1. なつの うみから、のりは どこへ いくの?
1. 夏の海から消えたのりは、貝殻の中にいた
1. 夏越しの場所:貝殻にもぐりこむ糸状体
のりは、うみの なかで そだつ そうるいの なかまです。ふゆの あいだ、のりは はっぱの かたちを して います。わたしたちが たべるのは、この はっぱです。
なつに なると、はっぱは うみから なくなります。では、しんで しまうのでしょうか。そうでは ありません。
のりは、ちいさな いとの ような すがたに かわって、かいがらの なかに もぐりこみます。そして、そこで なつを こします[1]。
あきに なって、うみの みずが つめたく なって くると、いとの なかから、ちいさな たねが とびだします。この たねが また はっぱに そだちます。
この ひみつが わかったのは、いまから 70ねん いじょう まえ、1949ねんの ことでした。
のりの仲間(アマノリ類)は、一生のあいだに、まったく違う2つの姿をとります。冬の海で見かける、私たちが食べる薄い葉の姿と、夏を過ごす顕微鏡サイズの糸状の姿です。
夏が近づくと、葉は海から消えます。その間、のりは「糸状体」という糸のように細い姿になり、貝殻の中にもぐりこんで過ごします。やがて水温が下がり始めると、糸状体の中に殻胞子というタネのようなものができて、水中に放たれます[1]。殻胞子はものにくっついて育ち、再び食べる形の葉になります。
つまり、のりは夏のあいだ、いなくなっているのではなく、見えない姿で貝殻の中にいます。養殖のための種は、この糸状体からとれるのです。
この「貝殻の中にいる」ことが分かったのは、1949年。それまでののり作りは、タネが付く時期も場所も人が決められず、「運草」と呼ばれるほど不安定でした。
アマノリ類の生活環には、形のまったく異なる2つの世代がある。冬を中心に海で育つ葉状体と、夏を過ごす微小な糸状体(コンコセリス期)である。環境省の解説によれば、糸状体は貝殻などにもぐりこんで夏を越し、水温が下がり始めると殻胞子嚢が形成され、殻胞子が放出される[1]。殻胞子が基質に付着して発芽すると、食用部分である葉状体になる。
のりが夏に「消える」のは、死滅するからではなく、顕微鏡でなければ見分けにくい姿に変わって生きているからである。この世代交代の仕組みがあるから、人は貝殻の上で糸状体を育てておき、水温が下がる時期に殻胞子を得ることができる。
この夏の姿が見つかったのは1949年である。それまでの養殖では、タネが付く時期も場所も、人が決められなかった。
2. この ひみつは、いつ わかったの? なぜ「うんぐさ」と いわれたの?
2. 居場所が分かる前、のりは「運草」と呼ばれた
2. 1949年の発見と、「運草」と呼ばれた時代
この ひみつを あきらかにしたのは、イギリスの ドリュー=ベーカー はかせです。1949ねんの ことでした[2]。くまもとけんの うとしでは、ドゥルーはかせと よんで います。
はかせが しらべたのは、イギリスの ウェールズなどで たべられて いる のりの なかまです。1952ねんには、にほんでも くろきはかせが、のりの そだちかたを あきらかに しました[1]。
それまでは、なつの すみかが わからないので、たねを あみに つける しごとは、りょうしさんの けいけんと かんに たよって いました。だから、とれる りょうが ふあんていでした。のりは、運草と よばれて いたそうです[5]。
すみかが わかると、かいがらの うえで いとを そだてて、そこから でる たね(からほうし)を、あみに つけられる ように なりました。
では、そのタネは、どう そだてるのでしょう。
江戸時代、品川や大森など東京湾の浅瀬で、魚をとるために立てた杭や枝にのりが自然に付いたことから、枝や竹を立てて育てる方法が広まったとされます。始まりの時期は、延宝年間(1673〜81年)頃、貞享元年(1684年)頃など諸説あり、享保2年(1717年)に品川沖でひびを立てた記録があります[6]。
ただ、そのころは、夏のあいだにのりがどこにいるのか分かっていませんでした。どこで胞子が出てくるのかも分からないので、網や枝に胞子を付ける作業は、漁師の経験と勘に頼る、自然まかせのものでした。生産は安定せず、のりは「運草」とも呼ばれたそうです[5]。
1949年、イギリスのキャスリーン・メアリー・ドリュー=ベーカー博士(熊本県宇土市ではドゥルー博士と呼ばれます)が、貝殻の中の糸状体を明らかにしました[2]。博士が材料にしたのは、ウェールズなどで食べられている仲間です[6]。環境省の解説は、その後の1952年に、黒木宗尚博士によって日本でも生活史が解明されたと述べています[1]。
