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ここにあるのは、だれかが実際に調べ、考え、作ってきたことを集めたメモです。気になったら、ページの下の「参考にした情報源」から、もとの本や記事、それを生み出した人たちに、直接ふれてみてください。このメモには書ききれないおもしろさが、そこにあります。

むかしの かいどうの 松まつ並木なみきは、なんの ために うえたの?

松並木は日かげのためだけ? 枯れたら沿道の人が苗木を植えた

街道の松並木は何のために植えられたか:境界説・日除け説と、植えたあとの維持

分野:歴史・文化

むかしの かいどうには、松まつの 並木なみきが つづいて いました。「たびびとに かげを つくるため」と 言われる ことが 多いのですが、国の しりょうには「東海道の 並木なみきの いちばんの ねらいは べつ」と する 考えが 書いて あります。いったい どういう ことでしょう。この きじを 読むと、木を うえた わけの 考えが 分かれて いること、うえた あとも 人びとが 守って きたことが 分かります。

旅人のための日かげだと思われがちな街道の松並木について、国の研究機関がまとめた資料は、東海道の並木のいちばんのねらいは「道の土地を畑に取られないための境目」だったとする見かたを書いています。木を植えた理由には複数の説があります。そして、枯れた木を報告し、苗木を植える役目は、沿道の人たちに課されていました。住民はどのように並木を守ったのでしょう。今も残る並木を町の人が支えていることも分かります。

街道の松並木は「旅人に木陰を与えるため」と説明されることが多い。ところが国土交通省の国土技術政策総合研究所の事例集は、東海道に並木を設けた最初のねらいは日除けではなく、道の敷地と沿道の田畑との境を目に見える形にすることだったとする[1]。ただし、これは一つの資料の見解にすぎず、ほかの資料は別の目的も挙げる。では、目的はどう説明されてきたのか。植えたあとの木を誰がどう守ったのか。並木の目的をめぐる説の分かれ方と、江戸時代から今に至る維持のしくみが分かる。

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1. かげの ためだけ なの?

1. 松並木は日かげのため、と言いきってよいのか

1. 日除けという通説と、国の資料が挙げる別の理由

なつの あつい 日、たびびとが 松まつの 木かげで ひと休み。そんな ようすを おもいうかべる 人も いるでしょう。

ところが、国の けんきゅうじょが まとめた しりょうは、ちがう ことを 書いています。東海道の 並木なみきを ならべて うえた いちばんの ねらいは、道の 土地を はたけに されないための 境目さかいめだった、と いう 考えです。日かげや 風よけは、おまけの はたらきだった、と その しりょうは 見ています。

おまけ? 境目さかいめ? どういう ことでしょう。

夏の暑い日に、旅人が松の木かげで一休みする。街道の松並木と聞いて、そんな場面を思いうかべる人は多いでしょう。

ところが、国土交通省の国土技術政策総合研究所がまとめた事例集は、東海道に並木を設けたいちばんのねらいは、道の敷地を農地に使わせないための、道と民間の土地との境目だったとする見かたを書いています。旅人の日よけや風よけは、副次的な役割だったという見かたです[1]。

日かげのためだと習った人にとっては、意外な話かもしれません。ただし、これは一つの資料の見かたです。この章ではまず、境目とはどういうことかを見て、次に、ほかの資料はどう説明しているのかを並べていきます。

夏の街道で、旅人が松の木陰に腰をおろして休む。並木と聞くと、たいていはこの場面が浮かぶ。だから「日除けのために植えた」という説明は、疑われることが少ない。

ところが、国土技術政策総合研究所の事例集(国土交通省の研究機関がまとめたもの)は、東海道の並木を設けた本来の理由について、道の敷地を農地などへ転用させないための官民の境界だったとする見解を示す。旅人の日除けや風除けは、あくまで副次的な役割という位置づけである[1]。

この一文だけで日除け説が否定されるわけではない。同じ並木について、別の資料は別の目的を挙げており、境界説もまた一つの資料の見解として読む必要がある。では、境界とは具体的にどういう状況を指すのか。まずそこから見ていく。

2. みちが はたけに けずられて いた?

