1. まちの ひとを かぞえると、どうなったの?
1. 銀座の道で、人の服をかぞえてみた
1. 1925年の銀座 ── 洋服の男性約67%、女性約1%という数え方
かぞえた ひとの ひとりは、今和次郎さんです。いまの まちや くらしの ようすを しらべる がくもんを、考現学と いいます。
がっこうの まどから とおる くるまの いろを かぞえる のと、にた やりかたです。ただし ほんとうは、かぞえて いるのは ふくだけで、ひとりひとりの きもちまでは わかりません。
けっかは、1925ねんの 銀座の とおりでは、おとこの ひとの 3にんに 2にんが ようふく。おんなの ひとは 100にんに 1にんです。ぜんこくの わりあいでは なく、このときの 銀座の みちの はなしです。
おんなの ひとが ようふくを きらいだった わけでは なさそうです。では、なにが ちがったのでしょう。
数えた人の一人は、今和次郎さんです。いまの町や暮らしのようすを調べる学問を、考現学といいます。遺跡ではなく、いま目の前にある暮らしを調べるのです。
調査は1925年5月に、銀座の京橋から新橋のあいだで4日間行われました。結果は、男の人は洋服が約67%、着物などの和服が約33%。女の人は洋服が約1%、和服が約99%でした[1][2]。
これは全国の割合ではなく、銀座の一部の通りの数え方です。学校の窓から通る車の色を数えるのに似ていますが、ただし本当は、数えているのは服だけで、一人ひとりの気持ちまでは分かりません。
数えてみると、洋服が多かったのは男の人だけで、女の人のほとんどは和服でした。大正時代の銀座にも、着物姿の人がたくさんいたのです。
この差は、女の人が洋服を嫌ったからと言い切れるのでしょうか。それを考えるには、洋服がどこから日本に入ってきたのかを見る必要があります。
この調査を行った今和次郎は、街の現在の暮らしや服装を観察して記録する「考現学」で知られる。遺跡ではなく、いま目の前にある暮らしを調べる学問である。記録は『婦人公論』1925年7月号に「1925初夏 東京銀座街風俗記録」として載ったとされる[2]。
数字を読むときの注意が2つある。1つは範囲で、これは銀座の京橋〜新橋間を4日間数えたもので、全国の割合ではない。もう1つは、男女の差を好みの違いと決めつけないことだ。この数字は、女性が洋服を嫌ったことを示すものではない。
数えると、洋服が多数だったのは男性だけで、女性はほとんどが和服だった。大正時代の銀座にも、和服姿の人は多かった。この差は、洋服が日本にどこから入ってきたかを見ると、説明がつく部分が見えてくる。
2. ようふくは、どこから ひろがったの?
2. 洋服は、礼服と制服から入ってきた
2. 1871〜1886年 ── 礼服と制服から広がった洋服
ようふくが さきに ひろがった ところは、おしゃれな おみせでは ありません。制服を きめた ところです。
1871ねんに郵便、1872ねんに てつどうで、ようふくの 制服が つかわれた と いわれます。おまわりさんの ふくも、ようふくに なりました。
がっこうも おなじです。1879ねんに、学習院と いう がっこうが 制服を きめました。ふくの ちがいで くらべあう ことが すくなく なるように、おなじ ふくに した、と いわれます。1886ねんには、だいがくも きんの ボタンの 制服を つかいはじめました。
えらい ひとが だいじな ぎょうじで きる ふくも、1872ねんに ようふくに きまりました。でも、みんなに きろと いう きまりでも、きものを やめる きまりでも ありませんでした。
1872年(明治5年)11月12日、政府の太政官が、役人などが式や行事で着る「礼服」を、洋服と決めました[3]。ただし、対象は公式の場の礼服です。国民みんなに洋服を着なさいと命じたのでも、着物を禁止したのでもありません。
ふつうの町の中で洋服の姿が増えたのは、むしろ制服からでした。化粧品会社の研究所の年表は、1871年に郵便、1872年に鉄道が洋服の制服を採用したと整理しています[4]。アジア歴史資料センターの解説も、警官や郵便配達の人の制服、学生服に洋服が採用されたことで、街中でも洋服姿が目につくようになったと述べています[1]。
