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高校の 入試にゅうしは、むかしから いまの ような 試験しけんだったの?

高校入試は、なぜ「試験をしない」形から変わってきたのか

「高校側の入学試験を廃止」で始まった新制高校は、なぜ学力検査と調査書を組み合わせる選抜へ変わったのか

分野:歴史・文化

1948ねんに、あたらしい 高校の えらび方を しめす 通達つうたつが 出されました。それは、高校では 試験しけんを せず、中学校が 出す 報告書ほうこくしょだけで 選えらぶ、という ものでした。

それなのに、いまの 入試にゅうしには 試験しけんが あります。どうして かわったのでしょう。この メモでは、試験しけんが もどって きた わけと、「点数だけで きめない」くふうが ふえてきた ながれが わかります。

新制高校が始まった1948年、文部省は「高校では入学試験をしない」という方法を通達で示しました。中学校から届く報告書だけで選ぶ、というのです。ところが、いまの高校入試には学力検査があります。しかも、高校に進む人は1950年の約42%から25年で約92%へと2倍以上に増えました。いつ、なぜ変わったのでしょうか。

この記事では、試験が戻った事情と、その後「点数だけで決めない」工夫が重ねられてきた流れが分かります。

新制高校が発足した1948年、文部省は高校側の入学試験を廃止し、出身の中学校が出す報告書だけで選ぶ方法を通達で示した。いまの高校入試は、学力検査と調査書を組み合わせる県が多い。進学率は1950年の42.5%から25年で91.9%へ、約2.2倍になった。試験なしで出発した制度は、なぜ、どのように変わったのか。

この記事では、試験が復活した事情と、進学率の上昇のなかで選抜が「点数だけで決めない」方向へ作り直されてきた流れ、そして現在の県ごとの違いが分かる。

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1. 高校は、試験しけんを しない ところから はじまった?

1. 高校は「入学試験をしない」形で出発した

1. 新制高校は、高校側の入学試験を廃止する通達とともに出発した

いま、高校に はいるには、ふつう 入試にゅうしを うけます。でも、あたらしい 高校の しくみが できた ころは、ちがいました。

1948ねんの 2月、文部省もんぶしょうは 通達つうたつを 出しました。高校では 試験しけんを やめて、中学校が 出す 報告書ほうこくしょだけで 選えらぶ、という やり方です。

もとに なった かんがえは、「高校に はいりたい 人は、ぜんいん はいれるのが 理想」という ものでした。年表の 資料しりょうに よると、はいれる 人数、つまり 定員ていいんより 多い ときだけ、報告書ほうこくしょを 見て 選えらぶ、と していたそうです。

この ころの 高校は、点数で ふるいに かける ところと いうより、はいりたい 人を うけいれる ところと して 考えられて いました。

では、この やり方は どうして 長く つづかなかったのでしょう。

1948年(昭和23年)2月、文部省は新しい高校の入学者選抜について通達を出しました。高校側の入学試験はやめ、出身の中学校が出す報告書だけで選ぶ、という内容です[1]。

この考え方には前提がありました。年表資料の記述では、志望する人全員が入学できることを理想とし、定員をこえたときだけ報告書にもとづいて選ぶ、というものでした[7]。

つまり出発点の高校は、点数でふるい分ける場所というより、入りたい人を受け入れる場所として考えられていました。ただし、入学したい人が定員をこえれば、選ばなければなりません。その選び方を、試験ではなく中学校の報告書に任せたのが、この通達の形です。

では、この形はなぜ長く続かなかったのでしょうか。

新しい高校制度が動き出した1948年(昭和23年)2月、文部省は通達で入学者選抜の方法を示した。内容は、高等学校側の入学試験を廃止し、出身学校(中学校)からの報告書のみに基づいて選ぶ、というものである[1]。いまの感覚では意外だが、この通達には前提があった。文部科学省の年表資料の記述によれば、志望者全員の入学を理想とし、定員を超過した場合に限って報告書に基づく選抜を行う、という考え方である[7]。

「試験をしない」は、選抜をしないという意味ではない。選ぶ場面でも一回の試験の点数は使わず、中学校がまとめた報告書を唯一の資料とする設計だった。理想(全員入学)と現実(定員)の間で、報告書が選抜の唯一の資料になったのである。

この設計は、志願者が定員に収まる間は成り立つ。では、収まらなくなったとき、何が起きたのか。

2. 試験しけんを やめたのに、どうして もどって きたの?

