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神社じんじゃの うらの もりは、どうして のこったの?

社寺林は、なぜ残ったのか

社寺林は、なぜ残ったのか ── 街に残る古い森

分野:自然

なぜ、神社じんじゃの うらだけ、まわりと ちがって、大きくて ふるい 木が いっぱい のこって いるのだろう。

じつは、この もりが のこったのは、あたりまえの ことでは なかった。むかし、日本の 森が たくさん きられそうに なった ことが あるのだ。

なぜ、神社の裏だけ、まわりと違って、大きくて古い木がいっぱい残っているのだろうか。

じつは、この森が残ったのは、当たり前のことではなかった。昔、日本の森がたくさん切られそうになったことがある。

都市の中で、神社や寺の敷地だけ、周囲とは明らかに違う、樹齢を重ねた木々の茂る一角になっていることがある。なぜ、この一角だけが開発を免れてきたのだろうか。

じつは、この森が残ったのは当然の成り行きではない。明治時代には、国の政策によって全国の社寺林が大量に伐採されかけたことがある。それに待ったをかけたのが、一人の在野の学者だった。

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1. 神さまの すむ 場しょだから、木を 切らない

1. 神さまの住む場所だから、木を切らない

1. 神域としての森と、手つかずのまま残す伝統

日本には、むかしから、山や 森、大きな 木に、かみさまが やどると かんがえる ならわしが ある。神社じんじゃの まわりの 森は、たてものだけで なく、その 土地 ぜんたいが 神さまの ばしょだと されて きた。それは、まるで、もりぜんたいが 神さまの 家みたいな ものだ(ただし ほんとうは、人が すむような 家では なく、木や 土の ある 場しょ ぜんたいが 大切に されて いる、と いう ことだ)[1]

そのため、神社じんじゃの まわりの 森には、長い あいだ 木を 切らずに まもられ、大きな 木が のこって いる ところが 多い[1]

日本には、昔から、山や森、大きな木に、神さまが宿ると考える習わしがある。神社のまわりの森は、建物だけでなく、その土地全体が神さまの場所だとされてきた[1]

そのため、神社のまわりの森には、長いあいだ木を切らずに守られ、大きな木が残っている例が多い[1]

神道には、山や森、川、滝といった自然そのものに神が宿るという考え方があり、神社の建物だけでなくその周辺一帯が神域とみなされてきた。そのため神社の森には、神聖な場所として守られ、大木が残っている例が少なくない[1]

こうした森を指す「鎮守の森」という呼び方は古くからの言葉のように思われがちだが、実際に広く定着したのは近代以降とされる。とはいえ、神域を手つかずのまま残すという慣習そのものは、それよりずっと古くから各地の集落に根づいていた[1]

2. 神社を まとめる きまりで、もりが きられた

2. 神社をまとめる決まりで、森が切られた

2. 神社合祀、明治政府による統廃合と森林の伐採

でも、この「木を 切らない」と いう むかしからの きまりも、ずっと まもられて きたわけでは ない。明治めいじじだい、国は、神社を しっかり まもって いく ために「1つの まちに 神社は 1つで いい」と いう かんがえで、たくさんの 神社を まとめる きまりを すすめた。これを「合祀ごうし」と いう。まとめられて なくなった 神社の 森は、木が うりはらわれて きられて しまった[2]

この きまりで、日本ぜんたいで 4まん5000社 いじょうの 神社じんじゃが へった。とくに 三重けんでは、10500社 くらい あった 神社が、10年 ほどで、たった 1165社にまで へって しまった[2]

でも、この「木を切らない」という昔からの決まりも、ずっと守られてきたわけではない。明治時代、国は、神社をしっかり守っていくために「一つの町に神社は一つでいい」という考えで、たくさんの神社をまとめる決まりを進めた。これを「合祀」という。まとめられてなくなった神社の森は、木が売り払われて切られてしまった[2]

この決まりで、日本全体で4万5000社以上の神社が減った。とくに三重県では、1万500社くらいあった神社が、10年ほどで、たった1165社にまで減ってしまった[2]

