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銀座ぎんざの 大どおりは、どうして 27メートルの はばに なったの?

銀座の大通りは、なぜ27mの幅になったのか ── 大火のあとの燃えにくい街づくり

銀座煉瓦街の道幅は、なぜ15間(約27m)になったのか ── 1872年の大火から煉瓦街づくりへ

分野:歴史・文化

銀座ぎんざの 大きな 通りの はばは、およそ 27メートルです。この 数字は、2つの 意見の まんなかを とって きまったと 書かれて います[4]。

「世界の 大きな 町なみに ならって、もっと 広くしよう」。「そんなに 広くなくて いい」。どうして 道の はばで、ここまで もめたのでしょう。それは、1872年の 大火たいかの あとで、銀座ぎんざを 火に つよい 西洋ふうの 町に つくりなおす ことに なったからです。この 記事では、その 町が どんな ものだったか、できあがった ころは 空き家が 多かった のに、1882年ごろから お店や 会社が 入った ことが 分かります。

銀座の大通りの幅は、約27メートルです。はじめは「ニューヨークやワシントンのように約44メートルにしよう」という案があり、「そこまで広くなくてよい」という意見とぶつかって、中をとった数字に落ち着いたと紹介されています[4]。

なぜ、道の幅でそこまで議論になったのでしょうか。きっかけは、1872年(明治5年)の大火のあと、燃えにくい西洋風の街を新しくつくると決まったことでした。この記事では、道幅の決め方、ガス灯や歩道、煉瓦の作り方、そして完成当初は空き家が多かった街に、1882年ごろから商店や会社が入っていく流れが分かります。

銀座の大通りの幅15間(約27m)は、江戸の街道の幅だった8間を車道として残し、左右に合わせて7間の歩道を足した数だとされる。一方、議論の場では、ニューヨーク・ワシントンの約44m、ロンドンの約45.5mを引いて「世界の都市なみにすべきだ」とする意見と、「そこまで要らない」とする意見が対立したと出典は書く[4]。

この中間の数字は、どんな街の設計の中で生まれたのか。1872年(明治5年)の大火後に始まった銀座煉瓦街計画について、道幅の決まり方、ガス灯と歩道、煉瓦の調達、そして完成当初は空き家が多かった街に1882年ごろから商店や会社が入るまでの流れが分かる。

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1. 大火たいかの あと、せいふは なにを きめた?

1. 大火のあと、政府は「燃えにくい西洋風の街」を作ると決めた

1. 1872年の大火のあと、銀座はなぜ煉瓦で作り直されることになったのか

1872年(明治めいじ5年)の 4月3日、午後3じごろ。わだくらもんの ちかくから 火が でました。東京とうきょう都の しりょうには、この 大火たいかで 34の 町、2926けんが やけたと あります[1][8]。

この あと、政府せいふは 銀座ぎんざを、火に つよい 西洋ふうの 町に つくりなおす ことに きめました。東京の 役所と、おかねを 見はる 役所が、いっしょに 進めた じぎょうです[2]。

日本で はじめての、もえにくい 西洋ふうの 町なみに なる はずでした。まず きめなければ ならなかったのは、道を どれだけ 広く するか、でした。

1872年(明治5年)4月3日の午後3時ごろ、和田倉門の近くから火が出ました[8]。東京都の資料によると、この大火で34町・2926戸が焼けています[1]。焼けた面積は、資料によって約95〜約100ヘクタールとゆれます。

この大火のあと、明治政府は、銀座を西洋化の象徴として煉瓦の街に作り直す計画を決めました。事業を進めたのは東京府、監督したのは大蔵省です。耐火構造で、国内で初めての西洋風の街並みになる計画でした[2]。

街を作り直すとき、最初に決めなければならないのは道の幅です。ここで意見が分かれました。

1872年(明治5年)4月3日の午後3時ごろ、和田倉門の近くから出た火が燃え広がった[8]。東京都の資料は、焼失を34町・2926戸とする[1]。焼失面積は出典により約95〜約100ヘクタールと幅があり、数字を1つに決めにくいため、ここでは戸数だけを使う。

この大火のあと、明治政府は銀座を、西洋化の象徴にあたる煉瓦街へ改造する計画を決めた。事業主は東京府、監督官庁は大蔵省で、耐火構造をそなえた国内初の西洋風の街並みをめざした[2]。焼け跡を元の木造のまま建て直すのではなく、街の形ごと入れかえる計画だったことになる。

道を作り直す計画で、まず争点になったのは道幅である。

2. 道の はばは、どうやって きまった?