学校では、1879年に学習院が詰襟の制服を取り入れました。生徒どうしで服を競い合う問題が目立ったので、貧しい家の子と豊かな家の子の差が目立たないようにするのが目的でした[5]。1886年には帝国大学が金ボタンの詰襟を採用し、学生服の始まりの一つとされます[5]。
洋服は、おしゃれとして選ばれる前に、仕事や学校の制服として、暮らしの中に広がり始めました。外で働く人や学ぶ人のほうが、洋服を着る機会が先に来たのです。
明治5年(1872)11月12日、太政官の布告(第339号)で、大礼服と通常礼服が定められた。国立国会図書館の解説は、衣冠を祭服とし、直垂・狩衣・上下などを廃した、と伝える[3]。洋服が公式の礼服になったわけだが、対象は官吏など公式の場で着る礼服であり、全国民に洋服を命じたものでも、着物を禁じたものでもない。
暮らしの中で洋服姿が増えたのは、むしろ制服からだった。ポーラ文化研究所の年表は、明治4年(1871)に郵便、明治5年に鉄道が洋装の制服を採用したと整理している[4]。アジア歴史資料センター(JACAR)の解説も、警官や郵便配達夫の制服、学生服として採用されたことで、街中でも洋服姿が目につくようになったと述べる[1]。
学校では、明治12年(1879)に学習院が詰襟の制服を採用した。トンボ学生服の制服資料館によると、生徒間で服装を競い合う弊害が目立ったため、貧富の差が目立たないようにするのが目的だった[5]。明治19年(1886)には帝国大学が金ボタンの詰襟を採用し、学生服の始まりの一つとされる[5]。
洋服は、おしゃれとして選ばれる前に、仕事や学校の制服として、暮らしの中に広がり始めた。外で働く人や学ぶ人のほうが、洋服を着る機会が先に来たことになる。
3. ようふくは、どうして すぐには ひろがらなかったの?
3. 洋服が広まるまでに、50年あまりかかった
3. 明治〜大正 ── 高価な洋服と、50年あまりの変化
ようふくは、はじめ とても たかい ものでした。ふつうの ひとは、きものを きつづけました[6]。
おとこの ひとが かみの けを みじかく きる ことも、ひろまるまで 20ねんくらい かかったそうです。
1872ねんの きまりから、1925ねんの 銀座の かぞえかたまでは、50ねんあまり あります。「いっぺんに ようふくに なった」のでは なく、しごとや くらしかた ごとに、すこしずつ すすんだのです。
洋服は、はじめは「とても高価なぜいたく品」で、ふつうの人は和服を着続けました[6]。一般の人にまで洋服が広まるのは、大正時代になってからと説明されます[4]。
髪型も同じです。男の人が髪を短く切る断髪は、広まるまでに明治20年代ごろまでかかり、ふつうの男の人が洋服を着るようになったのも明治20年代以降とされます[1]。
1872年の礼服から、1925年の銀座の数字までは、53年あります。「明治維新で一気に洋服になった」のではなく、50年あまりかけて、仕事や暮らし方ごとに少しずつ進んだ変化でした。
背景の一つとして、制服が男の人の職場や学校で洋服を目にする機会を増やしたことが考えられます。
制服があっても、庶民が普段着に洋服を選んだわけではない。JACARの「装いの文明開化」は、洋服は当時とても高価なぜいたく品で、庶民は和服を着続けたと説明する[6]。ポーラ文化研究所も、一般の人にまで洋装が広まるのは大正時代になってからと整理している[4]。
髪型も同じで、JACARによると、男性の断髪は明治20年代ごろまでかかって広まり、一般の男性が洋服を着るようになったのも明治20年代以降とされる[1]。1872年の礼服から、1925年の銀座の数字までは53年ある。「明治維新で一気に洋服になった」のではなく、50年あまりかけて、職業や暮らし方ごとに少しずつ進んだ変化である。
背景の一つとして、制服が男性の職場や学校で洋服を目にする機会を増やしたことが考えられる。
4. おんなの ひとの ようふくは、どう ひろがったの?
