1. どんぐりの こなは、どれくらい たいへん?
1. ドングリ1kgを粉にする実験は、3時間かかった
1. 復元実験が示す製粉の手間 ── 30gで約3分、1kgで約3時間
石皿は、うすい おさらのような 石です。すりいしは、手で もてる 石です。この 2つで どんぐりを すりつぶして、こなに しました[1]。
いまの 人が、おなじような どうぐで じっけんしました。かわかした コナラの 実を 30グラム、こなに するのに、3ぷんぐらいでした。でも、1キロの 実では およそ 3じかんも かかりました[1]。
この じっけんの どうぐは、いせきから 出た 石より すこし 大きい ものでした。ですから、じょうもんの 人が ぴったり 3じかんだった とは いえません。それでも、ずいぶん てまの かかる しごとだった ことは つたわります。
では、石を もつ 手は、どんな うごきを して いたのでしょう。
石皿は平たい石の台、磨石は手で握る石で、磨石を上から押し当てて、石皿の上のものをすりつぶします。縄文時代の植物質の食べ物のうち、ドングリなど堅果類の調理に使われた道具とされています[1]。
京都府の研究者は、この道具を再現し、ドングリの製粉にかかる時間を測りました。乾燥したコナラの実30gは、約3分で細かい粉になりました。ところが1kg分では、石皿の種類によって約3時間から3時間35分かかっています[1]。30gを3分で粉にできるなら1kgは約100分、と単純に計算するより、実際はかなり長くなりました。その差の理由は、この資料からは分かりません。
数字を読むときの注意が3つあります。実験に使った石皿と磨石は、遺跡から出土する石より大型でした。時間は、殻を除いて木の臼と杵で粗く砕いたあとの分で、粗く砕く作業に500gあたり約15分が別にかかっています。そして30gのうち、そば粉が通る目(60メッシュ)を通ったのは20gでした[1]。つまり「3時間」は、縄文の人の作業時間そのものではなく、粉づくりの手間の大きさを実感するための目安です。
これだけ時間がかかる作業なら、道具の形にも工夫があったはずです。まず、石を持つ手の動きから見てみましょう。
石皿(下石)と磨石(上石)の組み合わせは、縄文時代の堅果類の加工具とされる[1]。その実態を調べるため、京都府の黒坪・増田は、復元した石器でドングリを実際に製粉し、時間と粉の質を測った[1]。
結果は、乾燥したコナラの実1回分30gが約3分で細かい粉になり、1kgの製粉は約3時間(別の石皿では約1kgの微粉を得るのに約3時間35分)であった。ここで30g×約33回を単純に計算すると約100分で、実測の約3時間とは約1.8倍の開きがある。この食い違いを、資料は説明していない。
数値の読み方には条件がつく。①実験用の石皿・磨石は、出土品より大型である。②時間は、殻を除き、木臼・木杵で粗く砕いたあとの製粉の分で、粗砕きは500gあたり約15分が別にかかる。③30gのうち、60メッシュ(そば粉が通る目)を通る粉は20gだった[1]。したがって「約3時間」は、縄文の人の作業時間の推定値ではなく、道具の効率を比べるための基準にすぎない。
それでも、この手間の大きさは、道具の形に反映されているはずだ。次は、作業中の手の動きから確かめる。
2. 石を もつ 手は、どう うごいた?
2. 石を持つ手は、前後ではなく回っていた
2. 磨石の動かし方 ── 往復運動ではなく回転運動という推定
石皿の まんなかは、ひろく つるつるに なって います。まっすぐ ゆきき しただけでは、こうは なりません。
じっけんを した 人は、手首を くるりと かえしながら、すりいしを まわして いたと かんがえました。そばこを こねる ときの 手首の うごきに にて いるそうです[1]。
どんぐりを こなに する しごとは、ただ ゴシゴシ こするのでは なく、まわす うごきだったと かんがえられて います。
では、石の どうぐの かたちは、この うごきに あって いたのでしょうか。
石皿の使われた面を見ると、一方向に細長くすり減っているのではなく、広くなめらかです。実験をした研究者は、磨石の側面が石皿のくぼみの全体をなぞるように、手首を返して回転させる動きだったと考えました。そば粉をこね上げるときの手首の動きによく似ている、とも述べています[1]。
広くなめらかな面は、前後の往復より、石皿の面全体を使う動きで説明しやすいと考えられています。回すように動かせば、石皿のくぼみ全体に磨石が触れます。道具の傷から手の動きまで想像できるのは、考古学のおもしろいところです。もちろん、これは実験者による推定で、縄文の人の手の動きを直接見た記録があるわけではありません。
回す動きが決まっていたなら、石の大きさにも決まりごとがあったかもしれません。実際の遺跡の石で、寸法を測った例があります。
復元実験では、石皿の磨面が一定方向の往復ではなく、広く滑らかな面になる点に着目した。実験者は、磨石の側面で石皿の凹面の全周をなぞるように、手首を返して回転させる動作と推定し、そば粉をこね上げる手首の動作に酷似すると述べる[1]。
往復なら、使用面は一方向の線状にすり減るはずである。面が広く均一になるのは、磨石が皿全体に触れる回転運動のほうが説明しやすい、という論理だ。ただし、これは復元実験にもとづく推定であり、縄文の人の動作を直接示す資料ではない。
回転運動で製粉していたなら、磨石の長さは、石皿の使用面の幅と関係するはずだ。出土品の寸法はどうなっているのか。
3. すりいしと 石皿の はばが にて いる?
