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ここにあるのは、だれかが実際に調べ、考え、作ってきたことを集めたメモです。気になったら、ページの下の「参考にした情報源」から、もとの本や記事、それを生み出した人たちに、直接ふれてみてください。このメモには書ききれないおもしろさが、そこにあります。

「ざんぎりあたま」は ぶんめいかいかの 音? かみの かたちで じだいを うたった うた

「ざんぎり頭をたたけば文明開化の音がする」── 髪・牛鍋・ガス灯から見る明治のはじまり

散髪脱刀令から馬車道まで ── 「文明開化の音」を生んだ髪・牛肉・ガス灯・氷水店

分野:歴史・文化

明治めいじの はじめに、「ざんぎりあたまを たたいて みれば、ぶんめいかいかの 音が する」と うたった うたが ありました。ざんぎりあたまは 新しい 世の中の 音、ちょんまげの ような むかしふうの かみは ふるい 世の中の 音と されたのです。

どうして かみの かたちが、じだいの しるしに なったのでしょう。かみ、たべもの、よるの あかりへと、まちが かわって いく ようすが わかります。

明治のはじめ、頭をたたいた音で時代の立場を言い分ける、こんな歌が流行したといわれます。「ざんぎり頭をたたいてみれば、文明開化の音がする」。髪型ひとつが、時代の合図になっていたのです。

しかも髪を切るのは、命令ではなく「切ってもよい」という許しでした。それなのに、なぜ人々は切っていったのでしょうか。髪、牛肉、ガス灯、氷水の店という順に、明治のまちの変化の理由が分かります。

明治初期の俗謡は、半髪・総髪・ざんぎり頭を並べ、「ざんぎり頭をたたいてみれば文明開化の音がする」と歌ったとされる[2]。髪型が時代への態度の目印になったわけだが、その発端の散髪脱刀令は、散髪を強制せず「各自の勝手」とした布告だった[1]。

強制でない変化が、なぜ短期間に広まったのか。髪、肉食、ガス灯、横浜・馬車道の店を順にたどり、それぞれの背景にあった事情が分かる。

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1. かみの かたちで、なにが わかったの?

1. 頭をたたくと、髪型ごとに違う音がした

1. 俗謡に歌われた三つの髪型 ── 半髪・総髪・ざんぎり頭

この うたは、明治めいじ4年に 出た「しんぶんざっし」に のったと いわれます[2]。

はんぱつ(ちょんまげの ような むかしふうの かみ)の 頭を たたくと、ふるい くせの 音。そうはつの 頭は、むかしの せいじに もどす 音。ざんぎりあたまは、あたらしい 世の中、ぶんめいかいかの 音が する、と いうのです。

うたの 中では、かみの かたちで、あたらしい じだいへの かんがえ方を あらわして いました。

ただし、うたの 言葉は、本に よって すこし ちがいます。

半髪・総髪・ざんぎり頭

歌に出てくる髪型は三つです。半髪は、ちょんまげのような江戸時代ふうの髪型です。総髪は、髪を伸ばして後ろでたばねる髪型で、歌では「王政復古」、つまり昔の政治にもどすという考えの音にされています。ざんぎり頭は、髪を切りそろえた短い髪型です[2]。

この歌は、明治4年(1871年)に出た『新聞雑誌』に載ったとされます[2]。半髪には「因循姑息」、つまり古いやり方にしがみつく音、ざんぎり頭には新しい時代の「文明開化」の音があてられました。

歌の字句は本によって少しずつ違い、「ざんぎり頭をたたいてみれば」は広く知られた形です。

この俗謡は、明治4年(1871)刊の『新聞雑誌』に載ったとされる[2]。半髪(ちょんまげのような江戸ふうの髪型)は「因循姑息の音」、総髪は「王政復古の音」、ざんぎり頭は「文明開化の音」とされ、髪型が政治・社会への態度の目印として歌われている。

ただし、二次資料に引かれた歌詞は版により字句が異なる。『ざんぎり頭をたたいてみれば』が広く知られる形で、本文もこれを採った。原文の確認は、国立国会図書館などで原本・復刻にあたる必要がある。

2. きれと いわれて いないのに、どうして ひろまったの?

