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ここにあるのは、だれかが実際に調べ、考え、作ってきたことを集めたメモです。気になったら、ページの下の「参考にした情報源」から、もとの本や記事、それを生み出した人たちに、直接ふれてみてください。このメモには書ききれないおもしろさが、そこにあります。

おみくじや おまもりは、どうやって いまの かたちに なったの?

おみくじとお守りは、いつごろから、どんなふうに今の形になったのか

おみくじとお守りの来歴 ── 元三大師、懸守、江戸の庶民、そして現在の小さな守袋まで

分野:歴史・文化

おみくじは、むかしは 国の 大事な ことを きめる ときにも 使われた と いわれます。いま 神社で 「きょうの うんは どうかな」と ひく おみくじとは、ずいぶん ちがいます。

おみくじや おまもりは、いつから あって、どう かわって きたのでしょう。おみくじの 「もとに なった お僧そうさん」の はなしと、おまもりの むかしの すがたが わかります。

おみくじは、古代には、国の方針や後継ぎを決めるくじとして使われたといわれます。今のように、自分の一日の運をひく楽しみとは、ずいぶん役目が違います。

では、おみくじとお守りは、いつごろ生まれ、どう変わってきたのでしょうか。おみくじの「元祖」と呼ばれる僧の話と、お守りの昔の姿が分かります。

おみくじは、古代には国の政策や後継者を決めるくじとして使われたと、京都市観光協会の案内にある[5]。個人の運勢を占う今の形とは、役目がかなり違う。では、おみくじとお守りは、いつ、どう今の形になったのか。「元祖」とされる平安時代の僧と、中国から伝わったくじの関係、貴族の懸守から現在の小さな守袋までの流れが分かる。

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1. おみくじの 「がんそ」は、むかしの お僧そうさん?

1. おみくじの「元祖」は平安時代の僧なのに、くじは中国から来た?

1. 元三大師・良源は「元祖」か ── 平安時代の僧と、室町時代に伝わったくじ

おみくじの 「がんそ」と よばれる 人が います。平安時代へいあんじだいの お僧そうさん、良源りょうげんです。「元三大師がんざんだいし」という よび名も あります[3]。比叡山ひえいざんの 延暦寺えんりゃくじでは、いまの おみくじは この 人が 考えたと いわれて いて、お堂どうが 「はっしょうの 地」と されて います[4]。

ところが、ふしぎな ことが あります。良源りょうげんが 生きたのは 912ねんから 985ねんです。いっぽう、おみくじの もとに なった くじは、中国ちゅうごくの 「天竺霊籤てんじくれいせん」と いう くじで、日本に 来たのは 室町時代むろまちじだいだと されます[2]。室町時代は 14せいきに 始まるので、良源りょうげんの 死より 300ねん いじょう あとです。

つまり、「がんそ」は、名まえを かりた 「いいつたえ」の ようです。いまの おみくじの かたちが できたのは、江戸時代えどじだいに なってからと いわれます[1]。では、そのまえの くじは、なにに 使われて いたのでしょう。

おみくじの「元祖」と呼ばれる人がいます。平安時代の僧、良源(912〜985)です。「元三大師」という呼び名のほうが知られているかもしれません[3]。比叡山延暦寺は、現代のおみくじは元三大師が考案したと言われているとして、その元三大師堂を「おみくじ発祥の地」としています[4]。

ところが、国立国会図書館の検索で見られる研究によると、「元三大師百籤」の元は、中国の南宋時代の『天竺霊籤』で、日本に伝わったのは室町時代です[2]。室町時代は14世紀に始まるので、良源が亡くなった985年より300年以上あとになります。この差は、ここで計算した年の開きです。

つまり「元祖」は、良源が百籤を作ったという意味ではなく、後世に百籤が元三大師と結びつけて語られるようになった、という「言われている」話だと読めます。今のように個人の運勢をひく形が見られるのは、江戸時代からとされています[1]。では、それ以前のくじは何に使われていたのでしょうか。

おみくじの「元祖」としてよく名前が挙がるのは、平安時代の僧・良源(912〜985)、通称・元三大師である[3]。比叡山延暦寺の公式サイトも、現代のおみくじは元三大師が考案したと「言われている」と伝承の形で書き、横川の元三大師堂を発祥の地としている[4]。