2. 試験をやめたはずの高校に、学力検査が戻ってきた理由

2. 数年で学力検査が戻った経緯:志願の集中と、高校側の要求

1950ねんは、新しい 中学校で 3年間 まなんだ 人が、はじめて 高校を うけた 年でした。そのあとも、高校に はいりたい 人は だんだん ふえて、人気の ある 学校に 志願者しがんしゃが あつまる ことが 目立つように なりました。

すると、高校の がわからも、「自分たちで 選えらび方を 決めたい」という 声が 強く なりました。

1951ねんの 9月、国は 通達つうたつを 出して、県ぜんたいでの 試験しけんが むずかしい ときなどは、高校が 学力検査がくりょくけんさ(学力を はかる 試験しけん)を して よいと しました。ただし、ふつうは 県ごとに 同じ 問題で、同じ ときに おこなう ことが きまりでした。

それまで、入試にゅうしの やり方は、国の きまりに 書かれて いませんでした。1956ねんに、はじめて 書きこまれました。

はじめは「試験しけんを しない」でした。でも、人が あつまりすぎる 学校が 出て くると、「どう 選えらぶか」を 考え直す ひつようが 出て きたのです。

転機は1950年度(昭和25年度)でした。新制中学校で3年間学んだ生徒が、この年に初めて高校を受験したのです。志願者はこの年度からしだいに増え、特定の学校へ志願が集中する傾向が目立つようになりました。同時に、高校の側にも、自分たちで選抜の方法を決めたいという要求が強まりました[1]。

1951年(昭和26年)9月の通達は、都道府県で一斉の学力検査をするのが難しい場合などには、各高校が学力検査を行ってよいと認めました。ただし原則は、都道府県ごとに同じ問題で、一斉に行うことでした[1]。学校ごとにばらばらの問題を出すのではなく、県で足並みをそろえるという条件つきの復活です。

方法が法令に書かれたのは、さらに後の1956年(昭和31年)9月、学校教育法施行規則の改正でした。それまで、高校の入学者選抜の方法に関する規定は空白でした[2]。

入口の問いに戻ると、試験が戻った理由として資料が挙げるのは、志願者が増えて特定の学校に集まったこと、高校の側が選び方を自分で決めたいと求めたこと、の二つです。では、進学する人はその後どれほど増えたのでしょうか。

転機は1950年度(昭和25年度)である。新制中学校で3年間学んだ生徒が初めて高校を受験し、志願者はこの年度からしだいに増えた。志願が特定校に集中する傾向が顕著になる一方、高校側にも、選抜方法を自主的に定めて実施したいという要求が強まった[1]。資料が挙げる原因は、この志願の集中と高校側の要求の二つである。

これを受けて、1951年(昭和26年)9月の通達は、都道府県一斉の学力検査が困難な場合などに、各高校が学力検査を行ってよいと認めた。ただし原則は、都道府県ごとに同一問題で一斉に実施することだった[1]。学力検査は認めるが、学校ごとに別の問題を出すのではなく県で足並みをそろえる、という条件つきの復活である。

制度面では、さらに時間がかかった。高校入試の方法が学校教育法施行規則に初めて明記されたのは1956年(昭和31年)9月の改正で、それまでこの事項は空白だった[2]。1963年(昭和38年)8月の省令改正と通達は、入学を調査書や学力検査の成績などを資料とする選抜にもとづくものと整理し、あわせて進路指導の強化や、公立高校の通学区域・入学調整措置の強化を示した。志願者が定員以内なら選抜は「選考」になるが、特別な事情がある場合のほかは学力検査を実施するとされた[2]。

報告書だけで選ぶ形は、こうして法令の上でも、学力検査と調査書を併用する形へ移った。その背景を、進学率の変化から見る。

3. 高校に いく 人は、どれくらい ふえたの?

