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ここに書いてあることは、誰かが実際に手を動かして調べ、考え、作り上げてきたものを拾い集めています。専門の本や論文、作品、そしてそれを生み出した人たち。気になったことがあれば、ぜひそのおおもとに直接ふれてみてください。このメモには書ききれない熱を、感じてもらえると思います。

なんで じぶんの なまえだけ きこえるの? ── うるさい ところで おきて いる こと

名前を呼ばれると、なぜ気づいて振り向くのか ── 騒がしい場所で起きていること

名前を呼ばれると振り向くのはなぜか ── 選択的注意という脳のしくみ

分野:からだ

きょうしつで、たくさんの 人が いっぺんに しゃべって います。がやがや うるさくて、なにも きこえません。でも、その 中で、じぶんの なまえだけは、なぜか きこえて、ぱっと ふりむいて しまう ことが あります。

これは、いつも おきる ことなのでしょうか。それとも、ときどきしか おきない ことなのでしょうか。この メモは、うるさい ところで じぶんの なまえに 気づく ふしぎを、しんりがくや のうの けんきゅうを 手がかりに たどって いきます。

教室や電車の中など、たくさんの声が入り混じってざわざわしている場所でも、自分の名前だけは、なぜか耳に飛びこんできて、思わず振り向いてしまうことがあります。

これは、名前を呼ばれれば誰にでも必ず起きることなのでしょうか。実は、心理学の実験では、意外と多くの人が名前に気づかずに聞き逃していることが分かっています。このメモは、この「カクテルパーティー効果」と呼ばれる現象を、実験の歴史・気づく割合・脳の中の動き・体が振り向くしくみという流れでたどります。

教室や駅など、たくさんの声が重なり合ってざわついている場所でも、自分の名前だけは耳に飛びこんできて、思わず振り向いてしまうことがある。

この現象は「カクテルパーティー効果」と呼ばれ、心理学では60年以上前から研究されてきた。ところが実験を重ねてみると、名前を呼ばれても気づかない人のほうがむしろ多数派だということが分かってきた。このメモは、その意外な事実を手がかりに、注意の理論の移り変わり、気づく割合を測った複数の追試、脳の中で何が起きているか、そして体が音のほうへ向く仕組みまでをたどる。

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1. さわがしい ところで、なぜ じぶんの なまえだけ わかるの?

1. 「カクテルパーティー効果」と名づけられた、ふしぎな現象

1. カクテルパーティー効果 ── コリン・チェリーの発見

1953年、心理学者しんりがくしゃの コリン・チェリーと いう 人が、おもしろい じっけんを しました。りょうほうの 耳に、ちがう 話を いっぺんに きかせて、かた方の 話だけを 声に 出して まねさせる、と いう じっけんです[1]。

まねした ほうの 話は よく おぼえて いたのに、まねしなかった ほうの 話は、ほとんど おぼえて いませんでした。ところが ふしぎな ことに、まねしなかった ほうから じぶんの なまえが きこえた ときだけは、気づく 人が いたのです[1][12]。この なぞに、チェリーは「カクテルパーティー問題もんだい」と いう 名前を つけました。パーティーの お酒の けんきゅうでは ありません。

心理学者のコリン・チェリーは1953年、両方の耳にそれぞれ別の話を同時に聞かせ、片方の耳の話だけを声に出して復唱させる、という実験の方法を作り上げました[1]。この方法は「シャドーイング課題」と呼ばれています。

実験に協力した人たちは、復唱していないほうの耳の内容を、ほとんど覚えていませんでした。話していた言語が途中で変わったことにさえ気づかない人もいたほどです。ところが、復唱していないほうの耳から自分の名前が流れると、その名前には気づく人がいました[1][12]。無視していたはずの音から、なぜ名前だけがすり抜けてきたのでしょうか。チェリーはこの現象全体を「カクテルパーティー問題」と名づけました。実際のパーティーを調べた研究ではなく、騒がしい場所で起きる注意の不思議に付けられた名前です[1]。

心理学者コリン・チェリーは1953年、両耳にそれぞれ別の音声を同時に聞かせ、一方の耳の内容だけを声に出して復唱させる「シャドーイング課題」という実験手法を確立した[1]。