夏の居場所が分かると、貝殻の上で糸状体を育て、殻胞子を網に付けられるようになります。具体的には、どのようにするのでしょうか。
江戸時代の養殖は、東京湾の浅瀬で、魚を捕るための杭や枝にのりが自然に付着したことをきっかけに、枝や竹(篊・ひび)を立てて付着させる方法へと広まったとされる。始まりの時期は延宝年間(1673〜81年)、貞享元年(1684年)など諸説あり、享保2年(1717年)には品川沖でひびが立てられた記録が残る[6]。ひとつの年に決まらないため、ここでは「江戸時代前期から中期に広まった」程度にとどめる。
しかし、この養殖には弱点があった。夏の居場所が不明のため、胞子が付く時期と場所を人が決められず、タネ付けは漁師の経験と勘に頼ったので、収穫は年ごとに大きく変動した。のりが相場商品として「運草」と呼ばれたのは、このためである[5]。
転機は1949年(昭和24年)で、イギリスのドリュー=ベーカー博士(熊本県宇土市ではドゥルー博士)が、糸状体を明らかにした[2]。材料はウェールズなどで食用にされる Porphyra umbilicalis である[6]。環境省の解説は、1952年(昭和27年)に黒木宗尚博士が日本でものりの生活史を解明したと述べている[1]。
夏の居場所が分かった結果、貝殻の上で糸状体を育て、殻胞子を網に付けられるようになり、天然のタネ場が近くにない地域でも養殖ができるようになった[5]。ここからは、人工採苗の手順を見る。
3. のりの タネは、どうやって あみに つけるの?
3. 貝殻で育てたタネを、秋に網へ付ける
3. 採苗と冷凍網:殻胞子を網に付け、保存する
なつの あいだに、かきの かいがらに、のりの いとを そだてます。3かげつ くらいで、かいがらが くろく みえるように なります[3]。
うみの みずの おんどが さがる あき、いとの なかから、タネのような「からほうし」が でます。この タネを、あみに つけます。これを「タネつけ」と いいます。
りくの うえでは、すいそうに かいがらを いれて、みずぐるまに はった あみを まわして つける ほうほうも あります。
タネが ついた あみは、すこし そだてて、いったん れいとうします。れいとうした あみは、あとで はりかえて、のりを とる きかんを のばすのに つかいます。
のりが おおきく なったら、どうやって とるのでしょう。
養殖の流れは、夏の貝殻から始まります。夏のあいだに、カキの殻に糸状体を育てると、約3か月で殻が黒く見えるようになります。海水温が下がる9月半ばから10月上旬になると、糸状体は殻胞子を放出します。この殻胞子を網に付けるのが「タネ付け(採苗)」です[3]。時期は地域や年によって違い、東北では8月中旬になることもあります。
陸上では、水槽に貝殻を入れ、水車に張った網を回して付ける「水車採苗」というやり方があります。タネを付けた網は、水温が約23度以下になるまで冷蔵庫に置いておけます[3]。
網に付いた芽が2〜3cmほどに育つと、一部だけ海に残し、残りは半乾燥して−20〜−30℃で冷凍します。これが「冷凍網」で、300日以上保存できます[6]。網は、およそ長さ18m・幅1.5mです。あとで張り替えることで、収穫できる期間を延ばせます。
こうして海に張られた網で、葉はどのように育ち、どう収穫されるのでしょうか。
人工採苗は、夏と秋で役割が分かれる。夏のあいだに、貝殻(主にカキ殻)の上で糸状体を育て、約3か月で殻が黒くなったところで、海水温が下がる9月半ばから10月上旬に殻胞子を放出させる。この殻胞子を網に付ける作業が採苗(タネ付け)である[3]。時期は地域と年で異なり、東北では8月中旬という例もあるため、「全国で9月」とは言えない。
陸上で行う水車採苗は、水槽に貝殻を入れ、水車に張った網を回転させて、水中の殻胞子を網に付着させる。付けた網は、水温が約23度以下になるまでの間なら冷蔵庫で保管でき、海に張る時期を調整できる[3]。
収穫の期間を延ばすために使われるのが冷凍網である。芽が長さ2〜3cmになった網のうち、一部だけを海に残し、残りを半乾燥して−20〜−30℃で冷凍保存する。この冷凍網は300日以上保存でき、あとで張り替えれば、収穫の期間を延ばせる[6]。網の大きさは出典によって少し異なるが、およそ長さ18m・幅1.5mで、面積に直すと約27平方メートルとなる。
こうしてタネを付けた網は、海で育てられ、収穫を迎える。次は、その収穫の手順と条件を見る。
4. のりは、どうやって かりとるの?
