1. あおい 石が、きんより たかかった わけ
1. 青い石が、金より高かったわけ
1. ラピスラズリ ── 金より高価だった青
その あおい 石の 名まえは、ラピスラズリと いいます。とれるのは、アフガニスタンと いう 国の、けわしい 山おくだけでした[1]。
船で はるばる ヨーロッパまで はこばれ、こなに ひいて、あおい えのぐに なりました。とても てまが かかる うえに、とれる 場しょが 1つしか ないので、ねだんは どんどん 上がりました。
フェルメールと いう 画家は、この あおを けちらずに つかいつづけました。おかげで、フェルメールの 家は しゃっきんを かかえる ことに なったと いわれて います[2]。
その青い石の名前は、ラピスラズリといいます。採れるのは、アフガニスタンという国の、けわしい山奥だけでした[1]。
船ではるばるヨーロッパまで運ばれ、粉にひいて、青い絵の具になりました。とても手間がかかるうえに、採れる場所が1つしかないので、値段はどんどん上がりました。
フェルメールという画家は、この青をけちらずに使いつづけました。おかげで、フェルメールの家は借金を抱えることになったといわれています[2]。
その青い顔料の名は、ラピスラズリという半貴石に由来する。産地はアフガニスタンの山岳地帯にほぼ限られており、当時のヨーロッパにとっては「海の向こう」からもたらされる貴重品だった。「ウルトラマリン」(海を越えて、の意)という名前も、ここから来ている[1]。
石を砕いて不純物を取り除き、純粋な青い粉だけを抽出する工程は複雑で時間がかかった。産地が1か所に限られていることと合わせて、ウルトラマリンは重さあたり金よりも高価な顔料になった[1]。
画家ヨハネス・フェルメールは、下塗りにも惜しみなくこの高価な青を使い続けたことで知られる。ルネサンス期の他の画家の多くが、目立つ最終層にだけ使い、下地には安価な藍銅鉱(アズライト)の青で済ませたのとは対照的である。この浪費が、フェルメールの一家を借金まみれにしたと伝えられている[2]。
2. かがくの ちからで、青が やすくなった
2. 化学の力で、青が安くなった
2. 賞金6000フランの勝負 ── 人工の青を作れ
こんなに 高い 青を、もっと やすく 作れないだろうか。フランスの ある だんたいが、1824年に こう よびかけました。「石を つかわずに、おなじ 青を 作った 人には、しょうきんを だします」[3]。
しばらく だれも 出せませんでしたが、1826年、ギメと いう 人が ひみつの 方ほうを 見つけました。ねん土と いおう などを まぜて 火で やくと、あの 青が できたのです[3]。
まきを 火で もやすと、まっ黒な すみに かわります。ねん土や いおうを 火で やくと 青色に かわるのも、それに にた、火の ちからに よる へんかです。ただし ほんとうは、すみに なる へんかと、青色に なる へんかとは、ちがう しゅるいの へんかです。
ギメは 作りかたを ひみつに した まま、工場で 青を たくさん 作りはじめました。石を けずる ひつようが なくなり、青は だれでも 買える ねだんに なりました。
こんなに高い青を、もっと安く作れないだろうか。フランスのある団体が、1824年にこう呼びかけました。「石を使わずに、同じ青を作った人には、賞金を出します」[3]。
しばらくだれも出せませんでしたが、1826年、ギメという人がひみつの方法を見つけました。粘土と硫黄などを混ぜて火で焼くと、あの青ができたのです[3]。
薪を火で燃やすと、真っ黒な炭に変わります。粘土や硫黄を火で焼くと青色に変わるのも、それに似た、熱による変化です。ただし本当は、炭になる変化と、青色になる変化とは、違う種類の変化です。
ギメは作りかたをひみつにしたまま、工場で青をたくさん作りはじめました。石を削る必要がなくなり、青はだれでも買える値段になりました。
こんなに高価な青を、鉱石に頼らず化学的に作れないか。フランスの産業奨励協会は1824年、天然のウルトラマリンと変わらない性質を持つ人工顔料を、1キログラムあたり300フラン以下で製造できた者に6000フランの賞金を出すと発表した[3]。
応募作の多くは、コバルトなどを使った見せかけの模造品にすぎず、条件を満たす者はなかなか現れなかった。1826年、化学者ジャン=バティスト・ギメが、粘土・硫黄・炭酸ナトリウム・炭を混ぜて焼くという製法を秘密裏に開発する。1824年の発表から4年後の1828年、この功績で賞金が授与された[3]。
ギメは製法を秘密にしたまま工業生産を始め、材料と手順さえ分かれば同じ色を工場で大量に再現できるようになった。天然ウルトラマリンは急速に画材の座を明け渡していった。
3. ミイラが えのぐに なって いた じだい
3. ミイラが絵の具になっていた時代
3. ミイラが絵の具になっていた時代
「マミー・ブラウン」と いう ちゃいろの えのぐが ありました。
