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七草がゆは、どうして 1月7日に たべるように なったの?

七草がゆは、なぜ1月7日に食べるようになったのか

七草がゆは、何と何が重なってできたのか ── 人日・若菜摘み・15日の粥と、七草の顔ぶれ

分野:歴史・文化

1月7日の あさに たべる 七草がゆ。じつは、むかしは「おかゆ」では なくて、あつい「しる」だったと いわれて います[2]。

しるだったものが、どうして おかゆに なったのでしょう。どうして 7日なのでしょう。この きじを よむと、その わけと、七草の なかの「ほとけのざ」が、みちばたの 花とは ちがう ことが わかります。

1月7日の朝に食べる七草がゆは、はじめは粥ではなく、熱い汁物だったとされます[2][3]。

汁だったものが、なぜ粥になり、なぜ七日に食べるのでしょうか。中国の七日の風習と日本の若菜摘みが重なったこと、粥に変わったのは室町時代以降とされること、七草の中の「ほとけのざ」が道ばたの紫の花とは別の植物であることが分かります。

1月7日の七草がゆは、起こりをさかのぼると粥ではなく、七種の菜を入れた汁物にたどりつくとされる[2][3]。汁が粥に変わり、顔ぶれが七つにそろうまでには、少なくとも3つの別々の流れが関わっている。

では、その3つとは何か。人日の汁、日本の若菜摘み、1月15日の穀物の粥がどう重なったのか、粥への変化はいつ頃とされるのか、「ほとけのざ」が今のどの草なのかが分かる。

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1. 七草がゆは、はじめから おかゆだったの?

1. 七草がゆは、汁物から始まったとされる

1. 七草がゆの前身は、七種の菜の汁だった

1月7日の あさ、おなべに おこめと 七草を いれて たきます。これが 七草がゆです。

ところが、ずっと むかしの きろくを たどると、おなべに いれて いたのは おこめの おかゆでは なく、七つの 草を にた しるだったと いわれます。その しるを、たべて いたのです[2]。

この しるは、中国から つたわった ならわしと、日本に もともと あった ならわしが かさなって、できたと されて います。しるが おかゆに かわったのは、室町じだいの あとと いわれます。

では、どうして 7日だったのでしょう。

1月7日の朝、鍋に米と刻んだ春の草を入れて炊く。これが七草がゆです。ところが、古い記録をさかのぼると、鍋の中身は米のおかゆではなく、七種類の菜を煮た汁物でした。

題名の問いへの答えの要点は、こうです。七草がゆの前身は、七種類の菜を煮た汁でした。中国の正月七日の風習と、日本の早春の若菜摘みが重なって、正月七日に若菜の汁を食べる行事になったといわれます[3]。汁が粥に変わったのは、室町時代以降とされます[3]。

この先は、なぜ「七日」だったのか、日本の側にはどんな習わしがあったのか、なぜ粥になったのかを、順に見ていきます。まずは中国の側からです。

1月7日の朝、鍋に米と刻んだ春の草を入れて炊く。ところが、起こりまでさかのぼると、鍋に入っていたのは粥ではなく、七種類の菜を煮た汁物だったとされる[2]。

題名の問いに対する大枠の答えは次のとおりである。中国には、正月七日に七種の菜の汁を食べる風習があった。日本には、早春に若菜を摘んで食べる古い習わしがあった。この2つが重なって、正月に若菜の汁を食べる行事になったと説明される[3]。さらに、汁が粥に変わるのは室町時代以降とされ、そこには正月15日の別の粥の行事が関わったともいう[2]。

以降の章では、①なぜ七日なのか、②日本側の習わしは何だったのか、③なぜ粥になったのか、④七つの顔ぶれはいつ決まったのか、を別々の資料で見ていく。まず、中国側の七日から見よう。

2. どうして 7日に たべるの? とりの日、いぬの日、そして 人の日

2. なぜ「七日」なのか ── 鶏の日、犬の日、そして人の日

2. 正月七日が「人日」と呼ばれた理由 ── 日ごとに獣を当てる数え方

むかしの 中国には、お正月の 日ごとに、いきものを あてはめる かんがえかたが ありました。日ごとに とりや いぬなどの いきものを あてはめて いました[2]。

そして 7日が、「人」の日でした。この日を「人日じんじつ」と よびます。

人の日に、七しゅるいの 草を いれた あつい しるを たべると、わるい ものが はらわれると されて いました[2]。

ずっと のちの 江戸時代えどじだいには、幕府ばくふが この日を、おいわいの 日の ひとつに きめました。それで 広く、ふつうの 人たちにも ひろまったと いわれます[2]。