2. 道の土地が畑に食いこんでいた、という記録

2. 道の敷地が田畑に切りこまれていた:境界説の根拠

その しりょうによると、木を うえる まえの 東海道は、まわりの 田や はたけに、道の 土地が ところどころ けずられて いたと 記ろくされて いるそうです。

道の 土地は みんなの もの、はたけは まわりの 人の もの。ほうって おくと、道は すこしずつ せまく なって しまいます。そこで 道の りょうがわに 木を うえれば、「ここまでが 道」という せんが だれの 目にも 見えます。

江戸えどの ばくふが 木を うえるように 言ったのは、慶長けいちょう9年(1604年)と いわれて います。うえる 木は 場所で ちがい、海ぞいの 東海道では しおかぜに 強い クロマツ、山の 中の 箱根では しめった ところに あう スギでした。

では、木かげは ほんとうに おまけ だったのでしょうか。

この資料によると、並木ができる前の東海道は、沿道の田畑に道の敷地が切りこまれていた、と記録されているそうです[1]。道の敷地と、民間の田畑。その境がはっきりしないと、道幅はじわじわ狭くなってしまいます。

そこで、道の両側に木を植えます。木の列が並べば、「ここから内側が道」という線が、だれの目にも見えるようになります。木が境目のしるしになる、という考え方です。

江戸幕府は慶長9年(1604)に、一里塚の設置や並木の植栽を命じたとされます[3]。植える木は場所によって選ばれました。海ぞいの東海道では、土に合い潮風にも強いクロマツ。箱根のように標高の高い山の中では、湿った環境に合うスギです[1]。

木は、道を守る境目のしるしになったのかもしれません。では、日かげや道しるべの役目は、ほかの資料でどう説明されているのでしょうか。見てみます。

境界説の根拠として、同資料は、並木ができる前の東海道では沿道の田畑に道の敷地が切りこまれていた、という記録があると述べる[1]。道の敷地が田畑に使われてしまうと、道幅は少しずつ狭くなる。そこへ木の列を植えれば、官の土地と民の土地の線が、誰の目にも見えるようになる。この理屈が、境界説の骨組みである。

制度の面では、江戸幕府は慶長9年(1604)に、街道整備として一里塚の設置や並木の植栽を命じたとされる[3]。国総研の資料の年表も、同年に街道の両側へクロマツやスギを植えたと整理する。ただし同じ年表には、伝馬制を慶長6年(1601)、日本橋を起点とする一里塚の設置を慶長14年(1609)とする記載もあり、年の記し方は資料により少しずれる[1]。そのため、年は「頃」を添えて読むのが無難である。

樹種は、場所の条件で選ばれた。クロマツは土壌に合い潮風に耐えるため、海沿いの東海道らしい景観につながった。標高の高い箱根の山中では、湿潤な環境に合うスギが植えられた[1]。

とはいえ、境界説は国総研の事例集に見える一つの説明である。原典の古文書にまで当たった結果としてではなく、事例集の記述として読むべきだろう。ほかの資料は、並木の目的をどう説明しているのか。

3. ほかにも せつめいが あるの?

3. 木かげ、道しるべ、将軍の通行:説は一つに決まらない

3. 並木の目的は一つに決まらない:日除け・道しるべ・景観・資源

木を うえた わけは、ひとつに きまって いません。けんきゅうの 本には、むかしから こう 言われて きたと あります。夏は 木かげで 休める。冬は 雪が つもるのを ふせぐ。道に まよわない。

さいきんは、ほかの 考えも 出ています。将軍しょうぐんが とおるのを いわい、将軍しょうぐんの 家が さかえるように いのる ながめを つくった、という 考えです。のちに 木が ざいもくや 燃料ねんりょうに 使われ、それが かいどうを たもつ 助けに なった、という 考えも あります。

ある けんの かんこうの 会は、たびびとの 道しるべに なり、かげで 休める 場所にも なっただろう、と 書いています。

どれか ひとつだけが 正しい、というより、いろいろな はたらきが かさなって いたのかも しれません。

並木の目的については、研究者のあいだでも説が分かれています。歴史地理学の論文には、従来の見かたとして、夏は緑陰をつくって旅人を休ませ、冬は積雪を防ぎ、道を保護して迷わないようにする、という説明が紹介されています[2]。

近年は別の見かたも出ています。一つは、将軍の通行を祝い、徳川家の繁栄を祈る街道の景観をつくるために植えた、という見かたです。もう一つは、のちに払い下げられた並木が、材木や燃料という資源として、街道を維持する役割を担ったという見かたです[2]。

観光協会の案内にも、松並木は旅人の道しるべになり、夏の日ざしをさえぎり、風雨から身を守り、休息の場にもなっただろう、とあります[4]。「だろう」という推測の書き方であることも、見落とさないでおきたい点です。