3. 100人中42人から92人へ:進学する人が増えると何が起きたか

3. 進学率は25年で約2.2倍になった:数字から見る入試競争の背景

中学校を 卒業そつぎょうした 人の うち、高校などに すすんだ 人の 割合わりあいを 進学率しんがくりつと いいます。

1950年は 42.5%。100人の うち 42〜43人ほどです。1960年は 57.7%、1970年は 82.1%、1975年には 91.9%で、100人の うち 92人ほどが 高校へ すすむように なりました。25年で、2ばいを 少し こえています。

2025年は 98.6%で、ほとんど みんなが 高校へ すすみます。

みんなが 行く ように なるほど、「どの 学校に はいるか」は 大きな ことに なります。国の 資料しりょうには、入試にゅうしの 競争きょうそうが 年々 はげしく なり、選えらび方が 大きな 社会の もんだいに なる ことが よく あった、と 書かれて います。

そこで、国や 県は、「もっと よい 選えらび方は ないか」と、何度も 作り直して いきました。

文部科学省の学校基本調査をもとにした表では、中学校などの卒業者のうち高校へ進んだ人の割合(進学率)は、1950年が42.5%、1960年が57.7%、1970年が82.1%、1975年が91.9%です[4]。100人のうち約42人だった進学が、25年で約92人になった計算で、2倍を少しこえます(91.9÷42.5≒2.2)。2025年は98.6%です。その年に卒業した人の割合で、前の年以前の卒業者は含まれません。

ほとんどの人が進む道に近づくほど、どの学校に入るかは大きな関心ごとになります。学制百年史は、高校や大学への進学率の上昇に伴って入試競争が年々激しくなり、選抜のあり方がしばしば大きな社会問題になったと述べています[2]。特定の学校への志願の集中や、過度の受験準備教育への批判も高まりました。

ここで押さえたいのは、資料が背景に挙げるのが進学者の増加だという点です。一度決めれば終わりではなく、状況が変わるたびに選び方を見直す必要がありました。

見直しの手は、いくつかありました。受ける高校の範囲を決める、まとめて選ぶ、点数以外も見る。まずは「範囲」から見ていきます。

国立社会保障・人口問題研究所の表(文部科学省の学校基本調査による)では、中学校などの卒業者のうち高等学校等へ入学した者の割合は、1950年が42.5%、1960年が57.7%、1970年が82.1%、1975年が91.9%、1980年が94.1%、2000年が97.0%、2025年が98.6%である[4]。1950年から1975年までの25年で、91.9÷42.5≒2.2倍になった。100人のうち約42人が約92人になった、と言いかえてもよい。

この数字には定義がある。過年度卒業者は含まず、時期によって通信制課程の扱いも異なる[4]。年ごとの値を別の資料と並べるときは、定義をそろえて比べる必要がある。例えば、文部科学省の別資料にある1974年の90.7%は、この表とは定義が異なる値なので、表の1975年の91.9%とそのまま並べて増減を論じることはできない。

進学が当たり前に近づくほど、入試の結果の重みは増す。学制百年史は、進学率の上昇に伴って入試競争が年々激しくなり、選抜のあり方がしばしば大きな社会問題になったと述べる。特定校への志願集中と、過度の受験準備教育への批判も高まった[2]。資料が背景に挙げるのは、進学者の増加である。

では、増えた志願者を前に、どんな手が打たれたのか。まず、受ける範囲を決める試みを見る。

4. 「どこの 学校を うけるか」を、まちごとに 決めたら?