ところが、この「元祖」を文字どおりに受け取ると、年代が合わない。江戸時代の挿絵を扱った研究(国立国会図書館サーチで確認できる)は、元三大師御籤を、中国南宋の『天竺霊籤』を起源とし、室町時代に日本へ伝わったくじだと述べる[2]。室町時代は14世紀に始まるから、良源の没年985年から300年以上あとである(年の開きは筆者の計算)。そのため、良源が今の百籤そのものを作ったというより、後世のくじが元三大師と結びつけて語られるようになった、と考えられる。研究によれば、日本に来たくじはその後、独自の形式へ発展した[2]。

資料のうえで確かなのは、今のように個人の運勢や生活の指針を占う形が見られるのは江戸時代からとされること[1]、という点までである。では、江戸時代より前、くじは何のために引かれていたのか。

2. むかしの くじは、なにを きめて いたの?

2. 古代のくじは、国の大事なことを決めていた

2. 神意を問うくじから、個人の運勢へ ── 江戸の庶民への広がり

京都の かんこうの あんないには、おもしろい ことが 書いて あります。むかしの くじは、国の しごとの すすめかたや、あとつぎを きめる ためにも 使われた、と いうのです[5]。

いまは 「大吉だいきちが 出たから うれしいな」と、じぶんの 一日を たのしみに ひきます。むかしは、神さまの 考えを たずねる ための 大切な くじでした。

それが、江戸時代えどじだいに なると、ふつうの 人たちの あいだで ひろく はやりました[5]。くらしの ヒントや うんを うらなう かたちが 見られる ように なったのも、このころからと いわれます[1]。

くじの つぎは、おまもりです。おまもりは、いつごろから 人の そばに あったのでしょう。

京都市観光協会の案内によると、おみくじの起源は古代にさかのぼり、国の政策や後継者を決めるくじとしても使われたといいます[5]。今の「大吉が出たら嬉しい」という楽しみ方とは、役目がまるで違います。神さまの考えを問う、大事な決め方だったことになります。

それが江戸時代になると、庶民の間で広く流行したと、同じ案内にあります[5]。神社本庁も、個人の生活の指針や運勢を占う今のような形が見られるようになったのは江戸時代だと言われている、と説明しています[1]。

国の行方を決めるくじと、自分の一日をひくくじ。同じ「くじ」の名でも、使う人と目的が変わってきたことが分かります。では、おみくじと並んで神社で授かるお守りは、いつごろからあったのでしょうか。

古代のくじは、個人の運勢を占う道具ではなかった。京都市観光協会の案内は、古代にはこの種のくじが国の政策や後継者を決めるために使われたと述べる[5]。神意を問う手続きが先にあり、個人の運勢占いはそのあとに来た、という順序になる。

その転換が見られるのは江戸時代である。神社本庁は、個人の生活の指針や運勢を占うような現在の形が見られるようになったのは江戸時代からだと言われている、と説明する[1]。京都市観光協会の案内も、江戸時代に庶民の間で広く流行したと書いている[5]。くじを引く主体が、国や権力者から、庶民の一人ひとりへ広がったということだ。

なお、同じ案内には、平安時代に観音菩薩が僧に授けた「百教」を起源とする説も、伝えによれば、という形で載っている[5]。起源については、確かな記録で言えることと、伝承にとどまることを分けて読む必要がある。お守りの側にも同じ問題がある。お守りの最も古い起源は、今回の資料では特定の時代に断定できない。ただ、平安時代の貴族が身につけた品までは、はっきり追える。

3. おまもりは、むかしは 首から ぶらさげて いたの?