では、日本には、もともと どんな ならわしが あったのでしょう。

中国の南北朝時代に書かれた年中行事の本、『荊楚歳時記けいそさいじき』は、正月七日を「人日じんじつ」とし、七種の菜で羹あつもの(熱い汁物)をつくる、と記しています[1]。

人日という名前の由来は、こう説明されます。元日から鶏、犬、猪……と、日ごとに獣を当てはめていき、七日が「人」にあたるからです。この日に七種の具を入れた熱い汁を食べると、邪気が祓われるとされました[2]。

ここで気をつけたいことがあります。『荊楚歳時記』が書いているのは「七種の菜」という数までで、日本の七草と同じ七つだったのかどうかは、本の本文からは読み取れません。

この行事はやがて日本でも知られ、江戸時代には幕府が人日を五節供の式日に定めたため、一般にも広まったとされます[2]。では、日本の側にはもともと何があったのでしょうか。

起点になる記述は、中国の南北朝期に書かれた年中行事の書『荊楚歳時記けいそさいじき』にある。正月七日を人日じんじつとし、七種の菜で羹あつもの(汁物)をつくる、という内容である[1]。

なぜ七日が「人」の日なのか。解説によれば、元日から鶏・犬・猪……と日ごとに獣を当てはめる数え方があり、七日が人にあたるためである[2]。そして、この日に七種の具の熱い汁を食べると邪気が祓われるとされた。つまり七日の汁は、食事というより、一年の無事を願う縁起の食べ物だった。

ただし、『荊楚歳時記』から分かるのは、七種の菜という数までである。日本の七草と同じ顔ぶれだったとは本文から言えない。したがって、中国から伝わったのは「七日に七種の菜の汁を食べる」という形であり、七つの草の名前そのものではない可能性が高い。

この風習は、日本では江戸幕府が人日を五節供ごせっくの式日に定めたことで、一般にも広まったとされる[2]。江戸の制度が広めたのは確かだとしても、それ以前にも日本には受け皿になる習わしがあったはずだ。では、日本の側には何があったのか。

3. 日本には、どんな ならわしが あったの?

3. 雪の降る野に出て若菜を摘む ── 日本にもともとあった春の習わし

3. 「若菜摘み」という受け皿 ── 古今和歌集の歌から見える日本側の習わし

日本には、はるの はじめに 野原で わかな という わかい 草を つんで、たべる ならわしが ありました。

むかしの うたに、その すがたが のこって います。「光孝天皇こうこうてんのう」という 人が、よんだ うたです。

「きみが ため はるの のに いでて わかな つむ わが ころもでに ゆきは ふりつつ」。「あなたの ために、春の 野に 出て わかなを つむ わたしの そでに、雪が ふって くる」という いみです[5]。

この うたは、百人一首の 15ばんめに のって います。つめたい 雪の 中でも、だれかの ために 草を つんだのです。

日本の わかな つみと、中国の 7日の しる。この ふたつは、どう つながったのでしょう。

日本には、早春の野に出て若菜を摘み、それを食べる古い習わしがありました。その姿は、和歌にも残っています。小倉百人一首の15番、光孝天皇こうこうてんのうの歌です。「君がため 春の野に出でて 若菜つむ わが衣手に 雪は降りつつ」[5]。

意味は「あなたのために、春の野に出て若菜を摘む私の袖に、雪が降りかかってくる」。この歌は『古今和歌集』の春の部にあり、寒さの残る野で、誰かのために若菜を摘む場面が浮かびます。

百科事典の解説によれば、こうした日本の習わしと中国の人日の風習が合わさり、正月に若菜の汁を食べるようになったとされます[3]。奈良から平安の時代には、宮中で人日に若菜の汁を食べる行事があったといいます[3]。

ここまでで、七日と若菜はそろいました。けれど、まだ「汁」のままです。いつ、粥になったのでしょうか。

日本側の受け皿として語られるのが、早春に若菜を摘んで食べる古い習わしである。その姿は、小倉百人一首15番、光孝天皇こうこうてんのうの歌「君がため 春の野に出でて 若菜つむ わが衣手に 雪は降りつつ」に見える。出典は『古今和歌集』の春の歌で、あなたのために雪の降る春の野で若菜を摘む、という場面である[5]。

この歌が示すのは、若菜摘みが「誰かのための行為」として歌になるほど、古くから知られていたという点までである。歌そのものは七日の行事を詠んだものではない。したがって、この歌から言えるのは日本側に若菜を摘む習わしがあったこと、そこに人日の汁が重なる余地があったことまでだ。

実際に、百科事典の解説(同志社女子大学の論文の見立てを引く)は、日本の若菜摘みと中国の人日の風習が合わさって、正月に若菜の汁を食べるようになったと説明する[3]。さらに、奈良から平安の時代には、宮中で人日に若菜の汁を食べる行事があったとされる[3]。

つまり「七日」と「若菜」は、この段階でそろっていた。残る問いは、汁がいつ、なぜ粥になったのかである。

4. しるは、どうして おかゆに なったの?