この実験に協力した人たちは、復唱していない側の耳の内容を、ほとんど記憶していなかった。話す言語が変わったことにすら気づかない人もいた。ところが、復唱していない側から自分の名前が流れたときだけは、名前に気づく人がいた[1][12]。注意を向けていないはずの音から、なぜ「名前」という意味のある情報だけがすり抜けてくるのか。チェリーはこの謎そのものを「カクテルパーティー問題」と名づけた。実際の酒席を調べた研究ではなく、騒がしい場での注意の働きにつけられた名前である[1]。

2. 音の「ふるい」だけでは せつめいできない

2. フィルター理論と、そのほころび

2. 初期選択フィルター理論から減衰理論へ

この なぞに こたえようと、1958年、ドナルド・ブロードベントと いう 人が、かんがえを だしました。聞いて いない ほうの 音は、大きさや 方向だけで さっさと「ふるい」に かけられて、いみまでは とどかない、と いう かんがえです[1][12]。

でも、この かんがえでは、まえの じっけんで じぶんの なまえに 気づけた ことを せつめい できません。そこで、アン・トリーズマンと いう 人は、べつの かんがえを だしました。聞いて いない ほうの 音も、じつは 小さく なって とどいて いて、じぶんの なまえの ように 大じな ことばは、小さな 音でも 気づきやすい、と いう かんがえです[1][12]。

この謎に、心理学者ドナルド・ブロードベントは1958年、一つの答えを示しました。注意を向けていない音は、大きさや聞こえてくる方向といった物理的な特徴の段階で、早々に「ふるい」にかけられ、意味の処理までは届かない、という「初期選択フィルター理論」です[1][12]。

ところが、この理論だけでは、無視していたはずの耳から自分の名前が届いた現象をうまく説明できません。名前という「意味」が、フィルターを通り抜けているように見えるからです[1][12]。この点を受けて、心理学者アン・トリーズマンは別の考えを示しました。無視した側の音は、完全に遮断されるのではなく、音量を絞ったように弱められて残っており、自分の名前のように本人にとって重要な言葉は、反応するための「しきい値」が低く、弱い信号でも気づきやすい、という「減衰理論」です[1][12]。ブロードベントは入力を早い段階で選ぶモデルを提案し、トリーズマンは、選ばれなかった入力も弱められて残ると説明した。フィルターで断ち切るのではなく、音量を絞って通す、という違いです。

この矛盾に、心理学者ドナルド・ブロードベントは1958年、一つの説明を与えた。注意を向けていない情報は、音量や方向といった物理的な特徴の段階で早期にフィルターにかけられ、意味の処理まで届かないとする「初期選択フィルター理論」である[1][12]。

だが、この理論だけでは、無視した側の耳から意味のある「自分の名前」が届く現象をうまく説明できない。フィルターが意味の手前で情報を遮断するという想定と、名前という意味情報が通り抜けてくる観察とが、そのままでは食い違うからだ[1][12]。この食い違いを受けて、心理学者アン・トリーズマンは「減衰理論」を示した。無視した側の情報は完全に遮断されるのではなく、音量を絞るように弱められて残っており、自分の名前のように個人的に重要な言葉は、反応するための「しきい値」が低く、弱まった信号でも気づきやすいとする考え方である[1][12]。ブロードベントは入力を早い段階で選ぶモデルを提案し、トリーズマンは選ばれなかった入力も弱められて残ると説明した ── 理論が実験結果に合わせて書き換えられていく、その過程がここに表れている。

3. なまえに 気づく 人は、じつは 少ない

3. 名前に気づく割合は、思ったより低い

3. 検出率という数字 ── 追試が示した「3割前後」

1959年、ネヴィル・モレーと いう 人が じっけんを した ところ、聞いて いない ほうの 耳に じぶんの なまえを ながしても、気づいた 人は 3人に 1人くらいでした[2]。

のこりの 3人に 2人くらいは、じぶんの なまえが ながれても 気づきませんでした。1995年や 2020年に べつの 人たちが おなじ じっけんを やりなおしても、やっぱり 3人に 1人くらい、という けっかに なりました[3][2]。なまえを よばれたら、いつも かならず 気づく、というわけでは ないのです。

