1. むかしの えの じかんは、おてほんを うつす じかんだった
1. 昔の図画は「そっくりに写す」時間だった
1. 臨画が中心だった図画:明治の教科書は何を求めていたか
いまの 図工では、りんごを 見て えがいても、おもいついた ものを えがいても かまいません。
でも 百ねんほど まえの 図画の じかんは ちがいました。きょうかしょに のっている えを おてほんに して、できるだけ そっくりに うつすのが 中心でした。おてほんを 見ながら うつす やりかたを、「りんが」と いいます。
明治の きょうかしょでは、てほんの えを うつす べんきょうが ふつうに おこなわれて いた、と いわれて います。じょうずに うつせたら よい えだと 考えられて いたのです。
この じかんに、「うつすのでは なくて、じぶんの 目で 見て えがこう」と よびかけた ひとが あらわれます。
2. やまもと かなえは、小学校で なにを よびかけたの?
2. 山本鼎は、小学校の講演で何を呼びかけたのか
2. 1918年、神川小学校の講演:「自由画」は何に対する「自由」だったか
やまもと かなえは、1882ねんに あいちけんで うまれました。十だいの ころに、長野県の 上田と いう まちへ うつりました。
1916ねんごろ、ロシアから かえる とちゅうで、モスクワで 子どもたちの えの てんじを 見て、心を うごかされた、と つたえられて います。これが のちの 活動の ヒントに なった、と いわれます。
1918ねん(大正7ねん)、やまもと かなえは 神川小学校で 「子どもの 自由な えを すすめよう」と いう はなしを しました。じぶんの 目で 見た ものを、そのまま えに する。これを「自由画」と よびました。
「自由」は、なんでも すきに えがく と いう いみでは ありません。おてほんを うつす、いままでの 図画に たいして、「じぶんの 目で 見て えがく」と いう いみで つかわれました。
山本鼎(1882〜1946)は愛知県の生まれで、十代のころ、長野県の上田へ移りました[6]。
転機のひとつとされるのが、1916年(大正5年)ごろの帰国の途中です。山本はロシアのモスクワで、子どもたちの作品の展示と農民美術を見て感銘を受けたとされ、のちの自由画教育の運動のヒントになったと伝えられています[5]。(渡欧の期間は資料によって年が少しずれるため、ここでは「ごろ」としておきます。)
1918年(大正7年)、山本は長野県小県郡(ちいさがたぐん)の神川小学校で、「児童自由画の奨励」と題して講演しました。この講演がきっかけとなって、自由画教育運動が進んでいきます[1]。
自由画とは、手本をまねるのではなく、実際に自分の目で見たものをそのまま表現することを指しました[4]。「自由」という言葉は、「何を描いてもいい」というより、「手本を写すことを最重視する図画に対して」という意味合いで使われた言葉です。
山本鼎は1882年に愛知県で生まれ、1898年ごろ長野県上田へ移った[6]。1916年(大正5年)ごろ、帰国の途中にロシアのモスクワで、児童の作品展示と農民美術を見て感銘を受けたとされ、これがのちの自由画教育運動のヒントになったという[5]。なお、渡欧の期間は資料によって1912〜16年とも1912〜17年とも書かれるため、年は「ごろ」にとどめる。
1918年(大正7年)、山本は長野県小県郡の神川小学校で「児童自由画の奨励」と題して講演し、これを契機に自由画教育運動を進めた[1]。
ここでいう自由画は、手本を模倣して描くのではなく、実際に自分の目で見たものをそのまま表現することを指す[4]。つまり「自由」は、題材を問わず何を描いてもよい、という意味より前に、模写を最重視する従来の図画に対置された語だった。何を、どこから見て、どう描くかを、手本ではなく子ども自身の目に預けるという考え方である。
問いは残る。講演で呼びかけただけで、小学校の側から応えは返ってきたのだろうか。
3. どうして 小学校に えが 1万まい ちかくも あつまったの?