しかし、こうした神域を手つかずのまま残す慣習も、近代に入ると国の政策によって大きく揺らぐことになる。明治39年(1906年)末ごろから、政府は「1町村に神社は原則1社」を目標とする神社合祀政策を全国で推進した。小規模な神社を整理し、神社の運営基盤を安定させることなどが目的とされたが、実際には統合の対象になった神社が取り壊され、境内の森は払い下げられて伐採された[2]

明治39年から42年末までの間に、府県社・郷社・村社・無格社を合わせて全国で約4万5000社が減少した。もっとも急激だったのが三重県で、明治36年(1903年)に1万524社あった神社が、わずか10年後の大正2年(1913年)には1165社まで、およそ9割が姿を消した[2]

3. 1人の 学者が、この きまりに はんたいした

3. 一人の学者が、この決まりに反対した

3. 南方熊楠の合祀反対運動

南方熊楠みなかたくまぐすと いう 学者が いた。粘菌ねんきんと いう、生きものとも きのこの なかまとも つかない、小さな 生きものを しらべる 学者で、イギリスの ゆうめいな ざっし『ネイチャー』に、なんと 51本も ろんぶんを のせた 人だ[3]

熊楠くまぐすは、1909年から、神社じんじゃ合祀ごうしに はんたいする いけんを 新聞に かきはじめた。神社の 森が きられると、まだ しらべられて いない 生きものたちが きえて しまうと、おそれたからだ[3]

南方熊楠という学者がいた。粘菌という、生きものともきのこの仲間ともつかない、小さな生きものを調べる学者で、イギリスの有名な雑誌『ネイチャー』に、なんと51本も論文をのせた人だ[3]

熊楠は、1909年から、神社合祀に反対する意見を新聞に書きはじめた。神社の森が切られると、まだ調べられていない生きものたちが消えてしまうと、おそれたからだ[3]

南方熊楠(1867〜1941)は、粘菌(変形菌)研究で知られる博物学者で、生涯に『ネイチャー』誌へ論考51篇を発表したとされる[3]

熊楠は1909年から、地元紙『牟婁新報』などを通じて神社合祀への反対意見を発表し始めた。合祀によって敬神思想が弱まること、地方が衰微すること、風俗が乱れること、史跡と古伝が滅びること、そして天然の風景と天然記念物が失われることなど、8項目にわたる批判を展開した。神社林に生きる、まだ解明されていない貴重な生物が伐採によって失われることを、生態学的な視点から強く危惧していた[3]

4. とらわれても、うったえつづけた

4. 捕らわれても、訴えつづけた

4. 1910年の逮捕と、運動の広がり

1910年8月、熊楠くまぐすは、合祀ごうしを すすめる 会に むりやり 入って いこうと して、つかまって しまった。18日かん、ろうやに 入れられたが、さいごは つみが ないと わかって、外に 出る ことが できた[4]

それでも 熊楠くまぐすは あきらめなかった。その ねっしんな うったえが、多くの 人の 心を うごかして いった[4]

1910年8月、熊楠は、合祀を進める会に無理やり入っていこうとして、捕まってしまった。18日間、牢屋に入れられたが、最後は罪がないと分かって、外に出ることができた[4]

それでも熊楠はあきらめなかった。その熱心な訴えが、多くの人の心を動かしていった[4]

1910年(明治43年)8月、合祀推進派の集会への入場を阻止された熊楠は、持っていた標本袋を会場内へ投げ込んだことをきっかけに、家宅侵入の疑いで逮捕され、18日間拘留された。結局、罪に問われることなく釈放されている[4]

逮捕・拘留を経てもなお、熊楠は運動の手をゆるめなかった。翌1911年8月には、植物学者の松村任三にあてて長文の書簡を2通送り、合祀の実態と森林破壊の危険性を訴えた。この書簡はのちに「南方二書」と呼ばれ、柳田國男の手で活字本にまとめられ、各地の有識者に配布された。こうした地道な働きかけが、やがて中央の学者や政治家を動かしていくことになる[4]