この えのぐ、なんと エジプトの ミイラを くだいて 作られて いました[4]。すきとおった 色あいが 気に 入られ、1600年代から 1800年代ごろまで、多くの 画家が つかって いました。
バーン=ジョーンズと いう 画家は、じぶんの つかって いた えのぐが 本とうに ミイラで できて いると 知って おどろき、にわに うめて とむらったと いわれて います[4]。
「マミー・ブラウン」という茶色の絵の具がありました。
この絵の具、なんとエジプトのミイラを砕いて作られていました[4]。透きとおった色あいが気に入られ、17世紀から19世紀ごろまで、多くの画家が使っていました。
バーン=ジョーンズという画家は、自分の使っていた絵の具が本当にミイラでできていると知って驚き、庭に埋めて弔ったといわれています[4]。
「マミー・ブラウン」という褐色の顔料は、16〜17世紀ごろから、発掘されたエジプトのミイラを、防腐処理に使われた樹脂もろとも砕いて作られていた。透明感のある発色が影の描写やグレーズ(薄く重ねる技法)に適していたため、とくにラファエル前派の画家たちに好まれた[4]。
画家エドワード・バーン=ジョーンズは、自分が愛用していたマミー・ブラウンの正体がミイラだと知らされ、衝撃を受けた。妻ジョージアナの回想によれば、バーン=ジョーンズはチューブを手に持って庭に降り、「これは死んだファラオでできていると分かったから、きちんと弔わなければ」と言って埋めたという[4]。
原料となるミイラの供給は、需要の高まりとともに枯渇していき、絵の具メーカーがマミー・ブラウンの製造をやめたのは1960年代のことだった[4]。
4. きれいな 色が、人を くるしめて いた
4. きれいな色が、人を苦しめていた
4. 危険な色 ── ヒ素の緑と鉛の白
「シェーレグリーン」と いう、あざやかな みどり色が ありました。
この みどり色には、ヒそと いう どくの ある ぶっしつが 入って いました。かべ紙や ふく、おもちゃ、おかしの 色づけにまで つかわれて いて、1800年代には 気もちが 悪く なったり、なくなったり する 人が 出ました[5]。
しろい えのぐにも、あぶない ものが ありました。日本でも むかし、白い おしろい(化しょう品)に、なまりの 入った えのぐを つかって いて、ある 歌舞伎の 役しゃさんが たおれて しまった ことが ありました[7]。
「シェーレグリーン」という、鮮やかな緑色がありました。
この緑色には、ヒ素という毒のある物質が入っていました。壁紙や服、おもちゃ、お菓子の色づけにまで使われていて、19世紀には気持ちが悪くなったり、亡くなったりする人が出ました[5]。
白い絵の具にも、危ないものがありました。日本でも昔、白い白粉(化粧品)に、鉛の入った顔料を使っていて、ある歌舞伎の役者さんが倒れてしまったことがありました[7]。
「シェーレグリーン」(のちの改良版は「パリグリーン」)は、亜ヒ酸銅を主成分とする鮮やかな緑の顔料で、18世紀後半から19世紀にかけて壁紙・衣類・おもちゃ・菓子の色づけにまで広く使われた。湿気で壁紙にカビが生えると、ヒ素が気化してさらに危険になる場合があることも分かっている[5]。緑の部屋で子どもが体調を崩したという19世紀の記録や、着色されたお菓子で健康被害が出た例が報告されている[5]。
白い絵の具の定番だった「鉛白」(塩基性炭酸鉛)も、長く画家を苦しめてきた。鉛の粉を吸い込んだり、筆先をなめて整える習慣から体に取り込んだりすることで、画家たちは「画家の疝痛(せんつう)」と呼ばれる、けいれんや震えをともなう職業病に苦しんだ[6]。
同じ鉛白は、日本の化粧品「白粉」の白さの正体でもあった。1887年、当代随一の女形として名高かった歌舞伎役者・中村福助が舞台で倒れ、鉛白粉による慢性の鉛中毒と診断された事件が世間に衝撃を与えた。これをきっかけに無鉛の白粉が開発されはじめたが、鉛入りの白粉が正式に製造禁止となったのは1936年(昭和11年)のことである。なお福助自身は中毒を克服し、のちに名優・五代目中村歌右衛門となった[7]。
5. あんぜんな 白が うまれた
5. 安全な白が生まれた
5. 酸化チタンへの転換 ── 危険な白から安全な白へ
1900年代の はじめ、科学しゃたちが、きけんな 白を あんぜんな 白に かえようと とりくみました。
そして 見つかったのが、チタンと いう 金ぞくから 作る、白い こなでした。なまりの ような どくが なく、しかも かくれる ちからが つよいので、少しの りょうで しっかり しろく ぬれました[8]。
1920年代、多くの 国が なまりの えのぐを ほうりつで きびしく 見はるように なった ことも あって、この 新しい 白は、あっという間に せかいじゅうの えのぐの ていばんに なりました。
20世紀の初め、科学者たちが、危険な白を安全な白に変えようと取り組みました。
