このサイトは、ほんの入り口です

ここにあるのは、だれかが実際に調べ、考え、作ってきたことを集めたメモです。気になったら、ページの下の「参考にした情報源」から、もとの本や記事、それを生み出した人たちに、直接ふれてみてください。このメモには書ききれないおもしろさが、そこにあります。

戸籍こせきの うらに 46ねん あとの ノート? 正倉院しょうそういんの 紙は どうして のこったの?

702年の戸籍の裏に、46年後の帳簿 ── 正倉院の文書はどうして今まで伝わったのか

正倉院文書はどうして今まで伝わったのか ── 702年の戸籍の裏紙再利用、校倉呼吸説の実測、唐櫃と木材の湿度調整、人の手入れ

分野:歴史・文化

702ねんに つくられた 戸籍こせきの うらに、46ねん あとの しごとの きろくが かかれて います。その 紙が、いまも よめます。でも、大切に しまって おいたから のこった わけでは ありません。

のこった わけは、その 紙の うらを、べつの 役所が ノートに つかった ことに ありました。どうして うらを つかったのか、そして くらは どう 紙を 守ったのかを、しらべて みました。

702年につくられた戸籍の裏には、46年後の写経所の帳簿が書かれています。この紙は、大切に保管する文書としてではなく、その帳簿の裏紙として残ったと説明されています。

役所が使い終えた紙の裏を、別の職場が使う。その紙が、千年以上たった今も読めます。校倉の「呼吸」のおかげだと聞いたことがあるかもしれません。この記事では、紙の行き先と、倉の実測値、人の手入れから、残った背景を考えます。

702年の戸籍の裏には、46年後の写経所の帳簿が書かれている。国内に現存する最古の戸籍のひとつが、いまも読める。だが、その紙は「保管すべき戸籍」として残ったのではなく、写経所の帳簿の裏紙として使われたことで残った、と説明されている。役所が保存期間を過ぎて手放した紙を、別の職場が再利用したという経緯だ。

ではなぜ、裏紙が千三百年近くももったのか。校倉が湿度を調整したから、という有名な説明は、実測で否定されている。この記事では、紙が写経所に渡った理由、倉の中の温湿度の実測、そして人の手入れと整理の影響から、文書が残った背景を考える。

読み方を切り替えられます。画面の上にある「よみかた」のボタンで、小学校低学年むけ・小学校高学年むけ・中学生むけの3つの書き方に切り替わります。むずかしいと思ったら、いつでもやさしい方に戻ってください。選んだ読み方はブラウザが覚えているので、次に別の記事を開いたときも同じ読み方で始まります。

1. こせきの うらに なにが かいて ある?

1. 1300年前の戸籍の裏に書かれていたもの

1. 702年の戸籍の裏に、748年の写経の帳簿がある

いまから 1300ねんほど まえに、筑前国ちくぜんのくにで 戸籍こせきが つくられました。だれが どこに すんで いるかを かいた、なまえの リストです。その 一部が、いまも のこって います[3]。

この 紙を ひっくりかえすと、ぜんぜん ちがう ものが かいて あります。46ねん あとに、おきょうを うつす しごとで つかわれた ノートです[3]。戸籍こせきの うらが、べつの しごとの ノートに なったのです。

それなら、どうして 役所の 紙が べつの ところで つかわれたのでしょう。

国のデータベースに、一枚の古い紙片が登録されています。大宝2年(702年)に作られた、筑前国(いまの福岡県あたり)の戸籍の一部です。国内に現存する最古の戸籍のひとつとされ、重要文化財に指定されています[3]。

この紙を裏返すと、まったく別のものが書かれています。天平20年(748年)の、写経に関わる帳簿の一部です。戸籍の保存期間が過ぎたあと、写経所が裏面を使ったときのものだといいます[3]。戸籍が作られてから46年後のことです。

つまり、この戸籍は「大切にしまわれた」から残ったのではなく、「裏を使われた」紙として残ったことになります。では、なぜ写経所は役所の使い終えた紙を使ったのでしょうか。

