1. 大火の あと、せいふは なにを きめた?
1. 大火のあと、政府は「燃えにくい西洋風の街」を作ると決めた
1. 1872年の大火のあと、銀座はなぜ煉瓦で作り直されることになったのか
1872年(明治5年)の 4月3日、午後3じごろ。わだくらもんの ちかくから 火が でました。東京都の しりょうには、この 大火で 34の 町、2926けんが やけたと あります[1][8]。
この あと、政府は 銀座を、火に つよい 西洋ふうの 町に つくりなおす ことに きめました。東京の 役所と、おかねを 見はる 役所が、いっしょに 進めた じぎょうです[2]。
日本で はじめての、もえにくい 西洋ふうの 町なみに なる はずでした。まず きめなければ ならなかったのは、道を どれだけ 広く するか、でした。
2. 道の はばは、どうやって きまった?
2. 「世界なみに広く」と「そこまで要らない」の中をとった15間
2. なぜ15間(約27m)になったのか ── 江戸の街道8間に歩道7間を足した
ニューヨークや ワシントンの 大通りは 44メートルほど、ロンドンは 45メートルほどです。「それなみに 広くしよう」という 人が いました。いっぽうで、「そこまで 広く しなくて いい」という 人も いました[4]。
コラムによると、話しあいでは 20けんや 15けんに しようと いう 考えが 出て、さいごに 15けん(約27メートル)に 落ち着きました。むかしの ものさしで、1けんは 1メートル 80センチほどです。
もとの 江戸の 道は、8けんの はばでした。この 8けんを、車の とおる 道として そのまま のこし、左と 右に あわせて 7けんの 人の 通る 道を たして、15けんに なったと いわれます[4]。
人が 歩く ための 道を、車の 道とは べつに つくる。これが、この 町の おおきな とくちょうでした。
議論では、ニューヨークやワシントンの約44メートル、ロンドンの約45.5メートルを引き合いに出して「世界の都市なみにすべきだ」と言う人がいました。反対に、「そこまで広い必要はない」という意見もありました[4]。
「8間と25間のあいだをとって20間、あるいは15間」と案が行き来して、最後は15間、約27メートルに落ち着いたと、銀座まちづくりのコラムは書いています[4]。1間は約1.8メートルなので、15間は約27メートルになります。
この15間は、江戸の街道の幅だった8間を車道としてそのまま残し、左右に合わせて7間の歩道を足した数だとされます[4]。つまり、27メートルは「新しく広げた幅」というより、昔の道に人が歩く場所を足した結果です。
では、その歩道には何が置かれたのでしょうか。
議論の中身を、銀座まちづくりのコラムはこう書く。ニューヨークやワシントンは約44m、ロンドンは約45.5mだから、世界の都市なみにすべきだという意見と、そこまで広い必要はないという意見が対立した[4]。これは議論の中で比較に出された数字であり、決まった幅ではない。
案は「8間と25間のあいだをとって20間、あるいは15間」と揺れ動き、最終的に15間(約27m)に落ち着いたという[4]。1間を約1.8mとして計算すると、15間は約27mで、出典の数字と合う。理想の約44m案との差は約17mである。
15間の内訳は、江戸の街道幅だった8間をそのまま車道に残し、左右あわせて7間の歩道を足したもの、とされる[4]。7間は約12.6mになる。つまり約27mは、広い道を一から設計した結果というより、既存の道に歩く場所を足した数だと読める。車道と歩道を分け、歩道を煉瓦で敷いたことは、この街の特徴として書かれている[4]。
では、その歩道と車道の上に、ほかに何が加えられたのか。
3. 歩く 道に、なにが ならんだ?
3. 煉瓦の歩道に、ガス灯と街路樹がならんだ
3. 歩道・ガス灯・街路樹 ── 1874年12月18日の85基
歩道は、煉瓦で しきつめられました[4]。1873年には、歩道に 木も うえられたと あります[2]。桜や 松などだと されます。
1874年の 12月18日には、金杉橋から 新橋を 通って 京橋までの 銀座通りに、ガスの あかりが 85こ ともりました[5]。
2かいには ベランダのような バルコニーが はり出し、1かいは 柱の ならぶ 屋根つきの 歩く 道でした[2]。
夜の 通りに あかりが ならび、人が 歩く ための 道が 通りぞいに つづきました。ところで、この 町の たてものに つかう 煉瓦は、どこで 作られたのでしょう。
歩道は煉瓦で敷かれ、1873年(明治6年)の段階で、街路樹も植えられました。桜・松・楓とされています[4][2]。
夜には、ガス灯が加わります。1874年(明治7年)12月18日、金杉橋から新橋を通って京橋までの銀座通りに、85基のガス灯がともりました[5]。
建物の形にも工夫がありました。2階にはバルコニーが張り出し、1階は柱が並ぶ歩廊(アーケード)でした[2]。建物沿いに、雨を避けて歩ける歩廊が続いていたことになります。
車道と歩道が分かれ、夜は明かりがともり、木が植わった通り。これだけの設備を、同じ時期の計画の中に入れた街でした。建物をつくる煉瓦は、どこから来たのでしょうか。
この街では、道幅に加えて、歩道・街路樹・ガス灯が同じ時期に整えられた。歩道は煉瓦敷きで、1873年(明治6年)の段階で街路樹が植えられ、桜・松・楓とされる[4][2]。
ガス灯は1874年(明治7年)12月18日、金杉橋から新橋を経て京橋までの銀座通りに85基がともった[5]。建物側にも仕掛けがあり、2階はバルコニーが張り出し、1階は列柱の並ぶ歩廊(アーケード)になっていた[2]。
ここで注目したいのは、これらが別々の事業ではなく、同じ煉瓦街づくりの中で、おおむね同じ時期に整えられたことだ。なお、点灯の範囲は金杉橋から京橋までの銀座通りである。では、これだけの建物をつくる煉瓦は、どこで作ったのか。
4. 煉瓦は、どこで 作られた?