そして見つかったのが、チタンという金属から作る、白い粉でした。鉛のような毒がなく、しかも隠す力が強いので、少しの量でしっかり白く塗れました[8]。
1920年代、多くの国が鉛の絵の具を法律で厳しく見張るようになったこともあって、この新しい白は、あっという間に世界中の絵の具の定番になりました。
危険な鉛白に代わる白色顔料の開発は、20世紀初頭の化学工業にとって重要な課題だった。答えの一つが、チタンの化合物である酸化チタンだった[8]。
酸化チタンは毒性がなく化学的に安定しているうえ、隠ぺい力(下地を覆い隠す力)と着色力が従来の白色顔料より格段に高かった。1910年代にアメリカとノルウェーで工業化が進み、1920年代にかけて量産体制が整えられていった[8]。
1920年代、鉛の毒性への懸念から各国で規制が進んだことも追い風となり、1920年代の終わりごろには、酸化チタンは亜鉛白とともに鉛白を主流の座から押し出した。今日にいたるまで、酸化チタンは世界でもっとも使われる白色顔料の一つでありつづけている[8]。
6. 今、えのぐは どこで つくられて いるのか
6. 今、絵の具はどこで作られているのか
6. 今、絵の具はどこで作られているのか
今の えのぐの もとに なる 白い こなは、山で とる 石ではなく、大きな 工場で 作られて います。日本にも、この 白い こなを たくさん 作って いる 会社が あります[9]。
学校で つかう クレヨンや 水さいえのぐも、日本の 会社で 作られて います。たとえば、1921年に できた おおさかの 会社は、クレヨンと パステルの 両方の 長所を あわせた「クレパス」と いう あたらしい がざいを、1925年に うみだしました[10]。
むかしは こうかな 石や、あぶない ざいりょうを つかって いた 絵の具。今は 化学の ちからで、あんぜんに、しかも 大りょうに 作れる ように なりました。
今の絵の具のもとになる白い粉は、山で採る石ではなく、大きな工場で作られています。日本にも、この白い粉をたくさん作っている会社があります[9]。
学校で使うクレヨンや水彩絵の具も、日本の会社で作られています。たとえば、1921年にできた大阪の会社は、クレヨンとパステルの両方の長所をあわせた「クレパス」という新しい画材を、1925年に生み出しました[10]。
昔は高価な石や、危ない材料を使っていた絵の具。今は化学の力で、安全に、しかも大量に作れるようになりました。
現在、絵の具の白色顔料の主原料である酸化チタンは、世界中の化学メーカーで工業的に大量生産されている。日本では、大阪に本社を置く石原産業が国内最大手で、自社発表によれば2025年4月時点で国内シェア1位である[9]。
顔料だけでなく、それを使う画材メーカーにも日本企業が名を連ねる。1921年に大阪で創業したサクラクレパスは、クレヨンとパステルの長所を兼ね備えた新しい画材「クレパス」を1925年に開発し、1950年には水彩絵の具「マット水彩」も発売した[10]。
鉱物を砕き、ミイラを砕き、毒のある化合物に頼っていた絵の具の原料は、こうして化学工場で合成される安全な工業製品へと置きかわった。かつて金より高価だった青も、今では小学生が気軽に使える1本になっている。
じぶんでも やって みる
自分でも調べてみたくなったら
自分でも調べてみたくなったら
家に ある 絵の具や 色えんぴつの はこを、大人と いっしょに よく 見て みましょう。「せいぶん」や「げんりょう」と 書かれた ところに、どんな ことばが 書いて あるか たしかめて みて ください。
あおい 絵の具の ちゅうぶを 見つけたら、色の 名まえに「ウルトラマリン」と 書いて あるか、いっしょに たしかめて みて ください。むかしの こうかな 青の 名まえが、今も のこって いるかもしれませんね。
絵の具は 口に 入れないで ください。手に ついたら、せっけんで きちんと あらいましょう。
家にある絵の具や色鉛筆の箱を、大人と一緒によく見てみましょう。「成分」や「原料」と書かれたところに、どんな言葉が書いてあるか確かめてみてください。
青い絵の具のチューブを見つけたら、色の名前に「ウルトラマリン」と書いてあるか、一緒に確かめてみてください。昔の高価な青の名前が、今も残っているかもしれませんね。
絵の具は口に入れないでください。手についたら、せっけんできちんと洗いましょう。
絵の具の顔料表示を確かめる
家にある絵の具のチューブやパッケージの成分表示を確認する。「ウルトラマリン」「チタニウムホワイト」のように歴史的な顔料名がそのまま商品名に残っている場合が多い。海外製の絵の具には、色ごとに国際的な分類記号(Color Index名、例:PW6=酸化チタン、PB29=ウルトラマリン)が印字されていることもあるので、探してみるとよい。
原論文・一次資料を読む
