1. てすりは、むかしの アパートの ぶひん
1. 表参道ヒルズの手すりは、壊されたアパートの部品だった
1. 「同潤館」は保存ではなく、復元と部品の再利用でできている
ヒルズの 中に、「どうじゅんかん」と よばれる ところが あります[6]。むかし そこに あった アパートを、もういちど つくった たてものだと しょうかいされて います。
てすり、ひなんする ときに つかう フック、ドアどめ。こういう ぶぶんに、むかしの ぶひんが つかわれて いると いわれます[6]。
たてものは あたらしく つくりなおし、ぶひんは むかしの もの。ふしぎな くみあわせです。では、その アパートは、どんな ものだったのでしょう。
建物は復元、部品は本物
表参道ヒルズ(設計は安藤忠雄さん)には、「同潤館」と呼ばれる一角があります。もとは同じ場所に建っていた青山アパートを再現した建物と紹介されていて、手すり、避難用のフック、ドア止めなどに、かつての部品が再利用されているそうです[6]。
昔の建物がそのまま残っているわけではありません。建物は作り直しで、小さな部品の中に本物が混じっている、という残し方です。
探しに行ける手がかり
青山アパートが解体されたのは2003年で、表参道ヒルズが開業したのは2006年2月11日です[6]。手すりを握ったとき、その手すりが昔のアパートの廊下にあったのかもしれない、と想像できます。
では、解体されたアパートは、もともとどんな建物で、なぜ建てられたのでしょうか。
表参道ヒルズ(安藤忠雄設計)の一角にある「同潤館」は、跡地に建っていた旧青山アパートを再現した建物と紹介され、手すり、避難用フック、ドア止めなどにかつての部品が再利用されている[6]。
ここで押さえたいのは、「そのまま保存した」のではないという点だ。建物の形は新しく作り直し、小さな部品にだけ本物を使う。そのため、同潤館は「昔の建物」というより、昔の建物と今の建物をつなぐ印のような存在になっている。
青山アパートの解体は2003年、表参道ヒルズの開業は2006年2月11日である[6]。解体から開業まで約3年あり、部品は取り外されたあとに再利用された。その間の保管の経緯は、資料からは分からない。では、その部品はどんな建物のものだったのか。
2. じしんの あとに うまれた どうじゅんかい
2. 関東大震災の翌年に生まれた「同潤会」
2. 同潤会の設立:義捐金をもとにした組織と、震災後の住宅不足
1923ねんに、関東大震災が ありました。つぎの 年の 1924ねんに、国の やくしょが 「どうじゅんかい」を つくりました[1]。
みんなから あつまった おかねを もとに しました[2]。いえを なくした 人の ための すまいを たてる ためです。
たてたのは、てつと コンクリートで かためた アパートです[3]。しぶやの だいかんやま、あおやま、えどがわばしなどに できました。
あおやまの アパートは、1926ねんと 1927ねんに できました。3かいだての たてものが 10とう ならんで いました[5]。
義捐金から作られた組織
1923年に関東大震災が起き、その翌年の1924年5月に、財団法人「同潤会」が設立されました。内務省が、国内外から寄せられた義捐金をもとに作った組織で、被災した人のための住宅を建てる役目がありました[1][2]。義捐金は、被害にあった人を助けるために寄せられたお金のことです。
鉄筋コンクリートのアパート
同潤会が建てたのは、鉄筋コンクリート造のアパートです。鉄筋コンクリートは、鉄の棒を入れてコンクリートで固めた、地震や火に強いつくりのことです。渋谷の代官山、青山、江戸川橋、横浜の山下町などに建てられました[3]。震災後の住宅不足への対策で、のちの公団住宅の先がけともいわれます[3]。
1926年から1934年にかけて、中之郷・代官山・青山など16か所に建てられ、合わせて約2800戸になるという資料があります[4]。数え方によっては15か所・2508戸とする資料もあるので、およその規模として受け取ってください。
青山アパートは、1926年に第1期、1927年に第2期が完成し、3階建て10棟が並んでいました[5]。さて、その中の部屋は、どんな広さで、何があったのでしょうか。
同潤会は、1923年の関東大震災の翌年、1924年5月に設立された財団法人である[1]。内務省が、国内外から寄せられた義捐金をもとに設立したもので[2]、役割は被災者むけの住宅を建てることだった[1]。震災後の住宅不足への対策であり、のちの公団住宅の先がけといわれる[3]。
建てられたのは鉄筋コンクリート造のアパートで、渋谷の代官山、青山、江戸川橋、横浜の山下町などに置かれた[3]。同潤会は、日本で最初の本格的な耐震耐火構造のアパートをめざしたと説明され[1]、大林組の社史も、初期の地下2階・地上4階・42戸103室の建物を「日本における最初の本格的アパート」と記す[3]。ただし「最初」は資料の言い方であり、ほかの建物との先後を比べた結果ではない。
規模については、1926〜34年に中之郷・代官山・青山など16か所、総戸数約2800戸とする資料がある[4]。数え方によっては東京・横浜15か所・2508戸とする資料もあり、どちらも「約2500〜2800戸」の幅で受け取るのが妥当だろう。
青山アパートは、1926年に第1期、翌1927年に第2期が完成し、3階建て10棟が配置されていた[5]。建物の数は分かった。では、1戸の中身はどうなっていたのか。
3. 33㎡の へやに、なにが あった?