4. 女の人の洋服 ── 袴、セーラー服、職場の制服
4. 女性の洋服 ── 鹿鳴館、女袴、セーラー服、職場の制服(1883〜1935年)
おんなの ひとの ようふくは、もっと ゆっくり でした。1883ねんに、えらい ひとの おくさんが ようふくで ぶとうかいに でましたが、からだを しめつける ふくで、すうねんで おわったと いわれます[6]。
がっこうの おんなの こは、きものの うえに はかまを はいて、うごきやすく しました。ようふくでは なく、きものの まま くふうした ものです[5]。
1920ねんに、きょうとの がっこうが、ふなのりの ふくの えりを まねた セーラーふくを せいふくに したと いわれます。つぎの ねんには、ふくおかの がっこうも つかいました[5]。
おみせの ひとや、しょうがっこうの せんせいの ふくも、1929ねんや 1931ねんに ようふくに なって いきました[7]。
1935ねんごろの 銀座でも、おんなの ひとは きものの ほうが まだ おおかった そうです[8]。1925ねんの 100にんに 1にんは、ようふくを きらいだった から では なく、がっこうや しごとの ふくから、すこしずつ ひろがって いったから、と かんがえられます。
女の人の洋服は、もっとゆっくりでした。1883年、鹿鳴館の時代に、高い地位の人の夫人たちが洋服を着ました。でも、コルセットで体をしめつける服装は、数年しか続きませんでした[6]。
学校では、1900年ごろ(明治30年代半ば)に、女学生の服が着流しから動きやすい「女袴」に変わりました。海老茶色の袴の女学生は「海老茶式部」と呼ばれました[5]。袴は洋服ではなく、和服のまま動きやすくした形です。洋服への途中にある形とも見られます。
1920年(大正9年)に京都の平安女学院がセーラー服を制服にしたとされ、翌年には福岡女学院なども続きました。福岡女学院の制服は上着とジャンパースカートに分かれ、体操に向いていました[5]。「日本で最初」は京都と福岡で議論があるので、学校ごとの記録として読むのがよさそうです。
そのころ、電話交換手や看護婦などの仕事をする女の人にも洋服が広がったとされ、1929年には東京市女教員会が、小学校の女の先生が洋服を着ることを決め、1931年には松坂屋が銀座と名古屋の店の女性店員を全員洋服の制服にしました[7]。
1930年代後半には、大都市で一年じゅう洋服の女の人がめずらしくなくなったといわれます[7]。それでも1935年ごろの銀座は、男の人は洋服、女の人は和服のほうがまだ多く、二つがふつうに入りまじっていました[8]。
こうして見ると、1925年の女の人の約1%は、洋服が嫌われていたからではなさそうです。学校や仕事の制服が先に広がり、ふだんの服になるのはずっとあとでした。
女性の洋装は、男性より遅れて進んだ。明治16年(1883)の鹿鳴館の時代に、高官や華族の夫人が洋装をしたが、コルセットで締めつける服装は数年しか続かなかった[6]。国立国会図書館の解説も、鹿鳴館の舞踏会での洋装に触れている[3]。
明治30年代半ばには、女学生の服が着流しから動きやすい女袴へ変わり、海老茶色の袴の女学生は「海老茶式部」と呼ばれた[5]。袴は洋服ではなく、和服のまま機能を高めた例で、洋服への途中にある形とも見られる。
セーラー服は、トンボ学生服の制服資料館によると、1920年(大正9)に平安女学院(京都)が採用し、翌1921年に福岡女学院などが続いた。福岡女学院の制服は上着とジャンパースカートに分かれ、体操に向いていた[5]。「日本初」は京都説と福岡説があるので、断定せず、学校ごとの記録として扱う。
国立民族学博物館の参考ノートは、1920年代に女学生のセーラー服や子ども服の洋装が急速に広まり、電話交換手や看護婦など職業婦人の洋装化も進んだ、と整理する。職場の制服の例として、1929年に東京市女教員会が小学校の女性教員の洋服着用を決議し、1931年に松坂屋が銀座・名古屋店の女性店員全員を洋装にしたことが挙がる[7]。
同じノートは、街に洋服姿の女性がめずらしくなくなったのは、大都市では1930年代後半だったろう、と推定する[7]。ただし、文化庁の広報誌は、1935年ごろの銀座を、男性は洋装、女性は和装がまだ主流で、洋装と和装の人が自然に共存していた、と描く[8]。「めずらしくなくなる」ことと「主流になる」ことは、別の段階である。
以上を並べると、1925年の女性約1%は、洋服が好まれなかった数字というより、洋服を着る場面(学校や職場の制服)がまだ限られていた時期の数字と読める。動きやすさや体操、仕事といった実用の場面が先に来た様子も見える。
5. せんそうの あと、ようふくは どう ふえたの?