3. 磨石の長さと石皿の幅が、ほぼそろっていた
3. 寸法の一致 ── 後期3遺跡で磨石の長さと石皿の使用面の幅が近い
じょうもんの いせきから 出た 石を はかった 人が います。すりいしの ながさと、石皿の つかった ところの はばを くらべました。
きょうとふの くわがいしもという いせきでは、すりいしが へいきん 9.2センチ、石皿の はばが へいきん 9.8センチ でした。しがけんの 正楽寺という いせきでは、すりいしが 9.9センチ、石皿の はばが 8.7センチです[1]。
ぴったり おなじでは ありません。でも、どちらも 1センチぐらいの ちがいで、よく にて います。すりいしが、石皿の はばに おさまる くらいの 大きさで つくられて いたようです。
これは、じょうもん時代の おわりごろの、3つの いせきの はなしです。
さて、こうした かたちは、はじまりから ずっと おなじだったのでしょうか。
京都府の研究者は、縄文時代後期の3つの遺跡(桑飼下・正楽寺・北村)で、磨石の長さと石皿の使用面の幅を比べました。すると、数字がかなり近かったのです[1]。
桑飼下遺跡は、磨石の長さが平均9.2cm、石皿の磨面の幅が平均9.8cmです。正楽寺遺跡は、磨石が9.9cm、石皿の使用面が8.7cmでした[1]。差を計算すると、桑飼下では石皿のほうが0.6cm広く、正楽寺では磨石のほうが1.2cm長い計算です。ぴたりと同じではないものの、どちらも1cm前後の差にとどまっています。
石皿の面の幅と磨石の長さがそろっていれば、磨石を回しても、石皿の使う面の中でおさまりやすくなります。この幅の中で磨石を回せる大きさに、道具をそろえていたのかもしれません。
ここで気をつけたいのは、この一致が後期の3遺跡で確かめられた話で、縄文時代の全部の石皿と磨石に当てはまると書かれているわけではない点です。では、道具の形は、時代によって変わったのでしょうか。
黒坪・増田は、縄文後期の桑飼下遺跡(京都府舞鶴市)・正楽寺遺跡(滋賀県)・北村遺跡の石器について、磨石の長さと石皿の使用面の幅を比較した。桑飼下では磨石の長さ平均9.2cm、石皿の磨面の幅平均9.8cm、正楽寺では磨石の長さ9.9cm、石皿AとBの使用面の幅の平均8.7cmで、いずれも近い数値である[1]。
差を計算すると、桑飼下は石皿のほうが0.6cm広く(磨石の長さの約6.5%)、正楽寺は磨石のほうが1.2cm長い(石皿の幅の約14%)。つまり完全な一致ではなく、おおむね1cm前後のずれにおさまる範囲だ。磨石が回転しても石皿の使用面の中におさまる寸法になっていた、というのが読み取れる範囲の解釈である。
注意すべきは、これが後期の3遺跡の資料にもとづく結果で、縄文全体の傾向とは言えない点である。道具の形は縄文時代を通じて同じだったのか。次に、時期による違いを見る。
4. 石の どうぐの かたちは かわった?