4. 海にもぐる船が、網の下から刈り取る
4. 摘採:刃つきピアノ線の船と、色落ちの条件
あみに タネが ついて、30〜40にちほど たつと、のりは 10〜15センチに なります。この ころから、のりを かりとります[3]。
いまの ふねは、あみの したに もぐりこみます。ふねには、はの ついた ピアノせんが まわって いて、のりを かりとります。あみ1まいは、1〜3ぷんで かりとれます[3]。
おなじ あみを、7〜10にちくらい おきに、4〜5かい かります。のりは かりとっても、また のびて くるからです。
のりが くろく そだつには、うみの みずに、ちっそや りんなどの えいようが ひつようです。えいようが たりないと、いろが うすく なって しまいます[1]。
かりとった のりは、このあと どう なるのでしょう。
採苗から30〜40日ほどたち、葉が10〜15cmになった網から、収穫(摘採)が始まります。同じ網を、7〜10日おきに、合わせて4〜5回刈ります[3]。刈ってもまた伸びる性質を使って、1枚の網から何度も収穫しているのです。
刈り取りには、刃のついたピアノ線を回す摘採機を積んだ「もぐり船」を使います。船が網の下にもぐりこむ形で進み、網1枚を約1〜3分で刈ります[3]。日数や長さは出典によって差があり、半月で20cmほどという記述もあります。
のりが黒く育つには、窒素やリンなどの栄養塩が必要です。栄養塩が足りないと「色落ち」といって、黒いつやがなくなります。2000年の有明海でも、近年の兵庫県でも問題になりました[1]。海の栄養の足り具合が、のりの色に表れることがあるわけです。
刈り取った葉は、どのように、あの四角い板になるのでしょうか。
収穫(摘採)は、採苗から30〜40日で葉長が10〜15cmに達した網から始まり、同じ網を7〜10日おきに計4〜5回刈る[3]。日数と長さには出典間の差があり、半月で約20cmとする記述もあるため、幅をもたせて読む必要がある。刈っても生長が止まらない性質があるので、1枚の網から繰り返し収穫できる。
現在の摘採は、刃つきのピアノ線を回転させる摘採機を積んだ「もぐり船」が、網の下にもぐりこむ形で行い、網1枚を約1〜3分で処理できる[3]。網1枚は約27平方メートルで、刈り取りには約1〜3分かかる。
では、収穫の質は何で決まるのか。色を黒く育てるには窒素やリンなどが必要で、不足すると色落ちが起こる。2000年の有明海や近年の兵庫県でも問題になった[1]。また、現在の養殖のりの95〜99%はスサビノリで、病気に強く色つやがよいことが理由とされる。かつて主流のアサクサノリは、野生種がほとんど姿を消し、環境省のレッドリストで絶滅危惧Ⅰ類となっている[1]。
刈り取った葉は、加工場で、四角い板のりへと姿を変える。
5. 1まいの のりは、どうやって できるの?
