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ここにあるのは、だれかが実際に調べ、考え、作ってきたことを集めたメモです。気になったら、ページの下の「参考にした情報源」から、もとの本や記事、それを生み出した人たちに、直接ふれてみてください。このメモには書ききれないおもしろさが、そこにあります。

こうしえんの くろい つちは、どこから きた つちなの?

甲子園の黒い土は、どこから来た土を、どう混ぜているのか

甲子園球場の黒土はどこから来て、なぜ春と夏で配合を変えるのか

分野:歴史・文化

こうしえんの グラウンドの つちは、くろい いろを して います。でも、あの あたりの じめんは、もともと しろっぽい つちでした。

では、くろい つちは、どこから はこばれて きたのでしょう。この ページを 読むと、つちの ふるさとと、はると なつで まぜかたを かえる わけが わかります。

甲子園球場の土は、球場のある土地の土ではありません。もともとこのあたりは白っぽい土の土地で、白いボールが見にくかったといいます[1]。そこで各地の土と砂を取り寄せ、混ぜ合わせて作られてきました。

どこの土を、どんな割合で混ぜているのか。春と夏で配合を変えるのはなぜか。この記事を読むと、黒土の出どころと、土を保つ毎年の作業が分かります。

甲子園球場の土は、球場のある土地の土ではない。阪神間はもともと白砂青松の土地で、土も白っぽく、ボールが見にくかったと球場自身が紹介している[1]。黒い土は、見やすさのために外から持ちこまれ、混ぜ合わされたものである。

では、その黒土はどこから来て、いまは何を混ぜているのか。季節で配合を変えるのはなぜか。この記事を読むと、産地が年によって変わりうること、春夏の配合の考え方、土を毎年耕して保つ理由が分かる。

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1. じめんが しろいと、なにが こまったの?

1. 白い土の土地に、なぜ黒い土を運んだのか

1. 白砂青松の土地に、なぜ黒土を持ちこんだのか

こうしえんの あたりは、しろい すなと まつの けしきで ゆうめいな ところでした。つちも しろっぽかったのです。

しろい ボールは、しろっぽい つちの 上では 見えにくく なります。きゅうじょうを つくる とき、いちばん きを つかったのが、この グラウンドの つちでした。

こうしえんが ひらいたのは 1924ねんです。この ねんは、むかしの こよみで「甲子きのえね」という とし が 60ねんぶりに めぐって きた とし でした。だから「こうしえん」と いう なまえが ついたと いわれます。

そこで、つちを あちこちから あつめて、ためして いきました。

甲子園球場が開場したのは1924年8月1日。60年に一度めぐってくる「甲子きのえね」の年に当たることから、この名がついたと紹介されています[2]。

球場づくりでいちばん気をつかったのが、グラウンドの土でした。阪神間はもともと白砂青松の土地で、土も白っぽく、ボールが見にくかったのです[1]。野球では、投手の手を離れた白い球を、打者も野手も目で追います。背景の土が白ければ、球は地面にとけこんでしまいます。

開場のときは、神戸の熊内の黒土に淡路島の赤土を混ぜ、粘り具合を確かめながら敷き詰めたと伝わります[1]。その後、土を担当した石川真良という人が、各地から土と砂を取り寄せて何度も混ぜ、白球が見やすい黒土を探し続けて「甲子園の土の生みの親」と呼ばれた、という紹介もあります[3]。

つまり甲子園の土は、掘ればそこにあった土ではなく、見やすさという目的に向かって「作った」土です。では、いまは何でできているのでしょう。

野球の土は、まず球の見やすさで選ばれる。甲子園球場が開場した1924年8月1日は、60年周期の干支「甲子(きのえね)」が重なる年で、これが「甲子園」の名の由来とされる[2]。その球場の建設で最も神経を使ったのがグラウンドの土であった。阪神間はもともと白砂青松の地で、現地の土は白っぽく、白球が背景にまぎれたからである[1]。

そこで採られたのが、外から土を運ぶ方法である。開場時は、神戸・熊内(くもち)の黒土に淡路島の赤土を混ぜて粘り具合を確かめ、敷き詰めたという[1]。のちには、土の責任者だった石川真良が各地から土と砂を取り寄せ、何度も配合を試して「白球が見やすい黒土」を追い求め、「甲子園の土の生みの親」と称された、とも紹介されている(単独の報道記事による)[3]。

この経緯が示すのは、甲子園の土が「地元の土」ではなく、目的から逆算して設計された混合物だということだ。ならば、いま使われている材料は何か。

2. いまの つちは、どこの なにを まぜて いるの?