2. 「世界なみに広く」と「そこまで要らない」の中をとった15間

2. なぜ15間(約27m)になったのか ── 江戸の街道8間に歩道7間を足した

ニューヨークや ワシントンの 大通りは 44メートルほど、ロンドンは 45メートルほどです。「それなみに 広くしよう」という 人が いました。いっぽうで、「そこまで 広く しなくて いい」という 人も いました[4]。

コラムによると、話しあいでは 20けんや 15けんに しようと いう 考えが 出て、さいごに 15けん(約やく27メートル)に 落ち着きました。むかしの ものさしで、1けんは 1メートル 80センチほどです。

もとの 江戸えどの 道は、8けんの はばでした。この 8けんを、車の とおる 道として そのまま のこし、左と 右に あわせて 7けんの 人の 通る 道を たして、15けんに なったと いわれます[4]。

人が 歩く ための 道を、車の 道とは べつに つくる。これが、この 町の おおきな とくちょうでした。

議論では、ニューヨークやワシントンの約44メートル、ロンドンの約45.5メートルを引き合いに出して「世界の都市なみにすべきだ」と言う人がいました。反対に、「そこまで広い必要はない」という意見もありました[4]。

「8間と25間のあいだをとって20間、あるいは15間」と案が行き来して、最後は15間、約27メートルに落ち着いたと、銀座まちづくりのコラムは書いています[4]。1間は約1.8メートルなので、15間は約27メートルになります。

この15間は、江戸の街道の幅だった8間を車道としてそのまま残し、左右に合わせて7間の歩道を足した数だとされます[4]。つまり、27メートルは「新しく広げた幅」というより、昔の道に人が歩く場所を足した結果です。

では、その歩道には何が置かれたのでしょうか。

議論の中身を、銀座まちづくりのコラムはこう書く。ニューヨークやワシントンは約44m、ロンドンは約45.5mだから、世界の都市なみにすべきだという意見と、そこまで広い必要はないという意見が対立した[4]。これは議論の中で比較に出された数字であり、決まった幅ではない。

案は「8間と25間のあいだをとって20間、あるいは15間」と揺れ動き、最終的に15間(約27m)に落ち着いたという[4]。1間を約1.8mとして計算すると、15間は約27mで、出典の数字と合う。理想の約44m案との差は約17mである。

15間の内訳は、江戸の街道幅だった8間をそのまま車道に残し、左右あわせて7間の歩道を足したもの、とされる[4]。7間は約12.6mになる。つまり約27mは、広い道を一から設計した結果というより、既存の道に歩く場所を足した数だと読める。車道と歩道を分け、歩道を煉瓦で敷いたことは、この街の特徴として書かれている[4]。

では、その歩道と車道の上に、ほかに何が加えられたのか。

3. 歩く 道に、なにが ならんだ?

3. 煉瓦の歩道に、ガス灯と街路樹がならんだ

3. 歩道・ガス灯・街路樹 ── 1874年12月18日の85基

歩道は、煉瓦れんがで しきつめられました[4]。1873年には、歩道に 木も うえられたと あります[2]。桜さくらや 松まつなどだと されます。

1874年の 12月18日には、金杉橋かなすぎばしから 新橋を 通って 京橋までの 銀座ぎんざ通りに、ガスの あかりが 85こ ともりました[5]。

2かいには ベランダのような バルコニーが はり出し、1かいは 柱の ならぶ 屋根つきの 歩く 道でした[2]。

夜の 通りに あかりが ならび、人が 歩く ための 道が 通りぞいに つづきました。ところで、この 町の たてものに つかう 煉瓦れんがは、どこで 作られたのでしょう。

歩道は煉瓦で敷かれ、1873年(明治6年)の段階で、街路樹も植えられました。桜・松・楓とされています[4][2]。

夜には、ガス灯が加わります。1874年(明治7年)12月18日、金杉橋から新橋を通って京橋までの銀座通りに、85基のガス灯がともりました[5]。

建物の形にも工夫がありました。2階にはバルコニーが張り出し、1階は柱が並ぶ歩廊(アーケード)でした[2]。建物沿いに、雨を避けて歩ける歩廊が続いていたことになります。