5. 刻んだのりを、紙のように簀の上へ抄く
5. 抄きから乾燥まで:全自動の装置と、板のりの大きさ
こうじょうでは、かりとった のりを あらって、ごみを おとします。そして、こまかく きざみます。
つぎに、まっすぐな ひごを ならべた簀の うえに、かみを すく ように、のりを ひろげます。これを「すく」と いいます。そのあと、スポンジで みずを とって、あつい かぜで かわかします[3]。
かわいたら、すから はがします。1まいの おおきさは、たて 21センチ、よこ 19センチです。はがきを 2まい ならべた より、すこし おおきい くらいです[4]。
いまは、すく・みずを とる・かわかす・はがす まで、1だいの きかいが やって くれます。1じかんに 7000まい ほど つくれると いわれて います[3]。
でも、これで おしまいでは ありません。
工場に運ばれたのりは、ごみや珪藻を洗い落とされて細かく刻まれ、真水で塩分を洗われます。それから、「簀」と呼ばれる細い棒を並べたすだれの上に、和紙のように薄く抄かれます。スポンジで水分を抜き、40〜80℃の熱風で2〜3時間かけて、水分が10%前後になるまで乾かしてから、簀からはがします[3]。
つまり、ひとかたまりの葉を広げて干しているわけではありません。いったん刻んだ葉を水に浮かせ、紙をすくのと同じ要領で、均一な1枚に整えているのです。
のりを刻んで簀の上で抄く方法は、享保(1716〜32年)の頃に始まったとされます。当時の浅草は、再生紙の「浅草紙」の産地で、これが板のりの開発と関係していたと考えられています(説)[6]。
現在は、抄き・脱水・乾燥・はがしを1台でこなす全自動の装置が、昭和52年頃(1977年頃)から使われています。1時間に約7000枚を作れる能力の目安ですが、これは1台の能力であって、工場全体の数字ではありません[6]。
板のり1枚(全型)は、原則として縦21cm・横19cmです。昭和40年代に全国で統一され、それ以前は産地ごとにまちまちでした[4]。
板のりは、収穫した葉をそのまま乾かしたものではなく、いったん細かく刻んだ葉を、紙のように抄いて作る。工場では、ごみや珪藻を洗い落とし、刻み、真水で塩分を洗ったのち、簀(す)の上に和紙のように抄く。スポンジで脱水したあと、40〜80℃の熱風で2〜3時間乾かし、水分を10%前後にして簀からはがす[3]。
なぜ刻むのか。資料に理由は書かれていないが、葉は大きさも形もまちまちなので、刻んで水に分散させれば薄さがそろった板にしやすい、という筋道が考えられる。この方法は享保(1716〜32年)の頃から行われたとされ、当時の浅草が再生紙「浅草紙」(漉返紙)の産地だったことが関連していたと考えられている。ただし、紙すきから生まれたと断定できる資料ではなく、「と考えられている」段階の説である[6]。
現代の板のりは、抄き・脱水・乾燥・剥離を1台でこなす全自動の乾海苔製造装置で作られ、昭和52年頃(1977年頃)に登場した。能力は1時間に約7000枚(1台の目安)である。1秒に直せば約2枚で、工場全体の生産量ではない[6]。
全型の板のりは、原則として縦21cm×横19cm(約400平方センチメートル)で、昭和40年代に全国で統一された。以前は産地ごとにまちまちで、10枚で1帖、10帖で1束、36束(3600枚)で1箱と数える。簀に当たっていた面がざらざらの裏で、つるつるの面が表である[4]。ここで、のりはまだ「乾海苔」であり、焼きのりではない。
6. やきのりは、いつ うまれたの?
6. 焼きのりになるまでの、もうひと手間
6. 二次乾燥と焼き加工:焼きのりの由来
いたの のりは、そのまま たべるので はなく、もういちど かわかして、やいて、あじを つけて、きって、おみせに ならびます[3]。
やきのりを はじめに つくったのは、おおもりの 田中さんと いう ひとだと いわれて います。1844ねんには、ガラスの びんに つめて うって いたそうです[2]。
わたしたちが いつも たべて いる のりは、むかしの ひとの くふうが、つながった ものなのです。
入札で買われた乾のりは、水分が10〜12%あります。焼き加工のために、水分を2%前後までもう一度乾かし(二次乾燥、火入れ)、焼く・味をつける・裁断するという加工をして、店に並びます[3]。
焼きのりは、江戸末期に大森の三浦屋田中孫左衛門が考案したとされ、弘化元年(1844年)にはガラス瓶に詰めて売られていたと伝えられています[2]。「焼き海苔」という呼び名は、明治中頃に定着したといいます。これは1つの資料の記述なので、「とされる」という強さで受け取るのが適切です。
ところで、のりそのものは、とても古い食べ物です。大宝律令(701年)には、朝廷に納める産物の1つとして挙がっています。毎年2月6日の「海苔の日」は、大宝律令の施行日を西暦に直した702年2月6日にちなんで、全海苔漁連が1966年に定めました[5]。
入札で購入された乾海苔は水分が10〜12%あり、このままでは焼き加工に向かない。そこで水分2%前後まで二次乾燥(火入れ)し、焼く・味付け・裁断の加工を経て店頭に並ぶ[3]。水分を5分の1ほどに減らす工程である。