2. いまの土は、どこの何を混ぜているのか

2. 現在の土は、どこの何をどう混ぜているのか

いまの こうしえんの つちは、鹿児島かごしまの くろい つちと、京都きょうとの すなを まぜた ものが きほんだと いわれて います。

くろい つちは、かざんが ふらせた はいが もとに なった つちです。くさや きの くさった ものが たっぷり まざっていて、こげちゃ色に 見えます。かるくて、水を よく ためます。

すなは、うすい ベージュ色で、水が すぐ しみこみます。

ためる つちと、にがす すなを まぜる と、ボールが 見やすくて、あめの あとでも ぐちゃぐちゃに なりにくい グラウンドに なります。

ただし、とし によって、ほかの ところの つちや すなが くわわる こともあります。くろい つちの ふるさとは、まいとし おなじとは かぎりません。

いまの土は、鹿児島県志布志市の「黒土」と、京都府城陽市の「丘砂」を混ぜたものが基本だと紹介されています。年によって、ほかの地域の土や砂が加わることもあるそうです[3]。

黒土の正体は「黒ボク土」。火山灰が主な材料で、くさった草木などの有機物(腐植)が多いため、暗い褐色に見えます。軽くて、水をよくためます。一方の丘砂は明るいベージュ色で、水はけがよい砂です[3]。水をためる黒土と、水を逃がす砂。性質が反対のものを混ぜるから、白球が見やすく、雨でもぬかるみにくい土になります。

黒土の産地は毎年同じとは限りません。岡山県の日本原、三重県の鈴鹿、鹿児島県の鹿屋、大分県の三重町、鳥取県の大山などの土が使われてきたと紹介する記事があります。砂も、地元の浜、瀬戸内海、中国の福建省などを経て、いまの京都府城陽にたどり着いたといわれます[2]。

球場側の説明では、黒土と白砂のブレンドはグラウンドキーパーの長年の経験と技術で調整されます[1]。配合表どおりに混ぜるというより、人の目と手が仕上げる土なのです。

現在の甲子園の土は、鹿児島県志布志(しぶし)市の「黒土」と京都府城陽(じょうよう)市の「丘砂」のブレンドが基本とされる。年によって他地域の土や砂が加わることもある[3]。球場自身の説明は産地を特定せず、黒土と白砂のブレンドがグラウンドキーパーの経験と技術で調整されると述べるにとどまる[1]。したがって「基本は志布志と城陽」とされるが、産地は固定ではない、と読むのが妥当である。

実際、岡山の日本原、三重の鈴鹿、鹿児島の鹿屋、大分の三重町、鳥取の大山などの土が使われてきたとする記事がある。砂についても、地元の浜から瀬戸内海、中国福建省産を経て城陽に至ったとされる[2]。

二つの材料は、性質が反対である。黒土の黒ボク土は火山灰を主成分とし、腐植が豊富なため暗褐色で、軽く保水性が高い。丘砂は明るいベージュで水はけがよい[3]。保水する土と排水する砂を混ぜることで、白球が見やすい暗い色と、雨のあとでも使える水はけを両立させる設計になっている。ただし、この両立の理屈は資料の性質の記述から読み取れる範囲の説明であり、配合比そのものは公表資料の多くで示されていない。

配合が固定されていないなら、いつ、何を理由に変えるのか。

3. はるとなつで、つちの まぜかたを かえるのは どうして?