文化遺産オンラインに、重要文化財として登録された紙片がある。大宝2年(702年)作成の筑前国嶋郡川辺里の戸籍の断簡で、国内に現存する最古の戸籍のひとつとされる(「世界最古」ではない)[3]。ところが裏面には、天平20年(748年)の『千部法華経校帳』という写経に関わる帳簿の断簡が書かれている[3]。戸籍の作成から46年後である。

戸籍の保存期間が過ぎたところで、写経所がその裏面を利用した。そのため、戸籍は帳簿の一部として写経所の文書に組み込まれ、今日まで伝わった。つまり、この紙は「保管された戸籍」ではなく、「裏を使われた紙」として残った文書である。では、なぜ写経所は他所の使用済みの紙を使ったのか。

2. どうして 役所の 紙の うらを つかったの?

2. 役所の使い終えた紙を、写経所はなぜ使ったのか

2. 紙の貴重さが、公文書の裏面利用を生んだ

むかしは、紙が とても 貴重きちょうでした。おきょうを うつす 写経所しゃきょうじょは、ほかの 役所で ほぞんの 年が すぎた 大事な 紙を ゆずって もらい、その うらに ノートの ような ものを かきました[2]。

戸籍こせきが いまに つたわったのは、この つかいまわしの ためだと せつめい されて います[2]。

写経所しゃきょうじょは、東大寺とうだいじに ありました。ここで つくられ、正倉院しょうそういんの くらに のこった 紙の あつまりを、「正倉院しょうそういん文書」と いいます[1]。1万てんほど あり、1300ねんも まえの 紙が これだけ のこるのは、世界でも めずらしい と いわれます[2]。

やくめを おえた 紙の うらが、めずらしい 紙の あつまりに なりました。では、その うらに もじを かいた 人たちは、どんな まいにちを おくって いたのでしょう。

理由は、当時は紙が貴重だったからです。写経所は、ほかの役所で保存期間が過ぎた公文書の払い下げを受け、その裏面を帳簿などに使いました[2]。戸籍や計帳などが今日まで伝わったのは、この裏面の利用のためだと説明されています[2]。

写経所は、東大寺で経典を書き写す事業などを担った役所です。ここで作られ、正倉院の宝庫に伝わった文書群が「正倉院文書」で、写経・造寺・造仏の記録のほか、裏に書かれた戸籍・計帳などを含みます[1]。国立国会図書館の解説は、今日伝わる奈良時代の文書のほとんどを、この正倉院文書が占めるとしています[1]。

点数は資料によって「1万点以上」「1万数千点」と幅がありますが、約1万点あり、8世紀の古文書がこれだけ残るのは世界的にも稀とされます[2]。役目を終えた紙の裏が、稀な史料群になったわけです。では、その裏に文字を書いていた人たちは、どんな毎日を送っていたのでしょうか。

理由として挙げられるのは、紙の貴重さである。写経所は、他所で保存期間が過ぎた公文書の払い下げを受け、その裏面を帳簿などに再利用した。戸籍・計帳などが今日に伝わるのは、この裏面利用のためだと説明されている[2]。

ここで言う写経所は、奈良時代に東大寺に置かれた役所である。その事務書類が正倉院の宝庫に伝わったものが正倉院文書で、写経・造寺・造仏事業の史料と、裏に書かれた戸籍・計帳などから成る。今日伝わる奈良時代の文書のほとんどを占める、というのが国立国会図書館の説明である[1]。

数え方には注意がいる。東京大学の解説は約1万点とし[2]、資料によっては「1万点以上」「1万数千点」とも書かれる。後述する整理後の巻の数(667巻5冊)とは単位が異なるため、統一せず出典ごとに示す。8世紀の古文書がこれだけ残るのは世界的にも稀とされる[2]。裏紙という「役目を終えた紙」の再利用が、結果として稀な史料群になったわけである。では、その紙に書き込んだ人々は、どんな暮らしをしていたのか。

3. おやすみの りゆうは「おなかが いたい」

3. 休暇の理由は「腹痛」── 写経所で働いた人たちの記録

3. 休暇届の理由と給与の記録、そして倉に入った経緯の空白

写経所しゃきょうじょの 紙には、しごとを する 人たちの 「おやすみの おねがい」も まざって います。りゆうは、おなかが いたい、おやが なくなった、子どもの かんびょう、作業着の せんたくなどでした[2]。