境目、緑陰、道しるべ、景観、資源。どれか一つが正解というより、いくつもの役目が重なっていたと考えるほうが、自然かもしれません。ただ、どの目的にしても、木が育つまでには長い年月がかかります。植えた人は、そのあとどうしたのでしょうか。

並木の目的を整理した歴史地理学の論文(2002年)によると、従来の見解は、夏の緑陰と冬の積雪防止による旅人の休息、道の保護、道に迷わないための目印、というものだった[2]。神奈川県観光協会の案内も、松並木は道しるべになり、夏の日差しや風雨をしのぐ休息の場になったのだろう、と書く[4]。ただし後者は「のでしょう」という推測の表現で、断定ではない。

これに対して近年は、別の方向からの見解が示された。一つは、並木の植栽を、将軍の通行を祝い徳川家の繁栄を祈念するための街道景観の創出とみなす見解である。もう一つは、後年に払い下げられた並木が、材木や燃料という資源として街道の維持を支えたとする見解である[2]。見解の提示者の名は論文内で姓だけの表記なので、ここでは人名を挙げない。

境界説(国総研)、休息・道しるべ説、景観説、資源説。この4つは必ずしも互いを打ち消さない。境目の役目を果たす木が、結果として木陰や目印にもなり、後年には資源にもなる、という重なり方は十分にありうる。一方で、どの説も一つの資料の見解であり、定説として扱える段階ではない。

では、目的が何であれ、木そのものはどう育てられたのか。植えて終わりなら、並木は数十年でところどころ途切れてしまうはずである。ここに、江戸時代の並木の意外な側面がある。

4. うえた あとは だれが まもるの?

4. 家の前の木が枯れたら、沿道の人が苗木を足す決まり

4. 植えたあとの管理:沿道の住民に課された補植の義務

木は、うえて おしまい では ありませんでした。木が かれたら、道ぞいの 人が 小さな 木を うえて おぎなう きまりが あったのです。いたんだ 木は、役所に 知らせる ことも 言われて いました。

木を きずつけると、おもい ばつを 受ける ほど きびしく 守られて いたと いいます。木に さわったり、並木なみきの そとがわを あるいたり する ことも、きんしされて いました。

木は、高さ 1メートルぐらいの 土手の 上に うえられました。

こうして できた 並木なみきには、年を とった 木、そだった 木、小さな 木が まざって いました。いまの ように 同じ かんかくで ならぶ 並木なみきとは すがたが ちがい、木かげは こかった、と 書かれて います。

では、そんな 並木なみきは、いまも あるのでしょうか。

江戸時代、幕府が植えさせた松が家の前に一本あったとします。その松が、ある年、立ち枯れてしまいました。放っておくわけにはいきませんでした。

幕府は並木を整えるおふれをたびたび出し、住民には、傷んだ木を役所に報告し、すき間に苗木を植えることが義務とされました[2]。管理するのは、その木のそばに住む人たちです[1]。

保護はかなり徹底していて、木を傷つけると重い罰を受けるほどだったといいます。幕府の命で、木にふれることも、並木の外がわを歩くことも禁じられていました。クロマツは、高さ1mほどの土手の上に植えられました。静岡県の袋井には、いまも1m程度の高さの土手が残っています[1]。

この決まりのもとで、実際の並木は、老木と成木と苗木がいりまじった、重なりのある姿だったとされます。近代につくられる等間隔の並木とは趣がちがい、緑陰が濃かったともいわれます[1]。

植える人と守る人が、同じ町の人でした。そのしくみは、幕府がなくなったあと、どうなったのでしょうか。

江戸時代の並木は、植えっぱなしでは残らなかった。実際には、幕府が並木整備の触書をたびたび出し、住民は並木の保護につとめ、立ち枯れなど傷んだ木を役所に報告し、木と木のすき間には苗木を植える義務を負った[2]。

国総研の事例集は、管理が地先の住民の義務だったこと、枯れた木は補植しなければならなかったことを述べる。その結果、並木は老木・成木・苗木がまじる、重層的でボリュームのある姿になり、後世の等間隔の並木とは趣が異なって、緑陰が濃かったとされる[1]。保護の徹底ぶりは、傷つけると重い刑罰を受けるほどだったと記されるが、刑の具体的な中身まではこの資料に書かれていない[1]。

制限は管理者側だけではない。クロマツは高さ1m程度の土塁の上に植えられ、当時は幕府の命で、樹木に触れることも並木の外側を歩くことも禁じられていた。この記述は東海道のもので、袋井には1m程度の土塁が残っている[1]。土塁の上の木の列は、遠くからでも道の縁として目に入ったと想像できるが、これは資料の記述ではなく筆者の推測である。