3. 春と夏で、土の混ぜ方を変えるのはなぜか

3. 春と夏で配合を変えるのは、何を優先しているからか

こうしえんでは、はるの せんばつ たいかいと、なつの 大会で、つちの まぜかたを かえると つたえられて います。

はるは、あめが おおい きせつです。だから、水が はやく ぬける すなを おおめに します。

なつは、ボールが 見やすいように、くろい つちを おおめに します。なつの きほんは、つち6、すな4 と いわれます。

おなじ グラウンドでも、きせつの おてんきに あわせて、つちの 色も かたさも ちょうせい されて いるのです。

土の配合は、季節や天候によって変えると紹介されています。春は雨が多いので砂を多めにして水はけを優先し、夏は白球を見やすくするために黒土を多めにします。夏の基本は、土が6、砂が4とされます(報道ベースの紹介で、通年の固定値ではありません)[4]。

ここに、土の二つの性質がそのまま使われています。砂が多ければ水はけがよく、黒土が多ければ色が濃くなる。春は「雨でも試合ができること」を、夏は「白い球が見やすいこと」をそれぞれ優先して、混ぜる量を動かしているのです。

春の具体的な比率は、公開された資料からは分かりません。球場が配合を公式の数字で示していない以上、「春は砂が多め」という方向だけを覚えておくのがよさそうです。

配合の変更は、土の二つの性質をそのまま使った調整として説明されている。春は雨が多いので砂を多めにして排水を優先し、夏は「白球を見やすくするため」黒土を多めにする。夏の基本は土6:砂4とされる(報道を通じた紹介であり、通年の固定値ではない)[4]。

ここで注意したいのは、数字の確からしさに差があることだ。「春は砂多め、夏は黒土多め」という方向は複数の紹介記事が一致して述べる。一方、6:4という夏の比率は報道ベースの値で、春の比率は公開された資料に出てこない。したがって、春夏の差を「何対何」と断定して書くことはできない。

それでも、この調整が球場の仕事の本質をよく表している。配合は一度決めて終わりではなく、天候と大会の性格に合わせて毎年手を入れ続けるものであり、その判断をグラウンドキーパーの経験が支えている[1]。では、混ぜ終えた土は、使われるうちにどう変わるのか。

4. つかっていると、つちは どう かわるの?

4. 使い続けた土は、どう変わっていくのか

4. 土は1年使うと、どう変わり、どう手入れするのか

つちを 1ねん つかうと、ふしぎな ことが おきます。こまかい くろい つちが した に しずんで、すなが うえに あがって くるのです。

そこで、まいとし としの はじめに、ふかさ 30センチまで、グラウンドを たがやします。ものさしで 30センチを はかって みて ください。おもったより ふかい はずです。

シーズンちゅうに かきまぜられるのは、ちひょうの 1〜2センチだけです。あたらしい つちも、ひつような ぶんが、まいとし 足されます。

きれいに混ぜた土も、1年使うとばらばらになります。細かい黒土は下に沈み、砂が上に上がってくるのです[5]。

そのため、毎年年明けに、約30センチの深さまでグラウンドを耕します。シーズン中にかき混ぜられるのは、地表のほんの1〜2センチだけです[5]。30センチといえば、定規を縦に立てた高さです。球場全体でそこまで掘り返して混ぜ直すと考えると、大きな仕事だと分かります。

土が足りなくなる分は補われます。年間2トン以上の土を補充するとされますが、これは一つの記事にある数字です[3]。いずれにしても、黒土は「敷いたら終わり」ではなく、毎年手を入れて保つものです。

ここまでが、土を作る側の話でした。では、試合に負けた選手が、この土を袋に入れて持ち帰る習慣は、いつ始まったのでしょう。

混ぜた土は、使われるうちに層に分かれていく。1年使うと、細かい黒土が下に沈み、砂が上へ上がってくる。そのため毎年、年明けに約30センチの深さまで耕して混ぜ直す。シーズン中にかき混ぜられるのは地表の1〜2cmにすぎない[5]。配合を決めるだけでは土の性質は保てず、使用による分離を、毎年の耕起で元に戻す必要がある、という整理になる。

補充も欠かせない。甲子園に補充する土は年間2トン以上とされるが、この数字は一つの記事に見える値で、年ごとの変動は分からない[3]。

見方を変えると、「黒土の産地が年によって変わる」ことと、「毎年耕して混ぜ直す」ことは、どちらも土の状態を保つ手入れである。産地や配合を調整し、毎年耕して混ぜ直すことで、土の状態を保っている。土は固定された素材ではなく、天候・季節・使用の履歴に合わせて管理される状態であり、その管理が選手の見やすさとプレーのしやすさを支えている。では、その土を球児が持ち帰る習慣は、いつ、どこから始まったのか。

5. まけた ひとが つちを もって かえるのは、いつから?