おきゅうりょうや、しごとの りょうの きろくも あります。奈良なら時代の 人が どんな ふうに くらして いたのかが、見えて きます[2]。

でも、この ノートが いつ、どうして くらに はいったのかは、しらべた しりょうでは 分かりませんでした。分かって いるのは、はいった あと、とても 長い あいだ のこった ことです。はいった あとの 紙は、どんな ところに おかれて いたのでしょう。

写経所の文書には、休暇届の理由として、腹痛、親の死、子の看病、一族の儀式、作業着の洗濯などが書かれています[2]。給与や作業量の記録もあり、奈良時代の役人の暮らしが見えてきます[2]。国の戸籍の裏に、働く人たちのこうした日々の記録がある、というのがこの文書群の面白いところです。

ところが、これらの帳簿がいつ、なぜ正倉院に納められたのかは、参照した資料では経緯を確認できませんでした。裏紙にした理由は分かっても、倉に入った経緯は分からないままです。分かっているのは、その後、千年以上にわたって伝わったという結果です。では、倉に入ったあとの紙は、どんな環境に置かれていたのでしょうか。

写経所の文書からは、役人の暮らしが読み取れる。休暇届の理由には、腹痛、親の死、子の看病、一族の儀式、作業着の洗濯などがあり、給与や作業量の記録も残る[2]。戸籍のような国の記録の裏に、働く人々の日々の記録があるのが、この文書群の特徴である。

ところが、こうした帳簿類がいつ、なぜ正倉院に納められたのかは、参照した資料では経緯を確認できなかった。裏面利用の理由(不要になった公文書の再利用)は分かっているが、倉に入った経緯は「偶然」や「放置」と断定できない。

いずれにせよ、倉に入ったあとの千年以上を、紙は生きのびた。では、倉に入ったあとの紙は、どんな環境に置かれていたのか。

4. 校倉あぜくらが 「いき」を して いたって ほんとう?

4. 校倉の「呼吸」で文書は守られたのか

4. 校倉の実測と、文書を収めた中倉

正倉院しょうそういんの 北の へやと 南の へやは、校倉あぜくらと いう つくりです。「しめった 日は 木が ふくらんで ふさがり、かわいた 日は ちぢんで すきまが あく」と いう はなしが ひろまりました。これを「校倉あぜくら呼吸説こきゅうせつ」と いいます。

でも、1984年に しらべた 研究で、木は ちぢんだり ふくらんだり して いなかったと 分かりました[4]。

しかも、いま 文書が はいって いる まんなかの へやは、校倉あぜくらでは なく、板を くんだ つくりと されて います[4][5]。だから 校倉あぜくらの 「いき」だけでは、紙が のこった わけを せつめい できません。

ほんとうは、なにが 紙を 守ったのでしょう。

正倉院というと、湿度に応じて校倉の壁の木が伸び縮みし、すきまが開いたり閉じたりして湿度を調整する、という話を聞いたことがあるかもしれません。「校倉呼吸説」と呼ばれ、明治から昭和初期には広く知られていました[4]。

ところが、正倉院事務所の職員による論文は、実際には校倉の木は収縮も膨張もしていないことが確認された(永田1984)と述べています[4]。

もうひとつ、見落としやすい点があります。正倉は北倉・南倉が校倉造で、中倉は板倉造とされ[4]、文書が現在収蔵されているのは中倉です[5]。つまり文書の部屋は、そもそも校倉の壁ではありません。文書が残った理由を校倉の呼吸で説明するのは、この点でも合いません(資料を突き合わせたうえでの整理です)。では、なにが倉の中を守ったのでしょうか。

明治から昭和初期に広まった「校倉呼吸説」は、乾燥期には校木が縮んで隙間から乾いた外気が入り、湿潤期には膨らんで閉じる、と説明する。だが、正倉院事務所の職員による論文は、実際には校木が収縮・膨張していないことが確認されたと述べる(永田1984)[4]。校倉の自動開閉による湿度調整は、通説であっても実測で裏づけられていない。