おもしろい ことに、いつも しっかり しゅうちゅうして いる 人ほど、なまえに 気づきにくい、と いう けんきゅうも あります。かんがえたり おぼえたり する 力を「作業記憶さぎょうきおく」と いいますが、この 力が つよい 人は 5人に 1人しか 気づかず、この 力が よわい 人は 3人に 2人が 気づいた、と ほうこくされて います[3]。

1959年、心理学者ネヴィル・モレーが、無視すべき側の耳の音声にこっそり参加者自身の名前を混ぜたところ、実験に協力した人のうち、およそ3人に1人(約33%)がその名前に気づいたと報告されています[2]。

逆に言えば、残りのおよそ3人に2人は、名前が流れても気づきませんでした。1995年の追試でもほぼ同じ約33%という割合が確認されており[3]、2020年に行われた、あらかじめ手順を細かく決めてから行う「事前登録」の追試でも、29%という近い数字が得られています[2]。3つの実験を通して、名前を呼ばれても気づかない人のほうが、むしろ多数派だということが繰り返し示されているのです[2]。

さらに意外なのは、個人差の中身です。2001年の研究では、一時的に情報を頭の中に保持し操作する力である「作業記憶さぎょうきおく」の容量が小さい人は、およそ65%が名前に気づいたのに対し、容量が大きい人はおよそ20%しか気づきませんでした[3]。集中する力が強い人ほど気づきやすいと思いたくなりますが、結果はその逆でした。どちらが優れているという話ではなく、雑音を抑えこむ力が強い人ほど、名前まで一緒に抑えこんでしまう、ということのようです。

1959年、心理学者ネヴィル・モレーは、無視すべき側の耳の音声に参加者自身の名前を混ぜる実験を行った。実験に協力した人のうち、およそ3人に1人(約33%)がその名前に気づいたと報告されている[2]。

裏を返せば、残るおよそ3人に2人は、名前が流れても気づかなかったことになる。1995年のウッド・コーワンによる追試でも、ほぼ同じ約33%という検出率が確認された[3]。さらに2020〜2021年に行われた、手順をあらかじめ細かく登録してから実施する「事前登録」追試(参加者80人)でも、29%という近い水準の数字が得られている[2]。カクテルパーティー現象は、何度も確かめ直された、それなりに信頼できる割合として、「気づく人は3割前後、気づかない人のほうが多数派」という形にまとまりつつある[2]。

個人差の中身も興味深い。2001年のコンウェイ・コーワン・バンティングによる研究では、一時的に情報を保持し操作する力である作業記憶さぎょうきおくの容量が小さい人は約65%が名前に気づいたのに対し、容量が大きい人では約20%しか気づかなかった[3]。集中力が高い人ほど気づきやすいと考えたくなるが、結果はその直感に反する。どちらが優れているという話ではなく、雑音を抑えこむ制御の力が強い人ほど、意味のある情報まで一緒にブロックしてしまう、と解釈されている。

4. 気づく まえに、のうの おくが うごいて いる

4. 気づくより先に、脳の奥が反応している

4. fMRIが示した、意識より先に働く自動検出

2016年、中根さんたちの グループが、きかいで のうの中を しらべる じっけんを しました。ほかの ことに 気を とられて いる ときに じぶんの なまえを きくと、のうの おくの ほう(視床ししょうや 網様体もうようたいなど)が、さきに はんのうする ことが わかりました[4]。

その あとで、じぶんの なまえだ、と きちんと 気づいた ときには、こんどは のうの まえの ほうが うごきました[4]。けんきゅうした 人たちは、「気づいた」と おもう より まえに、のうの おくの ほうが、まず なまえに はんのうして いるのでは、と かんがえて います[4]。

2016年、中根らの研究グループが、fMRIという機械を使って脳の活動を調べる実験を行いました。他の作業に注意を向けている最中に自分の名前を聞くと、脳の奥にある、進化的に古い部位(視床ししょうや網様体もうようたい、島皮質とうひしつなど)がまず反応することが分かりました[4]。

一方、意識してしっかり自分の名前に注意を向けて聞いたときには、自己に関する情報の処理と結びつくとされる「内側前頭前野ないそくぜんとうぜんや」という部位が活動しました[4]。この結果から研究者たちは、名前に「気づいた」と本人が思うより前に、脳の古い部分が、低いレベルで自動的に名前を検出しているのではないか、と解釈しています[4]。振り向く前に、脳の奥のほうは、もう名前に反応し始めているのかもしれません。