4. 汁が粥に変わったのは、別の「粥」の行事も関わるのか

4. 汁から粥へ ── 正月15日の穀物の粥という、もう一つの流れ

おかゆに かわったのは、室町じだいの あとと いわれます[3]。

その ころ、1月15日にも、おかゆを たべる ならわしが ありました。あずきの おかゆです[2]。

むかしは、お米や あわ、ひえ、ごま、あずきなど、七しゅるいの こくもつを まぜた おかゆも ありました。これは 15日の ぎょうじで、7日の 七草がゆとは べつの ものです[3]。

この おかゆの ならわしが かさなって、7日の しるも おかゆに かわって いったと、せつめいされて います。でも、くわしい わけは、はっきり わかって いません。

こうして できた 七草がゆ。いつ ごろから、いまの ように 七つの 草が そろったのでしょう。

汁が粥に変わった時期は、室町時代以降とされます。解説では、正月15日に食べる小豆粥の影響もあって、汁物から粥になっていったようだ、と説明されています[2]。

15日の粥というのは、米・粟・黍・稗・ミノゴメ・胡麻・小豆の七種の穀物でつくる粥で、平安時代の法令集『延喜式』(主水司の部分)に見えます。こちらは七草がゆとは別の行事で、小豆粥のルーツの一つとされます[3]。

つまり、1月7日の「若菜の汁」と、1月15日の「穀物の粥」は、もとは別々の行事でした。それが近い日にあり、どちらも「正月に食べて一年を願う」食べ物だったため、近い日にあった二つの行事が関わって、汁が粥になったという説明があります。

ただし、この「小豆粥の影響」は一般向けの解説による説明です。室町時代より前に、粥の形のものが全くなかったかどうかは、はっきり分かっていません[3]。始まりの時期も資料によって説明が少し違います。

汁が粥に変わった時期は、室町時代以降とされる。imidasの解説は、日本の七草がゆは平安時代中期に始まり、室町時代に正月15日の小豆粥の影響もあって、汁物から粥になっていったようだ、と述べる[2]。百科事典の解説も、羹から粥に変わったのは室町時代以降としたうえで、それ以前に粥の形のものがあったかどうかは不明だとする[3]。

ここで出てくる「15日の粥」は、七草がゆの親せきではあるが、別の行事である。『延喜式えんぎしき』の主水司の項に見える七種の穀物(米・粟・黍・稗・ミノゴメ・胡麻・小豆)の粥で、小豆粥のルーツの一つとされる[3]。1月7日の「若菜の汁」と1月15日の「穀物の粥」は、日づけも中身も別物だった。

したがって、粥への変化には、15日の小豆粥など別の行事の影響もあったとする説明がある。しかし、これは一般向けの解説が示す筋書きで、一次の記録で「この年にこう変わった」と示されているわけではない。始まりの時期(平安時代中期とする説明など)も資料で幅がある。ここでは「室町時代以降に粥になっていったとされる」までに留めるのが正確である。

そして、粥になった七草がゆが広く行われたのは江戸時代で、人日が五節供の一つになった時期と重なる[2]。では、七つの草の顔ぶれは、いつ頃決まったのだろうか。

5. 七つの 草は、なにと なにが あるの?

5. 七つの顔ぶれは、いつ書物にそろったのか

5. 七草の顔ぶれ ── 鎌倉期の書物から『河海抄』まで

いまの 七草は、せり、なずな、ごぎょう、はこべら、ほとけのざ、すずな、すずしろ、の 七つです[2]。

この なかの「すずな」は かぶの こと、「すずしろ」は 大根の ことです。ふだん たべて いる やさいも、七草の なかまだったのです[2]。

この 七つが 書物に そろって のるのは、鎌倉時代かまくらじだいの 書物から とされます。いまから およそ 700年ほど まえです[4]。

ただし、七つの 草に「せりは きょうそうに かつ」「なずなは よごれを なでて きよめる」のような いみを つけた はなしは、あとから できた かんがえかたと いわれます[6]。