4. 石皿と磨石の形は、時代とともに変わったのか
4. 草創期から後期へ ── 磨石の形と石皿の凹みの変化という仮説
石皿と すりいしの セットで つかった あとは、じょうもん時代に なると ふえて いきます。ごく ちいさな あとなら、いちばん はじめの じだいにも、みなみ九しゅうで 見つかったと いう はなしが あります[1]。
そして、じょうもん時代の おわりごろに、たまごの かたちを した すりいしが 出て きます。まんなかが ふかく へこんだ 石皿と セットで、どんぐりを とても こまかく して いったと いわれます[1]。
ただし、これは けんきゅう する 人たちの かんがえで、まだ はっきり きまった ことでは ありません。
こなに する ばしょは、いえの まわりだけだったのでしょうか。
磨石と石皿のセットで、はっきりした使用の跡が残るものは、縄文時代に入って増えるといいます。製粉の跡のようなものは、ごく軽い使用痕ながら、縄文時代の最初の時期にあたる草創期の九州南部で確認されたという研究も紹介されています[1]。ただし、それは広く行きわたったという意味ではありません。
また、縄文後期になると、卵形の磨石が出てきます。深いくぼみをもつ石皿とセットになり、ドングリをより細かい粉にすることが行われるようになった、という説があります[1]。実験をした筆者らは、中期後半から後期になって初めて、微粉まで細かくできるようになったのではないかと推論しています。
これは、あくまで研究者の仮説です。ただ、道具の形が変われば、粉づくりのやり方や、できる粉の細かさも変わるでしょう。道具の形から台所の変化を読み取るという考え方は、遺跡の石を見るときの手がかりになります。
ところで、実験で見たように、粉づくりは手間のかかる作業でした。それを支える作業場は、どこにあったのでしょうか。
明瞭な使用痕をもつ磨石・石皿のセットは、縄文時代に入って増加する。上條信彦の研究によれば、ごく軽微な使用痕ながら、早くも草創期の九州南部で製粉の作業痕跡が確認されるという[1]。ただし、これは軽微な痕であり、草創期に普及していたとは読めない。
形の変化については、桐山秀穂が、卵形の磨石(磨面Aをもつ石器)が縄文後期に出現し、深い凹みをもつ石皿(D類)とセットで、ドングリの微粉化が行われるようになったとした[1]。黒坪・増田はこれを受け、中期後半〜後期になって初めて微粉まで細かくできたのではないか、と推論している。
ここで確かなことと仮説を分けておく。後期に卵形の磨石があること自体は出土品の観察で、微粉化がそこで始まったという点は、筆者らの仮定にとどまる。道具の形から、粉の質まで読み取ろうとしている段階だ。
粉づくりの手間が大きいなら、作業場所の側にも工夫があったはずだ。次に、集落の外の水場との関係を見る。
5. こなづくりは、どこで したの?
5. 粉づくりは、集落の外の水場ともつながっていた
5. 水場遺構と大型の石皿・磨石 ── 台所は集落の外にも広がっていた可能性
どんぐりは、そのままでは にがくて たべにくい ものも あります。水に さらして、にがみを とる しごとが ひつようでした。
むらから はなれた たにの 水ばの あとの ちかくで、大きな 石皿や すりいしが 見つかる ことが あります[1]。水に さらす ところと、こなに する ところが、ちかかった のかも しれません。
それなら、むらの 中の 小さめの すりいしは、水ばから もちかえった こなを、もう いちど こまかく するのに つかったのかも しれません。ただし、これは かんがえで、まだ はっきりは していません。
いったい、石は どんな しごとを して いたのでしょう。
大きな石皿や磨石は、集落から離れた谷の水場遺構(ドングリなどを水にさらした場所の跡)の周辺で見つかることが知られています。そのため、大量のドングリのアク抜きと製粉を同じ場所で行った、と推察されています。集落で見つかる片手で使える磨石は、水場から持ち帰った粉をもう一度細かくする、といった二次加工に使われた可能性があります[1]。
民俗事例(のちの時代の人々の暮らしの記録)では、ナラの実は「採集、乾燥、荒割り、水さらし、製粉、調理」という順で加工されました。この資料では、叩き石は殻むきと荒割り、磨石は製粉に使われたと考えられています[3]。加熱や水さらしの順番が逆になる例もあります。
トチの実の場合は、荒割りにして灰汁につけてアクを取るトチモチと、粉末にして水にさらしデンプンだけを取るコザワシの、2つの使い方がありました。堅果類を加工してデンプンを長く保存できたことが、縄文文化の繁栄の一因とされています[3]。