3. 小学校の展覧会に、1万点弱の絵が集まった
3. 1919年、第1回児童自由画展覧会に1万点弱の絵が集まった:この数をどう読むか
こたえは、つぎの 年の 展覧会に あらわれました。1919ねん(大正8ねん)の 4月、神川小学校で、はじめての 子どもの 自由画 展覧会が ひらかれました。
長野県の 学校から、1万点に 少し たりない ほどの えが あつまり、7千人を こえる 子どもたちが 見た、と つたえられて います。
手本の えでは なく、おなじ としごろの 子が 見て えがいた えを、たくさんの 子が 見たのです。「こんな えを かいても いいんだ」と おもった 子も いたかも しれません。
ただ、この 数は 山本かなえ じしんが かいた ものが もとに なって いる、と される 数です。「と される」と いう ことばを つけて よんで ください。
講演の次の年、1919年(大正8年)4月に、神川小学校で第1回の児童自由画展覧会が開かれました。長野県内から1万点弱の絵が集まり、7千人を超える児童が見たとされます[2]。
注意したいのは、1万点弱という数が、神川小学校の子だけの作品ではなく、県内から寄せられた総数だという点です。同じくらいの年齢の子が自分の目で見て描いた絵が、これほどの数で小学校に集まり、7千人を超える子どもが見たという話は、山本の呼びかけが一部の学校の話にとどまらなかったことを思わせます。
ただし、これらの数は山本本人の記述が元になっているとされます。数をそのまま信じるより、「それだけの規模だったと伝えられている」くらいの距離で受けとるのがよさそうです。
では、見て描けば、それは自由画なのでしょうか。
講演の翌年、1919年(大正8年)4月に、神川小学校で第1回児童自由画展覧会が開かれた。県内から1万点弱の作品が集まり、7千人を超える児童が鑑賞したとされる[2]。
この数の読み方には注意が要る。1万点弱は県内の応募総数であって、神川小学校の児童だけの作品ではない。また、数は山本自身の記述が元とされる。開催日も、4月とする資料と4月末とする資料があり、ここでは「4月」にとどめる。
それでも、講演から1年足らずで、県内から1万点に迫る点数の絵が一つの小学校に集まる形になったことは、「見て描く」という考え方に応じた学校や子どもが県内に広がっていたことがうかがえる。長野県で自由教育・個性教育の機運と重なって急速に広まった、という説明[2]とも、つじつまが合う。
ただ、数が増えるほど、「見て描きさえすれば自由画」という単純化も起きやすい。それを最初に心配したのは、山本自身だった。
4. やまもと かなえが しんぱいした「ごかい」って なに?
4. 「写生すれば自由画」ではない、と山本が注意した
4. 「写生すれば自由画」という誤解:山本が重んじた「表現の精神」
自由画が ひろがると、こんな かんちがいも でて きました。「けしきを 見て えがけば、それが 自由画だ」と いう かんがえです。
やまもと かなえは、これは ちがう、と ちゅういしました。大切なのは、「見る」ことだけでは なくて、じぶんの 気もちを えに こめて あらわす 「ひょうげんの 心」だと、いったのです。
おなじ けしきを 見ても、見つけるものは ひとりずつ ちがいます。だから えも ひとりずつ ちがって よいのです。
運動が広がると、自由画は「外に出て、風景を写生すること」だと受けとられる場面も出てきました。山本はこれに対して、自由画は「表現の精神」だと注意したと伝えられています[5]。
手本の代わりに風景を写すだけでは、「何かを写す」という形が変わっただけで、子ども自身の見方や感じ方が絵に出るとは限りません。模倣よりも創造が要点だ、というのが山本の言い分でした。
おなじ風景を前にしても、目にとまる色も、気になる形も、人によってちがいます。そのちがいを絵に残すことが、自由画の核にあったと考えられます。
運動が広がるにつれ、自由画は「戸外に出て風景を写生すること」と受けとられやすくなった。これに対し山本は、「写生すれば自由画」という誤解を戒め、自由画は「表現の精神」だと説いたとされる[5]。
この注意は、自由画の定義に関わる。手本が風景に替わっただけで、描き手が何を選び、どこに注目したかが絵に表れなければ、「写す」対象が変わったにすぎない。山本が重んじたのは、模倣より創造だった。
学校の中の運動が広がれば、現場では形のほうが先に伝わりやすい。その点で、運動の中心にいた本人が最初に誤解に言及していたことは、考え方の中身を伝えるむずかしさを示す例になる。学校現場の反応や賛否の具体的な経過は、さらに別の資料にあたる必要がある。
5. じぶんの 目で 見る えは、どうやって ぜんこくに ひろがったの?