さらに、文書の収蔵先を確かめると、この説明は成り立ちにくい。正倉は、北倉・南倉が校倉造で、中倉が板倉造とされる[4]。一方、東京大学史料編纂所の目録解説によれば、正倉院文書は現在667巻5冊が中倉に収蔵されている[5]。したがって、少なくとも現在の収蔵場所からは、文書が残った理由を校倉の壁だけで説明できない。

では、湿度の安定は何によるのか。答えは、実測値にある。

5. 木の はこと 木の くらの「二重の かべ」

5. 木の倉と櫃が、湿度の変化をゆるやかにする

5. 実測で見る、正倉と唐櫃の湿度調整

ヒノキの くらの 中は、そとに くらべて、温度と 湿度しつどの かわりかたが ゆるやかでした。たからものを 入れる 唐櫃からびつと いう 木の はこの 中は、もっと ゆるやかで、湿度しつどは 一年を とおして 60〜70% ほどでした[4]。

ヒノキの くらと、杉すぎの はこ。木が しめりけを ならして くれる かべが、二重に なって いたのです[4]。

ふゆに セーターの 上から コートを きると、そとの さむさが つたわりにくく なります。二重の 木の かべも、そとの しめりけの ゆれを 弱めて いたと 考えられます。ただし、ほんとうは 木が しめりけを ととのえる はたらきです。

この 数字は たからものを 入れた はこの ものです。文書が どの はこに 入って いたのかは、分かりませんでした。

実測では、正倉内の温度と湿度は外気より変動が小さく、緩やかでした。宝物を納める木の櫃(唐櫃)の中は、さらに変動が小さく、湿度は年間を通じて60〜70%で推移したとされています[4]。この60〜70%は唐櫃の中の値で、倉の中の値ではありません。

論文は、ヒノキの倉と、多くが杉でできた唐櫃、それぞれの木材の調湿機能が二重の緩衝壁になり、安定した湿度環境が保たれてきたとまとめます[4]。冬にセーターの上からコートを重ねると外の冷たさが伝わりにくくなるように、二重の木の壁が外の湿度の揺れを弱めていた、というイメージです。ただしこれはたとえで、実際には木材が湿度を調える働きです。

建物は高床式で、床下の高さは2.7mあります[4]。唐櫃は現在206櫃が伝わり、うち168櫃が奈良時代のものです[4]。ただし、これらは宝物の容器の話で、文書がどの容器に入っていたのかは分かりません。

実測された温湿度は、正倉内が外気より変動が小さく緩やかで、宝物を納めた唐櫃内はさらに小さかった。唐櫃内の湿度は年間を通じて60〜70%で推移している[4]。60〜70%は唐櫃内の値であり、正倉内の値ではない。

論文は、ヒノキの正倉と、多くが杉製の唐櫃という二つの木材の調湿機能を「二重の緩衝壁」と呼び、これが安定した湿度環境の原因だとする[4]。冬にセーターの上からコートを重ねれば外の冷たさが伝わりにくくなる、というたとえで言えば、木の壁が二重になって外気の湿度の揺れを弱めていた、という理解になる。ただし、たとえは仕組みそのものではなく、調湿は木材の働きである。

建物は、ヒノキ造り本瓦葺きの高床式で、間口33.1m、奥行9.3m、総高13.7m、床下高2.7mである[4]。唐櫃は現在206櫃が伝わり、168櫃が奈良時代のものだ。江戸時代の櫃は、徳川家康・徳川綱吉の寄進によるとされる[4]。ただし、この論文は宝物全般が対象で、文書の容器は確認できなかった。

6. かぜを とおし、やねを なおす 人が いた

6. 風を通し、屋根を直す人がいた

6. 曝涼と修理 ── 「人が常に関わる」保存

くらの 中の ものに、ときどき 風を とおす「むしぼし」を してきました。曝涼ばくりょうと いいます。奈良なら時代から あり、その きろくの 文書も、たからものとして つたわって います[4]。