3. 33㎡ほどの部屋に、和室と水洗トイレを入れた
3. 間取りの検算:33㎡強に畳15.5枚分の3室と、水洗便所
ある かたの へやは、33㎡ ちょっと。ひろく ありません[4]。たたみ 8まいぶんの へやと、4まい はんぶんの へやと、3まいぶんの へやの 3つが ありました。
33㎡は、たたみ 20まいぶんくらいです。たとえば、ひろい きょうしつを 小さく くぎった ような ものです。ただし ほんとうは、たたみ 1まいの 大きさは ばしょで ちがいます。
たたみの へやを のこしながら、水を ながして きれいに する トイレも ためしました[4]。
だいかんやまの アパートには、水どうと ガスが ありました。みんなで はいる おふろや、こどもの ための こうえんも ありました[7]。ぐるぐる まわる 階段や まるい まども あったと いわれます[8]。
たたみ15.5枚ぶんの3部屋
ある型の1戸は33㎡強で、8畳・4畳半・3畳の3室でした。新しい暮らし方を試しながら、和風住宅のよさを生かす工夫もされていたと説明されています[4]。すべてのアパートが同じ間取りというわけではなく、これは標準的な型の話です。
畳に直して足すと、8+4.5+3で15.5枚分です。畳1枚をおよそ1.6㎡とすると、約25㎡になります。33㎡との差は8㎡ほどで、畳の大きさは地域で違うため、おおまかな計算です。残りが何にあてられたのかは、間取り図を探すと分かるかもしれません。
水洗トイレ、ガス、公園
同潤会アパートは、水洗便所など新しい住まい方を試し、共同施設や中庭を備えた先進的な設計だったと説明されます[4]。
代官山アパートは1927年に建てられた鉄筋コンクリート造の2〜3階建て36棟、337戸で、部屋が2つと台所という「2K」が中心でした。水道・水洗トイレ・ガスがあり、公衆浴場と児童公園も設けられました[7]。洋式のトイレやキッチン、らせん階段や丸窓といったモダンな意匠も特徴で、家賃は比較的高めだったそうです[8]。
便利そうな設備がそろっていたなら、どんな人が住んだのでしょうか。
標準的な型の1戸は33㎡強で、8畳・4畳半・3畳の3室だった。和風住宅のよさを生かす努力が払われたと説明されており[4]、新しい設備を入れながらも、住まいの基本は畳の部屋に置かれていたことになる(全アパート共通の間取りとは限らない)。
ここで検算してみる。3室を畳に直すと8+4.5+3=15.5枚分である。畳1枚をおよそ1.6㎡とすれば約25㎡で、33㎡強との差は約8㎡になる。畳の大きさは地域や時代で異なるので概算にすぎないが、部屋の面積を足しても全体にならない以上、残りの面積が何に使われたのかを、間取り図で確かめる余地がある。
設備面では、同潤会アパートは水洗便所など新しい住形式を試み、共同施設や中庭を備えた先進的な設計だった[4]。代官山アパートは1927年建設の鉄筋コンクリート2〜3階建て36棟・337戸で、2K(部屋2つと台所)が中心、水道・水洗トイレ・ガスがあり、公衆浴場と児童公園も設置された[7]。洋式のトイレやキッチンの導入、らせん階段や丸窓の意匠、比較的高い家賃も報告されている[8]。設備が新しい分、家賃も上がったかどうかは資料から言えないが、標準的な水準より高めだったことは、次の章の入居者像とも合う。
では、こうした部屋に、実際にはどんな人が住んでいたのか。
4. あおやまアパートには、だれが すんでいた?
