオン(8月)、カフェー・パウリスタ(12月)が開店した。パウリスタはコーヒー5銭という廉価と、女給じょきゅうの代わりに制服姿の少年が給仕することで評判になったという[9]。

その後、カフェーは女給の接客と酒のイメージが強まり、1929年(昭和4年)に警視庁が「カフェー・バー等取締要綱とりしまりようこう」を通達した。他方、昭和10年代には、過度な接客をするカフェーとは異なる「健全さ」を打ち出す店も増えた。一例として、1930年(昭和5年)開店の大阪「ブラジレイロ」は「アルコール分を全廃」と広告した[10]。

国立国会図書館の同じ資料には、喫茶店の数が、震災直後の55店から1928年(昭和3年)の671店に増えたとある[10]。671÷55は約12.2で、約12倍にあたる。ただし、55店が指す地域や「喫茶店」の定義は確かめていないため、別の統計とは混ぜない。

この流れの中で、酒を出さない店が純喫茶じゅんきっさと呼ばれ、カフェーと区別されていったと考えられる。

6. おんがくを きく きっさてんは、なぜ ふえたの?

6. 音楽を聴く喫茶店と、店の数の変化

6. 名曲喫茶の広がりと喫茶店数の減少 ── 1950年代〜2014年

おんがくを きかせる きっさてんは、大正の ころにも ありました。せんそうの あとには、ジャズ、クラシック、シャンソンなどの みせが ひろがりました[10][11]。

クラシックを かける みせは、名曲喫茶めいきょくきっさと よばれます。1950年代に ひろまり、1960年代に いちばん さかんに なりました。そのころは、大きな ステレオと クラシックの レコードを、家で 買うのが むずかしかったからだと いわれます[12]。

1970年代より あとは、家で レコードを きけるように なり、名曲きっさは へっていきました[12]。

きっさてんの 数は、ある 調べでは 1981年に 15万4千けんほど、2014年に 7万けんほどで、半分より 少し 少なく なりました[11]。

音楽を聴かせる喫茶店は、大正時代にもありました。戦後には、ジャズ喫茶、名曲喫茶、シャンソン喫茶などが広まりました[10][11]。

名曲喫茶は、高価なステレオやクラシックのレコードを個人が買いにくかった1950年代に広まり、1960年代に最盛期を迎えたと説明されます。1970年代以降、家庭でレコードが聴けるようになると数が減っていきました[12]。店が「家では手に入りにくいもの」を提供していた間は栄え、家で手に入るようになると変わっていった、という流れです。

喫茶店の数全体も、1981年の154,630店から2014年の69,977店へ、約半分に減ったという数字があります[11]。約45%に減った計算で、約55%減にあたります。

ロンドンの新聞、可否茶館の文房室、名曲喫茶のレコード。店が売っていたのは、コーヒーだけではなかったようです。

音楽を流す喫茶店は大正期にもあったが、戦後にジャズ喫茶・名曲喫茶・シャンソン喫茶など、音楽を軸にした店が広まった[10][11]。戦後に広まった名曲喫茶めいきょくきっさは、コンポーネントステレオやクラシックのレコードが高価で個人には買いにくかった1950年代に人気となり、1960年代に最盛期を迎え、1970年代以降に家庭でレコードが聴けるようになって減ったと説明される[12]。

喫茶店数は、1981年の154,630店から2014年の69,977店へ約半減したとされる[11]。69,977÷154,630は約0.45で、約55%の減少にあたる。この数字は、Wikipediaの記述に依拠している。

ここまでの流れを並べると、ロンドンでは新聞と噂、可否茶館では新聞と娯楽、名曲喫茶では高価な音響設備と、店が「家では得にくいもの」を提供していた時期が、繰り返し現れる。これは資料の断片から読み取った見取り図で、確立した学説ではない。

7. じぶんでも たしかめて みたく なったら

7. 自分でも調べてみたくなったら

7. 自分でも調べてみたくなったら

やってみよう。おうちの 人と いっしょに、ちかくの きっさてんの 外から、看板かんばんを みて みましょう。入り口に メニューが あれば、コーヒーの ほかに なにが あるか 数えます。

おうちの 人と 中に 入る ときは、新聞や ざっし、本、レコードが おいて ないか、さがして みましょう。その みせは、コーヒーの ほかに、なにを 楽しむ ばしょ なのでしょうか。