2016年、中根らの研究グループはCerebral Cortex誌に、fMRIを使って脳の活動を調べた研究を発表した。他の課題に注意を向けている最中に自分の名前を聞くと、中脳ちゅうのう網様体もうようたい・視床ししょう・島皮質とうひしつ・聴覚野・楔前部けつぜんぶといった、進化的に古く自動的な処理に関わるとされる部位が活動した[4]。

一方、名前に意識してしっかり注意を向けて聞いたときには、自己に関する情報処理と結びつけて論じられることが多い「内側前頭前野ないそくぜんとうぜんや」が活動した[4]。研究者たちは、注意を向けていない状態での名前検出を「低レベルで自動的な検出」と解釈しており、名前は意識してはっきり気づくよりも先に、脳の古い部分がまず反応していると考えられる、と述べている[4]。「振り向いた理由が分かる前に、体はもう反応している」とまで言い切れるかどうかは研究者自身の解釈にとどまる部分もあるが、少なくとも自動的な検出の経路と、意識的な自己認識の経路は、別の場所で起きているらしい。

5. からだが かってに、音の ほうを むく

5. 体が音のほうを向く、反射のしくみ

5. 上丘の定位反射と、両耳の手がかり

のうの まん中あたりに ある「上丘じょうきゅう」と いう ところは、耳から きた 音の じょうほうと、目から きた けしきの じょうほうを あわせて、音の した ほうへ、くびを かってに むけさせる はたらきが あります[5]。かんがえて うごかす というより、はんしゃに ちかい うごきです。

のうは、右と 左の 耳に とどく 音の じかんの ずれと、大きさの ちがいから、音が した ほうこうを あてます[6]。1かいで ぴったり わからなければ、くびを うごかして、もう一ど たしかめる ことも あります[7]。

脳の中心近くにある「上丘じょうきゅう」という部位は、耳から届いた音の情報(下丘という部位を経由します)と、目から届いた視覚の情報を、地図のように組み合わせています。そして、音がした方向へ、首や頭を反射的に向けさせる働きを持っています[5]。考えて決める行動というより、体が勝手に動く反射に近いものです。

脳が音の方向を推定するときの手がかりは2つあります。左右の耳に音が届く時間のずれ(両耳間時間差)と、聞こえる音の大きさの違い(両耳間レベル差)です。時間のずれはおよそ2000〜3000ヘルツを目安にそれより低い音でよく働き、音の大きさの違いはそれより高い音でよく働きます。ただし、この境目は厳密な切り替え点ではなく、2つの手がかりが効く範囲には重なりもあります[6]。そして、実際に頭を音のほうへ回転させると、両耳に届く時間差や音量差そのものが変化するため、脳はその変化を新しい手がかりにして、方向をさらに正確に絞りこむことができます[7]。一度振り向いただけで終わらず、首を細かく動かして確かめ直しているのは、このためのようです。

中脳にある「上丘じょうきゅう」は、下丘かきゅうを経由して届いた聴覚の情報と、視覚の情報を地図のように統合し、音がした方向へ首や頭を反射的に向けさせる働きを持つ[5]。これは意思決定というより、定位反射と呼ばれる、体が自動的に動く反応に近い。

脳は音の方向を、両耳に届く時間差(両耳間時間差)と、音量差(両耳間レベル差)という2種類の手がかりから推定している。時間差はおよそ2000〜3000ヘルツを目安にそれより低い音でよく働き、レベル差はそれより高い音でよく働く。ただし、この境目は厳密な切り替え点ではなく、2つの手がかりが効く範囲には重なりもある[6]。左右の耳の位置がずれているから方向が分かる、という単純な話ではなく、周波数帯によって使い分けられる2つの手がかりが組み合わさっている。さらに、頭を実際に音のするほうへ回転させると、両耳に届く時間差・音量差そのものが変化するため、脳はその変化を手がかりに、音源の方向をより正確に絞りこむことができる[7]。振り向く動作が1回で終わらないのは、こうして情報を更新し続けているからだと考えられる。