4. 受ける高校の範囲を決めたら:学区と学校群の試み

4. 受ける範囲を決める:学区の拡大と、学校群という組み合わせ

人気の 学校に 志願者しがんしゃが あつまると、こまります。そこで 使われた のが 学区です。「この 地いきに 住む 人は、この 高校を うける」と 決める はんいの ことです。

1952年の 調べでは、33の 府県ふけんの うち 17が、1つの 高校に 1つの 学区を わりあてる 小さな 学区でした。のこりの 16は、もう 少し 広い 学区など でした。

東京都では、1960年代の おわりごろに、学校群がっこうぐんという やり方が はじまった と されます。2〜3校を 1つの「群ぐん」に まとめ、うける 人は 学校では なく 群ぐんを うけます。合格ごうかくすると、群ぐんの 中の どれかの 学校に 分けられます。有名な 学校に 人が 集まりすぎるのを、やわらげる ことが ねらいだった と いわれます。

1971年の 春には、こうした やり方が 8つの 都や 府県ふけんで おこなわれて いました。いっぽう、さいごまで 小さな 学区を つづけた 京都府ふも、1985年に やめました。

受ける高校の範囲を決める考え方が、学区(通学区域)です。小学区制は、1つの高校に1つの学区を割り当てます。1952年度の調査では、33府県のうち17が一校一学区の小学区制、16が中学区制、または小学区と中学区の併用でした。拡大を考える県もかなりありました[1]。

その後、小学区制は減っていきます。最後まで小学区制を守っていた京都府も、1985年(昭和60年)に廃止しました[3]。

東京都では1960年代の終わりごろ、学校群制度が始まったとされます(導入年は、資料により1967年度とも1969年とも書かれ、はっきりしません)。学区の高校2〜3校を「群」にまとめ、受験生は学校ではなく群を受けます。合格すると、群の中のどれかの学校に振り分けられる仕組みです。名門校への集中をやわらげ、学校間の差をやわらげることがねらいだったとされます[8]。1971年(昭和46年)の春には、学校群制度などの総合選抜が八つの都府県で行われていました[2]。

「どの学校を受けるか」の自由と、人が一部の学校に偏らないこと。この二つの両立を、地域ごとに別の形で探っていたことが分かります。ただ、範囲を決めても、選ぶ物差しそのものの問題は残ります。

志願の集中を和らげる手段のひとつが、通学区域(学区)である。1952年度の調査では、33府県のうち、一校一学区の小学区制が17、中学区制または小・中学区の併用が16で、拡大を考える県もかなりあった[1]。当初は小学区制が多く、その後、中学区・大学区または併用が増えた。最後まで小学区制を保った京都府も、1985年(昭和60年)に廃止した[3]。

東京都の学校群制度は、学区内の高校2〜3校を「群」にまとめ、受験生は学校でなく群を受け、合格後に群内の学校へ振り分けられる仕組みである。名門校への集中や学校間格差を和らげることが狙いとされる[8]。導入年は1967年度とする記述と1969年とする記述に割れるため、ここでは1960年代後半とする。学校群などの総合選抜は、1971年(昭和46年)春に八都府県で実施されていた[2]。

確かなのは、「どの学校を受けるか」の自由と、志願が一部に偏らないことの両立を、地域が違う形で探っていたことである。範囲を決める工夫でも解けない問題が残る。選ぶ物差し自体をどうするか、という問題だ。

5. 1回の 試験しけんの 点数だけで 決めない くふうは?

5. 一回の点数だけで決めない:調査書、推薦、業者テストの偏差値

5. 物差しを増やす:調査書の尊重から、偏差値偏重の是正、業者テストの排除まで

1966年、文部省もんぶしょうは 通達つうたつで、中学校の 調査書ちょうさしょを 大切に する ことを しめしました。調査書ちょうさしょは、中学校の 先生が 書く、ふだんの 成績せいせきや ようすの 記ろくです。

そのころ、試験しけんの 教科は 年々 へって、多くの 県が 調査書ちょうさしょを、試験しけんと おなじ くらい、または もっと 大切に するように なりました。

1984年には、国が「面接めんせつや 推薦すいせんも 使おう」と 知らせました。偏差値へんさち(みんなの 中で 点数が どのあたりか を しめす 数字)に たよりすぎる ことを 直す ためでした。