5. 戦後は、洋服を「買う」より「縫う」時代
5. 戦後の洋裁ブームと家庭のミシン ── 縫う時代(1949〜1955年)
1950ねんごろ、ようふくを ぬう がっこうに かよう ひとが ふえました。1949ねんに 20まんにん くらい、1955ねんに 50まんにん くらい だったと いわれます。6ねんで 2ばい半 くらいです[9]。
そのころは、できあがった ようふくを かうより、いえで ぬう ことが おおかった そうです[9]。
きものの ぬのを つかって、ようふくを つくりなおした ふくも ありました[10]。きものが ようふくに かわる つなぎめが、こんな ところに のこって います。
戦後の1950年代には、洋服を縫う「洋裁ブーム」が起きました。個人が運営するミシン史のサイトによると、洋裁学校は、1949年に約2,000校・約20万人、1955年に約2,700校・約50万人になったとされます[9]。6年で、生徒の数はおよそ2.5倍です。
そのころは、店で売る既製服があまり広まっておらず、ふだん着や子ども服は、お金の面からも家で作ることが多かったそうです[9]。
手持ちの洋服や着物の生地を仕立て直した「更生服」も作られ、洋裁ブームや家庭用ミシンの広まりとともに、洋服がふだんの服として定着していきました。1950年代半ばには、ナイロンやテトロンなどの化学繊維も登場しました[10]。
着物の布で洋服を作りなおす服があったことは、着物から洋服への「つなぎ目」を見せてくれます。
1950年代には洋裁ブームが起き、女性たちが洋裁学校に通って、自分や家族の洋服を縫った。ミシンの歴史を扱う個人運営のサイトによると、洋裁学校は1949年に約2,000校・約20万人、1955年に約2,700校・約50万人になった[9]。6年で生徒数は約2.5倍である。
同じ資料は、戦後から1970年代ごろまで既製服があまり普及しておらず、日常着や子ども服は経済的な理由から家で作られた、と説明する[9]。この時期の洋服は、「買う」ものであると同時に、「縫う」ものでもあった。
JACARの女性版の解説は、手持ちの洋服や着物、生地を仕立て直した「更生服」が作られ、洋裁ブーム、家庭用ミシンの普及とともに洋服が定着したと述べる。1950年代半ばには、ナイロンやテトロンなどの化学繊維も登場した[10]。着物の生地が洋服に姿を変えた例は、着物から洋服への移り変わりを示す具体的な場面である。
6. きものは、なくなって しまったの?