2. 「切ってもよい」だけだったのに、なぜ広まったのか

2. 散髪脱刀令は「各自の勝手」── 強制なき普及の要因

おどろく ことに、かみを きるのは「きなさい」と いう めいれい では ありませんでした。明治めいじ4年8月に 出た ふれは、「きっても いい」と ゆるす もの でした[1]。

それでも ひろまった わけの ひとつに、明治天皇めいじてんのうが あります。明治めいじ6年に 天皇てんのうが かみを きると、ふつうの 人たちにも ひろがって いったと いわれます[2]。

みんなが すぐ きった のでは ありません。きるのは じゆうでしたが、天皇てんのうが かみを きった ことが、まねを する 人が ふえる きっかけの ひとつに なったと いわれます。

命令ではなく許可だった

明治4年(1871年)8月、政府は散髪脱刀令を出しました。髪を切ることも、刀を差さないことも、それぞれの人の自由にしてよいという内容です。切れという強制ではありません[1]。

天皇が髪を切った

広まるきっかけとして語られるのが、明治6年(1873年)に明治天皇が自ら髪を切ったことです。その後、庶民の間にも広がっていったとされます[2]。

明治天皇の断髪は、髪を切る人が増えるきっかけの一つとして語られています。ただ、広まった理由がこれひとつだけだったと決められる資料は、ここでは使っていません。

明治4年(1871)8月9日の散髪脱刀令は、散髪も脱刀も「各自の勝手」とする布告で、強制ではなかった[1]。それにもかかわらず短期間で広まったのは、なぜか。

普及を後押しした事情として、散髪脱刀令の2年後、明治6年(1873)に明治天皇自身が断髪したことが挙げられる。この断髪が普及のきっかけの一つとされ、庶民の間にも広がっていったという[2]。ただし、これは二次資料の説明で、断髪の年や普及の様子は、一次資料で確かめる余地がある。

自由令でありながら、頂点の人物の行動が後押しになったとされる点は、制度の文面と社会の動きがずれる例として読める。

3. にくを たべる のも、ぶんめいかいかだった?

3. 肉を食べることも「文明開化」になった

3. 天皇の肉食と牛鍋屋の急増 ── 外国人との交際という理由

つぎに かわったのは、たべものです。明治めいじ5年、明治天皇めいじてんのうが じぶんも 肉を たべたと いわれます[3]。

天皇てんのうは「からだの ためと いうより、外国の 人と つきあうのに ひつようだから」と 話したと つたえられます[3]。

すると まちに「ぎゅうなべや」が ふえました。明治めいじ10年には、東京だけで 550けんを こえたと しょうかい されて います[3]。5年ほどの うちの ことです。

肉食をすすめた理由

1872年(明治5年)、明治天皇が自らも肉を食べたと伝えられています。その理由について、体のためというより、外国人との付き合いに必要だからだと語ったと伝えられています[3]。

牛鍋屋が550軒を超えた

5年後の1877年(明治10年)には、東京だけで牛鍋屋が550軒を超えたと紹介されています[3]。福沢諭吉も、牛馬会社に求められて、肉食をすすめる文章を寄せています[3]。

「それまで日本人は肉をまったく食べなかった」と言い切ることはできません。ここでは、解禁後に店が急に増えたところまでを書いています。

1872年(明治5年)、明治天皇が自らも肉を食べたと伝えられる。その動機として、肉食は養生のためというより外国人との交際に必要だから、と大久保利通に述べたと伝わる[3]。つまり肉食には、健康論より外交上の事情が前面にあったことになる。

その後の広がりは速かった。1877年(明治10年)には東京だけで牛鍋屋が550軒を超えたと紹介され[3]、福沢諭吉も牛馬会社の求めに応じて肉食をすすめる文を書いた。農林水産省の食育白書も、明治7年頃に乳牛社が数十か所開業し、明治30〜40年代に東京の洋食屋が1,500〜1,600軒に達したと整理している[5]。

なお、解禁以前の日本人が肉を全く食べなかったとまでは、ここで使った資料は述べていない。「解禁後に店と食べ方が広がった」とだけ読むのが安全だ。

4. ぎゅうなべやでは、どんな 話が きこえた?

4. 牛鍋屋の席で、人々は何を話したのか

4. 『牛店雑談 安愚楽鍋』── 牛鍋屋に集う人々を描いた滑稽本

牛なべやの ようすを えがいた 本が あります。かながきろぶんの「あぐらなべ」です。明治めいじ4年から5年に、ぜんぶで 5さつ 出ました[4]。

ひとびとが あぐらを かいて、牛なべを つつきながら、おしゃべりを する。そんな ようすを、おもしろおかしく かいた 本です[4]。

本の 名前に「あぐら」が はいって いるのが、いかにも たのしそうです。この 本は、国立国会図書館などで 読めるそうです。

あぐらをかいて、牛鍋を囲む

仮名垣魯文の『牛店雑談 安愚楽鍋』は、明治4〜5年(1871〜72年)に3編5冊で出た滑稽本、つまり笑いを交えて世の中を描いた読み物です。牛鍋屋を舞台に、人々があぐらをかいて牛鍋を食べながら話す様子が描かれています[4]。