この仕組みでは、木を植えた官と、守る民とのあいだに、日常の作業のつながりがあった。では、幕府や宿場の制度がなくなったとき、この仕組みはどうなったのか。

5. いまも のこって いる 松まつ並木なみき

5. 明治以降に減った並木を、町の人が守り直した

5. 失われた並木と、町の人びとによる保全:御油・袋井・三島

明治めいじに なって、宿場の せいどが なくなり、鉄道が とおると、並木なみきは へって いきました。道を ひろげる とき きられたり、ざいもくや ねんりょうに されたり した ためです。いま、むかしの すがたで 見られる ところは、数か所しか ないと いいます。

それでも、のこそうと した 人が いました。愛知県あいちけんの ある 町では、たくさんの 木が きられそうに なった とき、町の 人が 国に たのんで、てんねんきねんぶつに して もらいました。そのあと、町の 人たちの 会が、わかい 松まつを 一どに 219本 うえ足した こともあります。

しずおかけんの ある 町でも、町の 人たちの 会が 並木なみきを 守り そだてて います。

ある ところでは、江戸えど時代の 松まつは 1ぽんも のこって いません。それでも 町の 人が わかい 木を うえ足し、並木なみきの けしきを たもって います。

明治になると、宿場の制度がなくなり、鉄道も開通しました。旧東海道の松並木は、道路の舗装の下地や、木材や燃料に使われたり、道を広げるときや沿道の建物の出入りのために撤去されたり、伊勢湾台風などの災害で倒れたりして、次々と姿を消し、いま見られるのは数か所だといいます[1]。

愛知県の御油では、宿場制度がなくなったあと、松並木がなかば放置されたものの、町の人が自発的に守りました。昭和19年(1944)11月には、多くのクロマツが木材や燃料として切られるのを心配した町の人が、天然記念物の指定を働きかけ、実現しました。昭和47年(1972)には御油松並木愛護会ができ、昭和50年(1975)には、愛護会がクロマツ219本を一度に補植しました[1]。御油の並木は、慶長9年に徳川家康の命で植えられたとされるクロマツで、国の天然記念物です。約600mに約300本あると案内されています[5]。ただし、今の木がすべて慶長9年のものというわけではなく、補植が重ねられています。

静岡県の袋井では、旧東海道に約2,800mにわたり約200本の松並木が続き、市が景観重要樹木に指定しました。地元の愛護団体が守り育てていることも、指定の理由の一つです[6]。三島の箱根旧街道には、江戸時代のクロマツは1本も残っていませんが、地元の補植と害虫の駆除で、松並木の景観が保たれています[1]。

江戸時代は、並木を守る役目が沿道の住民に課されていました。いまは、町の人が自分で名乗り出て、同じ役目を引き受けているように見えます。

幕府の枠組みがなくなったあと、並木はどう扱われたのか。旧東海道の松並木は、明治以降の宿場制度の廃止や鉄道の開通などを経て、今は数か所しか見られない。失われた理由として、舗装の路床への利用、木材・燃料への利用、道路拡幅や沿道建物への出入り確保のための撤去、伊勢湾台風などの災害による倒壊が挙げられる。「数か所」は同資料の書き方で、正確な箇所数ではない[1]。

愛知県の御油では、明治の宿場制度の解体後に松並木がなかば放置されたが、町の人が自発的に守った。昭和19年(1944)11月、多くのクロマツが木材や燃料として切られることを心配した町民が、天然記念物の指定を国に働きかけ、実現した。昭和47年(1972)には御油松並木愛護会が結成され、昭和50年(1975)には愛護会がクロマツ219本を一斉に補植している[1]。御油の並木は、慶長9年に徳川家康の命で植えられたとされるクロマツで、国の天然記念物であり、約600mに約300本と案内される[5]。ただし今の木のすべてが当時のものではない。補植を重ねた並木である。

愛知県の知立の松並木は慶長9年頃の整備と考えられ、昭和40年代に水はけをよくする排水管の埋設とマツの補植が行われた。知立市は平成24年度と平成30年度に毎木調査を行い、遺伝子解析調査と保存活用計画の作成を進めている(文化遺産オンライン記載時点)[3]。