1993年の 知らせでは、業者ぎょうしゃが 作る テストの けっかを 入試にゅうしに 使っては いけない、と されました。スポーツや 文化の 活動、ボランティアなどの がんばりを 見る くふうも、すすめられました。

「報告書ほうこくしょだけ」から 出発した 入試にゅうしは、1回の 試験しけんだけでも なく、いろいろな ものさしで 選えらぶ 方向へ 近づいて きたのです。

1966年(昭和41年)、文部省は「公立高等学校の入学者選抜について」という通達を出しました。中学校長が送る調査書を十分に尊重すること、学力検査の教科は都道府県が実情に応じて定めること、が主な内容です[3]。調査書とは、中学校での教科の成績や活動などの記録です。

昭和40年代の初めには、学力検査の教科が年々減り、多くの都道府県が調査書を学力検査と同等以上に重んじるようになりました。全都道府県で5教科の実施がそろったのは、1986年度(昭和61年度)です[2]。

1984年(昭和59年)7月の通知は、調査書の教科成績以外の記録、面接、推薦入学を積極的に使うことを求めました。学力検査の方法や結果の利用も、学校・学科の特色に応じて工夫するよう示しています。多様な選抜で、いわゆる「偏差値偏重」の弊害を直そうとしたものです[3]。偏差値は、テストの得点が全体の中でどの位置にあるかを示す数字で、業者のテストでも出されていました。

1993年(平成5年)2月22日の文部事務次官通知は、さらに具体的な線引きを示しました。高校が中学校に業者テストの偏差値を求めてはならないこと、業者テストの結果を選抜に使ってはならないことを、1994年度の入学者選抜から求めています。学校・学科ごと、あるいは定員の一部ごとに学力検査の教科や配点を変えるなど、複数の尺度で選ぶことも示しました[5]。

推薦入学は、専門学科だけでなく普通科でも使うよう求められました。スポーツ・文化活動・ボランティア活動などの実績を評価する工夫も例に挙がり、学力検査には論述式や、思考力・分析力を問う出題を増やすことが求められています。面接の積極的な活用も挙がっています[6]。

「報告書だけ」から始まり、試験が戻り、いまは複数の物差しで選ぶ方向へ進んできました。物差しが増えると、何をどれだけ重く見るかが問題になります。それはいまの入試にどう表れているのでしょうか。

1966年(昭和41年)3月に文部省は「高等学校入学者選抜方法に関する会議」を発足させ、7月に通達「公立高等学校の入学者選抜について」を出した。中学校長が送る調査書を十分に尊重すること、学力検査の教科は都道府県が実情に応じて定めることが主な内容である[3]。同じころ、学力検査の実施教科は年々減り、多くの都道府県が学習記録(調査書)を学力検査と同等以上に重視した。全都道府県が5教科の実施になったのは1986年度であり、教科が減った時期と、5教科にそろった時期を混同してはならない[2]。

1984年(昭和59年)7月の通知は、調査書の教科成績以外の記録、面接、推薦入学の積極的な活用を求め、学力検査の方法や結果の利用も学校・学科の特色に応じて工夫するよう示した。多様な選抜で、いわゆる偏差値偏重の弊害を是正しようとしたものである[3]。偏差値は、得点が集団の中でどの位置にあるかを示す指標で、業者テストでも出されていた。

1993年(平成5年)2月22日の文部事務次官通知(文初高第243号)は、さらに具体的な線引きを示した。高校が中学校に業者テストの偏差値を求めないこと、業者テストの結果を資料として用いた選抜を行ってはならないことを、1994年度の入学者選抜から求めている。あわせて、学校・学科ごと、定員の一部ごとに教科や配点を変えるなど複数の尺度で選ぶこと、調査書を真に必要な事項に絞ることも示した[5]。

推薦入学は、専門学科だけでなく普通科でも、教育上の特色づくりと並行して活用するよう求められた。スポーツ・文化活動・ボランティア活動などの実績を評価する工夫、論述式や思考力・分析力を問う出題、面接の積極的な活用も挙がっている[6]。

報告書だけから出発した制度が、一回の学力検査を挟んで、複数の物差しを持つ形になった、と整理できる。では、その物差しは、いまどのように配合されているのか。

6. いまの 入試にゅうしは、県ごとに どう ちがうの?