4. 煉瓦は、小菅の新しい窯で焼かれた
4. 煉瓦の調達 ── 小菅に築かれたホフマン式輪窯3基
町を つくる しごとの まとめ役は、アイルランド出身の 外国人、トーマス・J・ウォートルスでした[3]。
煉瓦は、小菅に 新しく 作った 窯で やかれました。ホフマンしきの 輪窯と いう、そのころ いちばん 新しい 窯が 3つ ありました[3]。
煉瓦の 大きさは、長さ 22センチ、はば 10センチ、あつさ 6センチ ほどです[3]。この 大きさの 煉瓦を、たくさん 作って 運び、つみあげて いきました。
5. 煉瓦の 町づくりで おきた もんだい
5. 煉瓦街づくりで起きた問題 ── 職人・材料・費用・空き家
5. 煉瓦街づくりで起きた問題 ── 職人・材料・設計図書・費用・空き家
この 町づくりは、うまく いった ところばかりでは ありませんでした。煉瓦を つむ 仕事に なれた 職人が、まだ 育って いませんでした。煉瓦や、つなぎに つかう セメントの できも、よく なかったと いわれます。設計の しりょうも 足りない ところが ありました[6]。
また、煉瓦の 家は 作るのに おかねが かかります。自分で たてる 人の なかで、その 力が ある 人は 少なかったと されます[7]。
できあがった ころは、空き家も 多かったと 書かれて います[2]。
6. それでも、お店や 会社が 入って きたのは いつ?
6. 空き家の多かった街に、商店や会社が入っていく
6. 1882年ごろの入居と、1887年の小売業 ── 空き家の多かった街に店が集まるまで
できあがった ころは 空き家が 多かった 銀座ですが、「文明開化」の しるしとして 見られるように なって いったと 書かれて います[2]。
1882年ごろには、お店や 会社が たくさん 入るように なりました。1887年には、卸の 問屋に かわって、お客さんに 直せつ 売る お店が 元気に なり、西洋の 品ものや 新しい 仕事が あつまりました[7]。
火事の あとの 町づくりは、すぐには うまく いきませんでした。でも、あとから 人が 集まる 通りに なって いきました。
7. 27メートルを、じぶんの あしで はかって みよう
7. 27メートルを、自分の歩幅で測ってみる
7. 27mという数字を、自分で確かめるには
やってみよう。うんどうじょうや 公園の ひろい ところで、27メートルを、あしで はかって みましょう。1歩を 50センチと すると、およそ 55歩です。
そこに 立つと、あの 大どおりの はばが、どれくらいか 分かります。じどう車の 来ない ところで、おうちの 人と いっしょに やって みましょう。
じぶんの 家の 前の 道は 27メートルより 広いか、せまいか。おうちの 人と、歩道から 見て 話して みましょう。道には 出ないで、車に 気を つけます。
次のようなことを、試したり調べたりできそうです。
- 校庭や公園など、車の来ない広い場所で、27メートルを歩幅で測ってみましょう。1歩を約50センチとすると、約55歩です。そこに立って、ニューヨークの約44メートルと比べると、およそ17メートルのちがいがどのくらいかも想像できます。
- 家の前の道の幅を、歩道から見て歩数で見当をつけ、27メートルと比べてみましょう。道路には出ないで、車に気をつけます。
- 紙に1センチを1メートルとして、27センチの線(いまの銀座通り)と44センチの線(ニューヨークの大通り)を引いて、並べて比べてみましょう。
しらべた ところ
参考にした情報源
参考にした情報源
出典について:東京都の資料、まちづくりの団体や企業の解説、文化遺産オンライン、専門誌の記事を突き合わせて使った。いずれも二次的な資料が中心で、何に使ったかは項目の最後に書いている。
- 東京都「都市づくりの歴史」(PDF)。 https://www.toshiseibi.metro.tokyo.lg.jp/keikaku_chousa_singikai/pdf/tokyotoshizukuri/1_03.pdf (1872年の大火の焼失町数・戸数について)
- SMTRC「このまちアーカイブス 銀座」。 https://smtrc.jp/town-archives/city/ginza/p02.html (計画の決定、街路樹、バルコニーと歩廊、空き家、1882年ごろの入居について)
- 文化遺産オンライン「盛煉社製銀座煉瓦街れんが」。 https://online.bunka.go.jp/heritages/detail/584557 (ウォートルス、小菅のホフマン式輪窯、煉瓦の寸法について)
- 銀座まちづくり「銀座通りの幅はなぜ27mなのか」。 https://www.ginza-machidukuri.jp/column/26/ (道幅をめぐる議論、15間の内訳、歩道について)
- ガスミュージアム(東京ガス)ブログ。 https://www.gasmuseum.jp/blog/2021/12/ (1874年12月18日のガス灯の点灯について)
- けんせつPlaza「材料からみた近代日本建築史 その4」。 https://www.kensetsu-plaza.com/kiji/post/29681 (技術的な問題点について)
- tempolyマガジン「銀座煉瓦街計画」。 https://magazine.tempoly.jp//other/ginza-rengagai-sakata (煉瓦造の費用、1887年ごろの小売業について)
- Yahoo!ニュース(福和伸夫氏の記事)。 https://news.yahoo.co.jp/expert/articles/9bb96d3bfa9f18dce2016cf2d0ffed466891adce (1872年4月3日の出火について)
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