6. 着物は消えたのか ── 作りと手入れのちがい
6. 着物は消えたのか ── 洗い張りと、今の需要
きものは、なくなった わけでは ありません。ぬい目を ほどくと、ながい 1まいの ぬのに もどります。あらって、また ぬいなおして きる ことが できる、と いわれます。この あらいかたを洗い張りと いいます[11]。
セーターを ほどいて けいとに もどし、また あむのと、すこし にて います。ただし ほんとうは、きものは あむのでは なく、ぬい目を ほどいて ぬいなおす ものです。
いまも、せいじんしきや けっこんしきのような、とくべつな ひに きものを きる ひとが います。かりて きる ことも できます[12]。
ようふくと きものは、どちらが すぐれて いるかでは なく、つくりかたと てあての かんがえかたが ちがうのです。
着物は、なくなったわけではありません。縫い目をほどくと、一枚の長い布に戻ります。それを洗ってから仕立て直し、寸法や裏地を変えながら長く着られる、と呉服店などが説明しています。これを洗い張りといいます[11]。
たとえば、セーターをほどいて毛糸に戻し、編み直すのに少し似ています。ただし本当は、着物は編むのではなく、縫い目をほどいて縫い直すものです。
いまも、成人式や結婚式などの式典が、着物の需要の柱だといわれます。写真館や美容室、結婚式場と組んだレンタルも進み、通信販売や、着物を買い取って再び売るリサイクルも好調だと、矢野経済研究所は伝えています[12]。
洋服と着物の違いは、新しい・古いではなく、作りと手入れの考え方です。着物は今も、特別な日に着る人がいる服として続いています。
着物は、縫い目をほどいて一枚の反物(着物一着ぶんの細長い布)の状態に戻し、水洗いなどをしたうえで仕立て直し、寸法や裏地を変えながら長く着られる。この手入れを洗い張りという、と呉服店などが説明する[11]。
洋服が「買って着る」ことを中心に広まったのに対し、着物は「ほどいて直しながら着る」ことのできる作りになっている、と見ることもできる。ただし、どちらがすぐれているかという話ではなく、作りと手入れの考え方の違いである。
いまの着物の需要について、矢野経済研究所の2019年の調査は、成人式や結婚式などの式典が需要の柱で、写真館・美容・ブライダルと組んだレンタルの提携が進み、通信販売とリサイクル販売が好調だとまとめる[12]。同研究所の推計では、2023年の呉服小売市場規模は2,240億円(前年比101.4%)で、2018年は2,681億円、2021年は2,110億円だった。2018年から2023年までで約16%少なく、長年、縮小傾向が続いている[13]。
この市場規模は「着る人の数」ではない。着物は買うだけでなく、借りたり受け継いだりする人も多い。縮小したからといって、人気がなくなったとは決められない。日常着から特別な日の服へ、着る場面が移った面もあるのだろう。
7. じぶんで しらべて みよう
7. 自分でも調べてみたくなったら
7. 自分でも調べてみたくなったら
おうちの ひとと、ふるい しゃしんを さがして みよう。どんな ときに きものを きて いて、どんな ときに ようふくを きて いる かな。
しゃしんが いつ、どこで とった ものか、おうちの ひとに きいて みよう。がっこう、しごと、おいわいなど、ばめん ごとに ふくを みて みると、1925ねんの 銀座の はなしと、おなじ ところや ちがう ところが みつかるかも しれません。
家に古い写真があったら、家族に聞きながら、撮った年や場所、場面(学校、仕事、お祝いなど)ごとに、着物と洋服がどんなときに着られているかを見てみましょう。1925年の銀座の話と、似たところや、ちがうところが見つかるかもしれません。
本で調べるなら、アジア歴史資料センターの「戦前と戦後で男性/女性のファッションはどう変わったの?」の2つのページを、読み比べてみるのがおすすめです。男の人と女の人で、変わった時期がどうずれるかが見えてきます。
家族の古い写真があれば、撮影年、場所、場面(学校、仕事、祝いごとなど)ごとに、着物と洋服がどう使い分けられているかを見てみる。1925年の銀座の調査とは条件が違うので数字は比べられないが、洋服と着物の使い分けに、似た点やちがう点が見つかるかもしれない。
資料を読み比べるなら、JACARの男性版[1]と女性版[10]の2つのページがよい。男性と女性で、洋服が広まった時期のずれを比べられる。文化庁の広報誌[8]は、1935年ごろの銀座を、洋装と和装の人が自然に共存していた街として描いている。
洋服が入ってきた50年あまりのあいだに、着物のほうは、どのように役割を変えていったのか。6章で見た今の需要の話とあわせて、自分なりに考えてみてほしい。
しらべた ところ
参考にした情報源
参考にした情報源
出典について:国や公的機関の解説(アジア歴史資料センター、国立国会図書館、国立民族学博物館、文化庁)、企業の資料館・研究所(トンボ学生服、ポーラ文化研究所)、団体の解説(中央区観光協会)、統計の調査(矢野経済研究所)、個人運営のサイトなどを使いました。数字や年号は、各資料が示したものです。