ところで、この 七つの 中には、まちがえやすい 草が あります。

今の七草は、セリ・ナズナ・ゴギョウ・ハコベラ・ホトケノザ・スズナ・スズシロの七つです[2]。意外なのは、スズナがカブ、スズシロがダイコンのことだという点です。八百屋で毎日のように見る野菜も、七草の仲間でした[2]。

この顔ぶれが書物にそろって見えるのは、鎌倉時代の『年中行事秘抄』や『拾芥抄』(1300年頃)、南北朝時代の『河海抄』(1362年頃)などです[4]。『河海抄』は『源氏物語』の注釈書で、「七種菜」として薺・繁縷・芹・菁・御形・須須代・佛座を挙げています[4]。

これは「七草の最古の記録」という意味ではありません。書物にそろって見える例の一つ、という言い方が正確です。年も「頃」で、およそ700年前のことです。

「せりは競り勝つ」「なずなは汚れをなでて清める」といった縁起の意味づけも、あとから付いた解釈だと説明されています[6]。七草のうち、名前でいちばん混乱しやすいのが、ホトケノザです。

七草の名は、セリ・ナズナ・ゴギョウ・ハコベラ・ホトケノザ・スズナ・スズシロである。スズナはカブ、スズシロはダイコンを指す[2]。ここで注目したいのは、日本の七草が、野に生える草だけでなく、栽培される野菜(カブとダイコン)を含む点だ。「七つの菜」という言葉の幅の広さが分かる。

顔ぶれが書物にそろって見えるのは、鎌倉期の『年中行事秘抄ねんちゅうぎょうじひしょう』『拾芥抄しゅうがいしょう』(約1300年)、『河海抄かかいしょう』(約1362年)などである[4]。『河海抄』は四辻善成よつつじよしなりによる『源氏物語』の注釈書で、「七種菜」として薺・繁縷・芹・菁・御形・須須代・佛座を挙げる。名前の字づらは現在と少し違うが、七つの顔ぶれはほぼ同じである[4]。

これは「最古の記録」と同じ意味ではない。年は「頃」であり、『河海抄』は約1300年の書物より約60年あとのものである。また、ここでの記述は百科事典の解説による紹介で、原典そのものを読んだ上での記述ではない。人日が日本に入ってきた時期と、この顔ぶれが書物にそろう時期とのあいだには、数百年の幅があることになる。

顔ぶれが決まると、「せりは競り勝つ」「なずなは汚れをなでて清める」のような縁起の意味づけも語られるようになった。ただし、これは起源の事実ではなく、あとから付いた語呂や解釈と見るべきだと解説される[6]。中でも、名前だけでは今のどの草か分かりにくいのが、ホトケノザである。

6. 七草の「ほとけのざ」は、みちばたの 花と おなじ?

6. 七草のホトケノザは、道ばたの紫の花とは別の植物

6. 名前の重なり ── 七草のホトケノザは、今のコオニタビラコ

春の みちばたで、むらさきいろの 小さな 花を さかせる 草が あります。この 草も「ほとけのざ」と いう 名前です。

でも、七草の ほとけのざは、これでは ありません。七草の ほとけのざは、いまの「小鬼田平子こおにたびらこ」と いう 草の こと。キクの なかまです。むらさきの 花の ほうは、シソの なかまで、べつの 草です[4]。

ほかにも、七草の「ごぎょう」は いまの「ははこぐさ」、「はこべら」は「はこべ」の ことです[4]。

ちなみに、七草の ほとけのざは、地面に はを ひろげる すがたを、ほとけさまの すわる 台に みたてた 名前と いわれます。

春の道ばたで、紫の小さな花をつける草があります。シソ科の草で、これも「ホトケノザ」といいます。名前は同じでも、七草のホトケノザとは別の植物です[4]。

七草のホトケノザは、今の「コオニタビラコ」で、キク科の草です。そのほかにも、ゴギョウは今のハハコグサ、ハコベラは今のハコベにあたります[4]。

コオニタビラコの名の由来は、地面に葉を放射状に広げる姿を、仏さまの蓮の座に見立てたものといわれます。同じ名前が別の草についた理由は、ここでは言い切れませんが、古い名前が今の草とは別の形で受けつがれた例の一つです。

道ばたの草を見かけても、七草がゆに入れるために自分の判断で摘んで食べることはやめましょう。同じ名前の別の草があるように、見た目だけでは見分けにくい草もあります。

七草の名前で、今の草と食い違いやすいのが「ホトケノザ」である。七草のホトケノザは、キク科のコオニタビラコ(小鬼田平子こおにたびらこ)を指す。春に紫の花をつけるシソ科のホトケノザとは別の植物である[4]。

