このサイトは、ほんの入り口です

ここにあるのは、だれかが実際に調べ、考え、作ってきたことを集めたメモです。気になったら、ページの下の「参考にした情報源」から、もとの本や記事、それを生み出した人たちに、直接ふれてみてください。このメモには書ききれないおもしろさが、そこにあります。

どんぶりは、むかしは なにを いれる うつわ だったの?

どんぶりは、江戸時代に何を入れる器として使われたのだろうか

「丼」は、いつからご飯の器になったのか ── 江戸中期のそばの器から、うな丼・天丼・牛丼へ

分野:歴史・文化

うなどんや ぎゅうどんで おなじみの どんぶり。じつは、さいしょに はいっていたのは ごはんでは なかった、と いわれます。

では、なにを いれる うつわ だったのでしょう。ごはんの りょうりに なったのは、いつ ごろ なのでしょう。この ページでは、そのことが わかります。

うな丼や牛丼の「丼」は、もともとご飯の料理の名前ではありませんでした。江戸時代の中ごろ、どんぶりに盛って売られていたのは、おもにそばでした。

では、ご飯をのせる料理は、いつ、どうして生まれたのでしょうか。この記事を読むと、器の名前から料理の名前へ変わっていった流れと、形の理由が資料で分かっていない部分が分かります。

丼(どんぶり)は、いまでこそ丼物の名として知られるが、江戸時代の中ごろには、おもにそばのかけや種物を盛る器だった[2][3]。

では、器の名はどのようにご飯料理の名へ移り、深く厚い形は何と結びつけて考えられるのか。このメモを読むと、年代ごとの記録と、伝承にとどまる部分、資料で説明されていない部分が分かる。

読み方を切り替えられます。画面の上にある「よみかた」のボタンで、小学校低学年むけ・小学校高学年むけ・中学生むけの3つの書き方に切り替わります。むずかしいと思ったら、いつでもやさしい方に戻ってください。選んだ読み方はブラウザが覚えているので、次に別の記事を開いたときも同じ読み方で始まります。

1. ちゃわんと どんぶり、なにが ちがう?

1. ご飯茶碗とどんぶりを並べると

1. 丼とは、どのような器か

うちに ある ごはんの ちゃわんと、どんぶりを、ならべて みましょう。どんぶりの ほうが ずっと 大きくて、ふかくて、あつみが あります。

じしょでは、どんぶりを 「あつくて ふかい 大きな はち」と せつめいしています[1]。大きさの めやすは、はばが 15センチ ぐらい、ふかさが 8〜10センチ ぐらいと いわれます[8]。きまりでは なく、めやすです。

これだけ 大きな うつわ。むかしの 人は、なにを いれて いたのでしょう。

辞書がいう「どんぶり」

辞書は、丼を「食べ物を盛るための、厚手で深い陶製の大きな鉢」と説明しています[1]。飯碗や汁碗より大きく厚く、深い器です。ある料理の解説では、目安は直径15cmほど、深さ8〜10cmほどとされます[8]。規格ではなく、あくまで目安です。

名前の中に「ご飯」はない

辞書の説明には、ご飯もうなぎも出てきません。あるのは「大きくて深い鉢」という形だけです。つまり丼は、もとは料理の名前ではなく、器の名前でした。

この大きな鉢には、最初に何が入っていたのでしょうか。

デジタル大辞泉は、丼を「食物を盛るための厚手で深い陶製の大きな鉢」と説明する[1]。説明の中心は、素材(陶製)と形(厚手・深い・大きい)であり、ご飯や具材への言及はない。つまり丼という語は、辞書の定義の上では、まず器を指す。

大きさについては、飯碗や汁碗より大きく厚い深い鉢とされ、目安として直径約15cm・深さ8〜10cmという記述がある[8]。ただしこれは料理解説での目安で、規格ではない。

注意したいのは、現代の私たちが「丼」と聞いて思い浮かべるのが、うな丼や牛丼などの料理であることだ。器の名と料理の名が同じ語であるために、順序が見えにくくなっている。では、器としての丼には、もともと何が盛られていたのか。

2. さいしょに はいって いたのは、そば

2. 江戸の町で、どんぶりに盛られていたのはそばだった

2. 江戸中期の丼:そばを盛る蓋のない器

どんぶりの なまえは、江戸えどじだいの なかごろから みられます[2]。そのころ どんぶりに もられて うられて いたのは、おもに そばでした。つゆの ついた そばを、あつい うちに たべる ための うつわです。