6. いまの入試は県ごとに違う:学力検査と調査書の割合を比べると

6. 学力検査と調査書の配合は、県ごと学校ごとに違う

いまの 入試にゅうしは、県や 学校で ちがいます。学力検査がくりょくけんさの 点と 調査書ちょうさしょの 点を、どんな 割合わりあいで 合わせるかも、ちがいます。

たとえば、ある 資料しりょうでは、北海道の ふつうの 入学者の 選えらび方の 7わりほどが「学力 : 調査書ちょうさしょ = 5 : 5」でした。岩手県は 選えらび方ごとに 5:5、3:7、7:3と ちがいました。これは 2021〜2022年度の ひとつの ばあいで、年に よって かわります。

また、どの 学校を うけられるかの はんいは、2002年に ほうりつが かわって、高校を 受け持つ 教育委員会が 決めやすく なった と されます。ひとつの 県を 1つの 学区に する ところも ふえました。

いまの都道府県の入試は、学力検査と調査書の割合が、県ごと、学校ごとに違います。奈良県がまとめた資料(全国の協議会の資料をもとにした令和3・4年度、つまり2021〜2022年度の一覧)では、北海道のふつうの入学者選抜のおよそ70%が「学力 : 調査書 = 5 : 5」、岩手県は選考ごとに5 : 5・3 : 7・7 : 3とされています[9]。これは一例で、年度によって変わります。

学区の考え方も変わりました。2002年の地方教育行政法の改正で、通学区域に関する旧第50条が削除され、高校を所管する教育委員会の判断にゆだねられた、とされます。そのため学区の拡大や全県一学区化が広がり、2009年8月の栃木県の調査では、47都道府県のうち20都県が全県1学区でした[10]。この数は2009年のもので、いまの数ではありません。

1948年の「報告書だけ」から、試験の復活、点数以外の物差し、範囲の決め方の変化へ。入試は、70年あまりのあいだに何度も作り直されてきました。

現在の都道府県の入試では、学力検査と調査書の配合が、県ごと・学校ごとに異なる。全国高等学校入学者選抜改善協議会の資料をもとにした奈良県の一覧(令和3・4年度、2021・2022年度)では、北海道の一般入学者選抜の約70%が「学力 : 調査書 = 5 : 5」、岩手県は選考ごとに5 : 5・3 : 7・7 : 3とされている[9]。これは一例で、年度によって変わる。

学区についても、変化があった。2002年の地方教育行政法の改正(旧第50条の削除)により、通学区域は高校を所管する教育委員会の判断にゆだねられたとされる。学区の拡大や全県一学区化が広がり、2009年8月の栃木県調査では、47都道府県中20都県が全県1学区だった[10]。この数は2009年当時のもので、現在の数ではない。

報告書だけの出発点から、学力検査の復活、調査書の尊重、推薦・面接・複数尺度の導入、学区の変更まで、共通するのは、志願者の増加や社会の要請に合わせて「どう選ぶか」が組み直されてきたことである。いまの配合も、その途中の姿として読める。

7. 自分の 県の 入試にゅうしは、どんな 形に なって いる?

7. 自分の県の入試要項で、学力検査と調査書の割合を探す

7. 自分の県の入試要項を読み、配合の理由を考える

入試にゅうしの 形は、ずっと 同じでは ありませんでした。人が ふえたり、学校に 人が あつまったりする たびに、作り直されて きました。

自分の 県の 教育委員会の ホームページには、入試にゅうしの「要項ようこう」(きまりを まとめた もの)が のっている ことが あります。さがして みたい ことが 3つ あります。学力検査がくりょくけんさの 教科は 何か。調査書ちょうさしょは どれくらい 大切に されて いるか。推薦すいせんや 面接めんせつの 形は あるか。