農林水産省の食育白書も、明治4年に『安愚楽鍋』が牛肉を紹介した本として年表に載せています[5]。

天皇の肉食が伝えられた1872年より前に、もう牛鍋屋の本が出ていた、という速さが目を引きます。当時の言葉づかいで書かれた原文は、国立国会図書館などで読めます。

仮名垣魯文『牛店雑談 安愚楽鍋』は明治4〜5年(1871〜72)に3編5冊で刊行された滑稽本で、牛鍋屋に集う人々があぐらをかき、食べながら語り合う姿を描く(初編は明治4年)[4]。農林水産省の食育白書は、これを明治4年の牛肉紹介の例として年表に挙げる[5]。

天皇の肉食が伝えられた1872年より前に、初編が出た点は興味深い。ただし年号の前後関係は二次資料に基づくので、原本の奥付などの確認が望ましい。本文はNDLなどで読める。

5. よるの まちに、どうして あかりが ともったの?

5. 夜の道を照らしたガス灯は、どこから始まったのか

5. 横浜・馬車道のガス灯(1872)と、2年後の銀座

よるの みちも かわりました。明治めいじ5年の あき、よこはまの ばしゃみちに、日本で はじめての ガスとうが ともりました[6]。

この とうを ともしたのは、たかしまかえもんの「日本社中」です。3かげつ ほど あとには、およそ 300ほんに なったそうです[6]。

2ねん あと、明治めいじ7年の 12月には、ぎんざにも ガスとうが つきました[8]。

1872年の秋、横浜の馬車道で

日本で最初のガス灯は、1872年(明治5年)の秋、横浜の馬車道や本町通りなどに灯されました。灯したのは、高島嘉右衛門の「日本社中」です。点灯から3か月後には、約300基に達したとされます[6]。初点灯の日付は、資料によって「10月」「10月31日」と書き方が分かれるため、ここでは「秋」と書きました。

灯柱はイギリスのグラスゴーから輸入され、灯具は日本の職人が作ったという説明もあります[7]。ガス灯の設置の権利をめぐって居留外国人の投票があった、という話もありますが、これは観光案内の記述です。

2年後の銀座

銀座のガス灯は、2年ほどあとの1874年(明治7年)12月に点火されました[8]。同じ1872年には、新橋と横浜を結ぶ鉄道も開通しています。

日本初のガス灯は、1872年(明治5年)秋、横浜の馬車道・本町通りなどに高島嘉右衛門の「日本社中」が灯したもので、点灯から3か月後には約300基に達したとされる[6]。初点灯日は、横浜市の案内では「10月」、記念日解説では旧暦9月29日(1872年10月31日)と表記が分かれるため、「秋」と記す。

灯柱は英国グラスゴーから輸入され、灯具は日本の職人が製作したという二次的な解説があり、設置権をめぐって居留外国人の投票があったとも伝わる[7]。ただし、これらは観光案内の記述で、一次資料での裏づけは未確認なので、「とされる」にとどめる。

銀座のガス灯は、約2年後の1874年(明治7年)12月に点火された[8]。1872年に開業した新橋―横浜間の鉄道は所要時間53分で、横浜と東京を結ぶ新しい交通と照明が、同じ年に重なった形になる。

6. ばしゃみちには、どうして「はじめて」が あつまったの?

6. 馬車道に「日本初」が集まった理由

6. 外国人居留地に接した馬車道 ── ガス灯・氷水店・写真館

よこはまの ばしゃみちは、外国の 人が すむ ところと、まちの 入口を つなぐ みち でした。外国の ばしゃが とおった ことから、この 名前が ついたそうです[7]。

この みちには、ガスとうの ほかにも「はじめて」が たくさん あつまりました。しゃしんかんも ありました[7]。

明治めいじ2年には、まちだふさぞうが こおりみずの みせを ひらき、「あいすくりん」を うりました。日本で アイスクリームを うりはじめた みせと いわれます[9]。

ひやして たべる あまい おかしを、はじめて 口に した 人は、どんな 顔を したのでしょう。

外国人居留地の入口の道

馬車道は、外国人居留地と吉田橋の関門をつなぐ道で、外国の馬車が通ったことから名がついたとされます。ガス灯、写真館(下岡蓮杖の相影楼)、アイスクリームなど、「日本初」の話が集まる通りです[7]。外国の人と物が最初に出入りする場所に、新しいものが集まったと考えられます。