江戸時代えどじだいまでは、やる 日が きまって いませんでした。明治めいじ16年(1883年)からは、毎年 やって います[4]。

たてものも 手入れを されました。1254年に かみなりが 北の へやの とびらに おちたときは、火が 大きく ならず、あとで 直されました。大正2年には、たてものを ぜんぶ ばらして 直して います[4]。

この しごとを まとめた 人は、たからものが 1300年 つたわったのは、くらの ようすと、それを たもつ 人の 力の おかげだと のべます。人が ずっと かかわる ことは、奈良なら時代から 今まで かわらない、と いいます[4]。ただし、この 論文ろんぶんは たからもの ぜんたいの はなしで、文書だけの はなしでは ありません。

倉と櫃の仕組みがあっても、放っておけば傷みます。正倉院では奈良時代から、宝物に風を通して虫干しをする曝涼が行われ、その記録の「曝涼使解」5巻も宝物として伝わっています[4]。江戸時代までは不定期で、明治16年(1883年)から毎年行われるようになりました[4]。

建物も手当てされました。建長6年(1254年)に落雷が北倉の扉を直撃したときは、消火で大事に至らず、その後に修理されています。近年では、大正2年の全解体修理や、平成23〜26年の屋根の葺き替えと部分補強があります[4]。中倉は平安時代以降、勅封(天皇の命令による封)の倉となりました[4]。

この論文をまとめた正倉院事務所の職員は、宝物が約1300年伝わったのは倉の環境と、それを維持するために関わった人の力によるとし、保存に人が常に関わる点は奈良時代から変わらないと述べています[4]。ただし論文の対象は宝物全般で、文書だけの話ではありません。

環境が整っていても、維持する人がいなければ保存は続かない。正倉院では奈良時代から、宝物に風を通し虫干しをする曝涼が行われ、記録の『曝涼使解』5巻も宝物として伝わる。江戸時代までは不定期の実施だったが、明治16年(1883年)から毎年行われている[4]。

建物の手当ても、災害のあとに点検して必要なときに行われた。建長6年(1254年)の落雷は北倉の扉を直撃したが、消火で大事に至らず、その後に修理された。近年は、大正2年(1913年)の全解体修理、平成23〜26年(2011〜2014年)の屋根の葺き替えと部分補強がある[4]。また、中倉は平安時代以降に勅封倉となった。勅封は最初から全倉ではなく、北倉は奈良時代以降、南倉は明治時代に加わっている[4]。

論文の著者(正倉院事務所職員)は、宝物が約1300年伝わったのは、正倉院内の環境と、それを維持するために関わった人の力によるとまとめる。保存に人が常に関わるという点は、奈良時代から現代まで変わらない[4]。ただし、この論文の対象は宝物全般であり、文書だけを扱ったものではない点は割り引いて読む必要がある。

7. まもった あとに おきた こと

7. 守られたあとに起きた、整理という難問

7. 公文書を先に選び、帳簿のつながりが切れた

のこった 文書は、明治めいじから 昭和の 中ごろに かけて、すこしずつ 整理されました[5]。

その 整理の 中で、うらに 戸籍こせきの ような 大事な 役所の 紙が ある ものを、先に えらび だす ことが ありました。すると、つながって いた ノートが ほとんど ばらばらに なり、どこの ものか 分からない かけらが たくさん できました[5]。

大事な ものを 守る ことと、ぜんたいを 読みとく ことは、べつの むずかしさが あります。

倉で守られた文書は、明治から昭和中期にかけて、東京大学史料編纂所の整理を経て、現在は667巻5冊として中倉に収められています[5]。

ところが、整理の過程で、紙背(紙の裏側)の戸籍・計帳などの公文書を先に選び出す作業があり、そのため連続していた写経所の帳簿がほとんど壊れ、所属の分からない断簡が多く生じたといいます[5]。戸籍の側から見れば貴重な宝ですが、帳簿の側から見れば、続きものが切れてしまったことになります。守ることと、中身を読み解くことには、別のむずかしさがあるようです。