5. くにが「森を きるのは よくない」と みとめた

5. 国が「森を切るのはよくない」と認めた

5. 1920年、「神社合祀無益」の決議

熊楠くまぐすたちの うったえも あって、1912年には、こっかいで 合祀ごうしに はんたいする しつもんが 出た。そして 1920年、くにの かいぎで「神社を むりに まとめても、いみが ない」と いう ことが みとめられた[5]

こうして、むりに 神社を へらす うごきには、いちおうの くぎりが ついた。でも、それまでに きえて しまった もりは、もとには もどらなかった[5]

熊楠たちの訴えもあって、1912年には、国会で合祀に反対する質問が出た。そして1920年、国の会議で「神社を無理にまとめても、意味がない」ということが認められた[5]

こうして、無理に神社を減らす動きには、一応の区切りがついた。でも、それまでに消えてしまった森は、もとには戻らなかった[5]

1912年3月、和歌山県選出の衆議院議員が本会議で合祀政策への反対質問を行った。熊楠らの運動もあずかって、明治43年(1910年)以降、急激な合祀政策は一応の収束に向かっていく[5]

そして大正9年(1920年)、貴族院において「神社合祀無益」との決議がなされ、強引な合祀政策には一区切りがついた。もっとも、この間にすでに多くの社殿・社叢・原生林が姿を消したあとであり、失われたものが元に戻ることはなかった[5]

6. いまも、まちの 中の 小さな しぜん

6. 今も、街の中の小さな自然

6. 都市に残る、生きものたちの避難所

こうして のこった 神社や お寺の もりは、いまでは、まちの 中に のこる、めずらしい しぜんの ばしょに なって いる。鳥や 虫、めずらしい 草花など、いろいろな 生きものが すんで いる[6]

ビルばかりの まちでは、こういう もりが、生きものたちの すみかを つなぐ、大切な とびいしに なって いる[6]

こうして残った神社やお寺の森は、今では、街の中に残る、めずらしい自然の場所になっている。鳥や虫、めずらしい草花など、いろいろな生きものが住んでいる[6]

ビルばかりの街では、こういう森が、生きものたちのすみかをつなぐ、大切な飛び石になっている[6]

合祀政策をくぐり抜けて残った社寺林は、今日では都市に残された貴重な自然生態系として評価されている。鳥類や昆虫、希少な植物など多様な生きものが生息し、周囲を開発に囲まれた小さな生態系の島(ミニ生態系)を形成している[6]

歴史の古い社寺林の場合、かつてその地域に広がっていた自然植生の面影を今に伝えていることも多い。都市化のなかで大半の自然が姿を消したあと、社寺林だけが「失われた自然の記憶」として残っている例は少なくない[6]

じぶんでも しらべて みる

自分でも調べてみたくなったら

自分でも調べてみたくなったら

近くの 神社や お寺に 行ったら、まわりの 木を 見あげて みよう。まわりの まちなみと くらべて、とくに 大きくて 古そうな 木が あったら、それが どれくらい むかしから あったのか、大人と いっしょに かんがえて みよう。

近くの神社やお寺に行ったら、まわりの木を見あげてみよう。まわりの街なみと比べて、とくに大きくて古そうな木があったら、それがどれくらい昔からあったのか、大人と一緒に考えてみよう。

近くの神社や寺を訪ねる機会があれば、境内の木の太さや高さを、周囲の街路樹や公園の木と見比べてみよう。とくに太い幹の木があれば、案内板に樹齢や指定天然記念物としての情報が書かれていないか探してみよう。書かれていなくても、周囲の街並みがいつごろ開発されたかを調べれば、その木だけがどうやって残されてきたのかが見えてくる。