焼きのりの由来は、江戸末期に大森の三浦屋田中孫左衛門が考案したとされ、弘化元年(1844年)にガラス瓶に詰めて販売していた。「焼き海苔」という呼び名が定着したのは明治中頃という。ただし単一の業界団体の記述に基づくため、「とされる」と書くにとどめる[2]。
一方、のりを食べる習慣そのものは古い。大宝律令(701年)で、朝廷に納める産物の1つに挙げられている。2月6日の「海苔の日」は、大宝律令の施行日(大宝2年1月1日)を西暦に換算した702年2月6日にちなみ、全海苔漁連が1966年に定めたものである[5]。
こうして、夏の貝殻から、タネ付け、摘採、抄き、乾燥、火入れを経て、1枚の焼きのりができる。
7. おうちの のりを、みて みよう
7. のりの表と裏、そして熊本の「ドゥルー祭」
7. 板のりの裏表と、発見者を顕彰する祭り
おうちに のりが あれば、おとなに ことわって、1まい かして もらいましょう。
りょうめんを さわって みます。つるつるの めんと、ざらざらの めんが ありますか。ざらざらの ほうは、すに あたって いた めんです[4]。
ものさしで はかると、たて 21センチ、よこ 19センチに なって いるでしょうか。
くまもとの うと市の じんじゃでは、ドゥルー はかせの ことを たたえる おまつりが、まいとし ひらかれて います[7]。
のりの表と裏を見比べる
家に板のりがあれば、1枚借りて、両面を指で触ってみましょう。つるつるした面が表、ざらざらした面が裏で、簀に当たっていた面です[4]。ものさしで縦と横を測り、約21cm×19cmになっているかも確かめられます。ただし、メーカーや種類によって、全型でないものもあります。
発見者をたたえる祭り
熊本県宇土市の住吉神社では、ドゥルー博士(1901〜57年)をたたえる「ドゥルー祭」を、地元の住吉漁協が毎年開いています。報道では61回目とされ、境内には顕彰碑があります[7]。
「のりの夏の姿」について、さらに詳しく知りたいときは、環境省せとうちネットの解説や、出典の一覧にあるのり関連の団体の資料を読むと、写真や図で確かめられます。
家庭にある板のりで確かめられるのは、裏表と大きさである。簀に当たっていた面が、ざらざらの裏になり、つるつるの面が表になる[4]。縦と横を測れば約21cm×19cmとなるが、製品によっては、全型でない大きさのものもある。この2点は、本文の「簀の上に抄く」という工程を、手元で追体験することになる。
熊本県宇土市の住吉神社では、ドゥルー博士(1901〜57年)をたたえる「ドゥルー祭」を、住吉漁協が毎年開き、報道では61回目とされる[7]。祭りは、糸状体の発見者を地元の漁業者がたたえる行事である。
原典を読みたい場合、環境省せとうちネットの「ノリ」の項では、生活環と、スサビノリ・アサクサノリの現状がまとまっている。工程の細部は業界団体の資料にまとまっているが、時期や日数は地域で差があるので、自分の住む地域の漁協や県の水産関係の案内と見比べると、違いが見えてくる。
しらべた もとの じょうほう
参考にした情報源
参考にした情報源と、その使い方
本文は、ここにある資料の内容を、自分の言葉で言いかえたものです。時期・日数・大きさは、地域や出典によって差があります。
- 環境省 せとうちネット「ノリ」 https://www.env.go.jp/water/heisa/heisa_net/setouchiNet/seto/g1/g1chapter1/ikimono/nori.html (夏越しの糸状体・1952年の生活史解明・スサビノリとアサクサノリ・色落ち)
- 全国海苔貝類漁連・のり推進協「のりの歴史」 https://www.temakizushi.com/history/ (1949年の発見・焼きのりの由来)
- 海苔JAPAN「海苔が出来るまで」 https://www.nori-japan.com/lecture/process/ (採苗・摘採・抄き・乾燥・火入れの流れ)
- 海苔JAPAN「海苔の基本サイズ」 https://www.nori-japan.com/lecture/size/ (板のりの大きさ・表と裏・数え方)
- 海苔JAPAN「海苔の歴史」 https://www.nori-japan.com/lecture/history/ (運草・人工採苗・海苔の日)
- Wikipedia「アマノリ」 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%9E%E3%83%8E%E3%83%AA (養殖の始まりの諸説・冷凍網・板のりの始まり・全自動装置)
- 熊本日日新聞「ノリ養殖に貢献 赤マントの英国学者知って 宇土市で顕彰祭」 https://kumanichi.com/articles/1393315 (ドゥルー祭)
なおした ところ
更新履歴
更新履歴(改版の記録)
- 初版を公開。
このサイトでは、公開した記事の本文は原則として書き直しません。誤りが見つかったときや、内容が古くなったときだけ手を入れ、その理由をこの欄に残します。