水場遺構は東日本に多く、集成では東日本47例に対し、西日本は2例でした。堅果類の水さらし場として使われたほか、木材を貯めておく場所など、さまざまな使い道がありました[4]。つまり、水場の跡がすべてドングリの晒し場とは限りません。
では、石そのものに、どんな食べ物の手がかりが残っているのでしょうか。
大型の石皿・磨石は、集落から離れた谷部の水場遺構の周辺で出土することが知られ、大量のアク抜きと製粉を行う場で使われたと推察される。集落内の片手使いの磨石は、晒し場から持ち帰った粉の二次加工に使われた可能性がある[1]。ここは推察の段階で、断定できない。
作業の流れは、民俗事例では「採集→乾燥→荒割り→(加熱)→水さらし→製粉→調理」とされる。石皿は殻むきと製粉、叩き石は殻むき・荒割り、磨石は製粉に使われたと考えられる。ただし資料は講演資料で、加熱と水さらしの順が逆の例もある[3]。トチの利用は、荒割りして灰汁でアクを取るトチモチと、粉にして水にさらしデンプンだけを取るコザワシに大きく分かれ、堅果類のデンプンを長期保存できたことが縄文文化の繁栄の一因とされる[3]。
水場遺構は、取水部・導水部・構造部・排水部からなり、堅果類の水さらし場や貯木など多目的に使われた(佐々木由香の整理)。分布は東日本47例に対し西日本2例のみである[4]。したがって、水場遺構は多目的で、すべてがドングリの晒し場とは言えず、大型石器の出土地と水場の関係も、東日本の資料にかたよる可能性がある。
道具と作業場の関係が分かってきた。では、石皿や磨石が実際に何を粉にしていたのかは、石そのものから分かるのか。
6. 石に のこった つぶは なにを おしえて くれる?
6. 石に残ったデンプンの粒は、何を教えてくれるのか
6. 残存デンプン粒分析 ── 石川県の遺跡で見えた使い分けの手がかり
石の どうぐに、しょくぶつの こなの つぶが のこって いる ことが あります。デンプンという つぶです。
石川けんの じょうもん時代の おわりごろの いせきで、石を しらべた 人たちが います。すりいし 68こ、石皿 25こを しらべると、4つの いせきの 石から、81つぶ いじょうの デンプンが 見つかりました[2]。
石の かたちや つかった あとと、デンプンの しゅるいには、つながりが ありました。どうぐは、すこしずつ、つかい わけられて いたのかも しれません[2]。
石の かけらからでも、むかしの 台所の ようすが 見えて くるのです。
堅果類(トチノキ・ドングリ類・クリ・クルミ)は、石皿・台石や磨石・敲石で加工されたことが、植物考古学の研究で調べられ、縄文時代の重要な食料だったことが分かってきました。一方、クズ・ワラビ・カタクリなど根や地下茎のデンプンは、植物の遺体としてはほとんど見つかりません。そこで、道具に残ったデンプン粒から探す方法が試されています[2]。
石川県の縄文後・晩期の遺跡で、磨石・敲石類68点と石皿・台石類25点を分析した研究があります。このうち4遺跡の磨石・敲石類15点と、石皿・台石類8点から、合わせて81粒以上のデンプン粒が検出されました。三引遺跡の石からは検出されませんでした[2]。
検出されたデンプン粒の種類は、石の形や使用痕と関係がありました。このことから、道具がある程度、加工の目的で使い分けられていたことが示唆されます[2]。もっとも、何のデンプンかを決められない粒も多く、分かったのは手がかりの段階です。
石の表面を顕微鏡で調べて、食べ物の痕跡を探す。この方法で、これまで見えなかった縄文の食卓が、少しずつ見えてくるかもしれません。
堅果類(トチノキ・ドングリ類・クリ・クルミ)の加工に、石皿・台石や磨石・敲石が使われたことは、植物考古学的研究で調べられ、縄文時代の重要な食料だったことが明らかにされてきた。一方、根茎類(クズ・ワラビ・カタクリなど)のデンプンは、植物遺体としてほとんど検出されず、道具からの検出が課題とされる[2]。
山本・渋谷・上條は、石川県の縄文後晩期の遺跡で、磨石・敲石類68点と石皿・台石類25点を分析した。4遺跡の磨石・敲石類15点と石皿・台石類8点から、計81粒以上のデンプン粒が検出された。一方で、三引遺跡では検出がなかった[2]。分析した道具93点のうちデンプンが出たのは23点(約25%)で、残りやすさにも条件があると考えられる。