この どんぶりには、ふたが ありませんでした[2]。そばや うどんなどの めんるいは、いまも ふたを しないで どんぶりで だします。

「どんぶり」と いう ことばは、17せいき の おわりごろ から みられるそうです[3]。1781ねんの こんだてしょには 「なんきんそめつけどんぶり」と いう なまえも でて きます[3]。

ごはんが のるのは、まだ すこし あとの はなしです。

そばのかけを入れる器

丼の名は、江戸時代の中ごろから見られるようになり、おもに「そばかけ」の類が丼に盛って売られていました[2]。ほかの資料でも、この語は17世紀末ごろから見られ、そばのかけや種物を入れる器として使われたとされます[3]。つゆをたっぷり入れられる、深くて大きな器が、そばには向いていたのでしょう。ただし、形の理由を直接説明した資料は、今回は見つかっていません。

蓋のない丼

当時の丼には蓋がありませんでした[2]。そば・うどんなどの麺類は今も蓋をせずに丼で出されます。料理解説でも、蓋なしの丼は汁のある麺料理に向くとされています[8]。

絵つきの丼の名が出てくる

1781年(天明1)の献立書には「南京染付どんぶり」の名が見えます[3]。随筆『耳嚢』(1784〜1814年)にも、豆腐を厚く煮て丼に入れて出した、という記述があり、丼鉢の初出の実例として辞書に挙げられています[2]。そば以外のものも、丼に入るようになっていたことが分かります。

では、この蓋のない丼に、ご飯がのるようになったのは、いつでしょうか。

日本大百科全書は、江戸時代の中ごろから丼の名が見られ、おもにそばかけの類が丼に盛って売られていたこと、当時の丼には蓋がなかったことを述べる[2]。世界大百科事典も、この語が17世紀末ごろから見られ、そばのかけや種物を入れる器として用いられたと記す[3]。2つの辞典が、同じ時期とほぼ同じ用途を示しているため、江戸時代の丼は、まず麺類の器だったと読める。

蓋がなかった点は、器の性質と合っている。汁のある麺料理は、蓋をせずに出す[8]。そばやうどんは今も蓋なしの丼で出されるので、少なくとも用途と蓋の有無の対応は、現在まで続いている。深く厚い形が汁や保温と関係するという見方は、推測の域を出ない。

器としての丼の使い道は、そばにとどまらなかった。1781年(天明1)の献立書には「南京染付どんぶり」の名が見え[3]、随筆『耳嚢』(1784〜1814年)には、豆腐を厚く煮て丼に入れて出した記述がある。これは丼鉢の初出の実例の一つとして辞書に挙げられている[2]。「最古」と断じる根拠はないので、本稿では「初出の実例として挙げられる」にとどめる。

ここまでの記録に、ご飯の料理は出てこない。では、ご飯を丼に入れた料理は、いつ、どのように現れるのか。

3. ごはんの うえに うなぎを のせた 人

3. うな丼は、冷めない工夫から生まれたといわれる

3. うな丼の起源:蓋と保温をめぐる2つの言い伝え

ごはんの うえに おかずを のせる どんぶりものの はじまりは、うなどんだと せつめいする ほんが あります。ただし、これは ひとつの せつです。

ひとつは、でまえの かばやきが さめない ように、かばやきを ごはんの なかに いれた、という はなしです[5]。それが ひろまり、日本で はじめての どんぶりもの、うなどんに なったと いわれます。

もうひとつは、うしくの ぬまの はなしです。むかし、わたしぶねの 時間に まにあわせたい 人が、ごはんの うえに かばやきを のせ、ふたを して、ふろしきで つつんで 船に のりました[4]。むこうぎしで ふたを あけると、たれが ごはんの ねつで あたたまって、おいしかったと いいます[4]。

ふたの ある うつわで、さめにくく する。おべんとうの ような くふうです。ただし これは、地元に つたわる はなしです。

出前の蒲焼が冷めないように

ご飯の上に具をのせる「丼物」のはじまりは、うな丼だという説明があります。出前の蒲焼が冷めないよう、蒲焼をご飯の中に入れて楽しんでいたところ、それが周りにも広まって、日本初の丼物・うな丼が生まれたというものです[5]。

渡し船と風呂敷の言い伝え

茨城県牛久市の広報には、別の話が載っています。文化11年(1814年)、大久保今助が蒲焼とご飯を一緒に蒸して鰻丼をつくった、と日本食物史年表に記されているという紹介です[4]。

