1. 夕がたに 人が ひを つけて まわった
1. 銀座の夕方、点灯夫が約85基に火をともした
1. 約85基のガス灯と点灯夫 ── 夜の街に火が入った明治7年
いまから 150ねんほど まえ、明治7ねんの 12月に、東京の 銀座の 道に ガスの あかりが ともりました。ぜんぶで 85こ ほど だと いわれます[2]。
スイッチは ありません。夕がたに ひを つける 人が 1こずつ まわって ひを つけ、朝に なると けして いきました[2]。
それまでの あかりは、行灯や ろうそくでした。ガスの あかりは、その 1.5ばいほどの 明るさだと いわれます[2]。
日本の都市ガス事業として最初のガス灯がともったのは、1872(明治5)年、横浜の外国人居留地でした[1]。ガス灯の計画は、はじめ外国人の手で進みかけていました。神奈川県令の井関盛良が、事業を外国人に取られるのを心配し、高島嘉右衛門ら有志がフランス人技師の指導を受けてガス製造所をつくった、と百科事典は説明します[1]。
その2年後の1874年12月18日には、東京の銀座通り周辺に、ガスの街灯が約85基ともりました[2]。基数は資料によって85か86かが分かれるため、「約」をつけて書きます。
スイッチのない時代なので、夕方になると点灯夫が1基ずつ火をつけ、朝には消して回りました[2]。明るさは、行灯やろうそくのおよそ1.5倍だといわれます。ただしこの数字は、1つの記事に載っているもので、測り方までは分かりません[2]。
それでも、行灯の夜を知る人にとって、通りが一列の火で照らされる景色は新しいものでした。では、この火をもっと明るくすることはできたのでしょうか。
日本の都市ガス事業としてのガス灯は、まず横浜に点った。1872(明治5)年、外国人居留地での点火が最初とされる[1]。計画は当初、外国人の手で進みかけていたが、神奈川県令の井関盛良が、事業が外国人に渡ることを恐れた。そこで高島嘉右衛門ら有志がフランス人技師ペレゲレンの指導を受けてガス製造所をつくった、という経緯が百科事典に載っている[1]。点灯日は旧暦9月29日(新暦10月31日)とするのが通説だが、資料に差がある。
では、東京ではどうだったか。1874年12月18日、京橋から金杉橋にかけての銀座通り周辺にガス街灯が点った。数は約85基で、85基とする資料と86基とする資料があり、本稿では「約」をつけて扱う[2]。
当時はまだ点滅の装置がなく、夕方に点灯夫が1基ずつ火を入れ、朝に消して回った[2]。明るさは行灯やろうそくの約1.5倍とされる。ただしこれは単一の記事に載る数値で、測定条件は示されていない。だから「およそ」と読むのが適当で、約1.5倍という数字自体に厳密な意味を求めるのは避けたほうがよい。
火の明かりが一列に並ぶだけでも、夜の街は変わった。では、この火をもっと明るくすることはできたのか。それが次の章の問いになる。
2. ガスの あかりは、明るく しても でんきに おいつけなかった
2. マントルで明るくしても、ガス灯は電灯に追いつけなかった
2. 白熱マントルの改良と限界 ── 「灯火としては電灯に対抗できず」と、その後のガス
はじめの ガスの あかりは、ひが ゆらゆら して いて、あまり 明るく ありませんでした。そこで、ひの まわりに マントルという あみのような ものを かぶせる ことを しました。すると、ひかりが つよく なります[1]。
マントルを つけた ガスの あかりは、もとの 5ばいほど 明るく なったと いわれます[2]。
それでも、ひゃっかじてんには 「あかりとしては、でんきの あかりに かなわなかった」と かいて あります[1]。おうちの 中で ガスの あかりを つかう 家も、ひろく ありませんでした[1]。
では、かなわなかった ガスは、どう なったのでしょう。1900ねんごろからは、「あかりは でんき、ねつは ガス」と いう わけかたが すすんだ と いわれます[6]。ガスは、あかりの しごとを でんきに わたして、のこったのです。