検出されたデンプン粒の種類は、石器の形状や使用痕と相関した。このことは、道具がある程度、加工目的によって使い分けられていたことを示唆する[2]。ただし、5遺跡の結果であり、同定が難しい粒も多い。石川県の結果を、縄文時代全体の台所に広げることはできない。
手間の大きい製粉、寸法のそろった道具、水場との役割分担の可能性、石に残る粒。バラバラに見えた資料が、粉づくりの台所という1つの像につながる。一方で、推定や仮説の段階の部分も多い。原典の表や図を自分の目で確かめる価値がある。
7. いしの どうぐを、じぶんの 目で たしかめよう
7. 石皿と磨石を、自分の目と手で確かめる
7. 展示と原典で確かめる ── 寸法・使用面・出典の読み方
おうちに すりばちと すりこぎが あれば、おうちの 人と いっしょに やって みましょう。
ごまを すりばちに 入れて、すりこぎを まっすぐ ゆきき させて すります。つぎに、すりこぎを まわしながら すって みます。どちらが こまかく なるでしょうか。
じょうもんの 石の どうぐとは かたちも ちがいます。でも、うごきの ちがいで すれかたが かわる ことは、わかります。
はくぶつかんで 石皿と すりいしを 見たら、すりいしの ながさと、石皿の すれた ところの はばを、くらべて みましょう。
家にすり鉢とすりこぎがあれば、ごまをすって試せます。ごまを少量入れ、すりこぎを前後にこすった場合と、手首を返して円を描くように回した場合を、それぞれ数分続けます。どちらが粉の細かさにむらが出にくいか、見比べてみましょう。すり鉢のくぼみと石皿のくぼみは同じ形ではないので、あくまで動きの違いを感じる遊びです。
博物館や資料館で縄文の石皿と磨石を見るときは、磨石の長さと、石皿のすり減った面の幅を目で比べてみます。後期の3遺跡では、これが1cm前後の差でそろっていました。展示の石が同じようになっているかは、実物で確かめるとおもしろいところです。
さらに調べたくなったら、京都府埋蔵文化財論集の論文が、実験の手順を図つきで書いています。石川県の遺跡のデンプン分析の論文も、大学の論文公開のページで読めます。
家庭でできる確かめ方として、すり鉢とすりこぎでごまをすり、前後運動と回転運動で粉の細かさがどう違うかを見られる。ただし、すり鉢と石皿は形が違うため、縄文の動きの再現ではなく、動かし方による違いを体感する程度にとどまる。
博物館では、磨石の長さと石皿の使用面の幅を見比べるとよい。報告では後期の3遺跡で近い値だったが、他の時期・地域で同じかどうかは、実物と報告書で検討する余地がある。
原典を読むときは、実験用の道具が出土品より大型であること、時間が粗砕き後の値であること、卵形磨石が出てくる時期の議論が筆者らの仮定を含むことに注意したい。石川県のデンプン分析は、検出された粒の種類と石の形・使用痕の相関が論点である。出典欄の論文(京都府埋蔵文化財論集第7集、名古屋大学リポジトリの論文)から読める。
しらべた もとの じょうほう
参考にした情報源
参考にした情報源と、その使い方
研究論文、自治体の埋蔵文化財センターの資料、講演資料をもとにしています。
- 黒坪・増田「ドングリ製粉にともなう磨石・石皿の形と運動」京都府埋蔵文化財論集 第7集 https://www.kyotofu-maibun.or.jp/data/kankou/kankou-pdf/ronsyuu7/9donguri.pdf (復元実験の時間・手の動き・寸法・形の変化・水場との関係)
- 山本・渋谷・上條「残存デンプン粒分析からみた縄文時代の植物質食料:石川県の遺跡を対象として」2016 https://nagoya.repo.nii.ac.jp/record/21817/files/jouflh_62_51h.pdf (堅果類の研究・石に残ったデンプン粒の分析)
- 山形県押出遺跡出土クッキー状炭化物に関する講演資料(かながわ考古学財団関連資料、2009) https://www.kaf.or.jp/wordpress/wp-content/uploads/2012/02/H212youkososiryou.pdf (堅果類の加工の流れ・トチの使い方)
- 下江健太「縄文人はどのように水場を利用していたか」鳥取県埋蔵文化財センター 2018 https://www.pref.tottori.lg.jp/secure/1327376/2018maibunkouza1.pdf (水場遺構の分布と使い道)
なおした ところ
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