牛久沼の言い伝えでは、今助は渡し船の出る時間が迫っていたので、丼飯に蒲焼をのせて蓋をし、風呂敷に包んで船に乗りました。対岸で食べると、ご飯の熱でたれが温まり、おいしかったといいます。当時の「丼飯」は、木製の蓋つきの椀だったと書かれています[4]。

2つの話をどう読むか

2つの話は出どころが別で、前者に今助の名は出てきません。後者は地元の言い伝えで、広報も確かな史実としては書いていません。それでも、2つの話はどちらも「冷めないようにする工夫」が、ご飯の上に具をのせる料理につながったと語っています。「持ち運ぶ」ことが出てくるのは、牛久沼の話だけです。そばの丼は蓋がなく、うな丼の話では蓋のある器が出てくる点も、おもしろいところです。

うな丼のあと、ご飯をのせる料理は広がったのでしょうか。

丼物の起源として、うな丼を挙げる説明は複数ある。飯野亮一『天丼 かつ丼 牛丼 うな丼 親子丼』の内容紹介では、出前の蒲焼が冷めないようにと、蒲焼をご飯の中に入れ込んで楽しんでいたところ、それが周囲にも広まり、日本初の丼物、うな丼が誕生したとされる[5]。

一方、茨城県牛久市の広報(2012年10月号)は、日本食物史年表に「文化11年(1814)、大久保今助が鰻の蒲焼と飯を一緒に蒸して鰻丼をつくる」と記されていると紹介する[4]。ここでは今助の名が出るが、出版社の紹介文には今助の名がない。2つの出典は別々であり、同じ人物の話だとは言えない。

広報はさらに、牛久沼の言い伝えを載せる。渡し船の時刻に間に合わせたい今助が、丼飯に蒲焼をのせて蓋をし、風呂敷で包んで船に乗った。対岸で開けると、飯の熱でたれが温まり、おいしかったという。ここで「丼飯」と呼ばれた器は、木製の蓋付きの椀だったと説明されている[4]。つまり、蓋のないそばの丼とは別の器である。

これらは地元の言い伝えや出版社の紹介であり、確定した史実とは言い切れない。それでも、2つの説明は、冷めないようにする工夫が、ご飯と具を一つの器にまとめる料理を生んだ点で一致している。ご飯の熱で具を温めるという発想は、そばの汁とは別の保温の考え方である。

では、うな丼のあとに続いた丼物は、どのように広まったのか。

4. てんどんや ぎゅうどんは、いつ ごろから?

4. 天丼と牛丼は、うな丼のあとから広まった

4. 天丼と牛丼:呼び名が定着していく過程

うなどんの あと、ほかの どんぶりものも ふえて いきます。

てんどんは、めいじ7、8年(1874、75ねん)ごろ、神田の「なかの」と いう おみせが、てんぷらを どんぶりに したのが はじまりと いわれます[6]。ねだんは、そのころの うなぎめしの 3ぶんの 1ぐらいで、はんじょうしたそうです[6]。

ぎゅうどんは、はじめは「牛めし」と よばれて いました。関東大震災かんとうだいしんさいの あと、ある スケッチ集に、「牛めし」の かんばんが 三十まい いじょう、「牛どん」の かんばんが 7まい かかれています[6]。この ころから、よびかたが 「牛どん」に かわって いったと いわれます。

天丼は、うなぎ飯の3分の1の値段

天丼は、明治7、8年(1874、75年)ごろ、神田の「仲野」という店が天ぷらを丼にしたのが始まりとされます[6]。値段はうなぎ飯のおよそ3分の1で、よく繁盛したと紹介されています。うな丼のような高価な料理に比べて、手軽に食べられたことが、広がった一因として考えられます。

「牛めし」から「牛丼」へ

牛丼は、はじめ「牛飯」「牛めし」と呼ばれていました。1923年(大正12年)の関東大震災のあとまもなく描かれたスケッチ集には、牛飯・牛めしの看板が三十数枚、「牛丼」と描かれた看板が7枚あります[6]。同じスケッチ集の中では、「牛丼」の看板はまだ少数派でしたが、震災のあとに呼び名が牛丼へ変わっていったとされます。「牛丼」の名がこのとき生まれたと断定することはできません。

この頃には、丼がご飯料理に使われていたことが分かります。ところで、そもそもなぜ、こんな形なのでしょうか。

天丼について、飯野亮一氏は、明治7、8年(1874、75年)ごろに神田の「仲野」という店が「天麩羅を丼になすことを発明」したとされる記録を紹介している[6]。この店の天丼は、当時のうなぎ飯のおよそ3分の1の値段で、繁盛したという。うな丼の最初の記録(文化11年、1814年)から約60年後のことである。値段の差が、ご飯料理が庶民の日常へ広がる助けになった可能性はあるが、資料はそこまで述べておらず、あくまで読み取りの一つである。