初期のガス灯は裸火で、光が安定せず、効率もよくありませんでした。そこで日本では1891年ごろから、白熱マントルが使われはじめます。マントルは木綿を編んだ籠に薬品をしみ込ませたもので、ガスの炎で白く光ります。1903年ごろには、下向きの白熱マントルが輸入され、明るさと光の色がさらによくなったといわれます[1]。
ある記事は、ガスマントルをつけると、行灯やろうそくの約5倍の明るさになったと書きます[2]。それでも百科事典は、光の質を改良しても「灯火としては電灯に対抗できず」と述べています[1]。
家の中でも、ガスは広がりませんでした。室内の灯りとしては一般家庭への普及が遅く、使われたのは上流家庭の一部で、電灯や石油ランプと併用されることが多かったそうです[1]。
ガス灯は消えてなくなったのではなく、明かりの役を電灯に渡していきました。1900年代に入ると、「明かりは電気、熱はガス」という役割分担が進み、ガスは灯りから熱の利用へ移っていったといわれます。品川区の例では、ガスが燃料として使われるのは1909(明治42)年ごろからとされます[6]。ただしこれは1つの解説記事なので、日本中がこの時期にそうなった、とまでは言えません。
では、肝心の電灯は、どんな明かりだったのでしょう。
ガス灯の弱点は、まず光そのものにあった。初期のガス灯は裸火で光が安定せず、効率も悪い。そのため日本では1891年ごろから白熱マントルが採用される。木綿を編んだ籠に硝酸トリウムと少量の硝酸セリウムをしみ込ませたもので、ガスの炎で熱せられて白く光る。1903年ごろには下向きの白熱マントルが輸入され、光度が大きく増し、光色もよくなった[1]。ある記事は、マントルで明るさが行灯やろうそくの約5倍になったと書くが、単一の記事で測定条件は不明である[2]。
ところが、百科事典は、光の質を改良しても「灯火としては電灯に対抗できず」と述べる[1]。しかも、屋内灯としては一般家庭への普及が遅く、上流家庭の一部に限られ、電灯や石油ランプとの併用が多かった[1]。
では、ガスは役目を失ったのか。解説記事の一つは、1900年代に入ると「明かりは電気、熱はガス」という役割分担が進み、ガスは灯りから熱利用へ移っていったと述べる。品川区の例として、ガスが燃料として使われるのは1909(明治42)年ごろからという[6]。ただしこの出典は電力小売会社のコラムで、地域差もあり、全国一律の流れとして広げて読むのは危うい。それでも、ガス事業が灯火の置き換えとともに終わったのではなく、役目を移して続いたという筋は、百科事典の記述(電灯に対抗できず)とも矛盾しない。
残る問いは、電灯の側だ。電灯は、いつ、どんな光として日本に現れたのか。
3. 「ふやじょうに あそぶ ようだ」と 言われた ひかり
3. 1878年、講堂で「不夜城に遊ぶ思い」と言われた光
3. アーク灯の初点灯 ── 工部大学校の講堂と銀座の仮事務所
1878ねんの 3月25日、東京の 工部大学校という 学校の ひろい へやで、はじめて でんきの あかりが つきました[3]。
つけたのは、イギリスから きた 先生でした。そこに いた お客さんたちは、「夜が こない しろに あそびに きた ようだ」と おどろいた そうです[3]。
この 日は いまも 「でんき記ねん日」に なって います[3]。
4ねん あとの 1882ねん 11月には、銀座でも でんきの あかりが ともされました。ろうそくや 石油の ランプしか しらなかった 人は、「しんじられない 明るさ」と かんじた そうです[4]。
1878(明治11)年3月25日、虎ノ門の工部大学校の講堂で、英国人教授のエアトンが、工部卿の伊藤博文の命令で灯火を使うことになった開局祝賀会に合わせて、アーク灯を点灯しました。電源には50個の電池が使われ、集まった来賓は「不夜城に遊ぶ思い」と驚いたと伝えられます[3]。これが日本初の電灯とされ、3月25日は電気記念日になっています[3]。