絵の具や顔料の粉末を口に入れたり、必要以上に手で触れたりしないこと。古い絵の具や輸入品には、今も鉛やカドミウムなどを含む顔料が使われている場合があるため、成分表示を確認する習慣をつけること。
しらべた ところ
参考にした情報源
参考にした情報源
- Daily Art Magazine「Lapis Lazuli—A Pigment More Precious Than Gold」。 https://www.dailyartmagazine.com/lapis-lazuli-pigment/ (ラピスラズリの産地がアフガニスタンにほぼ限られること、抽出工程の手間、重量あたり金より高価だったこと、名前の由来)
- The Paris Review「A Brief History of Ultramarine—The World's Costliest Color」。 https://www.theparisreview.org/blog/2015/06/08/true-blue/ (フェルメールがウルトラマリンを惜しみなく使い借金を重ねたこと、他の画家が下地に安価な顔料を使ったこととの対比)
- Webexhibits「Pigments through the Ages - History - Ultramarine」。 https://www.webexhibits.org/pigments/indiv/history/ultramarine.html (1824年にフランス産業奨励協会が合成ウルトラマリンの開発に賞金6000フランを懸けたこと、1826年のギメの秘密の製法、1828年の授与)
- Winsor & Newton「Mummy Brown: The art world's most morbid medium」、artnet News「Art Bites: 'Mummy Brown,' a Once Popular Pigment, Has a Dark Secret」。 https://www.winsornewton.com/blogs/articles/mummy-brown /https://news.artnet.com/art-world/mummy-brown-edward-burne-jones-2439399 (マミー・ブラウンの原料・使用期間、バーン=ジョーンズが妻の回想として伝えられる埋葬エピソード、製造終了時期が1960年代であること)
- Wikipedia(英語版)「Scheele's green」。 https://en.wikipedia.org/wiki/Scheele%27s_green (シェーレグリーンの主成分が亜ヒ酸銅であること、壁紙・衣類・おもちゃ・菓子への使用、湿気による気化の危険性、19世紀の健康被害の記録)
- National Center for Biotechnology Information「Lead Colic」ほか、画家の鉛中毒(画家の疝痛)に関する複数の医学系レビュー。 https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pmc/articles/PMC9191970/ (鉛白の粉塵吸入や筆をなめる習慣による鉛中毒が、画家の職業病「画家の疝痛」として歴史的に知られてきたこと)
- 国立国会図書館レファレンス協同データベース、コーセー化粧文化研究「19~20世紀にわが国で使用された含鉛おしろいに関する研究」。 https://crd.ndl.go.jp/reference/detail?page=ref_view&id=1000201040 (1887年、歌舞伎役者・中村福助が鉛白粉による慢性鉛中毒と診断された経緯、無鉛白粉の開発開始、1936年の鉛入り白粉の製造禁止、福助がのちに五代目中村歌右衛門となったこと)
- Wikipedia(英語版)「Titanium white」。 https://en.wikipedia.org/wiki/Titanium_white (1910年代のアメリカ・ノルウェーでの工業化、酸化チタンが1920年代の終わりごろに亜鉛白とともに鉛白を主流の座から押し出したこと、隠ぺい力の高さ)
- 石原産業株式会社 公式サイト、日本経済新聞の関連報道。 https://www.iskweb.co.jp/biz/titanium-oxide.html (石原産業が国内の酸化チタン生産で最大手であり、自社発表によれば2025年4月時点で国内シェア1位であること)
- 株式会社サクラクレパス「100年のあゆみ」。 https://100th.craypas.co.jp/history/ (1921年の創業、1925年のクレパス開発、1950年の水彩絵の具「マット水彩」発売)
なおした ところ
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