1. どうして おんがくを きくだけの おみせが あったの?
1. なぜ「音楽を聴くだけ」の喫茶店が成り立ったのか
1. 輸入盤LPと高価なオーディオ ── 1杯のコーヒーで本場の音を聴けた条件
いちばんの わけは、レコードも、音を だす きかいも、とても たかかった ことです。1950ねんだいは、がいこくから きた ジャズの レコードが たかくて、いえで なんまいも そろえるのは たいへんでした[1]。
そこで おみせが、レコードと りっぱな スピーカーを よういしました。おきゃくさんは、コーヒーを たのむだけで、ほんばの ジャズを きく ことが できます。すきな きょくを おねがいできる おみせも ありました[1]。
みんなで ひとつの 音を きく ところは、たとえるなら、大きな スクリーンの ある えいが館に にて います。ただし ほんとうは、えいがと ちがって、きく ほうが きょくを えらべる おみせも ありました。
きっかけは、値段の高さでした。1950年代、輸入盤のジャズLPは高価で、家庭で何枚も揃えるのは簡単ではありませんでした。そこで店のほうが、何千枚ものレコードや、家庭では揃えにくい高価なオーディオを用意しました[1]。
客は、コーヒー1杯の代金で、本場のジャズのレコードを聴けます。リクエストを受けつけてくれる店もありました。そうなると店は、ただの飲食の場ではなく、ファンやミュージシャンの溜まり場にもなりました[1]。
クラシックの「名曲喫茶」も事情は似ています。ステレオやレコードが個人には高くて買いにくい時代に流行し、静かな鑑賞の場として、酒を出さない純喫茶の形をとる店が多かったとされます[6]。
同じ音を、同じ部屋で聴く
映画館にたとえるなら、大きなスクリーンと音響を、みんなで一度に味わう場所です。ただし映画館と違って、ジャズ喫茶には、リクエストで曲を選べる店があったことが特徴でした。
この種の店が成り立った条件は、装置と音源の価格にあった。1950年代は輸入盤のジャズLPが高価で、店は何千枚もの所蔵レコードや、家庭では揃えにくい高価なオーディオを備えた。客は1杯のコーヒー代で本場の録音を聴け、リクエストにも応じてもらえたため、ファンやミュージシャンの溜まり場になった[1]。具体的なLPの価格や当時の所得との比較は、この調べで使った資料には出ていないため、ここでは数字にしない。
名曲喫茶も、需要のしくみは同じだ。個人にはステレオやレコードが高価で買いにくい時代に流行し、店の音響機器でクラシックのレコードをかけ、コーヒーとともに鑑賞の場を提供した。静粛さが求められ、酒を出さない純喫茶の形をとる店が多い[6]。つまり「聴くだけの店」が成り立った条件の一つに、「高い物を一人ひとりが買う代わりに、店で共有する」という経済上の仕組みがあったと考えられる。
映画館にたとえると、大きな画面と音響をみんなで共有する場に近い。ただし映画館では上映作品を選べないが、ジャズ喫茶にはリクエストを受ける店があった点が異なる。では、この仕組みは、いつ・どこで始まったのだろうか。
2. にほん さいしょの ジャズきっさは どこに できたの?
2. 最初のジャズ喫茶は、どこで始まり、どう広がったのか
2. 1929年の本郷と、昭和10年代のレコード喫茶 ── 「約80軒」が数えているもの
1929ねん、東京の 本郷の 赤門の 前に、「ブラックバード」と いう おみせが できました。にほんで さいしょの ジャズきっさだと いわれて います[1][2]。
この ころの 音の きかいは、蓄音機でした。レコードを まわして、音を だす きかいです。
それから 数年の うちに、新橋や 上野、京橋にも、ジャズを かける おみせが つぎつぎ できました[1]。
昭和10ねんだいに なると、ジャズだけでなく、クラシックや タンゴを かける おみせも ふくめた「レコードきっさ」が、東京だけで 80けん いじょう あった ことが わかって います[1]。
日本で最初のジャズ喫茶は、1929年(昭和4年)に東京・本郷の赤門前で創業した「ブラックバード」だとされています。タイムアウト東京も「元祖は1929年に本郷でオープンしたブラックバードだといわれている」と書いており、複数の資料が一致しています[1][2]。ただし、この店の詳しい様子は、今回使った資料では分かりません。
当時の再生装置は蓄音機です。数年のうちに、新橋・上野・京橋などでも、蓄音機でジャズを流す店が次々に生まれました[1]。
「約80軒」は何の数か
名曲喫茶やタンゴの店も含めた「レコード喫茶」は、昭和10年代に最盛期を迎え、東京だけで約80軒以上が確認されています[1]。この80軒はジャズ喫茶だけの数ではなく、レコードを聴かせる店の全体です。
1926年創業の渋谷の「ライオン」も、この時代に始まった店のひとつです。ライオンについては、あとの章で出てきます。
最初のジャズ喫茶とされるのは、1929年(昭和4年)に東京・本郷の赤門前で創業した「ブラックバード」だ。Wikipediaは「とされる」、タイムアウト東京は「だといわれている」と書き、表現が一致している[1][2]。ただし、店主や所蔵レコードなど、この店の中身については、今回の資料の範囲では分からない。そのため、創業年も断定せず「とされる」と読む。
再生装置は蓄音機で、数年のうちに新橋・上野・京橋などにも同種の店が現れた[1]。その後、名曲喫茶やタンゴの店を含めた「レコード喫茶」は昭和10年代にピークを迎え、東京だけで約80軒以上が確認されている[1]。
この「約80軒」は読み方に注意が要る。ジャズ喫茶の数ではなく、クラシックやタンゴの店を含む「レコード喫茶」全体の数で、「確認されている」軒数にすぎない。実際の軒数は、これより多かった可能性もあるし、調べ方によって変わる。
では、このころに始まった店は、どんな人が通い、どんなことが起きたのか。次は、横浜・野毛の「ちぐさ」を見る。
3. やけて しまった おみせを、だれが もう一ど ひらいたの?