おうちの 人に、自分たちの ころの 入試にゅうしは どうだったか 聞いて みるのも いいですね。県の 要項ようこうを 見ると、70年の 作り直しの つづきが 見えて きます。

入試の形は、いまも変わり続けています。自分の県の姿を知るには、県の教育委員会が公表している入学者選抜の要項を見るのが近道です。公表の仕方は県ごとに違います。

探すのは、学力検査の教科と調査書の点数の割合、推薦や特色のある選抜の有無と条件、受けられる学区のきまりの三つです。この記事の流れが、そのまま自分の県の中に見つかります。

割合が「5 : 5」なら、一回の試験とふだんの記録が同じ重さで見られていることになります。「3 : 7」なら、記録のほうが重い選び方です。その理由は、県の資料や中学校の先生の説明に書かれていることがあります。見つけたら、この記事のどの時期の考え方に近いかを考えるのも、面白いでしょう。

入試の形は、いまも変わり続けている。自分の県の姿は、県の教育委員会が公表している入学者選抜の要項で確かめられる。見る点は、学力検査の教科、学力検査と調査書の割合、推薦や特色選抜の有無と条件、通学区域のきまりである。公表の仕方は県ごとに違う。

割合が5 : 5なら、一回の試験と日ごろの記録が同じ重さで扱われる。3 : 7なら記録が重い。なぜその配合なのかは、県の資料や学校の説明に書かれている場合がある。それを、1966年の調査書の尊重、1984年の偏差値偏重の是正、1993年の複数尺度といった流れのどれに近いか、照らして読むことができる。

原典に当たりたければ、出典欄の学制百年史と1993年の通知がある。通知の原文では、「業者テスト」や「推薦入学」について、どんな言葉で線が引かれているかが読める。

しらべた もとの じょうほう

参考にした情報源

参考にした情報源と、その使い方

本文で使った資料です。年度や数値は、各資料の記載にもとづきます。検索結果の抜粋だけで読んだ資料([7][8][9][10])は、本文でも「とされる」「一例」としています。

  1. 文部科学省「学制百年史 新制高等学校入学者の選抜」 https://www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/html/others/detail/1317748.htm (1948年の通達、1950年度、1951年の通達、1952年度の学区調査)
  2. 文部科学省「学制百年史 高等学校入学者の選抜」 https://www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/html/others/detail/1317816.htm (1956年の法令、1963年の改正、入試競争、教科の減少、総合選抜)
  3. 文部科学省「学制百年史 高等学校入学者選抜方法の改善」 https://www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/html/others/detail/1318328.htm (1966年の通達、京都府の学区、1984年の通知)
  4. 国立社会保障・人口問題研究所「人口統計資料集 表11-3」(文部科学省 学校基本調査) https://www.ipss.go.jp/syoushika/tohkei/Data/Popular2026/T11-03.files/sheet001.htm (高等学校等への進学率)
  5. 文部科学省「高等学校の入学者選抜について(通知)文初高第243号」 https://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/kaikaku/04120702/001.htm (1993年の通知:業者テスト、複数の尺度)
  6. 文部科学省「高等学校の入学者選抜について(通知)」 https://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/clarinet/004/002/005.htm (1993年の通知:推薦入学、論述式、面接)
  7. 文部科学省「戦後における高等学校入学者選抜制度等の経緯」 https://www.mext.go.jp/content/000231226.pdf (1948年の通達の考え方。検索抜粋で読んだ記述)
  8. PRESIDENT Online 学校群制度の記事 https://president.jp/articles/-/54184 (東京都の学校群制度のしくみとねらい。導入年は資料により異なる)
  9. 奈良県「各都道府県入学者選抜における学力検査・調査書の割合」 https://www.pref.nara.jp/secure/285141/5_4_1_nyugakushakentou.pdf (令和3・4年度の割合の一例)
  10. 佐賀県教育委員会の資料(通学区域) https://www.pref.saga.lg.jp/kyouiku/kiji00332852/3_32852_5_20123279623.pdf (2002年の法改正と全県1学区の数。2009年当時の値)

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