車道と歩道が分かれ、夜は明かりがともり、木が植わった通り。これだけの設備を、同じ時期の計画の中に入れた街でした。建物をつくる煉瓦は、どこから来たのでしょうか。

この街では、道幅に加えて、歩道・街路樹・ガス灯が同じ時期に整えられた。歩道は煉瓦敷きで、1873年(明治6年)の段階で街路樹が植えられ、桜・松・楓とされる[4][2]。

ガス灯は1874年(明治7年)12月18日、金杉橋から新橋を経て京橋までの銀座通りに85基がともった[5]。建物側にも仕掛けがあり、2階はバルコニーが張り出し、1階は列柱の並ぶ歩廊(アーケード)になっていた[2]。

ここで注目したいのは、これらが別々の事業ではなく、同じ煉瓦街づくりの中で、おおむね同じ時期に整えられたことだ。なお、点灯の範囲は金杉橋から京橋までの銀座通りである。では、これだけの建物をつくる煉瓦は、どこで作ったのか。

4. 煉瓦れんがは、どこで 作られた?

4. 煉瓦は、小菅の新しい窯で焼かれた

4. 煉瓦の調達 ── 小菅に築かれたホフマン式輪窯3基

町を つくる しごとの まとめ役は、アイルランド出身の 外国人、トーマス・J・ウォートルスでした[3]。

煉瓦れんがは、小菅こすげに 新しく 作った 窯かまで やかれました。ホフマンしきの 輪窯わがまと いう、そのころ いちばん 新しい 窯かまが 3つ ありました[3]。

煉瓦れんがの 大きさは、長さ 22センチ、はば 10センチ、あつさ 6センチ ほどです[3]。この 大きさの 煉瓦れんがを、たくさん 作って 運び、つみあげて いきました。

街づくりの設計と指揮をしたのは、アイルランド出身のお雇い外国人、トーマス・J・ウォートルス(Thomas James Waters)です[3]。

煉瓦は、東京の小菅(こすげ)に新しく築かれた窯で焼かれました。最新式のホフマン式輪窯が3基です[3]。資料に残る煉瓦の大きさは、225×105×60ミリです。

街に使う煉瓦を、新しい工場でまとめて作る。街並みだけでなく、材料の作り方まで新しく用意したことが分かります。では、この計画は思いどおりに進んだのでしょうか。

設計と指揮を担ったのは、アイルランド出身のお雇い外国人、トーマス・J・ウォートルス(Thomas James Waters)である[3]。

煉瓦は小菅に築いた最新式のホフマン式輪窯3基で製造され、この煉瓦街に使われた。文化遺産オンラインに載る煉瓦の寸法は225×105×60mmである[3]。資料が「最新式」と書く窯を新設し、煉瓦を大量にそろえるための設備まで、街の計画に組みこまれていたことが読み取れる。

だとすれば、設計から材料まで新しくそろえたこの計画は、ねらいどおりに進んだのか。出典は、そう言い切れないことを示す。

5. 煉瓦れんがの 町づくりで おきた もんだい

5. 煉瓦街づくりで起きた問題 ── 職人・材料・費用・空き家

5. 煉瓦街づくりで起きた問題 ── 職人・材料・設計図書・費用・空き家

この 町づくりは、うまく いった ところばかりでは ありませんでした。煉瓦れんがを つむ 仕事に なれた 職人しょくにんが、まだ 育って いませんでした。煉瓦れんがや、つなぎに つかう セメントの できも、よく なかったと いわれます。設計せっけいの しりょうも 足りない ところが ありました[6]。

また、煉瓦れんがの 家は 作るのに おかねが かかります。自分で たてる 人の なかで、その 力が ある 人は 少なかったと されます[7]。

できあがった ころは、空き家も 多かったと 書かれて います[2]。

この街づくりは、技術の面では成功とは言いがたい、と評されています。理由として挙げられるのは、煉瓦を積む熟練した職人が育っていなかったこと、煉瓦と、すき間をうめるモルタル用のセメントの品質が悪かったこと、そして設計図書が十分でなかったことです[6]。

費用の問題もありました。煉瓦造は費用が高く、自分で建てる人のなかに、それだけの力のある人は多くなかったと説明されています[7]。

いっぽう、完成したころには空き家が多かったとも書かれています[2]。職人や材料の問題が空き家につながったのかどうかは、資料からは分かりません。

この煉瓦街は、技術的には成功とは言いがたいと評される。その理由は、熟練した煉瓦工が育っていなかったこと、煉瓦と煉瓦目地のモルタル用セメントの品質が劣っていたこと、設計図書に不備があったことの3点である[6]。