5. 試合に負けた選手が土を持ち帰る習慣は、いつ始まったのか

5. 甲子園の土を持ち帰る習慣は、いつ、誰から始まったとされるのか

こうしえんの 大会が おわると、まけた チームの 選手せんしゅが、ユニフォームの ポケットや ふくろに つちを 入れて かえる すがたが 見られます。

この ならわしは、いつ、だれから はじまったのでしょう。じつは、はっきり わかって いません。

1937ねんの 夏に、熊本くまもとの チームの 川上さんが はじめた と いう はなしが あります。でも、ご本人は ちがうと いったとも つたえられて います。1949ねんの 夏に、小倉おぐらの ふくしまさんが ポケットに 入れた という はなしも あります。

つまり「諸説しょせつ」 あって、ひとりに きめられないのです。

負けたチームの選手が、甲子園の土を集めて持ち帰る。この光景の始まりは、はっきりしていません。

よく挙がる説の一つは、1937年夏に準優勝した熊本工業の川上哲治さんの話です。ただし本人は否定したとも伝えられます。もう一つは、1949年夏に小倉高校の福嶋一雄さんが土をポケットに入れた、という説です[6]。

新聞はどうでしょう。ある調査では、負けたチームが土を集める様子を伝える記事は、1958年春のセンバツまで見当たりませんでした。1968年の朝日新聞は「よく見られる」と書き、1987年の本は「二十年ほど前から」ごっそり持ち帰るようになったと記しています[6]。

数字を見比べると、みんなが当たり前に持ち帰るようになったのは、昭和30年代から40年代にかけてのことらしい、という見当がつきます。この読みには調べた人の推測も含まれます。

持ち帰りの起源は、現時点でひとつに絞れない。有力視される説は二つある。1937年夏に準優勝した熊本工の川上哲治(かわかみ・てつはる)が持ち帰ったとする説(本人が否定したとの報もある)と、1949年夏に小倉の福嶋一雄(ふくしま・かずお)がポケットに入れたとする説である[6]。

どちらも決め手に欠ける理由は、新聞を調べるとわかる。Number Web の調査によれば、負けたチームが土を集める光景を伝える記事は1958年春のセンバツまで見当たらない。1968年の朝日新聞は「よく見られる」と書き、1987年刊の藤本治一郎の著書は「二十年ほど前から」ごっそり持ち帰るようになったと述べる[6]。三つの年を並べると、習慣が広く見られるようになったのは1950年代末から60年代と読めるが、「1960年代に定着」という言い方は調査記事の推測を含むため、事実として固定しない方がよい。

個人の最初の一人を探すより、新聞に初めて載る年を探すほうが、この習慣の始まりに近づける方法であることも読み取れる。そして、持ち帰られた土の中で、いちばん広く語られる話が、沖縄の首里高校のものである。

6. おきなわの こうこうせいは、つちを どう したの?

6. 沖縄の高校が持ち帰った土は、どうなったのか

6. 1958年の首里高校が持ち帰った土には、何が起きたのか

1958ねんの 夏、沖縄おきなわの 首里高校が、はじめて こうしえんに 出ました。そのころの おきなわは、アメリカの ちからの もとに ありました。

こうこうせいたちは、こうしえんの つちを もって かえろうと しました。ところが、くだものや 草花の びょうきを ふせぐ 決まりのために、つちは おきなわに 持ちこめませんでした。

おきなわに つく まえに、つちは うみに すてられた と つたえられて います。

この はなしは、いまでも かたりつがれて います。つちが、それくらい たいせつな ものだったという ことでしょう。

1958年の夏、アメリカ統治下の沖縄から、首里高校が初めて甲子園に出場しました。選手たちは試合のあと、甲子園の土を持ち帰ろうとしました。

しかし、植物防疫法という法律のために、土は沖縄に持ち込めませんでした。土は検疫で海に捨てられたと伝えられています[6]。

この土が、もとはといえば各地から集めて混ぜた土だったと思うと、なおおもしろく感じられます。

1958年夏、米国統治下の沖縄から首里(しゅり)高校が初出場した。持ち帰ろうとした甲子園の土は、植物防疫(ぼうえき)法により持ち込みが認められず、検疫で海に捨てられたと伝えられる[6]。