牛丼は、「牛飯」「牛めし」という呼び名から変わっていった。1923年(大正12年)の関東大震災後まもなく描かれたスケッチ集には、牛飯・牛めしの看板が三十数枚あり、その中に「牛丼」と描かれた看板が7枚混じっている[6]。同じスケッチ集の中では「牛丼」の看板は7枚と少数であり、この時期に名が生まれたと断定はできない。むしろ、呼び名が「牛丼」へ移っていく途中の姿が見えている、と読むほうが資料に近い。

丼物の名がこうして増えていくなか、器の名の由来や、形の理由はどう説明されているのか。

5. どうして こんな かたちなの?

5. 形の理由と名前の由来は、はっきりしない

5. 形と語源:資料で分かることと、分かっていないこと

どんぶりは なぜ、大きくて ふかくて あついのでしょう。じつは、その りゆうを せつめいした しりょうは、見つかって いません。

「どんぶり」と いう なまえの もとも、はっきり していません。みずに ものを なげいれた ときの おとから きた、という せつが ありますが、たしかでは ないそうです[3]。

わかって いるのは、そばの うつわが さきで、ごはんの りょうりは あとから、という ながれです。ふかい かたちは、つゆを たっぷり いれる ためかも しれません。ふたの ある うつわを つかえば、さめにくく なります。そう かんがえて みるのは、たのしいですね。

名前は「水に物を投げ入れた音」という説

丼という名の由来について、水に物を投げ入れたときの音から来たという説がありますが、はっきりしません[3]。語源の説はほかにもありますが、どれも定まっていません。

なぜ厚くて深いのか

厚手で深いという形の理由を、直接説明した資料は、今回は見つかりませんでした。そこで、分かっていることだけを並べてみます。

そばのかけには汁があり、蓋のない丼で出される。うな丼の言い伝えでは、蓋のある器でご飯の熱を保つ。どちらも、汁や熱のことを考えると、深くて厚い器は都合がよさそうです。ただし、これは資料に書かれた結論ではなく、考えてみるための手がかりです。

碗の移り変わりの中で

国立歴史民俗博物館の研究報告によると、江戸時代前期の飯碗や汁碗は漆器が占めていました。それが、明治中期には、現代と同じように、やきものの飯碗と湯のみ碗を組み合わせる形が成り立っていたとされます[7]。この研究は丼そのものを調べたものではなく、丼の広がりを示すものでもありません。碗の材質が変わっていった背景として、ここで紹介するだけです。

丼の語源は、水に物を投げ入れたときの音をとった名とする説があるが、はっきりしない[3]。ほかにも語源説はあるものの、いずれも確定していない。名前の由来から器の形を説明する説は、資料からは読み取れない。

形の理由についても同様で、厚手・深いという特徴がなぜ選ばれたかを直接説明した資料は、今回の調べでは得られなかった。そこで、資料にある事実だけを並べると、次のようになる。蓋のない丼は汁のある麺料理に向くとされ[8]、うな丼の言い伝えでは、蓋のある椀がご飯の熱で具を温める役を果たした[4]。汁を入れる器と、熱を逃がさない器という、異なる用途が重なっていることになる。深くて厚い形は、どちらにも都合がよさそうだが、これは読み手が組み立てた推測であり、出典の結論ではない。

背景として、器の材質の変化がある。長佐古真也の研究によると、江戸時代前期の飯・汁の碗は漆器が占め、明治中期には現代と同様に、やきものの飯碗とやきものの湯のみ碗を組み合わせる形が成立していた[7]。別に、陶器の喫茶碗は江戸中期ごろを境に小形化したとされる[7]。この研究は丼を扱ったものではなく、丼の広がりを示す資料ではない。碗の材質の変化を、背景として参照するにとどめる。

6. うちの どんぶりを しらべて みよう

6. 台所の器で、丼のなぞを確かめてみる

6. 確かめる道すじ:家の器と、読んでみたい本や資料

ごはんの ちゃわん、おしるの わん、どんぶりを、ならべて みましょう。かぞくの 人と いっしょに やって ください。われやすい ものなので、もつ ときは そっと。