6. 赤ちゃんも、じぶんの なまえに 気づいて いる

6. 赤ちゃんも、早い時期から名前に反応している

6. 乳児期からの自己名認識 ── 音のパターンで区別する

1995年の じっけんでは、生まれて 4.5か月くらいの 赤ちゃんでも、にた ひびきの べつの なまえより、じぶんの なまえを 長く 聞いて いる ことが わかりました[8]。赤ちゃんが どちらの 音を すきに なるかを、くびの むきで しらべる ほうほうで、たしかめられました。

2010年の べつの じっけんでは、生後 5か月の 赤ちゃんの のうが、なまえの さいしょの 音を きいた しゅんかんから、もう じぶんの なまえかどうかを くべつして いる ことが、脳波のうはで しめされました[9]。なまえを ぜんぶ 言い おわる まえから、赤ちゃんの のうは、もう うごいて いるのです。

この「名前に気づく」力は、いつから始まっているのでしょうか。1995年の研究では、生後4.5か月というごく早い時期の赤ちゃんでも、同じアクセントのパターンを持つ他の名前より、自分の名前を長く聞き続けることが確かめられました。赤ちゃんが向いた頭の向きから、どちらの音を好んでいるかを調べる実験の手法によるものです[8]。ただし、これは名前の「意味」を理解しているというより、名前の音のパターンを聞き分けている段階だと考えられています。

2010年の別の研究では、生後5か月の赤ちゃんの脳が、名前の最初の音が聞こえた時点で、すでに自分の名前と他人の名前を区別して反応していることが、脳波を測る実験で示されました[9]。名前を最後まで言い終わる前から、赤ちゃんの脳はもう動き出しているのです。

この能力はいつから備わっているのか。マンデル・ユシュチック・ピゾーニによる1995年の研究では、生後4.5か月という早い時期の乳児でも、同じ強勢パターンを持つ他の名前より、自分の名前を長く聞き続けることが、頭の向きで好みを調べる実験手法(head-turn preference procedure)によって示された[8]。ただしこれは、名前の意味を理解しているのではなく、名前の音のパターンを聞き分けている段階の話だとされる。

パリーゼ・フリーデリチ・ストリアーノによる2010年のEEG(脳波)研究では、生後5か月の乳児の脳が、自分の名前と他人の名前を、名前の最初の音素おんそが聞こえた時点ですでに区別して反応していることが示された[9]。名前を最後まで言い終える前から、脳はすでに動き出している。この研究は脳波の反応の違いを見たものであり、実際に振り向く行動そのものを測定したわけではないが、名前という音のパターンに対する早い反応は、生後半年に満たないうちから存在している。

7. きかいには、まだ むずかしい

7. 機械にとって、まだ難しい問題

7. 60年たっても解けていない工学の課題

「ヘイ、Siri」や「アレクサ」と いう ことばで うごきだす きかいが あります。これは、その ことばだけを 聞いて いる ちいさい しくみが いつも うごいて いて、ことばを 聞いたら、はじめて 本かくてきな しくみが うごきだす、と いう 2だんがまえに なって います[10]。じぶんの なまえに 気づく のうの しくみと、なんとなく にた かたちです。ただし、これは「たとえ」で、のうと きかいが おなじ しくみで うごいて いる わけでは ありません。

チェリーが なぞに 名前を つけてから 60年 いじょうたった 今でも、たくさんの 声が かさなる 中から、ひとりの 声だけを より分ける ことは、きかいには まだ むずかしい しごとです[11]。人の のうも、かんぺきでは ありません。でも、うるさい ところで、ときどき じぶんの なまえに 気づける ことじたい、じつは よく できた しくみなのです。

スマートスピーカーの「Hey Siri」や「Alexa」などの起動用の合言葉(ウェイクワード)を検出するしくみは、その合言葉だけを聞き取る、小さくて消費電力の低いしくみが常に動き続けていて、合言葉を検知したときだけ、本格的な音声認識のしくみが動きだす、という2段構えになっています[10]。これは、名前だけは自動的に検出され、そのあとで意識的な処理が始まるという、脳の中の流れとよく似た構造です。ただし、これはあくまで「似た構造」というたとえであり、脳が機械とまったく同じしくみで動いているという意味ではありません。