ただし、灯数や会場は資料によって食いちがいがあります。50個とする記事もあれば、1灯とする資料もあります。ここでは工部大学校の講堂で、アーク灯が点灯されたことを軸にします。
1882(明治15)年11月には、電灯会社が銀座の仮事務所で最新のブラッシュ式アーク灯をともし、事業を宣伝しました。ろうそくや石油ランプしか知らない人は、「信じられない明るさ」だと感じたといいます[4]。
ガスの炎とは別の種類の光に、人々は目を見張りました。では、この光は、いつ街の灯りになったのでしょう。
1878(明治11)年3月25日、東京・虎ノ門の工部大学校の講堂で、英国人教授エアトンが、工部卿の伊藤博文の命令で灯火を使うことになった開局祝賀会に合わせて、アーク灯を点灯した。電源は50個のグローブ電池とされ、来賓は「不夜城に遊ぶ思い」と驚嘆したと伝えられる[3]。これが日本初の電灯とされ、3月25日が電気記念日になった由来である。
ただし、記述には食いちがいがある。灯数は50個とする記事と1灯とする資料があり、会場も、中央電信局の開局祝賀会(銀座木挽町)と述べる説があるなど、一定しない。本稿では工部大学校の講堂説を軸にして、灯数は「50個とされる」と書く[3]。
では、アーク灯とは何か。ここでは、電極の間に光る放電を利用する灯火とだけ述べておく。それは、ガスの炎とは別の種類の光だった。1882(明治15)年11月には、電灯会社が銀座の仮事務所で最新のブラッシュ式アーク灯をともし、事業を宣伝した。ろうそくや石油ランプしか知らない人は、「信じられない明るさ」と感じたという[4]。ただし、会社名や場所の細部は、この資料では断定されていない。
ここまでは、見せるための明かりだった。では、電灯はいつ、誰の家や会社へ、毎日の明かりとして届いたのか。
4. でんとうは、いつから まちの あかりに なったの?
4. 電灯は、いつから町の明かりになったのか
4. 東京電燈の配電開始 ── 電灯は約130灯から1万灯超へ、ガス灯との置き換わりには数十年
1887ねん、東京電燈という 会社が、日本橋の 近くの はつでんじょから、でんきを おくりはじめました[5]。
おくり先は、大きな 会社や ぎんこうなど、かぎられていました[5]。でも、でんとうの かずは、ふえて いきます。はじめは 130こ ほどでしたが、5ねん あとには 1まんを こえました[5]。
そのうち、ガスの あかりは すこしずつ つかわれなく なりました。ただ、でんきが でた とたんに ガスが きえたのでは ありません。ちょっと ずつ かわって いったのです。
1887(明治20)年11月29日、東京電燈が日本橋の第二電燈局から、火力発電による直流の配電を始めました[5]。送り先は日本郵船、今村銀行、東京郵便などの大口の需要家に限られていました[5]。
数字を見ると、普及の速さが分かります。設立当時の電灯の数は約130灯でしたが、5年後の1892年には1万灯を超えました[5]。10000を130で割ると約77なので、70倍以上にふえた計算です。
ただし、置き換わりは一気には進みませんでした。研究の中には、1890年代の電気事業は、ガス灯や石油灯に取って代わるものではなく、代替が進むのは20世紀に入ってからだと述べるものがあります。その理由として、電線の改良と水力発電による発電コストの低下が挙げられています。明治の末ごろには配電の体制がほぼ整い、ガス灯は次第に使われなくなりました[1]。
電灯が広がるには、送電のしくみだけでなく、電球そのものが長持ちすることも欠かせませんでした。その中心の細い線に、日本の竹が使われたという話があります。
電灯が公衆に届いたのは、1887(明治20)年11月29日、東京電燈が日本橋の第二電燈局から火力発電の直流(200V)で配電を始めたときである。ただし、最初の送り先は日本郵船、今村銀行、東京郵便などの大口需要家に限られ、一般の家庭が電灯をともす時代ではなかった[5]。なお、東京電燈の開業を1886年とする資料もあるが、会社の設立と供給開始の差と考え、供給開始は1887年とする。