3. 平安時代の貴族は、お守りを首から下げて外出した

3. 懸守とは何か ── 外出の際に首から胸に垂らす御守

平安時代へいあんじだいの 貴族きぞくの あいだには、「懸守かけまもり」と いう おまもりが ありました。外に 出る ときに 首から かけて、胸むねの あたりに たらす ものです[6]。

いまの おまもりは、かばんや ランドセルに つけます。むかしの 人は、からだの 前に ぶらさげて、すぐ 手が とどく ところに おいたのです。

神社を まとめる ところでは、おまもりは 「いつも 身に つけて、神さまの ごかごを いただく もの」だと せつめいして います[7]。首から 下げる 懸守かけまもりは、その「身に つける おまもり」の、むかしの 一つの 例れいと 考えられます。

では、いくさに 出る 武士ぶしは、おまもりを どこに つけたのでしょう。

文化庁の文化遺産オンラインによると、「懸守」は、女性や子どもが外出するとき、首からかけて胸に垂らすお守りです[6]。平安時代の貴族のあいだで使われた御守を、懸守と呼びます。持ち歩く場所は、かばんではなく、胸の前でした。

神社本庁は、お神札とお守りはどちらも神さまの力をいただくものだが、お守りは常に身につけて加護をいただくもの、と説明しています[7]。外出のたびに首から下げた懸守は、この「常に身につける」を、そのまま形にしたもののようです。

お守りが貴族だけのものだったのかどうかは、手元の資料からは言い切れません。ただ、次に紹介するように、お守りは別の身分の人々の暮らしにも入りこんでいきます。武士は、お守りをどこに忍ばせたのでしょうか。

平安時代の貴族の御守に「懸守」がある。文化庁の文化遺産オンラインの解説では、外出の際に頸から懸けて胸に垂らす御守で、婦女子の使用が述べられている[6]。身につける位置が胸の前なのは、外出という場面と結びついた使い方だったことを示す。

神社本庁は、お神札もお守りも神さまの力をいただく点では同じだが、お守りは「常に身につけて」加護をいただくものだと区別している[7]。この定義に照らすと、外出のたびに首から下げた懸守は、携帯する御守の古い例として理解しやすい。

この資料が示すのは貴族の例である。お守りの形は、持ち主の身分や暮らしによって変わっていく。次は武士の場合である。

4. 武士ぶしは、おまもりを どこに かくしたの?

4. 武士は、お守りを兜の内側などの見えない場所に貼った

4. 武士は兜の内側に、家では戸口に ── 見せないお守りと、元三大師のお札

武士ぶしが つかった 兜かぶとの 中を 見ると、おまもりが はって ある ことが あります。ふくおかの はくぶつかんの てんじでは、兜かぶとの 中や、よろいを いれる はこの ふたの うらに はって ある れいが しょうかいされて います[8]。

人に 見せない ところに、そっと はる。じぶんだけが しって いる おまもりでした。

おふだも あります。元三大師がんざんだいしの おふだは、家の 出入りぐちに はると まよけに なると いう しんこうが あります[9]。おまもりは 身に つけ、おふだは 家に はる。つかいかたが ちがう のです。

でも、むかしの おまもりは、いれものも すごかった ようです。どんな ふくろに 入って いたのでしょう。

福岡市博物館が紹介する黒田家の具足とお守りの展示では、お守りが兜の鉢の内側や、具足を入れる櫃の蓋の裏側に貼られている例が見られるといいます[8]。戦いに出る武士が、見えないところにお守りを忍ばせていたのです。懸守のように、首から下げて見せる形ではありません。

家にはるお札もありました。主に天台宗の寺で頒布される「元三大師のお札」は、家の出入り口などに貼ると魔除けになるという信仰があります[9]。身につけるお守りと、家に貼るお札で、守り方が違います。

ここまでで、お守りが首から下げる品から、兜の内側に貼る品、家の戸口に貼る札へと、置き場所を変えてきたことが見えてきました。では、お守りを入れる袋はどうだったのでしょうか。

武士はお守りをどこに持っていたのか。福岡市博物館の黒田家の具足とお守りの展示は、お守りが兜の鉢の内側や具足櫃の蓋の裏側に貼られている事例が見られると紹介している[8]。懸守のように外から見える位置ではなく、使う本人しか目にしない場所にある点が特徴である。

これを家庭に置き換えると、元三大師のお札がある。国学院大学の記事によれば、主に天台宗の寺で頒布される元三大師のお札には、家の出入り口などに貼ると魔除けの効果があるという信仰がある[9]。先の神社本庁の区別と重ねると、身につけるのがお守り、場所に据えるのがお札、という使い分けが浮かぶ。ただしこれは複数の資料を並べた読み方である。

身につけるにしても、貼るにしても、お守りの中身は小さい。それを包む袋には、どんな工夫があったのか。

5. むかしの おまもりぶくろは、いまより おおきくて ごうか?