「あいすくりん」を売った店

1869年(明治2年)6月、町田房蔵が馬車道で氷水店を開き、「あいすくりん」を売りました。日本のアイスクリームの始まりとされます。町田は、咸臨丸で渡米する使節に同行した経歴の持ち主です[9]。

海の向こうで見た味を、自分の店で出したのかもしれません。ただ、そう考えた根拠は、ここで使った資料にはありません。

馬車道は、外国人居留地と吉田橋の関門をつなぐ道で、異人馬車が通ったことが名の由来とされる。ガス灯、アイスクリーム、写真館(下岡蓮杖の相影楼)など「日本初」の話が集まるのは、外国の人・物・技術の出入り口に近い通りだったからだと考えられる[7]。

明治2年(1869)6月、町田房蔵が馬車道で氷水店を開き、「あいすくりん」を売ったのが、日本のアイスクリームの始まりとされる(『横浜市史』の引用)[9]。町田は咸臨丸で渡米使節に同行した経歴をもつという。外国での見聞と店の開業の関係は、使った資料では述べられておらず、推測にとどまる。

「日本初」という呼び方は、資料ごとに強さが違う。本文は「始まりとされる」と書き、断定は避けた。

7. 「はじめて」の 話を、じぶんで しらべて みよう

7. 「日本初」の話を、資料で確かめてみる

7. 出口 ── 原本にあたり、「日本初」の根拠を見比べる

この 記事の 「はじめて」の 話から、ひとつ えらんで、おうちの 本や 紙で しらべて みましょう。たとえば、ガスとうは いつ、どこに ともったのか。「ここが 日本で はじめて」と 書いた ものが、ほかにも あるか、見くらべて みましょう。

もっと 知りたく なったら、「あぐらなべ」を 国立国会図書館で さがして みて ください。むかしの 言葉で 書かれて いて、おとなと いっしょに 読むと たのしいです。

この記事の「日本初」の例(ガス灯、アイスクリームなど)から一つ選び、本やインターネットの資料で、いつ・どこで始まったと書かれているかを調べてみましょう。資料によって日付の書き方が違うかもしれません。見比べると、見慣れた「日本初」の言葉が少し違って見えてきます。

もっと読みたくなったら、『安愚楽鍋』の原文を国立国会図書館のデジタルコレクションなどで探してみてください。この文章で使った資料は[2]や[3]、[6]などです。

散髪脱刀令の日付は太政官布告、歌の字句は『新聞雑誌』、『安愚楽鍋』の刊行時期は本文や奥付で確かめられる。天皇の断髪の年は、関連資料を探してみよう。

「日本初」とされる例について、その根拠としてどの資料が挙げられているか、日付が資料ごとにどう違うかを見比べてみよう。本文のガス灯の日付の食い違いと同じ問いが見えてくる。

しらべた もとの じょうほう

参考にした情報源

参考にした情報源と、その使い方

出典について:記念日の解説、教育情報サイト、報道・特集記事、事典、農林水産省の食育白書、横浜市や観光案内、現代ビジネスの記事を使った。何に使ったかは、それぞれの項目の最後に書いている。

  1. ヘアカットの日(記念日解説)。https://bestcalendar.jp/dates/kinenbi/1838 (散髪脱刀令が「各自の勝手」だったこと)
  2. HugKum「散切り頭とはどんな髪型?」。https://hugkum.sho.jp/286606 (俗謡と、明治天皇の断髪後の普及について)
  3. nippon.com 特集(肉食解禁)。https://www.nippon.com/ja/features/c03911/ (肉食解禁と牛鍋屋の数について)
  4. コトバンク「安愚楽鍋」。https://kotobank.jp/word/安愚楽鍋 (『安愚楽鍋』の刊行年と内容について)
  5. 農林水産省 平成29年度食育白書。https://www.maff.go.jp/j/syokuiku/wpaper/h29/h29_h/book/part2/chap6/b2_c6_6_00.html (牛肉・乳牛社・洋食屋の年表について)
  6. 横浜市西区「そぞろあるき」。https://www.city.yokohama.lg.jp/nishi/shokai/kanko/spot/sozoroaruki/sozoro35.html (横浜のガス灯について)
  7. 馬車道(神奈川の旅ガイド)。https://tabi-mag.jp/kn0027/ (馬車道の名の由来と、日本初の話について。観光案内)
  8. 現代ビジネス「今日は何の日」(銀座にガス灯)。https://gendai.media/articles/-/90456 (銀座のガス灯の点火について)
  9. このまちアーカイブス(横浜)。https://smtrc.jp/town-archives/city/yokohama/p07.html (氷水店とあいすくりんについて)

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