それでも、広がり方は速かった。設立当時の電灯数は約130灯、5年後の1892年には1万灯を超えた[5]。10000÷130は約77で、およそ70倍以上になった計算である。
だが、置き換わりはこの数字ほど急ではなかった。立命館大学の資料のように、1890年代の電気事業は「ガス燈、石油燈にとって代わるものではなかった」とし、代替が進むのは20世紀に入ってから、電線の改良と水力発電による発電コストの低下がきっかけだったと述べる研究がある。百科事典も、明治末年には配電体制がほぼ整い、ガス灯が次第に使われなくなったと述べる[1]。
だから、「電灯が出た途端にガス灯が消えた」とは言えない。実際には数十年の移行期があり、その間にガスの役目が熱へ移っていった、と考えると筋が通る。ただしその移行の道筋を日本全体で実証した資料までは示せない。
では、電灯が広がるために、電球の側ではどんな工夫が要ったのか。
5. でんきゅうの 中の 糸に、京都の たけが つかわれたの?
5. 電球の中の細い線に、京都の竹が使われたといわれるわけ
5. エジソンの竹フィラメント ── 石清水八幡宮の竹をめぐる伝承と記念碑
でんきゅうの 中には、ひかる 細い 糸が はいって います。エジソンという 人は、この 糸に ながく もつ ものを さがして、たけに 目を つけました[7]。
せかいじゅうから たけを あつめて しらべた 中に、京都の 石清水八幡宮の ちかくの たけが あった、と いわれて います[7]。いいつたえの ような はなしです。
その たけで つくった 糸は、1000じかん いじょうも ひかったと いいます[7]。
エジソンは、白熱電球が長持ちするためのフィラメントを探し、竹に注目しました。助手を世界各地へ送って竹を集めさせ、質の高い竹の標本から、1000時間以上燃えるフィラメントができたとされます[7]。
このときの竹について、京都・石清水八幡宮の近くの林の竹だったと「言われている」と、国土交通省の観光解説は書きます[7]。石清水八幡宮の男山には、1934年にエジソンの記念碑が建てられました。エジソンの誕生と没後を記念して、毎年2月11日と10月18日ごろには祭りが開かれています[7]。
寿命は、資料によって1000時間、1200時間、2450時間と食いちがいます。本稿では「1000時間以上」とだけ書きました。竹の話は、たしかな記録というより、地元に残る伝承として読むのがよいでしょう。
こうして長持ちする電球が整うと、夜の明かりは「火」から「電気」へ。では、ガスのほうは、いまの暮らしのどこで使われているのでしょうか。
電灯の普及には、長持ちする白熱電球が必要だった。エジソンは、耐久性のあるフィラメントを求めて竹に注目し、助手を世界各地に送って竹を集めさせた。質の高い竹の標本から、1000時間以上燃えるフィラメントが得られた、と国土交通省の観光多言語解説は述べる[7]。
その竹が、京都・石清水八幡宮の近くの林のものだったという話は、同じ資料の中で「言われている」と伝聞の形で書かれる。伝承として読むのがよい[7]。
石清水八幡宮の男山には、1934年にエジソン記念碑が建てられ、エジソンの誕生と没後を記念して、毎年2月11日と10月18日前後に祭りが開かれる[7]。伝承の真偽とは別に、遠い国の発明が日本の竹と結びつけて語られ、記念碑や祭りとして残った、という事実は読める。
なお、寿命の数字は資料により1000時間、1200時間、2450時間と食いちがう。どれが正しいか決められないので、本稿では「1000時間以上」とだけ扱った。
電球の光がこうして整い、明かりの役が電灯に移ったあと、残ったガスは何をしているのか。最後に、身近なところで考えてみよう。
6. おうちの あかりと ねつは、でんき? ガス?