5. 文化遺産オンラインが紹介する守袋は、大きくて豪華だった

5. 錦と金襴の守袋 ── 慶長年間の記録と、解説が述べる守袋1点の大きさ

文化庁ぶんかちょうの ウェブサイトに、むかしの おまもりぶくろが 一つ のって います[10]。その かいせつに よると、錦にしきなどの ねだんの 高い ぬのの 袋ふくろは、わざわいを ふせぐ ちからが あると しんじられて いました。

そして、お金が かかっても、子どもの おまもりぶくろに 使われました。慶長けいちょうの ころの きろくに のこって います[10]。

とくに ごうかな 袋ふくろは、はじめての おみやまいりで、赤ちゃんに つけたと あります。文化庁ぶんかちょうの サイトの この 一つの ふくろは、かいせつを 書いた 人が 知っている 神社の おまもりぶくろ(いまの もの)と くらべて、大きくて ごうかだと 書かれて います[10]。どの 神社の ものかは、書かれて いません。むかしの おまもりぶくろが ぜんぶ そうだった、という ことでは ありません。

ちいさな いまの おまもりの せんぱいに、おおきくて ごうかな ふくろが あったのです。でも、どうして ちいさく なったのかは、しりょうに 書いて ありません。

文化遺産オンラインの「お守袋 宝尽し文」の解説によると、錦や金襴の袋には災いを防ぐ力があると信じられ、高価でも子どもの守袋に使われたことが、慶長年間の記録に残っています[10]。

この守袋は、初めてのお宮参りの際に子どもに着けたものです。解説は、この一つの守袋を「神社で手に入る現在のお守り袋」と比べて大きく豪華だとしています(どの神社のものかは示されず、今のお守り袋すべてとの比較ではありません)[10]。子どもの無事を願う気持ちが、袋の布や大きさに表れていたのでしょう。

お守りは、平安時代の貴族が首から下げた懸守から、武士の兜の内側へ、そして子どもの豪華な守袋へと、使う人や場面にあわせて姿を変えてきました。今の小さなお守り袋は、その長い流れの先にあります。なぜ小さくなったのかは、資料には書かれていません。

お守りの袋にも歴史がある。文化遺産オンラインの「お守袋 宝尽し文」の解説は、錦や金襴の袋には災いを防ぐ力があると信じられ、高価でも子供の守袋に使用したことが慶長年間の記録に残っている、と述べる[10]。袋の素材そのものに、守る力が期待されていたのである。

同じ解説は、この守袋が初めてのお宮参りの際に子供に着けたもので、解説者が念頭に置く「神社で手に入る現在のお守り袋」と比べて大きく豪華だとも記す(比較は、この守袋1点と、その解説者の言う現在のお守り袋との間のもので、現在のお守り袋一般との比較ではない)[10]。つまり、お守りの外側の飾りは、一人の子どもの節目を祝う場面で最も大きく華やかになっていた。

こうして並べると、お守りは、平安時代の貴族の首から下がる懸守、武士の兜の内側、家の戸口のお札、子どもの守袋と、使う人と場面ごとに形を変えている[6][8]。現在の小さなお守り袋がなぜ小さくなったのかを考える材料は、自分の手元にあるお守りから見つけられる。

6. おうちの おまもりを、よく 見て みよう

6. 家のお守りやおみくじを観察する

6. 手元のお守りから、資料に書かれていないことを考える

おうちに、おまもりや おみくじが あれば、見て みましょう。袋ふくろの 中を あけては いけません。そとから 見るだけに します。

じょうぎが あれば、袋ふくろの 大きさを はかって みましょう。文化庁ぶんかちょうの サイトに のっている 一つの ふくろは、かいせつを 書いた 人の 知る いまの おまもりぶくろより 大きいと 書かれて います。手もとの おまもりぶくろは、それと くらべて どうでしょう。くらべて いいのは、その ふくろ 一つだけです。