5. 雑誌と協会、そして画材:運動はどう全国に広がったか
5. 1920年、『中央公論』と日本自由教育協会:運動が全国に広がった条件
1920ねん(大正9ねん)、やまもと かなえは 「自由画の きょういくの ようてん」と いう 文章を、ざっしに のせました。12月には、きたはら はくしゅうさんなどと いっしょに、「日本自由教育きょうかい」と いう 会も つくりました。
この 動きは、ぜんこくの 学校に うけいれられ、とくに 長野県では あっと いう まに ひろまった、と いわれます。そとに 出て けしきを えがく 学習も、よく おこなわれるように なりました。
えがく ための どうぐも かんけいした、という 見かたも あります。やまもと かなえは、えがきやすい クレパスの 開発にも きょうりょく した、と つたえられて います。ただし、ひとりだけで つくった わけでは ありません。
1920年(大正9年)には、山本は「自由画教育の要点」を『中央公論』8月号に発表しました。12月26日には、詩人の北原白秋らと日本自由教育協会を結成します[2]。雑誌と協会という二つの足場で、考え方が学校の外にも届くようになったと考えられます。
この後、全国各地で児童自由画展覧会が開かれるようになったとされ、長野県では自由教育・個性教育の機運と重なって、とくに急速に広まったと説明されます。屋外の風景を写生することも、題材として定着していきました[2]。
道具の面では、山本は描きやすい画材を研究し、クレパスの開発にも協力したとされます[2]。国産のクレヨンの普及が自由画の広がりを支えた、という見方もあります。ただし、クレパスの製品化は山本一人の仕事ではないため、ここでは「関わった」と書くにとどめます。
運動が長野県の小学校にとどまらなかった背景には、発信の経路があった。1920年(大正9年)、山本は「自由画教育の要点」を『中央公論』8月号に発表し、12月26日には北原白秋らと日本自由教育協会を結成している[2]。総合雑誌に載せることで、学校関係者以外にも読者が広がり、協会がその受け皿の一つになった、と読める。
そのうえで、全国各地で児童自由画展覧会が開かれるようになったとされ、長野県では自由教育・個性教育の機運と重なって、とくに急速に広まったと説明される。屋外での風景写生が題材として定着したのも、このころである[2]。
道具の面では、山本は描きやすい画材を研究し、クレパスの開発にも協力したとされる[2]。国産クレヨンの普及が自由画の広がりを支えたとする見方もあるが、クレパス製品は山本の単独発明ではなく、「関わった」と弱く書くのが妥当である。広まった理由を一つに絞らず、考えの新しさ、発信の経路、学校側の機運、道具の使いやすさが重なった結果と見るほうが、資料の範囲に近い。
6. 自由画の かんがえは、いまの 図工に のこって いるの?
6. 自由画の考えは、いまの図工にどう残っているのか
6. 100年後の展覧会解説と、神川小学校に残る絵
2019ねんから 2020ねんに かけて、上田市の びじゅつかんで、「のうみん びじゅつ・子どもの 自由画100年てん」と いう 展覧会が ひらかれました。その せつめいには、自由画の かんがえは、いまの 図工や びじゅつの 教育の もとに なって うけつがれて いる、と かかれて います。
神川小学校には、昭和の はじめごろの 子どもたちの えが、600点 あまりも 大切に のこされて います。上田市立びじゅつかんの ページで しょうかいされて いるので、見て みるのも いいでしょう。
手本を うつす だけでは ない えの じかんの はじまりが、いまの 図工の じかんに つづいて いる、と いえそうです。
2019年11月から2020年2月にかけて、上田市のサントミューゼ(上田市立美術館)で「農民美術・児童自由画100年展」が開かれました[4]。展覧会の解説には、正確な模写を重んじた大正期の学校教育に対し、子どもの創造性に注目して自由に描き表す美術教育を進めたこと、その理念がいまの図工・美術教育の基礎として受け継がれていることが書かれています。
神川小学校には、昭和初期の子どもたちの絵が600点あまり大切に保管されていて、児童自由画教育運動の流れをくむ作品として展示・紹介されています[1]。
手本から目を離して自分の目で見る、という図画の見方の転換は、百年たったいまの図工の時間にも、形を変えて続いているようです。
2019年11月30日から2020年2月24日まで、サントミューゼ上田市立美術館で「農民美術・児童自由画100年展」が開かれた[4]。展覧会解説によれば、正確な模写を重んじた大正期の学校教育に対し、子どもの創造性に注目して自由に描き表現する美術教育を進めた、という位置づけである。この理念は、今日の図工・美術教育の基礎として受け継がれているとされる。