4. 青山アパートには、どんな人が住んでいたのか
4. 入居者像は「完成当初」に限ると資料でそろう:青山アパートの変化
できた ころの あおやまアパートは、ぐんじんや やくにん、大学の 先生などが すむ、りっぱな アパートと しょうかいされて います[5]。
おもてさんどうの めいしょに なり、かんこうバスが よる ことも あったそうです[5]。
1950ねんに、すんでいる 人たちに ゆずられました。1960ねんだいからは、おしゃれな おみせや ギャラリーにも つかわれました[5]。
おなじ どうじゅんかいの アパートでも、ばしょや じだいに よって、ようすは ちがって いたのですね。
完成当初は、人気の名所
青山アパートは、完成した当初は、軍人・役人・大学教授などが住んだ高級アパートだったと紹介されています。表参道の名所として観光バスも立ち寄るほど、人気がありました[5]。
同潤会は被災者むけの住宅を建てるために作られた組織なので、「高級」と聞くと不思議に感じます。ただ、入居者の説明は資料によって強調が違うので、青山については「完成当初は」と区切って読むのが安全です。
住人が変わり、使い方も変わった
1950年に、青山アパートは個人へ払い下げられました。1960年代以降は、ブティックやギャラリーとしても使われるようになります[5]。住まいとして生まれた建物が、時代とともに、おしゃれな店の入る場所にもなっていったのです。
こうして長く使われた建物は、どうして姿を消したのでしょうか。
青山アパートは、完成当初、軍人・役人・大学教授などが住んだ高級アパートと紹介され、表参道の名所として観光バスが立ち寄るほどの人気だった[5]。同潤会が被災者むけ住宅のために作られたことを考えると、この像は意外に映る。ただ、入居者の説明は資料によって強調が異なり、「ふつうの人の住まい」とみる説明も「高級」とみる説明もある。そのため、本稿は青山について「完成当初は」と限定して書く。
前の章で見た代官山の家賃が比較的高かったという報告[8]も、設備の新しさと高めの家賃が結びついていた可能性を示す。ただし、これは2つの資料を並べたときに見える読み方であり、同潤会が意図的に家賃を設定したという因果は資料にない。
青山アパートは1950年に個人へ払い下げられ、1960年代以降はブティックやギャラリーとしても使われるようになった[5]。つまり、住居として設計された建物が、立地の人気に押されて、店舗や展示の場にもなった。この使い方の変化は、建物が長く愛されたことを示す一方、のちの老朽化の問題とも無縁ではないだろう。では、老朽化したアパートは、どう終わりを迎えたのか。
5. こわされた あと、のこった もの
5. 取り壊されたあと、部品のほかに残ったもの
5. 解体の時期と、「その後の集合住宅への影響」という評価
だいかんやまの アパートは、1996ねんに こわされ、あとちは 「だいかんやまアドレス」に なりました[7]。
2003ねんには、あおやまなど 4つ、2009ねんに 1つ、2013ねんに のこって いた うえのしたアパートも こわされました[1]。
あおやまの あとちには、2006ねんに ヒルズが できました[6]。てすりや ドアどめは、その ヒルズの 中で つかわれて います。
どうじゅんかいの アパートは、水を ながす トイレや なかにわなど、あたらしい すまいかたを ためしました。あとに できた、おおぜいで すむ たてものに、大きな えいきょうを あたえたと いわれます[4]。
順に姿を消した同潤会アパート
代官山アパートは1957年に住民へ払い下げられ、1996年に解体されて、跡地は「代官山アドレス」になりました[7]。
2003年には青山・江戸川・清砂通・大塚女子の各アパート、2009年には三ノ輪アパートが解体され、最後まで残っていた上野下アパートも2013年に解体されました[1]。
残ったのは部品だけではない
同潤会のアパートは、水洗便所など新しい住まい方を試し、共同施設や中庭を備えた設計で、その後の集合住宅に大きな影響を与えたと説明されています[4]。建物が消えたあとも、試みた住まい方は、あとの集合住宅の考え方に引き継がれたということです。
そして青山の跡地には、手すりやドア止めが残りました。では、あなたはその部品を探しに行けるでしょうか。
代官山アパートは、1957年に住民へ払い下げられたのち、1996年に解体され、跡地は代官山アドレスになった[7](建て替え完成は2000年とする記事もあり、解体から建て替えに年数がかかっている)。
全体では、2003年に青山・江戸川・清砂通・大塚女子の各アパートが、2009年に三ノ輪アパートが解体され、最後まで残った上野下アパートも2013年に解体された[1]。1926年に青山が完成してから、最後の1棟がなくなるまで、80年以上がたっている。長く使われた建物だが、解体の理由は資料ごとに書き方が異なり、「老朽化」を挙げる説明が多い。