- アジア歴史資料センター(JACAR)「戦前と戦後で男性のファッションはどう変わったの?」。 https://www.jacar.go.jp/glossary/tochikiko-henten/qa/qa01.html (1925年の銀座調査で洋装の男性が約67%だったこと。警官・郵便配達夫の制服、学生服として洋服が採用され、街中で洋服姿が目につくようになったこと。男性の断髪と洋服が明治20年代ごろまでかかって広まったこと)
- 中央区観光協会「中央区 ここに歴史あり(37) 87年前、震災復興期の銀座街風俗-今和次郎『考現学』」。 https://tokuhain.chuo-kanko.or.jp/archive/2012/02/3787.html (1925年5月・4日間・京橋から新橋の調査で、男性は洋装約67%・和装約33%、女性は洋装約1%・和装約99%だったこと。『婦人公論』1925年7月号の記録名)
- 国立国会図書館「近代日本とフランス ファッション」。 https://www.ndl.go.jp/france/jp/column/s2_2.html (明治5年11月12日の太政官布告で大礼服・通常礼服を定めたこと。鹿鳴館の舞踏会での洋装)
- ポーラ文化研究所「明治時代初期、洋装のはじまり」。 https://www.cosmetic-culture.po-holdings.co.jp/culture/history/25.html (郵便が1871年、鉄道が1872年に洋装の制服を採用したこと。一般の人にまで洋装が広まるのは大正時代になってからという整理)
- トンボ学生服 制服資料館「日本の学ぶスタイルの変遷(明治・大正)」。 https://www.tombow.gr.jp/uniform_museum/style/style03.html (1879年の学習院の制服、1886年の帝国大学の詰襟、明治30年代半ばの女袴と「海老茶式部」、1920年・1921年のセーラー服の採用)
- アジア歴史資料センター(JACAR)「知ってなるほど 明治・大正・昭和初期の生活と文化 装いの文明開化」。 https://www.jacar.go.jp/seikatsu-bunka/p01.html (洋服が当時とても高価なぜいたく品で庶民は和服を着続けたこと。鹿鳴館の時代の女性の洋装が数年しか続かなかったこと)
- 国立民族学博物館「近代日本の身装文化(参考ノート)」。 https://htq-fs.minpaku.ac.jp/mcdrefn/RN0114 (1920年代の女学生・子ども服の洋装の広まり、1929年の女教員の洋服着用の決議、1931年の松坂屋の女性店員の洋装、1930年代後半に大都市で通年洋服の女性がめずらしくなくなったこと)
- 文化庁 広報誌「ぶんかる」「なぜ私たちは洋服を着ているのか、考えたことはありますか」。 https://www.bunka.go.jp/prmagazine/rensai/diary/diary_081.html (1935年ごろの銀座で、男性は洋装、女性は和装がまだ主流で、洋装と和装の人が自然に共存していたこと)
- ミシンの世紀「洋裁学校:1970年代まで流行した裁縫教育組織」。 https://sewingmachine.mobi/fashion-school/ (洋裁学校の学校数・生徒数(1949年・1955年)。既製服があまり普及せず、日常着や子ども服が家で作られたこと。個人運営のサイトで、数字の元になった統計は示されておらず、延べ人数か在籍数かも分からないので、「およそ」の規模として読んだ)
- アジア歴史資料センター(JACAR)「戦前と戦後で女性のファッションはどう変わったの?」。 https://www.jacar.go.jp/glossary/tochikiko-henten/qa/qa02.html (手持ちの洋服や着物、生地を仕立て直した更生服、洋裁ブーム、家庭用ミシンの普及、1950年代半ばの化学繊維の登場)
- だるまや京染本店「洗い張りとは?」。 https://www.darumaya-gofuku.jp/maintenance/araihari (着物を一度ほどいて反物の状態に戻し、水洗いなどをする洗い張りの説明。呉服店の説明)
- 矢野経済研究所「呉服市場に関する調査を実施(2019年)」。 https://www.yano.co.jp/press-release/show/press_id/2147 (成人式や結婚式などの式典が需要の柱であること、レンタルの提携、通信販売とリサイクル販売が好調なこと)
- 矢野経済研究所「呉服市場に関する調査を実施(2024年)」。 https://www.yano.co.jp/press-release/show/press_id/3538 (2023年の呉服小売市場規模2,240億円、前年比101.4%)
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