運動の実物も残っている。神川小学校には、昭和初期の子どもたちの絵が600点あまり大切に保管されており、児童自由画教育運動の流れをくむ作品として展示・紹介されている[1]。
山本が呼びかけた中心は、模写を最重視する図画に対して、自分の目で見た世界を自分の表現として出すことだった。ただし、現在の図工が自由画だけで成り立っているわけではなく、「受け継がれている」という言い方も、展覧会の解説の立場である点は押さえておきたい。
7. 手本を とじて、まどの そとを 3ぷん だけ えがいて みよう
7. 手本を閉じて、窓の外を3分だけ描いてみる
7. 自分で試す・原典にあたる:手本なしの3分と、神川小学校の絵
えんぴつと かみを よういして、まどから 見える ものを ひとつ えらんで ください。木でも、やねでも、くもでも かまいません。まどから からだを のりださないように しましょう。
3ぷん だけ、じぶんの 目で 見ながら えがきます。じょうずか へたかは きに しなくて いいです。
おわったら、ともだちや かぞくが おなじ ものを かいた えと くらべて みましょう。ひとりなら、あした おなじ ものを もう いちど かいて、きょうの えと くらべても いいです。おなじ ものでも、えらぶ 場しょや 色が ちがって、おもしろいかも しれません。
神川小学校の えは、上田市立びじゅつかんの ページで 見られます。百ねん ちかく まえの 子たちが、なにを えらんで えがいたのか、見て みて ください。
鉛筆と紙を用意して、窓から見えるものを一つ選び、3分だけ描いてみてください。身を乗り出さず、座ったままで見える範囲で十分です。手本はなく、上手か下手かの基準もありません。
描いたあとで、同じ窓から別の人が描いた絵があれば、並べてみます。一人なら、同じ窓を日を変えてもう一度描き、前の絵と並べても比べられます。同じものを見ていても、選んだ場所も、強調した形も、人によってちがうはずです。山本が「表現の精神」と呼んだものは、こういうちがいの中にあったのかもしれません。
原典にあたりたくなったら、上田市立美術館のサイトで、神川小学校に残る昭和初期の子どもたちの絵が紹介されています[1]。百年近く前の子どもたちが、何を選んで描いたのかを見ると、自分の絵との共通点や、ちがいに気づくかもしれません。
自分で確かめる方法として、鉛筆と紙で、窓の外の一つの対象を、手本なしで3分描いてみる。身を乗り出さず、室内から見える範囲に限る。描いたあと、同じ対象を別の人が描いた絵と並べ、何を選び、何を省いたかを比べる。「見て描く」だけで同じ絵になるのか、それとも選ぶ段階で絵が分かれるのか、山本が「写生すれば自由画」を戒めた点と重ねて考えられる。
原典にあたるなら、上田市立美術館の神川小学校のページ[1]で、昭和初期の絵が見られる。山本の呼びかけがどういう絵を生んだのかを、解説ではなく絵そのもので確かめられる。また、広島大学の教科書コレクション[3]では、明治・大正期の教科書の書誌情報を確認できる。
残された問いもある。第1回展の数の元になった山本自身の記述、臨画の手本の具体的な中身、学校現場の賛否の経過などは、今回の資料の範囲を出る。気になる人は、上田市立美術館の展覧会資料や各大学の研究を探してみるとよい。
しらべた もとの じょうほう
参考にした情報源
参考にした情報源と、その使い方
本文で使った資料です。数値や年は資料によって少しずれることがあるため、「とされる」と書いた箇所は、元の資料も見てください。
- 上田市立美術館「神川小学校 昭和初期の子どもたちの絵」 https://museum.umic.jp/kangawa/ (1918年の講演、神川小学校に残る絵)
- 「山本鼎」Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E6%9C%AC%E9%BC%8E (展覧会、雑誌・協会、クレヨン、普及の様子)
- 広島大学 教科書コレクション『尋常小学新定画帖』 https://dc.lib.hiroshima-u.ac.jp/da/3884 (当時の図画の教科書)
- 美術手帖「農民美術・児童自由画100年展」 https://bijutsutecho.com/exhibitions/5201 (自由画の意味、現在の図工へのつながり)
- サントミューゼ(上田市立美術館)「山本鼎」 https://www.santomyuze.com/museum/collection/yamamotokanae/ (ロシアでの体験、「表現の精神」)
- go-nagano(長野県観光情報)「山本鼎」 https://www.go-nagano.net/tradition-and-culture/id17933 (生い立ち)
なおした ところ
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