コリン・チェリーが問題に名前をつけてから60年以上たった今でも、複数の話し声が重なる中から特定の話者の声だけを分離して認識する「カクテルパーティー問題」には、さまざまな分離・認識の手法が開発されてきました。それでも、幅広い実用化にはなお課題が残る、音声認識工学の重要なテーマであり続けています[11]。人間の脳も、この記事で見てきたとおり、名前を完璧に聞き分けているわけではありません。それでも、うるさい場所で、ときどき自分の名前に気づけること自体、実はかなりよくできたしくみなのです。

スマートスピーカーの「Hey Siri」「Alexa」などのウェイクワード検出は、合言葉だけを聞き取る、小さく消費電力の低いしくみが常に動き続け、合言葉を検知したときだけ本格的な音声認識のしくみが起動する、という2段構えの設計になっている[10]。無視した側の名前をまず自動的に検出し、そのあとで意識的な処理へ進むという、この記事で見てきた脳の流れとよく似た構造だ。ただし、これは構造上の類似というたとえにすぎず、脳がAIと同一の仕組みで動いているという意味ではない。

コリン・チェリーが問題を名づけてから60年以上たった現在でも、複数の話し声が重なる中から特定の話者の声だけを分離して認識する「カクテルパーティー問題」には、さまざまな分離・認識の手法が開発されてきた。それでも、幅広い実用化にはなお課題が残る、音声認識工学の重要なテーマであり続けている[11]。人間には簡単で機械には難しい、というだけの話ではない。ここまで見てきたとおり、人間自身もこの現象を完璧にこなしているわけではなく、気づける割合は平均して3割前後にとどまる。それでも、雑音の中から意味のある一つの情報を拾い上げるという、この不完全ながら巧みなしくみを、人はいまも当たり前のように使い続けている。

8. じぶんでも たしかめて みたく なったら

8. 自分でも調べてみたくなったら

8. 自分でも調べてみたくなったら

やってみよう。おうちの 人か ともだちに たのんで、あなたが 本を よんだり、ゲームを して いたり する ときに、すこし はなれた ところで、こっそり あなたの なまえを、小さい こえで 言って もらいましょう。気づけるか、ためして みましょう。

  • 1かいで きづかなくても、だいじょうぶです。3人に 1人くらいしか きづかない、と いう じっけんの けっかも あるからです。
  • あいてに、なんども おおきな こえで よばせない ように しましょう。

つぎに、がやがやした ところに いる ときは、じぶんの なまえが きこえて いないか、ちょっと 気に して みましょう。きこえた ときも、きこえなかった ときも、どちらも おもしろい けっかです。

やってみたいこと。家族や友達に頼んで、あなたが本を読んだりゲームをしたりして他のことに気を取られているときに、少し離れた場所から、あなたの名前を小さめの声で呼んでもらいましょう。気づけるかどうかを試してみます。何度も大きな声で呼んでもらう必要はありません。1回で気づかなくても、それは自然なことです。研究でも、気づく人は3人に1人ほどにとどまっているからです。

資料を読んでみたい。

  • Wikipedia「Cocktail party effect」[1]。理論の移り変わりが英語でまとまっている。
  • 中根らの研究(2016年、Cerebral Cortex誌)[4]。fMRIで見た脳の活動の違いが説明されている。

考えてみたい問い。次に、教室や電車の中などざわざわした場所にいるとき、自分の名前らしき音が聞こえた気がしたら、それが本当に自分の名前だったか、周りをよく確かめてみましょう。聞こえた気がしただけのことも、案外あるかもしれません。

やってみたいこと。家族や友人に頼み、自分が読書やゲームなど別の作業に注意を向けているときに、少し離れた場所から小さめの声で名前を呼んでもらう。気づけるかどうかを試してみる。何度も大きな声で呼んでもらう必要はない。1回で気づかなくても不自然ではない。複数の追試でも、気づく人はおよそ3割にとどまっているからだ。

資料を読み比べてみたい。

  • Wikipedia「Cocktail party effect」[1]。チェリーからブロードベント、トリーズマンへと続く理論の移り変わりがまとまっている。
  • Röer & Cowan (2020/2021)の事前登録追試の論文[2]。29%という検出率の根拠になっている。
  • 中根らによる2016年のfMRI研究(Cerebral Cortex誌)[4]。無視した状態と意識した状態で、脳のどこが動くかが報告されている。