3. 焼けた「ちぐさ」を、客と演奏家が持ち寄ったレコードで再開させた
3. 横浜・野毛「ちぐさ」── 持ち寄られたレコードと、Vディスクで再開した店
よこはまの 野毛に、「ちぐさ」と いう ジャズきっさが あります。1933ねんに、当時 20さいの 吉田衛さんが はじめた、げんざい のこって いる にほん さいこの ジャズきっさとして しられています[3]。
ここには、秋吉敏子さん、渡辺貞夫さん、日野皓正さんなど、わかい ジャズの ミュージシャンが よく かよいました。たかかった レコードを きいて、べんきょうして いたそうです[2]。
ところが あるとき、おみせは レコードごと やけて しまいました[3]。
それでも 1948ねん、いつも 来て いた 人たちや ミュージシャンが もちよった レコードと、吉田衛さんが あつめた「Vディスク」で、おみせは また ひらきました[3]。
「ちぐさ」は1933年、当時20歳だった吉田衛が横浜・野毛で創業した、現存する日本最古のジャズ喫茶として知られています[3]。
ここには、若き日の秋吉敏子、渡辺貞夫、日野皓正などのミュージシャンが足しげく通いました。アメリカ軍のクラブで演奏するかたわら、当時高価だったレコードを聴いて勉強していたと紹介されています[2]。聴く客であると同時に、これから演奏する人たちの学び場でもあったわけです。
焼けたレコードの代わりに
戦争の終わりごろ、ちぐさはレコードごと焼けてしまいました[3]。
それでも1948年、常連客やミュージシャンたちが持ち寄ったレコードと、吉田が集めた「Vディスク」をもとに、店は再開しました。Vディスクは、アメリカ軍が兵士に配った78回転盤のレコードです[3]。
焼けた店が、ほかならぬ客や演奏家のレコードで息を吹き返した ── この店が「聴く場所」であると同時に、人が集まる場所でもあったことを示す話です。
「ちぐさ」は、1933年に当時20歳の吉田衛が横浜・野毛で創業した、現存する日本最古のジャズ喫茶として知られた店である[3]。この店には、若き日の秋吉敏子、渡辺貞夫、日野皓正らが足しげく通い、アメリカ軍のクラブで演奏するかたわら、当時高価だったレコードを聴いて勉強していたと紹介される[2]。前の章で見た「高い物を共有する」仕組みが、聴く側だけでなく、これから演奏する側の学びにも使われていたことになる。
しかし店は、戦争の終わりごろ、レコードごと焼失した[3]。再開は1948年で、そのもとになったのは、常連客やミュージシャンが持ち寄ったレコードと、吉田が収集した「Vディスク」だった。Vディスクは、米軍が兵士に配った78回転盤のレコードである[3]。
再開を支えたのは、常連客やミュージシャンが持ち寄ったレコードだった。ちぐさのその後については、各種報道があるので、気になる人はタイムアウト東京の記事から辿れる。
では、「聴く」ことに重きを置いた店は、客にどんなふるまいを求めたのか。次は、東京・渋谷と岩手の例を見る。
4. おしゃべりを しない おみせで、なにが きこえたの?