どんな ぬのでしょう。どこに つけて いますか。かばんの 中でしょうか。つくえの 上でしょうか。むかしの 人が 首から ぶらさげたり、兜かぶとの 中に はったり したのと くらべて みると、おもしろいですよ。

家にお守りやおみくじがあれば、見てみましょう。袋の中身は開けず、外から見るだけにします。

定規で袋の大きさを測ると、文化遺産オンラインが紹介する、あの一つの豪華な守袋(昔の守袋すべてではありません)と、手元のお守りとの違いが数字で言えます。布の種類や色、どこに付けているか(かばん、机、財布など)も書き留めると、懸守や兜の内側での持ち方と並べて考えられます。なぜ今のお守りは小さいのか、自分なりの考えを持てると、資料の続きを探したくなります。

おみくじは、結ぶ・持ち帰るなど、神社によって扱いが違います。その神社の案内に従ってください。

手元にお守りがあれば、袋の中身は開けずに、外側の観察をしてみる。定規で大きさを測り、布の種類や色、持ち歩く場所を記録する。大きさを比べてよいのは、文化遺産オンラインの「お守袋 宝尽し文」に載る守袋1点(現在のお守り袋より大きく豪華とされる)だけである。持ち歩く場所は、懸守(胸の前)、兜の内側、家の戸口のお札と並べて、「いつ・誰が・どこに持つか」による使い方の違いを考える。

なぜ現在の守袋が小さいのかは、今回の資料に説明がない。持ち運びやすさや、数が増えたことなど、考えは立てられるが、それは仮説である。この点を調べるなら、守袋の展示や文化遺産オンラインの解説、神社本庁の説明を出発点に、時代ごとの実物や記録に当たるとよい。

おみくじの扱いは、神社ごとに違う。持ち帰る・結ぶなどは、その神社の案内に従う。

しらべた もとの じょうほう

参考にした情報源

参考にした情報源と、その使い方

おみくじとお守りの歴史は、資料によって言い方が分かれる。ここでは、公的機関・博物館・寺社の公式資料を、それぞれ用途を分けて使った。

  1. 神社本庁「おみくじ」 https://www.jinjahoncho.or.jp/omairi/omikuji/ (江戸時代に個人の運勢を占う形が見られるようになったとされること)
  2. 「貞享元年刊『元三大師百籤』挿絵における古典図様の利用」 国立国会図書館サーチ https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R000000016-I2014874700 (天竺霊籤が起源で室町時代に伝わったこと)
  3. 大津市歴史博物館「企画展 元三大師良源-比叡山中興の祖-」 https://www.rekihaku.otsu.shiga.jp/news/0905.html (良源の生没年と「元祖」と呼ばれること)
  4. 天台宗総本山 比叡山延暦寺「横川(よかわ)」 https://www.hieizan.or.jp/keidai/yokawa (元三大師が考案したと言われ、堂が発祥の地とされること)
  5. 京都市観光協会 Kyoto Travel「omikuji fortune」 https://kyoto.travel/tw/travel-inspiration/omikuji-fortune/ (古代の用途と江戸時代の流行。中国語の案内ページ)
  6. 文化遺産オンライン「懸守」 https://online.bunka.go.jp/heritages/detail/188876 (懸守が首から胸に垂らす御守であること)
  7. 神社本庁「お神札、お守り」 https://www.jinjahoncho.or.jp/omairi/omamori/ (お守りは常に身につけるものという説明)
  8. 福岡市博物館「黒田家の具足とお守り」 https://museum.city.fukuoka.jp/exhibition/522/ (兜の内側などに貼られたお守り)
  9. 國學院大學「ビキニパンツの「鬼」がいざなう歴史沼|元三大師のお札」 https://www.kokugakuin.ac.jp/article/491837 (家の出入り口に貼る魔除けのお札)
  10. 文化遺産オンライン「お守袋 宝尽し文(右下)」 https://online.bunka.go.jp/heritages/detail/654943 (錦や金襴の守袋と、現在より大きいこと)

なおした ところ

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