倉で守られた文書は、明治から昭和中期にかけて段階的に整理され、現在は東京大学史料編纂所の整理で667巻5冊が中倉に収蔵されている[5]。

ただし、整理には代償があった。整理の過程で紙背の戸籍・計帳など公文書を先に選び出したため(この選び出しは幕末以降の作業として説明される)、連続していた写経所の帳簿がほとんど破壊され、所属不明の断簡を多く生じた[5]。裏紙として使われたことが文書を残した一方で、その裏紙に注目した整理が、帳簿のつながりを切ったことになる。守ることと、原状のまま読み解くことは、別の課題だといえる。

8. じぶんでも たしかめて みよう

8. 自分でも調べてみたくなったら

8. 自分でも調べてみたくなったら

おうちで

おうちの 人に きいて、もう いらない プリントを 1まい もらいます。うらに、きょうの 日づけと、すきな ことを ひとこと かいて みましょう。あとで ひっくりかえして、おもての 日づけと ならべて みると、どちらが あたらしいか すぐ 分かります。

もっと しりたいとき

「この ノートは いつ、どうして くらに はいったの?」は、じぶんで しらべて みたい もんだいです。しりょうを よむなら、こくりつ みんぞくがく はくぶつかんの ろんぶんと、とうきょう だいがくの しりょう へんさんじょの もくろくの せつめいが おすすめです。

今日できること

使い終わったプリントを1枚もらい、裏に今日の日付とひとことを書いてみましょう。あとで裏返して、表と裏の日付を並べれば、どちらが先に書かれたかがすぐ分かります。戸籍の裏に帳簿がある紙も、日付を見比べると、書かれた順序を考えられます。

資料を読むなら

「帳簿はいつ、なぜ倉に入ったのか」は、この記事では答えが出せなかった問いです。国立民族学博物館の調査報告にある髙畑誠「正倉院における資料保存と環境整備」は、倉の温湿度の実測や曝涼の歴史が詳しく、東京大学史料編纂所の『正倉院文書目録一』の紹介は、整理の経緯を知る手がかりになります。

今日できること

紙の裏表の書かれた順序を、自分で読み取る練習ができる。不要になったプリントの裏に日付を書き、表と裏の日付を比べて、どちらが先に書かれたか考えてみよう。

原典にあたる

本文の温湿度・唐櫃・曝涼の数値は、国立民族学博物館の調査報告にある髙畑誠「正倉院における資料保存と環境整備」[4]、整理の経緯は東京大学史料編纂所『正倉院文書目録一』の解説[5]で確認できる。

しらべた もとの じょうほう

参考にした情報源

参考にした情報源と、その使い方

出典について:国立国会図書館・国立民族学博物館・文化庁・東京大学は公的機関の資料。

  1. 国立国会図書館 リサーチ・ナビ「正倉院文書を調べる」。 https://ndlsearch.ndl.go.jp/rnavi/humanities/post_735 (正倉院文書の定義、奈良時代文書に占める割合)
  2. 東京大学 UTokyo FOCUS「正倉院文書」の記事。 https://www.u-tokyo.ac.jp/focus/ja/features/z0508_00129.html (点数、裏面再利用の理由、休暇届の理由)
  3. 文化遺産オンライン「筑前国嶋郡川辺里戸籍断簡」。 https://online.bunka.go.jp/heritages/detail/172231 (702年の戸籍と裏の748年の帳簿)
  4. 髙畑誠「正倉院における資料保存と環境整備」(国立民族学博物館調査報告155)。 https://minpaku.repo.nii.ac.jp/record/8916/files/SER155_04.pdf (建物の構造、校倉呼吸説の否定、唐櫃と湿度、曝涼と修理)
  5. 東京大学史料編纂所『正倉院文書目録一』。 https://www.hi.u-tokyo.ac.jp/publication/syoho/22/pub_shousouin-01/ (現在の収蔵、整理で帳簿が壊れた点)

なおした ところ

更新履歴

更新履歴(改版の記録)

  •  初版を公開。

このサイトでは、公開した記事の本文は原則として書き直しません。誤りが見つかったときや、内容が古くなったときだけ手を入れ、その理由をこの欄に残します。