4. おしゃべりを控える店で、客は何を聴いていたのか
4. 名曲喫茶ライオンとベイシー ── 聴く場のきまりと、音をつくる特注・自作の装置
渋谷の 名曲きっさ「ライオン」は、1926ねんに 山寺弥之助さんが つくりました。おみせの そとがわも なかも、山寺弥之助さんが 自分で かんがえた そうです[4]。
はじめは、おかしを うって、はやり歌を ながす おみせだった といわれます[5]。それが、のちに 音を たのしむ おみせに なって いきます。
ここでは、大きな 声の おしゃべりと、しゃしんを とる ことは できません[4]。まいにち 15時と 19時には、1じかんほどの コンサートが あります[4]。
岩手の 一関の ジャズきっさ「ベイシー」は、1970ねんに ひらきました。スピーカーは、JBLという 会社の 部品を つかった、おみせの 手づくりです[1]。「日本一 音が いい」と よばれる ことも あります[1]。
渋谷の名曲喫茶「ライオン」は、昭和元年(1926年)に山寺弥之助が創業しました。弥之助は趣味人で、外装も内装も自分でデザインしたそうです[4]。
はじめは和菓子を売って流行歌を流す店だった、という記述があります[5]。だから、「創業した時から名曲喫茶だった」とは言い切れません。1945年に全焼したあと、1950年に創業時のデザインで再建され、パイオニアの技術者が設計した特注のスピーカーが置かれました[5]。
いまも、毎日15時と19時に約1時間のコンサートがあります。大きな声のおしゃべりや写真撮影は禁じられています[4]。
岩手の自作スピーカー
岩手県一関のジャズ喫茶「ベイシー」は1970年に開店しました。マスターは菅原正二で、スピーカーはJBLのユニットを使った自作品です[1]。「日本一音が良いジャズ喫茶」と呼ばれますが、これは通称です[1]。
ジャズ喫茶でも、会話を全面禁止にする店や、会話してよい席を別に設ける店がありました。いまは全面禁止の店は全国でも数軒ほどです[1]。
渋谷の名曲喫茶「ライオン」は、昭和元年(1926年)に山寺弥之助が創業した。弥之助は趣味人で、外装・内装を自らデザインしている[4]。Wikipediaには、当初は和菓子を売って流行歌を流す店だったとの記述がある[5]。したがって、創業時から名曲喫茶だったとは書けない。1945年に全焼し、1950年に創業時のデザインで再建された。再建時には、パイオニアの技術者が設計した特注スピーカーが据えられたとされる[5]。
現在も毎日15時と19時に約1時間のコンサートがあり、大きな声のおしゃべりと写真撮影は禁止されている[4]。聴くことを守る約束事は、ジャズ喫茶にもあった。会話を全面禁止にする店、会話許可席を設ける店があり、近年は全面禁止の店は全国で数軒のみ[1]。
音をつくる側の工夫も、店ごとの個性になった。岩手県一関の「ベイシー」は1970年開店、マスターは菅原正二で、スピーカーはJBLのユニットを使った自作品である。「日本一音が良いジャズ喫茶」と呼ばれるが、これは通称であって、順位が公式に決まっているわけではない[1]。特注・自作の装置が店の売りになったのは、前の章で見たとおり、家庭では揃えにくい音を店が引き受ける役割だったからだと考えられる。
では、これだけ作りこまれた店は、なぜ多くが姿を消し、なぜ今になって注目されるのか。
5. おみせは へったのに、どうして せかいで ちゅうもくされるの?