おうちの 人に、「むかし よく 行った きっさてんは ある?」と 聞いて みるのも いいですね。

次のようなことを、試したり調べたりできそうです。

家の近くに喫茶店や、昔からある店があれば、おとなといっしょに、外から看板やメニューを見てみましょう。中に入れるなら、新聞・雑誌・本・レコードなどが置いてあるかを探し、その店がコーヒーのほかに何を提供しているか、自分なりの言葉で書きとめます。

国立国会図書館の「本の万華鏡」の喫茶店の回は、写真や当時の資料つきで読めます[8][9][10]。可否茶館やカフェーの広告がどんなものだったか、見比べてみましょう。

確かめられることが、資料の側にも身近な場所にもある。

  1. 国立国会図書館「本の万華鏡」の第1〜3章[8][9][10]を読み、可否茶館の小冊子やカフェーの広告の図版を見て、本文の説明と見くらべる。
  2. ロイズの公式サイトの歴史紹介[6]と、ロイズ・リストを扱う資料[7]は英語で書かれている。読める場合は、ロゼーの店の「最初」をめぐる論文要旨[3]とあわせて、日本語版の解説との違いを見つける。
  3. 身近な喫茶店に行けるなら、おとなと一緒に、置いてある新聞・雑誌・レコードや看板を見て、その店が何を提供しているかを書きとめる。

しらべた ところ

参考にした情報源

参考にした情報源

出典について:国立国会図書館の解説、ロイズなど公的・組織の解説、論文の要旨、布告文の転載、Wikipediaを突き合わせて使った。英国側の一部と、店数・料金は二次資料が中心で、原資料までは確かめていない。何に使ったかは、各項目の最後に書いている。

  1. Wikipedia「Coffeehouse」(英語版)。 https://en.wikipedia.org/wiki/Coffeehouse (英国最初の店・ペニー大学・証券取引所・紅茶への移行について)
  2. Wikipedia「コーヒーハウス」(日本語版)。 https://ja.wikipedia.org/wiki/コーヒーハウス (ペニー大学の料金の説明と、布告の記述のちがいについて)
  3. The London Journal 29(1), 2004(論文要旨)。 https://www.tandfonline.com/doi/abs/10.1179/ldn.2004.29.1.1 (ロンドン最初の店とされる店の根拠について)
  4. 「A Proclamation for the Suppression of Coffee Houses」1675年(布告文の転載)。 https://www.foodreference.com/html/html/coffee-suppression-dec23.html (1675年の布告の日付と理由について)
  5. Taylor & Francis「Additional Proclamation concerning Coffee-Houses」(資料集の目録)。 https://www.taylorfrancis.com/ (1676年1月8日の撤回について)
  6. Lloyd's「Coffee and commerce」。 https://www.lloyds.com/about-lloyds/history/coffee-and-commerce (ロイドの店と保険について)
  7. Lloyd's Register「Edward Lloyd's coffee house」。 https://www.lr.org/en/about-us/who-we-are/our-history/edward-lloyd-coffee-house/ (ロイズ・リストについて)
  8. 国立国会図書館「本の万華鏡39」第1章。 https://www.ndl.go.jp/kaleido/39/1 (可否茶館について)
  9. 国立国会図書館「本の万華鏡39」第2章。 https://www.ndl.go.jp/kaleido/39/2 (1911年のカフェーについて)
  10. 国立国会図書館「本の万華鏡39」第3章。 https://www.ndl.go.jp/kaleido/39/3 (取締要綱・健全さをうたう店・喫茶店数について)
  11. Wikipedia「日本における喫茶店の歴史」。 https://ja.wikipedia.org/wiki/日本における喫茶店の歴史 (可否茶館の値段と閉店・音楽喫茶・店数の変化について)
  12. Wikipedia「名曲喫茶」。 https://ja.wikipedia.org/wiki/名曲喫茶 (名曲喫茶の広まりと減少について)

なおした ところ

更新履歴

更新履歴(改版の記録)

  •  初版を公開。

このサイトでは、公開した記事の本文は原則として書き直しません。誤りが見つかったときや、内容が古くなったときだけ手を入れ、その理由をこの欄に残します。