ほかの草も、現在の名前とは対応がずれる。ゴギョウ(御形)は今のハハコグサ(母子草ははこぐさ)、ハコベラは今のハコベである[4]。つまり、七草の名前は、古い呼び名がそのまま今の植物名に一致するとは限らない。

名前の由来については、地面に葉を放射状に広げる姿を仏の蓮の座に見立てたとされる、という説明がある。ただし、これは一般向けの解説による説明で、どの時代にその名がついたのかまでは追えない。

ここで大事なのは、名前が同じでも植物としては別だという点である。道ばたの花を七草がゆに使う、といった判断は、名前だけではできない。同じ名前の別の草があるように、野の草は見分けにくいことがあり、野の草を自分で摘んで食べないようにしよう。以上で、七草がゆの流れを一通り見たことになる。

7. かぶと 大根の まえで、むかしの 名前を よんで みよう

7. カブと大根の前で、昔の名前を呼んでみる

7. 野菜売り場と百人一首で、昔の名前を確かめる

おみせで かぶや 大根を みかけたら、「すずなだ」「すずしろだ」と こころの なかで よんで みましょう。千ねんも まえの 人が、おなじ ものを たべて いたかもしれません。

おうちに 百人一首が あれば、15ばんの うたを こえに だして よんで みましょう。わかなを つむ 人の 手に ふる 雪を、そうぞう して みてください。

みちばたの 草は、きれいでも、じぶんだけで きめて とって たべては いけません。おうちの 人に きいてから、ながめるだけに しましょう。

八百屋やスーパーでカブとダイコンを見かけたら、「スズナ」「スズシロ」と心の中で呼んでみましょう。七草のうち2つが、毎日の台所にある野菜だと分かると、七草がゆが身近になります。

家に小倉百人一首があれば、15番の歌を声に出して読んでみましょう。「雪は降りつつ」という終わりの言葉を、実際の寒い朝と重ねてみると、若菜を摘む人の姿が浮かびます。

道ばたの草は、見て楽しむだけにしておきましょう。七草がゆに使うなら、売られているものを選ぶのが安全です。もっと知りたい人は、『荊楚歳時記』の原文[1]や、百科事典の「春の七草」の項[4]が読めます。

野菜売り場でカブとダイコンを見たら、それがスズナとスズシロの今の姿だと思い出してみるとよい[2]。七草の一部は、栽培される日常の野菜でもある。残る5つは野に生える草だが、名前と今の草が必ずしも一致しないことを、ホトケノザの例が示している[4]。

資料の読み比べも手がかりになる。『荊楚歳時記』の記述[1]は中国側の起こり、百人一首15番の歌[5]は日本側の若菜摘み、『延喜式』についての紹介と、室町時代以降の変化についての解説[3]は、粥への変化を見る手がかりになる。3つを並べ、どこまでが記録で、どこからが後世の解説かを自分で線引きしてみるとよい。

野の草を使って七草を集める場合は、必ず大人が見分けられるものに限り、道ばたの草は摘まないほうがよい。買った七草のパックで、7種類の名前が書かれているか、野菜の名前と見比べるところから始められる。

しらべた もとの じょうほう

参考にした情報源

参考にした情報源と、その使い方

出典について:中国の古い書物の本文、辞典・百科事典の解説、博物館の百人一首の解説を、それぞれの用途に分けて使った。百科事典(Wikipedia)の項は一般向けの解説であり、原典そのものではない点を、本文でも区別して書いている。

  1. 荊楚歳時記(維基文庫)。https://zh.wikisource.org/wiki/荊楚歲時記 (正月七日を人日とし七種の菜で羹をつくる、という記述の確認)
  2. imidas 歴史・行事 七草がゆ(人日)。https://imidas.jp/rekigyoji/detail/L-55-203-08-12-G222.html (人日の由来、汁から粥への変化、七草の顔ぶれの説明。一般向けの解説)
  3. Wikipedia 七草粥。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%83%E8%8D%89%E7%B2%A5 (宮中の行事、15日の七種の粥、羹から粥への変化の説明。百科事典の解説)
  4. Wikipedia 春の七草。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%A5%E3%81%AE%E4%B8%83%E8%8D%89 (顔ぶれが書物にそろった例と、今の植物名との対応。百科事典の解説)
  5. 嵯峨嵐山文華館 小倉百人一首 15番。https://www.samac.jp/search/poems_detail.php?id=15 (光孝天皇の歌と、出典が古今和歌集であること)
  6. Yamato/yjc Nanakusa-gayu 解説。https://yjc.tokyo/japanese-culture-nanakusa-gayu (七草の縁起の意味づけの例。英語のサイトで、後世の解釈として紹介)

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