費用の面でも、煉瓦造は高くつき、自分で建てる者のなかに、その負担に耐えられる力のある者は少なくなったとされる[7]。

完成当初は空き家が多かった、という記述もある[2]。ただし、空き家の多さが上の3点や費用と結びつくかどうかは、出典からは分からない。

それでも、この街は空き家のままでは終わらない。その後の流れを見る。

7. 27メートルを、じぶんの あしで はかって みよう

7. 27メートルを、自分の歩幅で測ってみる

7. 27mという数字を、自分で確かめるには

やってみよう。うんどうじょうや 公園の ひろい ところで、27メートルを、あしで はかって みましょう。1歩を 50センチと すると、およそ 55歩です。

そこに 立つと、あの 大どおりの はばが、どれくらいか 分かります。じどう車の 来ない ところで、おうちの 人と いっしょに やって みましょう。

じぶんの 家の 前の 道は 27メートルより 広いか、せまいか。おうちの 人と、歩道から 見て 話して みましょう。道には 出ないで、車に 気を つけます。

次のようなことを、試したり調べたりできそうです。

  • 校庭や公園など、車の来ない広い場所で、27メートルを歩幅で測ってみましょう。1歩を約50センチとすると、約55歩です。そこに立って、ニューヨークの約44メートルと比べると、およそ17メートルのちがいがどのくらいかも想像できます。
  • 家の前の道の幅を、歩道から見て歩数で見当をつけ、27メートルと比べてみましょう。道路には出ないで、車に気をつけます。
  • 紙に1センチを1メートルとして、27センチの線(いまの銀座通り)と44センチの線(ニューヨークの大通り)を引いて、並べて比べてみましょう。

数字は、自分で再計算できる。

  1. 1間を約1.8mとして、15間・8間・7間をメートルに直す。15間は約27m、8間は約14.4m、7間は約12.6mになり、8間と7間の合計が15間になることを確かめる[4]。
  2. 校庭や公園で27mを歩数で測り、道幅のイメージをつかむ。車の通らない場所で行い、道路に出て測るのは避ける。
  3. 煉瓦の寸法225×105×60mmは文化遺産オンライン[3]、大火の戸数は東京都の資料[1]に書かれている。大火の焼失面積が資料で約95〜約100ヘクタールとゆれる点も、あわせて見比べるとよい。

しらべた ところ

参考にした情報源

参考にした情報源

出典について:東京都の資料、まちづくりの団体や企業の解説、文化遺産オンライン、専門誌の記事を突き合わせて使った。いずれも二次的な資料が中心で、何に使ったかは項目の最後に書いている。

  1. 東京都「都市づくりの歴史」(PDF)。 https://www.toshiseibi.metro.tokyo.lg.jp/keikaku_chousa_singikai/pdf/tokyotoshizukuri/1_03.pdf (1872年の大火の焼失町数・戸数について)
  2. SMTRC「このまちアーカイブス 銀座」。 https://smtrc.jp/town-archives/city/ginza/p02.html (計画の決定、街路樹、バルコニーと歩廊、空き家、1882年ごろの入居について)
  3. 文化遺産オンライン「盛煉社製銀座煉瓦街れんが」。 https://online.bunka.go.jp/heritages/detail/584557 (ウォートルス、小菅のホフマン式輪窯、煉瓦の寸法について)
  4. 銀座まちづくり「銀座通りの幅はなぜ27mなのか」。 https://www.ginza-machidukuri.jp/column/26/ (道幅をめぐる議論、15間の内訳、歩道について)
  5. ガスミュージアム(東京ガス)ブログ。 https://www.gasmuseum.jp/blog/2021/12/ (1874年12月18日のガス灯の点灯について)
  6. けんせつPlaza「材料からみた近代日本建築史 その4」。 https://www.kensetsu-plaza.com/kiji/post/29681 (技術的な問題点について)
  7. tempolyマガジン「銀座煉瓦街計画」。 https://magazine.tempoly.jp//other/ginza-rengagai-sakata (煉瓦造の費用、1887年ごろの小売業について)
  8. Yahoo!ニュース(福和伸夫氏の記事)。 https://news.yahoo.co.jp/expert/articles/9bb96d3bfa9f18dce2016cf2d0ffed466891adce (1872年4月3日の出火について)

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