ただし、建物が消えても、試みの中身は評価されている。水洗便所など新しい住形式の試行と、共同施設や中庭を備えた先進的な設計が、その後の集合住宅に大きな影響を与えたとされる[4]。同潤館の手すりやドア止めは、その影響の物的な証拠というより、そうした試みがあったことを思い出すための小さな手がかりと読むのがよい。
では、その手がかりを自分で確かめるには、何をすればよいのか。
6. 33㎡を、おうちで はかって みよう
6. 家の部屋を畳に直して、15.5枚分と比べてみる
6. 検算と現地での確かめ方:間取りの比較と同潤館の部品探し
おとなの 人と いっしょに、おうちの へやを 1つ えらびます。たたみが あれば、なんまいぶんか かぞえます。たたみが なければ、1ぽ はばを 1メートルとして、たてと よこを はかって、かけ算を します。
どうじゅんかいの アパートの 3つの へやは、あわせて たたみ 15まいと はんぶんぶんでした。おうちの へやと くらべて みましょう。
おでかけが できたら、表参道ヒルズで、てすりや ドアどめを さがして みましょう。どれが むかしの ぶひんかは、しせつの あんないで たしかめます。
家でできること
家の部屋を1つ選んで、畳が何枚分あるかを数えます。畳がなければ、メジャーで縦と横を測り、かけ算で面積を出します。同潤会アパートの3室は、あわせて畳15.5枚分、約25㎡でした。自分の部屋と比べると、3室で約25㎡という広さを実感できます。
出かけてできること
表参道ヒルズの同潤館には、手すりやドア止めなどに、かつての部品が使われているそうです。どの部品がそうなのかは、施設の公式の案内で確かめてから出かけると探しやすくなります。
もう1歩、知りたくなったら
残りの約8㎡に何があったのかは、同潤会アパートの間取り図を探すと見えてきます。資料の数字は数え方で差が出るので、出典欄の資料を開いて、どこまでが書かれているかを自分の目で読み比べると、新しい疑問が見つかるはずです。
家の部屋で、同潤会アパートの3室(15.5枚分、約25㎡)と同じ面積を検算できる。部屋を測り、畳1枚をおよそ1.6㎡として畳数に直し、15.5枚分と比べる。33㎡強との差約8㎡の使い道は、間取り図が見つかれば確かめられる。
現地では、表参道ヒルズの同潤館に、手すり・避難用フック・ドア止めなどの再利用部品がある[6]。どれがそれに当たるかは、施設の公式案内で確かめてから行くとよい。
なお、本稿の数字(16か所・約2800戸/15か所・2508戸、33㎡強の間取り)は、いずれも二次資料の解説に拠る。原典にあたるなら、大林組の社史と渋谷区の「このまちアーカイブス」から入るとよい。
しらべた もとの じょうほう
参考にした情報源
参考にした情報源と、その使い方
本文は、ここにある資料の内容を、自分の言葉で言いかえたものです。年・戸数・名称は、資料によって数え方や細部が異なることがあります。
- コトバンク「同潤会アパート」 https://kotobank.jp/word/%E5%90%8C%E6%BD%A4%E4%BC%9A%E3%82%A2%E3%83%91%E3%83%BC%E3%83%88-190281 (設立の経緯、解体の時期、日本初をめざした説明)
- Wikipedia「同潤会」 https://ja.wikipedia.org/wiki/同潤会 (義捐金1,000万円、1924年5月の設立。二次資料)
- 大林組「大林組100年史」 https://www.obayashi.co.jp/chronicle/100yrs/t1c3s3.html (アパートの建設場所、先がけという位置づけ)
- コトバンク「同潤会あぱーと」 https://kotobank.jp/word/%E5%90%8C%E6%BD%A4%E4%BC%9A%E3%81%82%E3%81%B1%E3%83%BC%E3%81%A8-3161456 (箇所数・戸数、間取り、設備と影響)
- Wikipedia「同潤会青山アパート」 https://ja.wikipedia.org/wiki/同潤会青山アパート (青山の完成年、入居者像、払い下げ後の使われ方。二次資料)
- All About「表参道ヒルズ」 https://allabout.co.jp/gm/gc/77015 (解体・開業の年、同潤館の再利用部品)
- 渋谷区「このまちアーカイブス」 https://smtrc.jp/town-archives/city/shibuya/p06.html?id=a05 (代官山アパートの規模・設備・その後)
- 文春オンライン https://bunshun.jp/articles/-/55109 (代官山アパートの意匠と家賃)
なおした ところ
更新履歴
更新履歴(改版の記録)
- 初版を公開。
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