この話が語り継がれるのは、土が単なる素材を超えて、記念の品になっていたことを示すからである。防疫法は植物の病害虫を持ちこまないための法律であり、土は規制の対象になりうる。その規制と、球児の思いがぶつかった場面が、このエピソードの核にある。

ここで冒頭の問いに戻ると、球児が持ち帰った土は、地元の土ではなく、見やすさのために各地から集められた土と砂であった。人が目的をもって作った土が、のちに人の思い出を運ぶ品になった、という順序が、甲子園の土の面白さといえる。

7. こんど テレビで 見たら、なにを 見たい?

7. 土の色と手入れを、どう見ればもっとおもしろくなるか

7. 試合の映像から、土の違いを読み取るには

こうしえんの しあいを テレビで 見る ことが あったら、グラウンドの つちの いろを よく 見て みましょう。はるの 大会と なつの 大会で、いろが ちがって 見えるでしょうか。

もうひとつ、しあいの まえや あとに、グラウンドを ならして いる ひとにも ちゅうもく して みて ください。つちを ととのえる ひとの しごとが、見えて きます。

おうちの にわや こうえんの つちは、どんな いろでしょう。しめった ときと かわいた ときで、いろや さわった かんじが ちがうかも しれません。

今年の中継を見る機会があれば、グラウンドの土の色に注目してみてください。春と夏で、土の色の濃さが違って見えるかもしれません。

もう一つの見どころは、試合の合間にグラウンドを整える人たちの手つきです。雨のあとにどうやって水を逃がすのか、どこをどう直すのか。白い球が見やすく、プレーしやすいグラウンドは、この人たちの経験で支えられています[1]。

身近な場所なら、公園の土と砂場の砂を、しめらせた状態と乾いた状態で見比べるのもよいでしょう。水をためる土と水を通す砂の違いが、色や手ざわりで分かります。手を洗える場所で、土をなめたり口に入れたりしないようにして試してください。

球場側の説明は、阪神甲子園球場の公式サイト「甲子園秘話」にあります[1]。土について書かれた箇所を探して、この記事の説明と見比べてみてください。

映像から土の違いを読むなら、春と夏の大会で色の濃さが違って見えるかを見る。夏の黒土多め・春の砂多めという調整が正しければ、同じ球場でも見え方に差が出うる。ただし、カメラの露出や天気にも左右されるので、これだけで配合を断定することはできない。

もう一つの問いは、産地の変遷である。黒土は鹿児島の志布志のほか、岡山・三重・大分・鳥取などの名が挙がり、砂は地元の浜から瀬戸内海、福建省を経て城陽に移ったとされる[2]。球場の公式説明には産地の記載がないため[1]、産地を調べるには、年ごとの報道や取材記事を比べる必要がある。

資料は、阪神甲子園球場「甲子園秘話」[1]、nippon.com[2]、Number Web[6]が入り口になる。持ち帰りの起源のように、記事が推測を含む箇所は、新聞の縮刷版などの一次の記録に当たるとよい。

しらべた もとの じょうほう

参考にした情報源

参考にした情報源と、その使い方

運営者が確認した公開資料です。配合や産地は年ごとに変わりうるため、数字は紹介記事の時点のものとして読んでください。

  1. 阪神甲子園球場「甲子園秘話」. https://koshien.hanshin.co.jp/history/trivia.html (グラウンドの土の始まり/ブレンドの調整)
  2. nippon.com. https://www.nippon.com/ja/in-depth/d00975/ (開場の年と名前の由来/産地の変遷)
  3. Sportiva(集英社)2019年. https://sportiva.shueisha.co.jp/clm/baseball/hs_other/2019/08/10/___split_86/ (現在の材料/土の性質/補充量)
  4. Japaaan(excite ニュース掲載). https://www.excite.co.jp/news/article/Japaaan_121086/ (春夏の配合の違い)
  5. デイリースポーツ 2024年1月14日. https://www.daily.co.jp/opinion-d/2024/01/14/0017222350.shtml (毎年の耕起)
  6. Number Web. https://number.bunshun.jp/articles/-/849564 (持ち帰りの起源の諸説と新聞の調査)

なおした ところ

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