しらべた ところ

参考にした情報源

参考にした情報源

  1. 大阪府立環境農林水産総合研究所「鎮守の森や社寺林」、フリー百科事典『ウィキペディア』「鎮守の森」。 https://www.knsk-osaka.jp/zukan/station/osaka/shizen/chinjyu.html https://ja.wikipedia.org/wiki/鎮守の森 (神道において山や森など自然そのものに神が宿るとされ神社周辺一帯が神域とみなされてきたこと、神社林が伐採されず大木が多く残ってきたことは大阪府立環境農林水産総合研究所による。「鎮守の森」という呼び方が広く定着したのは近代以降とされることはウィキペディア「鎮守の森」による)
  2. フリー百科事典『ウィキペディア』「神社合祀」(南方熊楠自身の文章「三十九年より四十二年末に至る迄に…実に四万五千も減って居る」を出典として掲載)、東洋大学の研究資料。 https://ja.wikipedia.org/wiki/神社合祀 https://www.toyo.ac.jp/assets/research/20250.pdf (明治39年末ごろから政府が「1町村1社」を目標に神社合祀政策を推進したこと、残った神社に経費を集中させて運営基盤を安定させることなどが目的とされたこと、明治39年から42年末までに府県社・郷社・村社・無格社を合わせ全国で約4万5000社が減少したという南方熊楠自身の記述、三重県で明治36年の1万524社が大正2年には1165社まで減少したことはウィキペディア「神社合祀」による。なお東洋大学の資料は、合祀督励直前の調査で約19万3000社、明治44年に11万余社とする、異なる集計方法の数値も紹介しており、集計時点・対象によって数値には幅がある)
  3. 南方熊楠記念館「神社合祀反対運動」、日本植物学会「南方熊楠と真正粘菌」、文化遺産オンライン、フリー百科事典『ウィキペディア』「神社合祀」。 https://www.minakatakumagusu-kinenkan.jp/kumagusu/life/goushihantai https://bsj.or.jp/jpn/JPR/digital/kumakusu.php https://online.bunka.go.jp/heritages/detail/100979 https://ja.wikipedia.org/wiki/神社合祀 (南方熊楠が粘菌研究で知られる博物学者で『ネイチャー』誌に論考51篇を発表したとされることは日本植物学会等による。1909年秋ごろから合祀反対意見を発表し始めたことは文化遺産オンラインによる。神社林の伐採で貴重な生物が失われることを危惧したことは南方熊楠記念館による。8項目の批判内容はウィキペディア「神社合祀」による)
  4. 南方熊楠記念館「神社合祀反対運動」、南方熊楠顕彰館の展示解説。 https://www.minakatakumagusu-kinenkan.jp/kumagusu/life/goushihantai https://www.minakatakumagusu-kinenkan.jp/exhibition-guide/corner4/corner4-2 (1910年8月、合祀推進派の集会への入場を阻止された熊楠が標本袋を会場内へ投げ込んだことをきっかけに家宅侵入の疑いで逮捕され18日間拘留されたが無罪で釈放されたことは南方熊楠記念館による。1911年8月29日・31日付で植物学者松村任三へ長文の書簡2通を送り、これが「南方二書」として柳田國男の手で活字本化され配布されたことは南方熊楠顕彰館の展示解説による)
  5. 南方熊楠記念館「神社合祀反対運動」、フリー百科事典『ウィキペディア』「神社合祀」。 https://www.minakatakumagusu-kinenkan.jp/kumagusu/life/goushihantai https://ja.wikipedia.org/wiki/神社合祀 (1912年3月に県選出の衆議院議員が本会議で合祀反対の質問をしたこと、1920年3月に貴族院で「神社合祀無益」の決議がなされたことは南方熊楠記念館による。明治43年以降急激な合祀政策が収束に向かったことはウィキペディア「神社合祀」による。政策の収束が熊楠らの運動のみによるものと断定する根拠は確認できていない)
  6. 大阪府立環境農林水産総合研究所「鎮守の森や社寺林」。 https://www.knsk-osaka.jp/zukan/station/osaka/shizen/chinjyu.html (鎮守の森が都市や農村に残された貴重な自然生態系であり鳥類・昆虫・希少植物などが生息するミニ生態系を形成していること、歴史の古い社寺の森にかつての自然の特徴が継承されていることがあることは大阪府立環境農林水産総合研究所による)

なおした ところ

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