6. わが家の「明かり」と「熱」は、電気かガスか
6. 手元で確かめる ── 家の中の明かりと熱の担当
おうちの 人と いっしょに、家の 中を 見て まわって みましょう。へやの あかりは、でんきでしょうか。おふろを わかす のは、なにでしょう。
ひを つかう ところでは、かならず おうちの 人と いっしょに 見て、さわらないように しましょう。
「あかりは でんき、ねつは ガス」に なって いる ところが あるか、さがして みると おもしろいです。ならんで いない 家も あります。それも、その 家の やりかたです。
家の人と一緒に、家の中を見て回ってみましょう。部屋の明かりは何でしょうか。お風呂やお湯を沸かすのは、電気でしょうか、ガスでしょうか。
火を使う場所では、必ず家の人と一緒に見て、近づきすぎないようにします。
「明かりは電気、熱はガス」にそろっている家もあれば、熱も電気の家、ガスの家もあります。どう分かれているかを書き出してみると、100年ほど前の役割分担の名残が、いまの暮らしにどう残っているかを考える手がかりになります。
もっと調べたくなったら、出典の百科事典や東芝未来科学館の展示案内から読むと、ガスと電気の歴史の続きをたどれます。
家の中の明かりと熱を、電気とガスに分けて書き出してみる。照明はほぼ電気だが、加熱や給湯は家によってガスの場合も電気の場合もある。その分かれ方に、ガスが明かりから熱へ役目を移した歴史の名残があるのか、それとも別の事情(設備、料金、安全の考え方など)なのかは、家ごとに答えが違う。
この記事で扱った「ガスが熱へ移った」という筋は、百科事典と、地域の事例を示す解説記事に支えられているが、日本全体の時期や経緯を示す公式資料(日本ガス協会など)は、今回の資料には含まれていない。さらに調べるなら、ガス会社の社史や博物館の展示、国立科学博物館の産業技術史資料などが入口になる。
火を使う場所を見るときは、必ず家の人と一緒に行い、近づきすぎない。
しらべた もとの じょうほう
参考にした情報源
参考にした情報源と、その使い方
本文の事実は次の資料から使っています。一部の数値は、1つの記事にだけ載っているものです。
- コトバンク「ガス灯」(百科事典の記述) https://kotobank.jp/word/%E3%82%AC%E3%82%B9%E7%81%AF-3148494 (横浜の最初のガス灯、マントル、普及の経緯)
- 現代ビジネス「銀座にガス灯が点火(1874年)」 https://gendai.media/articles/-/90456 (銀座のガス灯の基数・点灯夫・明るさ)
- 雑学ネタ帳「電気記念日」 https://zatsuneta.com/archives/103251.html (1878年のアーク灯の点灯)
- 東芝未来科学館 展示案内(アーク灯) https://toshiba-mirai-kagakukan.jp/a-guide/en/history-zone/founders/arc.htm (1882年の銀座のアーク灯)
- 現代ビジネス「日本初の公衆用配電が開始(1887年)」 https://gendai.media/articles/-/58590 (東京電燈の配電開始と電灯数)
- pps-net.org コラム「ガスと電気」 https://pps-net.org/column/32143 (ガスが熱利用へ移った流れ。電力小売会社の解説で、地域の例)
- 国土交通省 観光多言語解説「石清水八幡宮 エジソン記念碑」 https://www.mlit.go.jp/tagengo-db/R2-01482.html (エジソンの竹と記念碑)
なおした ところ
更新履歴
更新履歴(改版の記録)
- 初版を公開。
このサイトでは、公開した記事の本文は原則として書き直しません。誤りが見つかったときや、内容が古くなったときだけ手を入れ、その理由をこの欄に残します。