5. 家で聴けるようになって減った店が、なぜ海外の手本になったのか
5. 家庭への普及と店の減少、2010年代後半のリスニングバー ── 日本の店は海外でどう受けとめられたか
名曲きっさは、1960ねんだいに いちばん にぎやかでした。でも、1970ねんだい いこうは、いえに レコードプレーヤーや、ちいさな ステレオ、ラジカセが ふえました。1980ねんだい いこうは、おみせが ぐんと へりました[6]。
いえで 音楽が きけるように なったことも、おみせが へった わけの ひとつだと いわれて います。
ところが 2010ねんだいの おわりごろから、にほんの ジャズきっさに えいきょうを うけた「リスニングバー」が、アメリカや ヨーロッパを ちゅうしんに、せかいで ひらきはじめました[1]。
ジャズきっさは、にほんいがいでは ほとんど 見あたらない、にほんならではの かたちだと いわれて います[1]。
名曲喫茶は1960年代に全盛を迎えました。ところが1970年代以降は、家庭にレコードプレーヤー、安価なミニコンポ、ラジカセが広まり、1980年代以降は店が急に減って、めったに見かけないほどになりました[6]。家庭用の機械が広まったことも、店が減った背景の一つだといわれます。
ジャズ喫茶も、1980年代から下降したとされます。ジャズ喫茶は日本以外ではほとんど見あたらず、日本特有の形態だとされています[1]。
海外のリスニングバー
ところが2010年代後半から、日本のジャズ喫茶の影響を受けた「リスニングバー」が、アメリカやヨーロッパを中心に世界各国で次々に開店しました。国内でも、あらためて注目されています[1]。
名曲喫茶は1960年代に全盛を迎えたが、1970年代以降、家庭にレコードプレーヤーが普及し、安価なミニコンポやラジカセなども広く流通した。1980年代以降は店舗が急減し、めったに見かけなくなった[6]。家庭用機器の普及も、店舗が減った背景の一つとされる。ジャズ喫茶も1980年代から下降したとされる[1]。
ところが、2010年代後半から、日本のジャズ喫茶の影響を受けた「リスニングバー」が、アメリカやヨーロッパを中心に世界各国で相次いで開店し、国内でも再注目されている。ジャズ喫茶そのものは日本国外ではほとんど見あたらず、日本特有の形態とされる[1]。
前の章の「約80軒」(昭和10年代の東京のレコード喫茶)のように、数字は何を数えたものかで意味が変わる。店の数を比べるときは、対象・地域・時代をそろえて見る必要がある。
音楽を聴く行為そのものを、静かに味わう場へ。その発想は、どこで体験できるのか。最後に、自分で試せることと、資料の読みどころをまとめる。
6. 1きょくだけ、ひとりで じっくり きいて みよう
6. 1曲だけ、ほかのことをせずに聴いてみる
6. 出口 ── 集中して聴く試しと、資料の読みどころ
おうちで、すきな きょくを 1つ えらびます。スマホは はなれた ところに おき、ほかの ことは しません。
目を とじて、きこえる 音を ゆびで かぞえます。たいこの 音、ベースの 音、うたごえ。いくつ きこえるでしょう。
音は、おおきくしすぎないで ください。みみが いたく ならない くらいに します。
おみせで きく 人たちも、きっと こんな 気もちで レコードを まって いたのかも しれません。
家で好きな曲を1曲選び、ほかのことをせず、目を閉じて聴いてみましょう。スマホは離れたところに置きます。聞こえる楽器を指を折って数えると、聴き方が変わります。
音量は大きくしすぎず、耳が痛くならない程度にします。
ジャズ喫茶やちぐさについてもっと読みたいときは、ジャズ喫茶のWikipedia[1]、タイムアウト東京の記事[2][3]、ライオンを紹介するseraiの記事[4]が日本語で読めます。出かけられるなら、近くに音楽を聴かせてくれる喫茶店があるか、調べてみるのも手です。
試しとして、好きな曲を1つ選び、ほかの作業をせず、目を閉じて聴いてみる。聞こえる楽器の数を指で数え、聴こえ方を比べる。音量は耳が痛くならない範囲にとどめる。名曲喫茶やジャズ喫茶で「会話を控える」意味が、体感できるかもしれない。
資料を読むなら、軒数・創業年・再開の経緯は、Wikipediaのジャズ喫茶[1]・名曲喫茶[6]・ライオン[5]の各項目と、タイムアウト東京[2][3]、serai[4]で突き合わせられる。各資料が「数えているもの」の違い(ジャズ喫茶か、レコード喫茶か、ジャズバーを含むか)が、読みどころになる。公式サイトや当事者の語りまでは今回の範囲外で、さらに調べる価値のある問いだ。
しらべた もとの じょうほう
参考にした情報源
参考にした情報源と、その使い方
出典について:Wikipedia、タイムアウト東京、seraiの記事を使った。何に使ったかは、それぞれの項目の最後に書いている。
- Wikipedia「ジャズ喫茶」。https://ja.wikipedia.org/wiki/ジャズ喫茶 (創業年・軒数・店のきまり・海外への広がりについて)
- タイムアウト東京「ジャズ喫茶6選」。https://www.timeout.jp/tokyo/ja/music/tokyo-jazzkissa (ブラックバードの創業と、ミュージシャンが通った話について)
- タイムアウト東京「ちぐさ」の記事。https://www.timeout.jp/tokyo/ja/news/chigusa-the-oldest-existing-jazz-cafe-in-japan-will-be-revitalized-as-a-jazz-museum-in-2023-031522 (ちぐさの創業と、1948年の再開について)
- serai「名曲喫茶ライオン」の記事。https://serai.jp/hobby/1128271 (ライオンの創業者・コンサート・禁止事項について)
- Wikipedia「名曲喫茶ライオン」。https://ja.wikipedia.org/wiki/名曲喫茶ライオン (ライオンの初期の様子と再建について)
- Wikipedia「名曲喫茶」。https://ja.wikipedia.org/wiki/名曲喫茶 (名曲喫茶の流行と、店が減った時期について)
なおした ところ
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