静岡県の袋井市では、旧東海道の沿線約2,800mに約200本の松並木が続き、市が景観重要樹木に指定した。地域の愛護団体による愛護活動で大切に守り育てられていることも、指定の理由に挙がる[6]。三島(箱根旧街道・初音ヶ原)には江戸時代のクロマツが1本も残っていないが、地元の補植で景観が保たれ、排ガスやマツノザイセンチュウ(松の中で増える線虫で、松枯れの原因)による立ち枯れにも、補植と害虫駆除が続く[1]。

ここで、資料の数字から間隔を計算してみる。御油は約600mに約300本なので、単純に割ると約2m間隔である。袋井は約2,800mに約200本で、約14m間隔になる。それぞれ案内や指定資料の概数であり、両側を数えたかなど数え方がそろっているとは限らない。数え方が異なる可能性があり、この計算は密度や管理の違いを比べる根拠にはならない。並木の長さと本数が資料ごとにどう書かれているかを見る、練習として読んでほしい。

6. ちかくの ふるい 道で やってみよう

6. 家の近くの古い道で、木の間隔を歩いて測る

6. 自分の町の古い道で、並木と土手を探す

やってみよう。家の ちかくに、ふるい 道や、木が ならんで いる ひろい 道は ありませんか。

木と 木の あいだを あるいて、何歩か かぞえてみます。ぜんぶ 同じ 歩数ですか。ふとい 木と ほそい 木が まざって いませんか。木の 下に 土手の ような ふくらみは ありませんか。

かならず 歩道を あるき、車に 気を つけてください。木の 根もとの 土手や、小さな 木は ふまないように します。

その 木は、だれが うえて、だれが 守って きたのでしょう。

近所に昔からの道や、木が並んでいる広い道があれば、歩いて確かめられます。

木から木まで何歩かを数え、数えた歩数がそろっているかを見ます。間隔がそろっているかどうかは、並木がどう植えられたかを考える手がかりになります。ただし、それだけでは決められません。幹の太さも見くらべて、老木と若木がまじっているかを調べます。木の根もとに、土手のような高まりがあるかも見どころです。歩道を歩き、車に気をつけてください。

木の由来を知りたいときは、市や町の文化財の案内や図書館の郷土資料が手がかりになります。「知立の松並木」は文化遺産オンラインで読めます[3]。

あなたの町の古い木は、だれが、いつから、守ってきたのでしょうか。

自分の町に旧街道や古い並木があるなら、現地で確かめられることがある。木と木の間を歩測して間隔がそろっているか、幹の太さに老木と若木が混じっているか、根元に高さ1m前後の土手(土塁)に当たる高まりがあるか。間隔がそろいすぎている並木は、補植の際に等間隔を意識して植え直した可能性がある。これは推測だが、記録と照らす手がかりになる。歩道を歩き、車に注意すること。

記録を当たるなら、国土交通省の国土技術政策総合研究所の事例集(東海道の並木の沿革と各地の維持管理を整理している)[1]と、歴史地理学44巻4号の論文(並木と幕府の山林の関係を論じる)[2]が出発点になる。個別の並木は、文化遺産オンラインや市町村の資料にあたる[3]。

木を植えた理由は一つに決まっていないが、守った人の記録は残っている。自分の町の並木は、誰がいつ補植したのか。

しらべた もとの じょうほう

参考にした情報源

参考にした情報源と、その使い方

本文で使った資料です。並木の目的は資料によって説明が分かれるため、複数の資料を比べて読んでいます。

  1. 国土交通省 国土技術政策総合研究所「規範事例集【道路編】」東海道の松並木の項 https://www.nilim.go.jp/lab/bcg/siryou/tnn/tnn0433pdf/ks043305.pdf (並木の本来の理由、住民の管理義務、各地の維持)
  2. 歴史地理学44巻4号「近世の街道並木と御林の関係」(2002) http://hist-geo.jp/img/archive/210_2.pdf (並木の目的の説の分かれ方、住民の義務)
  3. 文化遺産オンライン「知立の松並木」 https://online.bunka.go.jp/db/heritages/detail/567358 (慶長9年の命令、知立の整備)
  4. 神奈川県観光協会「歴旅」 https://kanagawa-kankou.or.jp/features/rekitabi352069 (日かげ・道しるべの説明)
  5. 愛知県観光サイト Aichi Now https://aichinow.pref.aichi.jp/spots/detail/43/ (御油の松並木の概要)
  6. 袋井市 景観重要樹木の指定に関する資料 https://www.city.fukuroi.shizuoka.jp/material/files/group/1/siryou6.pdf (袋井の松並木と愛護団体)

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