考えてみたい問い。ざわざわした場所で自分の名前らしき音を聞いた気がしたとき、それは本当に名前だったのか、聞き間違いだったのかを、周囲を確かめてみる。「聞こえた気がしただけ」ということも、案外あるのかもしれない。

しらべた もとの じょうほう

参考にした情報源

参考にした情報源と、その使い方

出典について:カクテルパーティー効果の理論をまとめたWikipedia記事、心理学の追試論文(PMC・PubMed掲載)、fMRIによる脳研究の論文、聴覚定位を解説した論文・記事、乳児の言語心理学の論文、スマートスピーカーの技術解説、工学分野のレビュー論文を使った。何に使ったかを、それぞれの項目の最後に書いている。

  1. Wikipedia「Cocktail party effect」。 https://en.wikipedia.org/wiki/Cocktail_party_effect (チェリーの実験、初期選択フィルター理論、減衰理論、理論の移り変わりについて)
  2. Röer & Cowan「A Preregistered Replication and Extension of the Cocktail Party Phenomenon」(2020/2021)。 https://pmc.ncbi.nlm.nih.gov/articles/PMC8908911/ (モレー1959年の検出率、2020年の事前登録追試の検出率29%、気づかない人が多数派であることについて)
  3. Conway, Cowan & Bunting「The cocktail party phenomenon revisited: The importance of working memory capacity」(2001)。 https://pubmed.ncbi.nlm.nih.gov/11495122/ (ウッド・コーワン1995年の検出率、作業記憶容量による個人差について)
  4. Nakane et al.「How the Non-attending Brain Hears Its Owner's Name」Cerebral Cortex (2016)。 https://academic.oup.com/cercor/article/26/10/3889/2389066 (fMRIによる無視時と注意時の脳活動の違い、自動検出という解釈について)
  5. 「The Orienting Reflex Reveals Behavioral States Set by Demanding Contexts: Role of the Superior Colliculus」。 https://pubmed.ncbi.nlm.nih.gov/36750370/ (上丘による定位反射について)
  6. Wikipedia「Interaural time difference」。 https://en.wikipedia.org/wiki/Interaural_time_difference (両耳間時間差・両耳間レベル差と、それぞれが働く周波数帯について)
  7. 「Interaural Level Differences」(Hanover College 音源定位の解説)。 https://isle.hanover.edu/Ch11AudBrainLoc/Ch11InterLoud.html (頭を回転させることで音源方向の絞りこみが進むことについて)
  8. Mandel, Jusczyk & Pisoni「Infants' Recognition of the Sound Patterns of Their Own Names」Psychological Science (1995)。 https://journals.sagepub.com/doi/10.1111/j.1467-9280.1995.tb00517.x (生後4.5か月の乳児が自分の名前を長く聞くことについて)
  9. Parise, Friederici & Striano「"Did You Call Me?" 5-Month-Old Infants' Own Name Guides Their Attention」(2010)。 https://pmc.ncbi.nlm.nih.gov/articles/PMC2997051/ (生後5か月の乳児が最初の音素から名前を区別する脳波反応について)
  10. Soniox「Keyword spotting and wake words: always-listening AI explained」。 https://soniox.com/wiki/keyword-spotting-wake-words (ウェイクワード検出の2段構えのしくみについて)
  11. 「Past review, current progress, and challenges ahead on the cocktail party problem」Frontiers of Information Technology & Electronic Engineering。 https://link.springer.com/article/10.1631/FITEE.1700814 (カクテルパーティー問題について。さまざまな分離・認識の手法が開発されてきたが、幅広い実用化にはなお課題が残ることについて)
  12. Bronkhorst, A. W.「The cocktail-party problem revisited: early processing and selection of multi-talker speech」Attention, Perception, & Psychophysics (2015)。 https://pmc.ncbi.nlm.nih.gov/articles/PMC4469089/ (Cherryのシャドーイング実験・Morayによる名前検出の再現、ブロードベントの初期選択フィルター理論とトリーズマンの減衰理論の要約について。Wikipedia記事と突き合わせるための独立した総説として使用)

なおした ところ

更新履歴

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