ながしの ちかくで、おとなと いっしょに、おなじ カップで みずを いれて、なんばい ぶん はいるか くらべて みます。どんぶりは、ちゃわんの なんばい ぐらい はいる でしょうか。つゆや ごはんを いれる とき、この ふかさは、どう やくに たつ でしょう。

ふたの ある どんぶりと、ない どんぶりも さがして みましょう。なにを いれる ときに、ふたが ほしく なるでしょうか。

今日できること

ご飯茶碗、汁碗、どんぶりを並べて、流しの近くで大人と一緒に、同じカップで水を入れ、何杯分入るかを比べてみましょう。器が割れやすいので、大人と一緒に、ゆっくり扱ってください。どんぶりは茶碗の何倍くらい入るでしょうか。汁のある料理と、汁のない料理では、どちらが丼に向いているでしょうか。

蓋のある丼、ない丼

うちに蓋つきの丼があるか探して、どんな料理のときに蓋をすると便利か考えてみましょう。蓋のない丼は、麺類が多いかどうかも見てみてください。この記事の資料から言えるのは、そばの丼には蓋がなく、うな丼の言い伝えには蓋が出てくる、ということだけです。現代の使い分けを知るには、別の資料が必要です。

資料を読むなら

さらに読むなら、飯野亮一『天丼 かつ丼 牛丼 うな丼 親子丼』(ちくま学芸文庫)があります。形の理由は、まだ分かっていない部分です。

確かめる材料は、家の台所にある。飯碗・汁碗・丼に、流しの近くで、同じ計量カップで水を入れ、何杯分入るかを比べる。割れやすいので、大人と一緒に、ゆっくり扱うこと。丼が飯碗よりどれだけ大きいかが、数字で分かる。

次に、蓋の有無を見る。蓋のある丼とない丼を探し、入れる料理との対応を書き出す。本稿の資料から言えるのは、江戸中期のそばの丼に蓋がなかったこと[2]、うな丼の言い伝えでは蓋のある椀が出てくること[4]の2点にとどまる。現代の使い分けは、別の資料で調べる必要がある。

さらに読むなら、飯野亮一『天丼 かつ丼 牛丼 うな丼 親子丼』(ちくま学芸文庫)がある[5]。天丼・牛丼の年代は同じ対談に基づく紹介なので[6]、別の資料で突き合わせる余地が残っている。大久保今助の読みは資料により揺れがあるため、本稿では読みを付けなかった。丼の形の理由は、資料が見つかっていない問いのままである。

しらべた もとの じょうほう

参考にした情報源

参考にした情報源と、その使い方

丼の語源や、うな丼の起源には、確定していない説が含まれます。本文では「といわれる」「とされる」と書いた箇所が、それにあたります。

  1. デジタル大辞泉「丼」(コトバンク) https://kotobank.jp/word/%E4%B8%BC (丼の定義)
  2. 日本大百科全書「丼」・精選版 日本国語大辞典「丼」(コトバンク) https://kotobank.jp/word/%E4%B8%BC-586608 (江戸中期のそばと蓋のない丼、『耳嚢』の記述)
  3. 世界大百科事典「丼」(コトバンク) https://kotobank.jp/word/%E4%B8%BC (17世紀末の初出、1781年の献立書、語源説)
  4. 広報うしく2012年10月1日号「再発見・牛久 第五話」 https://www.city.ushiku.lg.jp/kouhoushi/2012_10_01/image/10_1_18.pdf (うな丼の記録と牛久沼の言い伝え)
  5. 筑摩書房 ちくま学芸文庫『天丼 かつ丼 牛丼 うな丼 親子丼』内容紹介 https://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480099518/ (うな丼が日本初の丼物とする説明)
  6. 三菱電機 和食シリーズ『日本人の食卓』飯野亮一氏対談 https://www.mitsubishielectric.co.jp/club-me/knowledge/washoku04/16.html (天丼・牛丼の記録)
  7. 長佐古真也「『お茶碗』考」国立歴史民俗博物館研究報告94集(2002) https://rekihaku.repo.nii.ac.jp/records/1034 (漆器からやきものの碗への変化)
  8. Kikkoman Glossary: Donburi https://www.kikkoman.com/en/cookbook/glossary/donburi.html (丼の大きさの目安と蓋なしの使い方。英語の資料)

なおした ところ

更新履歴

更新履歴(改版の記録)

  •  初版を公開。
  •  中学生向けの題名を、日常の疑問が先に来る形に見直した。

このサイトでは、公開した記事の本文は原則として書き直しません。誤りが見つかったときや、内容が古くなったときだけ手を入れ、その理由をこの欄に残します。